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第三章 重板(じゅうはん)

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「なるほど、それですごすごと逃げ帰ってきたわけだ。見事にやられたな」
「油断した。あまりにもへっぴり腰だったのでな」
「武士なのか」
「違うな。やくざ者ですらない」

 三囲神社での争いがあった翌日、蔵之介は三左衛門の来訪を受けた。

 出かける直前ではあったが、ちょうど話をしたいと思っていたので、用事を後回しにして迎え入れた。

 顔をあわせたのは、書庫として使っている奥座敷だった。買い求めた草双紙が無造作に積まれている。

 三左衛門はあぐらをかいて、蔵之介と向かい合わせで座っていた。

「相手も刀には自信がなかったのだろう」

 三左衛門は蔵之介を見て笑った。

「だから、備えていた。それに気づかないおぬしが悪いさ。敵を知り、己を知れば、百戦して危うからずというが、見事にその逆だったな」
「わざわざ、『孫子』を引かずともよい」
「では、『孟子』にしておくか。甲を棄て兵を棄てて走げ、或る者は百歩にして後止まり、或る者は五十歩にして後止まり。五十歩をもって百歩を笑えば……」
「則ち如何。五十歩百歩。たいして違いはなかったということか」
 負けることはないと過信して強気に仕掛けたから、痛い目にあった。言うほど蔵之介は彼らより強くはなかったということだ。

 わかってはいるが、やはり口にされると腹立たしい。

「せっかくの機会だったのにな。これでしばらくは出てこまい」
「まあ、それでもわかったこともあったよ。おそらく、今回の件、常陸の者がかかわっている。かすかに訛りがあった」
「そうか」
「それと、荒事には慣れていない。刀を振るうだけで精一杯だった」
「だが、書籍を作る技は持っている。しかも相当にできる」
「それは間違いない」

 蔵之介の声は渋くなった。

「わからぬ。おそらく連中は、以前、本作りにかかわっていた。どこかの版元に雇われて、あの技を身につけたのであろう。ならば、書籍の事情には詳しいはずだ。重板が罪であるとわかっているはずなのに、なぜ手を染めたのか」
「筋が通らぬと言いたいのか」
「ああ」
「そうだな。わからないではないが」

 三左衛門は冊子を手にした。桐文堂から預かってきた重版された草双紙だ。

「これを見ると、思うところもある」
「どういうことだ」
「おぬしも、書籍がおおむね三都で作られていることは知っていよう」

 三都とは江戸、大坂、京のことだ。

 江戸は将軍をはじめ多くの武士が暮らす政の中心地、大坂は全国の蔵米が集まる商業の町、今日は天皇と公家が住む雅の町ということで、特別の地位を与えられている。

「ああ。かつては京が最も多かったと聞く」
「ほかには尾張那古野で少し刷られている程度だ。なぜ、それ以外の地で作らないのか知っているか」
「読み手が少ないからであろう。売れなければ話にならぬ」
「それでも部数を絞れば、どうにかなる。できぬのは、三都の版元が厳しく取り締まっているからだ。時には人を送ってな」
「なんだと」
「重板、類板の疑いがあれば、書籍は出すことができぬ。それをうまく使っているのよ」

 三郎左衛門の表情は渋い。それは、友が真実を語っているからだ。

 版元は新たに出版された書籍を詳しく調べ、少しでも内容が似ていれば、文句をつけて版木を没収する。一時期、那古野では類板の疑いで出版停止が相次いだが、それは江戸と大坂の版元がいちいち内容を調べて告発したからだ。

「ねらいは、三都の版元が出版を独占することにある。版木さえ押さえていれば、いくらでも刷れる。余計な邪魔が入って、売れ行きが落ちて困るから、すぐに口を出して叩きつぶす。それで、多くの版元が泣かされてきた」
「……」

理由わけなどいくらでも作れよう。遊郭の舞台にしていれば、すべて洒落本と言い切ってもよいのだからな。お上に重板、もしくは類板と認めさせてしまえば、それまでさ」
「そんな無茶な」
「だが、それが実情だ。三都で刷った書籍を地方で売り、儲ける。そのために版元は血眼になっている」

 三左衛門は冊子を開いた。

「本を出したくともできない。いくらでも出したいものはあるのに。ならば、無茶をしてでも開版して己の力を示す。そう考えても不思議ではない」
「俺たちにも本を刷ることができる。そう言いたいわけか」
「そうとも。出来のいいのも、そのためさ」

 できるのにも作らせてもらえない。そんな自分たちの技術を見せるためにとことんまでこだわった。そんな気持ちは、蔵之介にもわかるような気がした。

「意地を見せたということか」
「そういうことだ」

 三左衛門はそこで笑った。

「どうだ。いっそ、こやつ等の味方になれば。うまく話を持っていけば、おぬしの戯作も出してくれるかもしれぬぞ」
「やめてくれ。そんなつもりはない」
「数は限られるが、おぬしの話を世間に問うことができる。悪くはなかろう」

 三左衛門は、いたずら小僧のように笑う。

 からかわれていることはわかっていたが、うまく応じることはできなかった。

 ふと、三郎、四郎の顔が頭をよぎる。隠れてまで本を刷る彼らもまた、蔵之介と同じ立場の者ではないのか。

「どうする。奴らを捕まえるか」
「あ、ああ。そうだな」
「なら、早々にやるか。奴らの居所はすぐにわかる」
「何だと」
「俺の読みどおりならな」

 三左衛門は自分の考えを語った。それはきわめて正しく、そのとおりに動けば、早々に版木師たちを追い込むことができる

 だが、それでいいのか。蔵之介の心は激しく乱れていた。
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