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3-1章 逃亡者と挑戦者

3-1-1 ようこそ

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     ◆

 船の中から地平線を眺めるが、もちろん、海しか見えない。
 バークレー島へ向かう大型客船の、その食堂の窓際の席で、俺はぼんやりとその光景を眺めていた。
 それにしても、自分が海の真っ只中にいるのも、変な感じだ。
 大陸の山奥も山奥、人から逃げるような発想でもあったかのような、誰も来ない場所にある環境にずっといたから、海なんて縁がなかった。
 食堂には人がかなり入っていて、これだけの人間が近くにいるのも、未だに違和感がある。
 港にたどり着いて船に乗るまでに慣れてきたはずだったけど、あれはどうも、錯覚だった。
 海ばかり見ていても飽きるし、さっさと料理を片付けようとナイフとフォークで、よく分からない魚料理を食べた。マナーも何も知らない自分が、ちょっと悲しい。それ以前に料理の名前が分からないのも悲しいが。
 とにかく、常識というのが俺の中にないことが、よくわかった。
 適当に皿の上のものを胃に納めて、ナフキンで口元を拭う。料金は船のチケットに含まれていると聞いているので、楽だ。
 少し喉も渇いたし、お茶でも飲んで、部屋に戻るとするか。
 席を立って、食堂の壁際にあるカウンターに向かう。
「何になさいますか?」
 制服の男のハキハキした声。
「あー、何があるかな。コーヒーは?」
「コーヒーですね。銘柄は何にいたしますか?」
「任せるよ。ミルクと砂糖は多めで」
 銘柄なんて何も知らない俺に微笑んで、男が素早くコーヒーを用意する。角砂糖が三つと、小さなミルクの入った容器も出てきた。
 コーヒーカップに砂糖を三つとも落とし、ミルクを全部注ぐと、カップにフラフラになった。
 構わずにそれを持ち上げようとした時、誰かが隣の席にやってくる。
 誰かというか、事前に気づいていたけど、コーヒーを飲む暇くらいあるんじゃないかな、と思っただけで、相手の素性だっておおよそ知れている。
 構わずに俺はコーヒーを一口、飲んだ。うん、甘くて美味しい。
「アルハルトン・セイレーン・セカルで間違いないな?」
 無視してもう一口、コーヒーを飲んで、やっと男の方を見る。
 中年で、精悍な顔つき。しかし瞳の色が左右で違う。魔法使いどもの、薬物強化の副作用だ。二流が作った薬を使うと、よく出る。
「間違いなく、俺がアルハルトンだが、今は違う名前を名乗っている」
「ほお」
 感心したような調子だが、表情は変わらない。それも薬物の副作用か? まぁ、いちいち指摘するほどでもない。
「あんたに教える気はないよ」
 すっと男の目が細まる。
 そこもまた、二流だな。
 何かが爆ぜる音がして、しかし何も起こらない。
 そのことに男が狼狽している隙に、素早く持ち歩いているトランクを解放する。
 トランクの中には闇が詰まっており、それが立ち上がる。
 誰かが悲鳴をあげるが、俺は別に構わない。闇から滲み出すように、俺よりも頭三つほど背が高い存在が現れる。岩で出来たそれは、悪魔の一種だ。
「ちょっと遊んでやれ」
「イエス、マスター」
 悪魔がぐっと拳を振り上げ、男に叩きつけるが、男は跳ねるように回避し、代わりに椅子が巻き込まれて、粉砕される。
「こんなところで悪魔を出す奴があるか!」
 食堂の客たちの悲鳴に混ざって、例の男が喚くが、知ったことか。
 逃げようとする客に混ざって、トランクを閉じて手に下げた俺は通路に出て、そのまま自分の部屋に向かう。荷物を回収しよう。
 船に乗り込んでいる警備員が食堂へ向かって走っていくのとすれ違った。
