風は遠き地に

香月 優希

文字の大きさ
14 / 96
第一章 遥かな記憶

崩壊 4

しおりを挟む
 夜が、訪れようとしていた。
 果たしてこの選択が正しかったのかも分からぬまま、最低限の荷と──拾われた時から共にあった愛用の剣を携え、啼義ナギは森を進み続けた。
 何か考えようとすると、たまらなくなりそうな胸の内を、無理矢理抑え込む。
 もう、背中にかかる髪はない。肩先まで切り落とされて軽くなった毛先を、冷たい風が撫でた。
<切ったってよかったんだ。ずっと>
 そう思っても、今は心が痛んだ。切りっぱなしの髪を撫で付け、溢れそうな感情をぐっと堪えて、足を前に動かすことだけに集中する。
 そして、自分がこれからどうしたらいいのかも、皆目見当がつかない。ただ、レキが言っていた、南にある蒼空そうくうの竜を信仰するイリユスの神殿──おそらくそこを目指すしかないのだ。だが南へ行くには、険しい山脈を越えなければならない。山越えの経験などなかった。もう冬がそこまで来ている。山の季節はもっと厳しくなっているだろう。
<のたれ死んだら、それまでってことか>
 靂に出来たことは、自分を逃すことだけだった。よく分かっている。だけど、心細さは拭えなかった。生きろ、と強い思いを渡されても、この状態でどこまで行けるかは謎だ。
<賭けてみるしかない>
 自分に。まずは今夜。暗くなる前に、どこか安全な場所を探さねば。
 と、あたりを見渡した時──
「随分と短く切られましたね」
 聞き慣れた声がして、啼義はぎくりと立ち止まった。ふわりと空気が揺れ、突如、前方に現れたのはダリュスカインだ。
「──どうして……」狼狽が声に出た。そして鼻を突いたのは──血の匂い。
「綺麗な黒髪だったのに。靂様も無体なことをなさる」
 今やダリュスカインは啼義の前方数メートルもないところに立ちはだかり、その姿がはっきり見える。血の匂いは彼のものだ。でも何処から? いつもは高く結われている金の髪は解いたままで、彼にしてはひどく乱れて、それが凄みを感じさせる。赤いマントは夕暮れに不気味に映え、その瞳はただの紅ではなく、血溜まりのようなどす黒さも湛え、狂気じみた光を宿していた。
「靂様も全く……こんな子供一人、始末できないとはね」その口調は、明らかに今までの彼とは違う。
「なんだと……」自分に向けられた圧倒的な敵対の空気に気圧けおされぬよう、しっかりと相手を見据えながら、啼義は無意識に腰に下げた剣の柄に右手を添えた。
 ダリュスカインが、静かに左手を真っ直ぐ肩の高さまで上げ、指先を広げる。魔術を施す際の構えだ。
「だから俺が、始末しにきたのさ」
「……正気か」
「さあね」
 彼は──笑った。ゾッとするほどの美しい微笑みに、背筋を冷たいものが走る。本気だ。この男は、本当に自分を消しに来たのだ。
「そっちがその気なら、仕方ねえな」
 啼義は剣の柄を握った。
 しかし、ダリュスカインが今ここにいるということは……靂は? どうしたのだろうか。ふと不穏な予感がよぎった。
「おや? "父上"が心配か?」見抜いたように、ダリュスカインが薄く笑った。
「もう始末したよ。腑抜けたあるじなど、俺には要らない」

 ざわ、と風が鳴った気がした。あるいは全くの静寂。
 何もない場所に突き落とされたような衝撃が、胸の奥を打った。

 ──始末した?
 
