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第三章 重板(じゅうはん)
一
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座敷に入ってきた甚五郎は、強ばった表情をしていた。
これまでにない厳しさだ。
原稿を見る目も鋭いが、それとはまったく質が異なる。
尋常ではない事を察して、蔵之介も緊張した。
「どうした。何かあったか」
「はい。大変なことが起きて、我々としても困っています」
「おぬしがそんな顔をするとは、よほどのことだな」
「さようで」
甚五郎は両手をついて頭を下げた。
「今日は、辻様にお願いがございます。ぜひ、我らに力を貸していただきたいのです」
「何があった?」
「まずは、これを」
甚五郎が冊子を手渡してきたので、蔵之介は受け取り、ぱらぱらとめくった。
「これは、式亭三馬の人情本だな」
「さようで」
式亭三馬は一昔前の戯作者で、『浮世風呂』、『浮世床』、『四十八癖』といった作品で知られている。多作で、洒落本、滑稽本、読本と手広く書きまくった。
代表作の『浮世風呂』では、銭湯の情景を描くことで、当時の江戸風俗をあざやかに浮かびあがらせている。軽妙な文章には、蔵之介も感嘆した。
「これは晩年の作品だ。珍しい。おもしろかったが、すぐに見なくなった」
蔵之介の手が途中で止まる。
「絵師の名が違う。初版の時は歌川国貞だった、だが、この絵は」
絵双紙の中心は大きな挿画で、文字は余白に描かれるという形を取る。
目を惹く絵が読み手を惹きつけるので、誰が挿画を書くのかはきわめて重要だった。曲亭馬琴はその辺りに細かく注文をつけていたと聞く。
「わかりません。歌川豊奈と記してありますが、そんな人物はおりません」
甚五郎は蔵之介から冊子を受け取った。
「この人情本は、森屋治兵衛が版元です。しかし、今回の件、彼らは知らないと申しています」
「何だと」
「これは重板です。誰かが勝手に版木を作り、書籍を刷りあげたのです。許されることではありません」
蔵之介は息を呑んだ。
書籍の刊行は、版元だけができる。正しくいえば、本の版木を持っている者が版元ととなり、出版が許される。
勝手に版木を作る、いわゆる開板して出版することは書肆にとって最も重大な罪であり、発見され次第、厳しく処断される。発売は差し止め、版元は行事と呼ばれるまとめ役に事情を問いただされて、悪質と認められれば、二度と刊行にかかわることはできない。
最大の禁忌の結果が目の前にある。
「誰がやった」
「わかりません。ですが、気にすべきは、ここです」
甚五郎は奥付を見せる。そこには桐文堂の名が記されていた。
「この店がやったと思われているのか」
「おかげで、他の版元から文句をつけられて、大変なことになっています。昨日も行司役に主人が呼び出されて、厳しく問いただされました」
「巻きこまれたか」
「いい迷惑です。まったく、誰がやったのか」
甚五郎は顔をしかめる。
「許せません。こやつ等は、我らのことを何もわかっていない」
刊行を望む書籍があると、書肆はまずお上の許可を取る。これまでのお達しに反していないのか、内容を確認し、問題がないと認めてもらわねばならず、これが大変な手間だ。
また、開板にあたっては、重板、類板にならぬように、仲間内に確かめる作業も必要だ。重版が内容が同じ物を無断で刊行するのに対し、類板は元の板から内容の一部をすり替えたり、題目を変更したりしただけで出版することを言う。
売れ行きのよい書籍があれば、それを真似して出そうとする者は後を絶たないわけで、見逃していれば最初の書肆が馬鹿を見ることになる。やった者勝ちを許さないためにも、出版には厳しい定めがあり、それを守るには大変な労力が必要だ。
「頼みというのは、下手人探しか」
「はい」
「急いだ方がよいな」
「そうしていただくと助かります。もちろん、礼金ははずみます」
甚五郎が口にした額は、蔵之介の予想をはるかに超えていた。それだけ腹に据えかねたということだろう。
「わかった。さっそくかかろう」
蔵之介としても時をかけるつもりはなかった。
「こちらも桐文堂がなくなるのは困る。原稿を見てもらう先がなくなってしまう」
「他の所に持ち込んでもようございますが」
「ここがいいんだよ、甚五郎」
蔵之介は笑った。
「これまで、さんざん貶されたきたからな。おぬしにおもしろいと行ってもらわなければ気が済まん」
甚五郎の指摘は正しく、読み返してみると、なるほどと思ったことが何度もあった。腹のたつことも多いが、彼と
のやりとりは役に立った。
一度でいいから、甚五郎にあっと言わせたい。そう蔵之介は思っていた。
「本の品揃えもよいし、本の値段も安い。ここがなくなると、大変だ。できるだけのことはしよう」
「ありがたい話です。主人に成り代わり、礼を申します」
甚五郎は頭を下げた。
「と、心地のよい言葉を並べられても、手加減はしませんぞ。つまらない本を出すつもりは毛頭ございませんからな」
「望むところだ、と言いたいが、ちと手加減せぬか」
「いたしません。駄目なものは駄目です」
蔵之介は苦笑した。実に甚五郎らしい。
手強いが、それだけに倒しがいがあるといったところか。
「では調べにかかろう。まずは手がかりが欲しいところだが、何かあるか」
