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第一章 蔵之介、持ち込みを断られる

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「わざわざ出向いていただき、ありがとうございます」

 若い男が頭を下げた。髪は惣髪で、白の十徳を身にまとっている。

 顔も身体も細い。頬の肉はそげ落ちていたし、胸板も薄めだ。無駄な肉はいっさいついておらず、突き飛ばされたら、そのまま倒れそうだ。

 三左衛門と同じ貧相な雰囲気を感じるが、こちらは生まれついてというより、苦しい生活をつづけた末に、やつれてしまったというのが正しそうだ。

 仕事に打ちこむあまりに、自分のことをまったく顧みていないという噂は正しいようだ。

「手前は、玄庵げんあんと申しまして、本所緑町で町医者をやっております。わざわざ足を運んでいただき、恐縮です」
「丁寧に痛み入ります」

 蔵之介は頭を下げた。

「手前は、辻蔵之介。小普請で、暇をもてあましておりまする。地位も金もありませんが、気にせず、お付き合いいただけると助かります」

 玄庵は目を見開いた。蔵之介の言い回しに驚いたらしい。

「思い切ったことをおっしゃる。飾らぬ方とは聞いておりましたが」
「性分でして。見栄を張ると疲れます」
「なるほど」
「気楽にやっていきたいのですよ。三左衛門にはよく叱られますが」
「榎木殿なら言いそうですな。いい意味で口が悪い」
「罵られてばかりですよ」

 ふと、蔵之介は尋ねた。

「そういえば、あやつとは、どこで知り合ったので」
「蘭書の翻訳を通じてです。急ぎ写本が必要という時に来てくださいまして。あっという間に一冊、仕上げていただきました」
「なるほど」

 ああ見えて、三左衛門は多芸な男だが、その一つに写本の作成がある。

 漢書であれ、草双紙であれ、またたく間に書き写して、本にしてしまう。途方もない速さで、五人が束になってかかってもかなわない。

 それでいて、ほとんど誤りがないので、校合の手間もかけずにすむ。

 蔵之介も見ていたことがあるが、原本もろくに見ずにささっと書き写してしまう。内容がすべて頭に入っているかのようなふるまいで、驚嘆するしかなかった。

 ろくに役所に顔を見せぬ三左衛門が、いまだ勘定方に留まっていられるのは、この能力があるからだ。またたく間に帳面を写してしまうのだから、奉行も無下にはできない。

「蘭書の翻訳本は貴重なので、写本は何冊でも欲しいのです。三左衛門殿には助けられてばかりです」
「大名や大店の主から呼ばれてもいて、それがいい小遣いになっているようで。才は身を助けますな」
「その三左衛門殿と話をしていたら、ちょうど貴殿の話が出まして。もめ事に巻きこまれているなら、助けてくれると申しておりました」
「買いかぶりですよ。あいつは、何事にも大袈裟なんです」
「何をおっしゃいますか。あの噂にもなった古橋家の事件。あれを解決したのは、辻殿なのでしょう。町方も目付も困り抜いていたのは知っております。それを見事に解きほどいたのですからたいしたもので」
「あの話を御存知でしたか。いや、お恥ずかしい」
「他にも聞いておりますぞ。深川では……」
「いや、それはご勘弁を」

 なおも玄庵が語ろうとするところを蔵之介は押さえた。

 評価だけが先走っていて、何ともこそばゆい。

 この一年あまり、蔵之介は、町方の手に余る難事件を解決して、当人の知らぬ所で名が知られるようになっていた。

 当初は巻きこまた事件をいやいや片づけていたのであるが、いつしかそれが噂になり、気がつくと、彼の元に直に依頼が舞い込むようになった。

 その依頼は、長屋の争いから大店の内輪もめ、ならず者との喧嘩騒ぎ、さらには武家の御家騒動や不祥事の始末まで多岐にわたり、一筋縄ではいかない。

 市橋家の件もややこしい御家騒動で、危うく町民が死罪になるところだった。

 正直、かかわりたくないのであるが、礼金をちらつかされてしまえば、無下に断るわけにはいかない。うまくいけば、一月ひとつきの食い扶持が三日で稼げるのであるから、つい話を聞きに出向いてしまう。

 最近では、それを見越して、三左衛門のように話を持ち込んでくる者もおり、蔵之介は手を焼いていた。

「三左衛門に聞きました。妙な連中につけ回されているとか」

 蔵之介は、腹をくくって話を切り出した。

「いつ頃からですか」
二月ふたつきほど前からです。私は、呼ばれて人の屋敷に赴くのですが、その時には必ずついてきます。最近では、夜もこのあたりをうろついているようで、ほとほと困っています」