 目がくらんだ。
 だが言葉を飲み込むより早く、身体が反応した。
「貴様っ!」無意識に剣を引き抜くと、反射的に足が地面を蹴った。勢いに任せて予想以上の速さで突っ込んできた啼義をギリギリのところでかわし、ダリュスカインが素早く指先を手繰って呪文を唱える。
 その手から迸った炎が、啼義の足元を狙った。だが、身軽な彼には通用しない。啼義は高く飛んで避けると、間髪入れず反撃の体勢に入る。その時──
「靂の代わりに、俺が淵黒えんこくの竜の力を復活させてやる」
 ダリュスカインは再度指先を啼義の方へ構え、一発で仕留められなかったことに苛立った口調で言った。
<靂の代わり……靂──本当に?>
 ほんの一瞬、気が逸れた。
 しまったと思った次の瞬間、啼義は風の力で吹っ飛ばされた。容赦ない勢いで岩肌に叩きつけられる。と同時に、全身に鋭い痛みが走った。視界の暗転は一瞬で、目に映った地面に、自分の体から滴る血が広がっていく。
「他愛もない」
 風の刃で斬りつけられ、立ち上がることも出来ない啼義を見下ろし、ダリュスカインは満足そうに笑みを浮かべた。
「たかが髪で、死んだなどと誰が信じるか。まさか靂が、刀といかづちの気を同時に操るとは知らず、手こずったがな。俺の魔術の方が、一枚上手だったわけさ」かつての主を呼び捨てにして、忌々しく言う彼のマントの右半身が、血の赤で一段濃く染みているのに、その時啼義は気付いた。それは返り血なのか、ダリュスカイン自身のものなのか、判別がつかない。
「ふざけ……やがって!」
 右目にも血が滴り、思わず片目を瞑った。息をするのも困難だ。心の奥底をたまらなく震わせるのは、怒りか哀しみか。心臓の音が、割れそうなほど大きく響いて聞こえる。まるで自分のものではないみたいに。
<靂>
「お前も一緒にへ送ってやろう」どこか優しげな口調で、ダリュスカインは言った。意識が遠くへ持っていかれそうになる。体中の血の気が、恐ろしい速度で引いていく。
<ああ……>
 もはやこれまでかと、啼義は一瞬、観念しかけた。
 ──だが。
 
『生きろ』
 声が聞こえた気がした。
 
 そうだ──靂は命を懸けて自分を逃したのだ。捕われるわけにはいかない。
 なんとか上体を起こし、震える手で剣を握り直した。腕を流れ落ちた血が、剣まで伝う。右肩が焼けるように熱い。
「これでしまいだ、坊や」
 ダリュスカインが、ゆっくり歩み寄りながら、再び次の呪文を唱える構えを見せた。炎が来る。そう直感した。
「うるせえ!」
 啼義は咄嗟に、剣ごと両手を突き出し、そこに意識を集中していた。
<こんなところで、死んでたまるか!> 
 何が起こったのか、自分でも分からなかった。
 凄まじいまでの光が炎とぶつかった瞬間、視界の全てを飲み込んで、眩しさに思わず目を瞑った。音という音が消え去り、自分の身体の奥底で何かが解き放たれる。ダリュスカインの叫ぶような声が、遠く響いた。
 その時、脳裏に何かの面影が見えた気がした。あれは──
<俺?>
 いや、違う。自分よりも何処か自信に満ちた、精悍な顔立ち。
<誰だ?>
 しかし、そこで遂に、啼義の意識は途切れた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

