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第二章 己の居場所

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 深川霊巌寺ふかがわれいがんじは江戸屈指の名刹で、開基は寛永年間と言われる。明暦の大火で深川に移って以降、雄松院、長泉院、済待院の三別院ができ、学寮の整備もあって隆盛を極めた。参拝客も多く、門前には茶屋がひしめいている。

 蔵之介が話し合いの場所に選んだのは、そのうちの一つだった。『なかまや』といい、後家と娘が営んでいた。

 境内の一部を借りていて、天気がよい日には縁台を並べて客を迎えた。

 今日も幸い天気がよく、蔵之介が訪れた時にはかなりの席が埋まっていた。

 探すのに手間取るかと思われたが、茶店の娘が教えてくれて、すぐに見つかった。

 最も端の縁台に、小柄な娘がうつむいて座っている。

 黄色の縞で、帯は黒。髪は島田に結っていた。うなじはひどく細く、肩幅も子供かと思うぐらいの狭さだった。

 蔵之介はゆっくり近づき、声をかけた。

「おぬしがみよか」

 娘はピクリと肩をあげて、振り向いた。その目には怯えがある。

「すまない。驚かせるつもりはなかった」
「いえ、こちらこそ、すみません」
「それで、おぬしがみよで間違いないのだな」
「は、はい。すみません。わざわざ来ていただいて」
「いや、かまわん。店の近くでは、話もしにくいだろう」

 みよはうなずいた。そのまま黙り込んでしまう。

 茶屋の娘が白湯と団子を持ってきても、何も言わないままだった。

 五月の強い日差しが頭上から照らしてくるだけで、二人の間は重苦しい静寂につつまれる。

「あの……」

 みよがようやく顔をあげた。

 肌は青白く、頬にはあばたも目立つ。目も鼻も大きくて、お世辞にも顔立ちが整っているとは言えなかった。

「五吉さんからの話を聞いて。困ったことがあったら、助けてくれる人がいるって言われたんですけれど。確か辻様というお侍様で」
「私が辻蔵之介だ。五吉には買いかぶられているようだが、まあ、話は聞こう。何があった」
「あの、どこから話していいのかわからないんですが……」

 みよはうつむいた。それでも黙っている時間は短かった。

「私、平松町の近江屋で針子をしているんです。着物の仕立てをやっています」
「あの呉服屋か。それはすごい」

 近江屋といえば、江戸屈指の名店だ。規模こそ越後屋や白木屋には負けるものの、質のよい反物を扱っていて、姫路池田家や伊勢崎稲垣家のような大名との付き合いがあることで知られている。

 上方で直に職人を抱えており、仕上がった品物は店の者がその手で運ぶ。店ではじっくり客に反物を見せ、相手が気にいるまで、じっと待つ。その上で下手な値引きをすることなく、きっちりと取引をおこなう。

 仕立ての腕も確かで、三月の雛祭りでは内着が透けて見える白のかすりを仕立てて、客を驚かせたと言う。

 堅実な商いで、三代目であるにもかかわらず、店の評価は高い。

「仕立てを任されているのなら、おぬしの腕も相当によいのであろう」
「いえ、あたしなんかまだまだです」

 みよは首を振った。

「もっとうまくならないと」
「卑下することはなかろう。ちゃんとやっているのだから。それで、困っていることとは?」
「それがここのところ、店の人に嫌なことを言われていて」

 みよは、この三ヶ月、他の針子や店の下女、入ってきたばかりの手代にさんざん文句を言われて堪えていると語った。

 役にたたない、手が遅い、からはじまって、仕事の邪魔をした、お使いを頼んだのに帰ってくるのが遅い。さらには、用意していたお茶を勝手に飲んだと言いがかりをつけられたこともあるらしい。

「あたしの仕立てが遅いことはわかっています。一生懸命やっているんですけれど、さっさとやってと言われると、手が竦んでしまって、うまくいかなくて」
「まあ、そういうこともあるな」
「それでまた遅くなって怒られての繰り返しで。もうやらなくていいとまで言われて、道具を隠されたりして、いったい、どうしていいのかわからなくなって……」

 みよの声は小さくなる一方で、聞き取るのも苦労するほどだった。

「何かつらくて。もう辞めようかと思っていて……」
「そこまで思いつめなくとも。ご主人に話をしてみたらどうだ」
「おかみさんには話をしました。でも、まったく取り合ってくれなくて。逆にあなたの手が遅いから駄目だと言われる始末で。本当にどうしていいのか」

 みよは両手で顔を覆った。肩が細かく震える。

 これはまいった。

 さすがに、蔵之介の手には余る。

 みよの問題は、いわゆるいじめの話で、外からどうこうできる話ではない。

 ましてや、蔵之介は男だ。女の争いに口をはさむことできない。

 なぜ、五吉はこんな話を持ってきたのか。

「とにかく落ち着くのだ。思いつめるのはよくない」

 蔵之介は懸命に言葉をつむぐ。

「そういう時には、深く息をするといい。ほら、私と同じようにするんだ」

 蔵之介は腕を開いて大きく息を吸い、時をかけて吐き出した。

 みよは顔をあげると、同じように息を吸い、吐いた。

 三度、繰り返すと、かなり落ち着いたようで、涙も目立たなくなっていた。

「ありがとうございました。気分が楽になりました」
「それはよかった」

 蔵之介は、改めてみよを見る。

「話はわかったが、私にできることは何もないぞ。店の中のことだからな。今は耐えるしかない」
「は、はい」
「そのうえで味方を増やす。仲のよい針子や手代はいるだろう。まずはおぬしのつらさを知ってくれる者を作ることだ。その数が増えれば、今とは違った流れになる。辞めるのはそれを見届けてからでも遅くない」

 きっけかがあれば、雰囲気は変わる。

 かつて蔵之介が道場でいじめられた時も、よい先輩と出会ったことで流れが変わり、そこから自分の居場所を見つけることができた。

「今が一番、苦しい時だ。まずは店で味方を作って、愚痴でも何でもいい」
「は、はい。ですが……」
「何だ?」
「最近、お武家様に後をつけられているんです。それがひどく気になって」
「何だって?」

 思わぬ話に、蔵之介はみよの顔を見た。
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