 玄庵は本所界隈では評判の医師で、よく乞われて往診に赴く。町民だけでなく、武家から呼ばれることも多いようで、蔵之介が知り合いに尋ねてみたところ、彼の名前を知っていた。

 今日、近所で評判を聞いてみても、皆が口をそろえて名医と語っていた。裏長屋の職人でも当たり前に手当てしてくれるらしく、腕前のみならず人柄も確からしい。

 朝から晩まで働けば、やつれもする。自分をかまわない性格であれば、なおさらだ。

「つけ回しているだけですか」
「しばらくは、そうだったのですが……」
「……ねらわれるようになったと」
「はい。三日ほど前に。近所の居酒屋で怪我人が出たということで赴いて、その手当を終えて戻ってきたところで、斬りつけられました。幸いかすり傷ですみましたが、木戸番がこちらに気づいてくれなければ、どうなっていたか」
「顔は見ましたか」
「覆面をしていたので、わかりませんでした」

 玄庵の顔は青かった。細い顔には深い陰がある。

「斬られたとなると、笑い事ではすみませぬ」
「私もそう思います」
「何か恨みを買うようなことはありませんでしたか。あるいは、敵意を持たれるようなことをしたとか」
「ない、と言いたいところですが、こういう生業をしていると、恨み辛みから逃げることはできません。すべての病人を助けるわけにはいかず、時には見捨てたように思われることもあります。最近も怪我をした父親を助けることができず、子供からさんざんに罵られました」
「それは厳しい。逆恨みが過ぎましょう」
 蔵之介はかばったが、玄庵は首を振った。
「目の前で大事な人が亡くなれば、恨みがこみあげてきましょう。もしかしたら助かったかと思えばなおさら」

 玄庵は寂しげにうつむく。医者の持つ業をよく理解している。

 着古しの小袖を身にまとう人物である。真面目で、病人とその家族のことを第一に考えているのだろう。

「では、そのうちの誰かがねらってきていると」
「ありえる話です」
「では、私は、その者を追い払えばいいので」
「そうしていただけると助かります」

 玄庵は、蔵之介を見た。

「ただ、できることならば、追い払う前に、その人物と話ができるように取りはからっていただければ助かります。事の次第が明らかにした上で。どのような経緯で、私をねらったのか知りたいのです」
「自分に間違ったところがあったら改めたいと」
「そういうことです」

 本当に真面目な人物だ。

 凶行の原因は、自分が間違った結果と思い込んでいるようで、それを正面から受け止めようとしている。

 間違ってはいないが、正しいとも言いにくい。

 世の中はもっと歪んでおり、凶事に及ぶ理由わけにしても、馬鹿馬鹿しいことが多い。筋道が立たぬことも多い。

 玄庵に原因があるとは言えず、過剰に自分を追い込むのはうまくない。

「よろしくお願いします」

 玄庵は丁寧に頭を下げた。

 ここまでされては拒むことはできない。三左衛門の口車に乗せられるのは剛腹だが、ここは仕方あるまい。

 ただ……。

「わかりました。やらせていただきますが、その時、一つお願いが」
「何でしょうか」
「私が書き物をする場を作っていただきたいのです」

 理由わけを説明すると、玄庵は受けいれてくれた。ただ、その顔には強い疑念の色が浮かび上がっていたが。




 その日から、蔵之介は玄庵の用心棒を務めつつ、敵の正体を探りはじめた。

 後をつけられているのは、事実だった。

 屋敷を出ると、地味な小袖の男が必ず姿を見せた。

 身体は小さく、人混みに入ると、姿が隠れてしまうほどだ。武家らしく二本の刀を差していたが、刀が大きすぎて、振り回されているような印象がある。足取りもふらついており、頼りなさすら感じる。

 離れているせいか、顔はよくわからないが、冴えない男のように感じられた。

 玄庵の客は江戸中に散らばっており、芝、上野、四谷、室町と飛び回ったが、そのすべてに追っ手はついてきた。

 大名屋敷が訪問先でも変わらず、彼らが帰る時まで待っていることもあった。

 正体はわからなかった。蔵之介も割り出すには時がかかると考えていたが……。

 気をつけてみているうちに、おぼろげながら見当がついてきた。頼りない足取りも、身体を鍛えていないのであるから、十分にありえる。

 玄庵に確認をとると、渋い表情で十分に考えられると応じてくれた。

 彼が手応えを感じはじめたその時、事件は起きた。
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