「いくつかございます」
甚五郎は語気を強めて語る。短いが、その内容は重要だった。
これまでにない厳しさだ。
原稿を見る目も鋭いが、それとはまったく質が異なる。
尋常ではない事を察して、蔵之介も緊張した。
「どうした。何かあったか」
「はい。大変なことが起きて、我々としても困っています」
「おぬしがそんな顔をするとは、よほどのことだな」
「さようで」
甚五郎は両手をついて頭を下げた。
「今日は、辻様にお願いがございます。ぜひ、我らに力を貸していただきたいのです」
「何があった?」
「まずは、これを」
甚五郎が冊子を手渡してきたので、蔵之介は受け取り、ぱらぱらとめくった。
「これは、式亭三馬の人情本だな」
「さようで」
式亭三馬は一昔前の戯作者で、『浮世風呂』、『浮世床』、『四十八癖』といった作品で知られている。多作で、洒落本、滑稽本、読本と手広く書きまくった。
代表作の『浮世風呂』では、銭湯の情景を描くことで、当時の江戸風俗をあざやかに浮かびあがらせている。軽妙な文章には、蔵之介も感嘆した。
「これは晩年の作品だ。珍しい。おもしろかったが、すぐに見なくなった」
蔵之介の手が途中で止まる。
「絵師の名が違う。初版の時は歌川国貞だった、だが、この絵は」
絵双紙の中心は大きな挿画で、文字は余白に描かれるという形を取る。
目を惹く絵が読み手を惹きつけるので、誰が挿画を書くのかはきわめて重要だった。曲亭馬琴はその辺りに細かく注文をつけていたと聞く。
「わかりません。歌川豊奈と記してありますが、そんな人物はおりません」
甚五郎は蔵之介から冊子を受け取った。
「この人情本は、森屋治兵衛が版元です。しかし、今回の件、彼らは知らないと申しています」
「何だと」
「これは重板です。誰かが勝手に版木を作り、書籍を刷りあげたのです。許されることではありません」
蔵之介は息を呑んだ。
書籍の刊行は、版元だけができる。正しくいえば、本の版木を持っている者が版元ととなり、出版が許される。
勝手に版木を作る、いわゆる開板して出版することは書肆にとって最も重大な罪であり、発見され次第、厳しく処断される。発売は差し止め、版元は行事と呼ばれるまとめ役に事情を問いただされて、悪質と認められれば、二度と刊行にかかわることはできない。
最大の禁忌の結果が目の前にある。
「誰がやった」
「わかりません。ですが、気にすべきは、ここです」
甚五郎は奥付を見せる。そこには桐文堂の名が記されていた。
「この店がやったと思われているのか」
「おかげで、他の版元から文句をつけられて、大変なことになっています。昨日も行司役に主人が呼び出されて、厳しく問いただされました」
「巻きこまれたか」
「いい迷惑です。まったく、誰がやったのか」
甚五郎は顔をしかめる。
「許せません。こやつ等は、我らのことを何もわかっていない」
刊行を望む書籍があると、書肆はまずお上の許可を取る。これまでのお達しに反していないのか、内容を確認し、問題がないと認めてもらわねばならず、これが大変な手間だ。
また、開板にあたっては、重板、類板にならぬように、仲間内に確かめる作業も必要だ。重版が内容が同じ物を無断で刊行するのに対し、類板は元の板から内容の一部をすり替えたり、題目を変更したりしただけで出版することを言う。
売れ行きのよい書籍があれば、それを真似して出そうとする者は後を絶たないわけで、見逃していれば最初の書肆が馬鹿を見ることになる。やった者勝ちを許さないためにも、出版には厳しい定めがあり、それを守るには大変な労力が必要だ。
「頼みというのは、下手人探しか」
「はい」
「急いだ方がよいな」
「そうしていただくと助かります。もちろん、礼金ははずみます」
甚五郎が口にした額は、蔵之介の予想をはるかに超えていた。それだけ腹に据えかねたということだろう。
「わかった。さっそくかかろう」
蔵之介としても時をかけるつもりはなかった。
「こちらも桐文堂がなくなるのは困る。原稿を見てもらう先がなくなってしまう」
「他の所に持ち込んでもようございますが」
「ここがいいんだよ、甚五郎」
蔵之介は笑った。
「これまで、さんざん貶されたきたからな。おぬしにおもしろいと行ってもらわなければ気が済まん」
甚五郎の指摘は正しく、読み返してみると、なるほどと思ったことが何度もあった。腹のたつことも多いが、彼と
のやりとりは役に立った。
一度でいいから、甚五郎にあっと言わせたい。そう蔵之介は思っていた。
「本の品揃えもよいし、本の値段も安い。ここがなくなると、大変だ。できるだけのことはしよう」
「ありがたい話です。主人に成り代わり、礼を申します」
甚五郎は頭を下げた。
「と、心地のよい言葉を並べられても、手加減はしませんぞ。つまらない本を出すつもりは毛頭ございませんからな」
「望むところだ、と言いたいが、ちと手加減せぬか」
「いたしません。駄目なものは駄目です」
蔵之介は苦笑した。実に甚五郎らしい。
手強いが、それだけに倒しがいがあるといったところか。
「では調べにかかろう。まずは手がかりが欲しいところだが、何かあるか」
「いくつかございます」
甚五郎は語気を強めて語る。短いが、その内容は重要だった。
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