風は遠き地に

香月 優希

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第二章 未知なる大地

南へ 2

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 結迦ユイカは、ドラガーナ山脈竜の背の山の一つにある星莱せいらいやしろ神呼みこの一人だった。
 星莱の社はやや標高の高い位置にあり、険しい山道を辿るのは困難なため、他との交流はほとんどない。そこには、密かに古から守り継がれるほこらの存在があった。"慈源じげんの祠"と言う。
 この祠は、遥かな昔にここを訪れた魔術師が、磁場の歪みを利用して作ったとされ、山脈の向こうに同じようにある"慈禊じけいの祠"と繋がっていることが分かっているが、多大な"気"を必要とし、肉体への負担も相当なため、耐えきれずに命を落とす者が多いことから、一部では人を喰らう祠とも言われ、普段は立ち入り禁止となっていた。
 その祠を内包する社で、天や自然の啓示を読み、それを使った占術などをこなし、時に山の麓の集落などで神事を取り仕切っていたのが"神呼"である。結迦は物心ついた頃から、意識せずとも、天を見上げると何らかの予兆を捉えたり、自然の"声"を聞くことができた。明確な言葉として聞こえるわけではない。漠然と感じるのだ。この能力に気づいた両親が、彼女を社へのは十四歳の時だった。
 それからは、自然の気と向き合い、その声を聞いて神事に従事することが、結迦にとっての当たり前の日々となった。
 だが、ある日の夕暮れ──
 不穏な気配に木々たちがざわめいている、と結迦は感じた。魔物の気ではない。しかし、それまで人間の醜悪な気に触れたことのない彼女には、それが盗賊たちの襲撃の予兆であるとは読めなかった。それは、他の者も同じだった。
 元々、外部との接触が少ない星莱の社は、襲撃への用意もほとんどなかった。結界があれば魔物は侵入できないが、人間には効かない。盗賊たちは麓の集落を荒らし、そこで社と祠の話を聞きつけて、さらなる金品がないか、険しい道を物ともせずに登ってきたのだ。
 凄惨な状況の中、社のかしらである宗埜ソウヤが、何とか結迦と他二人を連れ出したが、一人はすでに助かる状態ではなく、もう一人はあまりのことに自害してしまった。そうして、結迦と宗埜だけが残った。盗賊たちは祠へ向かったようだったが、恐らく誰一人、そこから戻っては来なかったであろうことが推測できた。彼らは欲望のまま、そうとは知らず自ら喰われに行ったのだ。それは、神の与えた罰だったのかも知れない。
 宗埜は山を降りてどこかの村へ助けを求めようと提案したが、結迦は首を縦に降らなかった。山の麓に、恐ろしい屍気しきを感じたからだ。それは、盗賊たちが先に壊滅させた集落から漂うものだった。
 結局、二人はこの山小屋に閉じ籠った。そこは星莱の社と麓の真ん中ら辺にある、修行などの際に使っていた小屋で、幸いひと通りの生活道具が揃っていた。だが事件の衝撃からか、結迦には自然の声が聞こえなくなり、自らの言葉もなくしてしまった。

 それから一年半──

 山菜を獲りに行っていた宗埜が、慌てて戻ってきて、手を貸してくれと言ったのは、五日ほど前のことだ。
 現場に着いた結迦は、広がった血の海に、あの夜の記憶が重なって足が震えた。だが、倒れていた男が微かに動いたのを見て、何か思うより先に体が動いた。
 血に濡れてはいるが、豊かな金の髪に、見たこともないような秀麗な顔立ち。この辺の人間でないことはすぐに分かった。その時触れた指先から、結迦は深い哀しみと憎悪の波動を感じ、思わず手を引いた。自然の声すら聞けなくなった彼女に、こんなことは久しぶりだった。それだけ、彼の情念が強かったのだろう。
 しばし躊躇したが、このままにもしておけない。怯えながら再度触れてみると、波動は気配を潜めていた。おかげで何とか、宗埜と二人でを小屋まで運ぶことが出来た。
 命は助かったものの、彼は右腕の肘から先を失い、高熱にうなされて深刻な状態だった。触れると時折彼が発する波動は、やはり憎悪に満ちていたが、哀しみの念はそれ以上だった。その波動は結迦の内なる感情と重なり、恐れながらも、気づけば彼女は、傍に張り付くようにして看病に勤しんでいた。
 男の容態が峠を越え、目を覚ましたのは三日目のことだ。瞼が開き、深紅の瞳が自分を捉えた時、彼はなぜか、ひどく驚いたような顔をした。理由は分からない。目覚めた後の彼は淡々と事実を受け入れて、二人のするように従った。何も語らないが、重傷の身で自ら右腕に施した術を見るに、相当な腕の魔術師であろうことは、結迦にも分かった。
 やっと起き上がれるようになった日の夕方、男は「探したいものがある」と玄関に向かった。結迦は戸惑ったが、宗埜は何かを察したのか、止めはせずにその背に声をかけた。
「かまわんが、道に迷わんようにな」
 そうして男──ダリュスカインは、目を覚まして初めて外を歩き、自分の居場所を知ったのだった。
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