宿敵の家の当主を妻に貰いました~妻は可憐で儚くて優しくて賢くて可愛くて最高です~

紗沙
恋愛
剣の名家にして、国の南側を支配する大貴族フォルス家。 そこの三男として生まれたノヴァは一族のみが扱える秘技が全く使えない、出来損ないというレッテルを貼られ、辛い子供時代を過ごした。 大人になったノヴァは小さな領地を与えられるものの、仕事も家族からの期待も、周りからの期待も0に等しい。 しかし、そんなノヴァに舞い込んだ一件の縁談話。相手は国の北側を支配する大貴族。 フォルス家とは長年の確執があり、今は栄華を極めているアークゲート家だった。 しかも縁談の相手は、まさかのアークゲート家当主・シアで・・・。 「あのときからずっと……お慕いしています」 かくして、何も持たないフォルス家の三男坊は性格良し、容姿良し、というか全てが良しの妻を迎え入れることになる。 ノヴァの運命を変える、全てを与えてこようとする妻を。 「人はアークゲート家の当主を恐ろしいとか、血も涙もないとか、冷酷とか散々に言うけど、 シアは可愛いし、優しいし、賢いし、完璧だよ」 あまり深く考えないノヴァと、彼にしか自分の素を見せないシア、二人の結婚生活が始まる。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

捨てられた王妃は情熱王子に攫われて

きぬがやあきら
恋愛
厳しい外交、敵対勢力の鎮圧――あなたと共に歩む未来の為に手を取り頑張って来て、やっと王位継承をしたと思ったら、祝賀の夜に他の女の元へ通うフィリップを目撃するエミリア。 貴方と共に国の繁栄を願って来たのに。即位が叶ったらポイなのですか?  猛烈な抗議と共に実家へ帰ると啖呵を切った直後、エミリアは隣国ヴァルデリアの王子に攫われてしまう。ヴァルデリア王子の、エドワードは影のある容姿に似合わず、強い情熱を秘めていた。私を愛しているって、本当ですか? でも、もうわたくしは誰の愛も信じたくないのです。  疑心暗鬼のエミリアに、エドワードは誠心誠意向に向き合い、愛を得ようと少しずつ寄り添う。一方でエミリアの失踪により国政が立ち行かなくなるヴォルティア王国。フィリップは自分の功績がエミリアの内助であると思い知り―― ざまあ系の物語です。

『召喚ニートの異世界草原記』

KAORUwithAI
ファンタジー
ゲーム三昧の毎日を送る元ニート、佐々木二郎。  ある夜、三度目のゲームオーバーで眠りに落ちた彼が目を覚ますと、そこは見たこともない広大な草原だった。  剣と魔法が当たり前に存在する世界。だが二郎には、そのどちらの才能もない。  ――代わりに与えられていたのは、**「自分が見た・聞いた・触れたことのあるものなら“召喚”できる」**という不思議な能力だった。  面倒なことはしたくない、楽をして生きたい。  そんな彼が、偶然出会ったのは――痩せた辺境・アセトン村でひとり生きる少女、レン。  「逃げて!」と叫ぶ彼女を前に、逃げようとした二郎の足は動かなかった。  昔の記憶が疼く。いじめられていたあの日、助けを求める自分を誰も救ってくれなかったあの光景。  ……だから、今度は俺が――。  現代の知恵と召喚の力を武器に、ただの元ニートが異世界を駆け抜ける。  少女との出会いが、二郎を“召喚者”へと変えていく。  引きこもりの俺が、異世界で誰かを救う物語が始まる。 ※こんな物も召喚して欲しいなって 言うのがあればリクエストして下さい。 出せるか分かりませんがやってみます。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

君への気持ちが冷めたと夫から言われたので家出をしたら、知らぬ間に懸賞金が掛けられていました

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【え? これってまさか私のこと?】 ソフィア・ヴァイロンは貧しい子爵家の令嬢だった。町の小さな雑貨店で働き、常連の男性客に密かに恋心を抱いていたある日のこと。父親から借金返済の為に結婚話を持ち掛けられる。断ることが出来ず、諦めて見合いをしようとした矢先、別の相手から結婚を申し込まれた。その相手こそ彼女が密かに思いを寄せていた青年だった。そこでソフィアは喜んで受け入れたのだが、望んでいたような結婚生活では無かった。そんなある日、「君への気持ちが冷めたと」と夫から告げられる。ショックを受けたソフィアは家出をして行方をくらませたのだが、夫から懸賞金を掛けられていたことを知る―― ※他サイトでも投稿中

処理中です...