 部屋にたどり着き、丈の長いローブを羽織り、大きなトランクを手に取る。
 それにしても、こんな大海原の真ん中で、船を降りるとは、不愉快だな。安くない金を払ったんだぞ。
 部屋を出て、少し落ち着いている通路から甲板へ。
「へい、どこへ行くつもりだ?」
 甲板では食堂のことなど何も知らない乗客がくつろいでいる。
 俺を待ち構えていた男の言葉には、誰も反応しない。
 男は手に杖を持った若い男で、こちらに向ける瞳には殺気がある。
 やれやれ、本当に俺の生活の平穏はどこへ行ったんだ?
「あんたたちのお陰で逃げなくちゃならない」
「そんな余裕ぶってていいのかい?」
 こちらが身構える前に男の杖が打ち振られる。
 かすかな衝撃とは裏腹に、俺のローブが激しくなびく。
「お返しだ」
 俺は軽く手を振り返してやる。そっと撫でるような身振りなのに、男は冗談のように背後に吹っ飛び、そのまま甲板の向こうに落ちていった。さすがに甲板の客もこちらに注意を向けた。
 まったく。困ったことだ。
 俺は甲板の淵に歩み寄り、精神を集中する。魔法を発動するオーラが滲み出し、一瞬でローブに流れ込む。
 かすかな音を発して、ローブが波打ち、翼に変わった。感覚の一部にローブが組み込まれる。
 大きな動きで風を掴み、ふわりと足が甲板を離れる。
 激しく風を叩いて、高度を取り、滑るように船を離れた。
 ああ、そうか、例の悪魔を回収しないと。
 空中でトランクを解放すると、小さな黒い粒子が船の方から宙を走ってくる。
 と、それと一緒にこちらに突っ込んでくる人間がいる。
 さっきの甲板にいた杖の男だ。奴もローブを翼に変え、こちらに迫ってくる。
 おいおい、もう諦めてくれよ!
 粒子を回収して、トランクを閉じて、俺は加速する。
「逃げるな! 戦え! 卑怯だぞ!」
 喚き声が追いかけてくる。
「知ったことか! これでも喰らえ!」
 俺は片手を素早く打ち振るう。
 オーラが腕に組み込まれた魔法回路を走り、一瞬で炎に変わる。
 即座に理論魔法でその炎を支配し、増幅させる。膨れ上がった炎の波が、男を飲み込む。
 駄目押しでさらにオーラを直接、理論魔法で力に変換し、即座に支配した不可視の圧力が男を炎ごと海面に墜落させた。
 これで少しは余裕があるだろう。
 翼を操って、目的地へ向かう。
 日差しが強くて、うんざりするが、風は気持ちいい。
 どれくらいが過ぎたか、前方にそれが見えてきた。島だ。バークレー島。
 悪魔と人間の戦いの最前線の一つにして、はぐれものの楽園。
 噂で聞いただけだが、ここ以外に逃げる場所も思いつかなかった。
 徐々にその島の様子がはっきり見えてくる。巨大な港がある。
 人気がないところへ行きたいけれど、そんな場所もなさそうだ。今も港では大小、様々な船が荷の積み下ろしをしている。
 諦めて、桟橋の一つに降り立った。即座にローブを本来のそれに戻す。
 すぐそばで釣りをしていた男が目を丸くしてこちらを見ている。
「どうも、こんにちは」
 こちらから声をかける。もっと驚くか怯えるかと思ったけど男は平然としている。
「こんにちは。魔法使いかね」
「そのようですね」当たり前のことを言われたので思わず笑ってしまった。「ここは初めてなんだけど、どこか、泊まるところあるかな」
「金は?」
 わお、話が早くて助かる。
「少しは持っている」
「いくら?」
「二千ドル」
 ふーん、と男は頷く。
「まともなところで生活したいなら、中央通りへ行くといい。金を節約したいのなら、港湾地区だ。港湾地区にはいくらでも泊まるところがある。人間的じゃないがね」
「そう。ありがとう、親切にしてくれ」
 男がニヤッと笑う。
「ようこそ、バークレー島へ」



(続く)
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