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第一部 幸せな日々、そして旅立ち
第五章 第十七話
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母が帰ってきたのは、ずいぶんと夜も更けてからだった。
すぐそばにひんやりとした気配を感じて、ぼんやり眼を開けるとそこに母がいた。
寝ぼけ眼のまま微笑み、キアルは母親に手を伸ばす。
おかえりなさいと抱きついて、母の髪がぐっしょりと濡れていることに気が付いたキアルは真っ青になった。
即座に母の腕から抜け出して、タオルのしまってある戸棚からなるべく大きなものを取り出して駆け戻ると、大急ぎで濡れた髪の水気を拭う。
「こんなに濡れてどうしたの!?ダメだろ、母さんは体が弱いんだから」
強い口調で告げてから母の顔を見上げた。
彼女は少し驚いた顔をして、それから花がほころぶように無邪気ともいえる笑顔を見せた。
「……ごめんなさい。心配をかけてしまったのね?」
素直にそう謝られ、その時やっと、キアルは母が元気になったのだという事に思い至った。
以前の母であれば寝込んでしまったような事でも、今の母なら大丈夫なのだ。
それは嬉しいことだ。嬉しい事なのに、前の方が良かったと思ってしまう自分がいた。
病がちで寝込んでいる事が多かった以前と違って、今は美しく身綺麗に装っていて、香油をつけているのか甘く良い匂いもする。
以前と変わらないやさしさでキアルを見守ってくれているのも知っている。
だが、何かが違うのだ。
優しいのに、時々怖いと感じる。甘い匂いの奥に隠れた、何か不快な匂いが時に漂う。
母さんは母さんだーそう思う。思うのに、時々体の芯から震えが込み上げるのだ。
―恐怖が。
愛しているのに怖い。怖いのに愛している。
相反する二つの感情に、キアルの小さな胸は張り裂けそうになる。
「どうしたの?震えてるわね。寒い?」
そう言って抱きしめてくれる腕は優しい。
でもひんやりと冷たいのだ。まるで生きていない人の様に。
母さん、どうしちゃったの?-聞きたいけれど怖くて聞けない。
だから少年は微笑む。
「大丈夫だよ。今日は色々あって少し疲れただけ」
「そうね。あんな危険な目にあったのだもの。早く、休みましょう」
優しく、いたわる様な言葉。その言葉を聞いた瞬間、身体が凍り付く。
まだ話してない。何も。なのに、なぜ知っているのか。今日、キアルの身に起こった出来事を。
あの出来事を、雷砂は村長にすら詳しく語らなかった。
知っているのは自分と、ミルファーシカと、雷砂と……あの時助けてくれたあの獣だけ。
(まさか)
自分の手を引く、母の横顔を見上げる。
(まさか)
いつもと変わらぬ優しい横顔。体が良くなって、綺麗になった横顔。時々、息子であるキアルが見てもドキッとするくらい、妖しく、美しい。
不意に、彼女がこちらを見た。
自分を見上げる息子に気づき、柔らかく微笑む。母親の、優しい笑顔で。
(そんな訳、ない。あるはずがない)
己の疑念を否定する。
そんな訳ないのだ。自分の母が、化け物あっていいはずがない。
だから、キアルは目をつむった。自分の心に根付いた小さな疑惑の芽に。
だから、少年は見ないふりをした。自分の手に掴んだままのタオルに。
その白い布地は……母の髪を濡らしていた水を含んで、薄らと紅く色づいていた。
すぐそばにひんやりとした気配を感じて、ぼんやり眼を開けるとそこに母がいた。
寝ぼけ眼のまま微笑み、キアルは母親に手を伸ばす。
おかえりなさいと抱きついて、母の髪がぐっしょりと濡れていることに気が付いたキアルは真っ青になった。
即座に母の腕から抜け出して、タオルのしまってある戸棚からなるべく大きなものを取り出して駆け戻ると、大急ぎで濡れた髪の水気を拭う。
「こんなに濡れてどうしたの!?ダメだろ、母さんは体が弱いんだから」
強い口調で告げてから母の顔を見上げた。
彼女は少し驚いた顔をして、それから花がほころぶように無邪気ともいえる笑顔を見せた。
「……ごめんなさい。心配をかけてしまったのね?」
素直にそう謝られ、その時やっと、キアルは母が元気になったのだという事に思い至った。
以前の母であれば寝込んでしまったような事でも、今の母なら大丈夫なのだ。
それは嬉しいことだ。嬉しい事なのに、前の方が良かったと思ってしまう自分がいた。
病がちで寝込んでいる事が多かった以前と違って、今は美しく身綺麗に装っていて、香油をつけているのか甘く良い匂いもする。
以前と変わらないやさしさでキアルを見守ってくれているのも知っている。
だが、何かが違うのだ。
優しいのに、時々怖いと感じる。甘い匂いの奥に隠れた、何か不快な匂いが時に漂う。
母さんは母さんだーそう思う。思うのに、時々体の芯から震えが込み上げるのだ。
―恐怖が。
愛しているのに怖い。怖いのに愛している。
相反する二つの感情に、キアルの小さな胸は張り裂けそうになる。
「どうしたの?震えてるわね。寒い?」
そう言って抱きしめてくれる腕は優しい。
でもひんやりと冷たいのだ。まるで生きていない人の様に。
母さん、どうしちゃったの?-聞きたいけれど怖くて聞けない。
だから少年は微笑む。
「大丈夫だよ。今日は色々あって少し疲れただけ」
「そうね。あんな危険な目にあったのだもの。早く、休みましょう」
優しく、いたわる様な言葉。その言葉を聞いた瞬間、身体が凍り付く。
まだ話してない。何も。なのに、なぜ知っているのか。今日、キアルの身に起こった出来事を。
あの出来事を、雷砂は村長にすら詳しく語らなかった。
知っているのは自分と、ミルファーシカと、雷砂と……あの時助けてくれたあの獣だけ。
(まさか)
自分の手を引く、母の横顔を見上げる。
(まさか)
いつもと変わらぬ優しい横顔。体が良くなって、綺麗になった横顔。時々、息子であるキアルが見てもドキッとするくらい、妖しく、美しい。
不意に、彼女がこちらを見た。
自分を見上げる息子に気づき、柔らかく微笑む。母親の、優しい笑顔で。
(そんな訳、ない。あるはずがない)
己の疑念を否定する。
そんな訳ないのだ。自分の母が、化け物あっていいはずがない。
だから、キアルは目をつむった。自分の心に根付いた小さな疑惑の芽に。
だから、少年は見ないふりをした。自分の手に掴んだままのタオルに。
その白い布地は……母の髪を濡らしていた水を含んで、薄らと紅く色づいていた。
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