僕の英雄の物語

和泉茉樹

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     十

 アオが消えたのは、魔迷宮を一緒に進んでから、三日後だった。
 高校から帰った僕は、畳の上に敷かれている布団がもぬけの殻なのを発見しても、慌てなかった。アオが珍しく、極めて珍しく、どこかに散歩にでも行ったのだろうと思った。
その考えはすぐに打ち消されて、次に僕は、アオが僕を守るためにどこかで戦っているかもしれない、と思った。アオが無事に帰って来てくれることを思いつつ、しかしアオは死なないので、それも気軽な思いだった。
帰り道で買った食材を小さな冷蔵庫に詰め込み、僕は夕食の支度を始める。
その合間に洗濯物を取り込もうとして窓を開けると、そこに洗濯物がなかった。ぎょっとして視線をさまよわせると、物干し竿をひっかける器具に、ハンガーが強引に引っ掛けられていた。
物干し竿がない。
物干し竿になっていた、アオの処刑刀がなくなっている。
僕の心がざわついた。心の半分以上は、アオがどこかで戦っていると判断し、残りは、形にならない漠然とした不安に占められた。
 アオはどこへ行ったのだろう? どこで戦っているんだろう?
 僕はとりあえず洗濯物を部屋の中に入れて、生乾きのそれを室内のハンガーラックに引っ掛けた。
 料理を続けながら、僕はチラチラと玄関のドアに視線を送る。
 しかしアオが帰ってこないまま、僕の料理は完成した。アオを待つつもりで、洗濯物を片づけ、それが終わっても、やはりアオが戻ってくる気配はない。
 時計を見ると、もう十八時を過ぎていて、火も山の陰に落ちた。
 結局、僕は一人で食事をして、アオの分を小皿に入れて冷蔵庫に入れた。
 勉強をして、途中で銭湯へ行った。帰ってきて勉強を再開して、時計を見ると、二十三時に近い。僕は自分の布団を、敷きっぱなしになっていたアオの布団の隣に敷いて、またドアを見た。
 アオは、来ない。
 仕方なく、電灯を消して、布団に横になった。
 じっと天井を見上げていると、隣にアオがいないということが、じわじわとこの部屋の中に、満ちてくるようだった。
 不安が、忍び寄ってきて、肌にぬるりと触れる。
 そして、ゆっくりゆっくりと染みて、僕の肌が、肉が、神経や骨が、凍みるような気がした。
 僕は寝巻のジャージのポケットに、手を差し入れた。
 そこには、小さな刃がある。
 切れ味が鋭いはずなのに、僕を傷つけることのない刃。
 真理剣の、欠片。
 それがあるということは、アオがここに帰ってくることを保証するはずだ。
 真理剣はアオの異能だから、まだどこかでアオが生きていることは、間違いない。
 でも、それなら。
 なんで帰って来ないのか。
 僕は横になったまま、その理由を考えていた。
 眠りはなかなか、やってこない。

     ◆

「あなたが、ここまで来るとはね」
 俺は匠子の言葉に、鼻を鳴らして答える。
「お前に俺の何が分かるんだよ」
「分からないな。どうしてこんな遅い時間、真夜中でもあなたが起きている理由も、活動している理由も。しかしそれは、まぁ、良い」
 匠子は複雑で精緻な意匠が施された椅子に腰を降ろしたまま、そう言った。そしてサイドテーブルに置かれていた煙草の箱を手にと取ると、一本、抜きだし、口にくわえた。
「あなたは、凪くんを見捨てるのかな」
 俺は匠子の言葉には答えなかったし、煙草に火をつけている匠子も答えを聞く姿勢ではない。
 煙草から煙を吸い込み、匠子が細く息を吐けば、煙が俺の眼前まで伸びてくる。しかし、煙は絶妙な距離で大気に溶けた。
「答えたくない?」
「必要がない」
 俺の返事に、匠子がかすかに頷き、テーブルの上の灰皿に煙草を置いた。俺は見るともなく、その先からまっすぐに立ち昇る煙を見ていた。
 なんで、人間は会話でしか意思疎通できないのだろう。
 刃を振るうように、明確に思いを表現する手段が欲しかった。
「あなたが」匠子が言う。「ここに来た理由は言わなくてもいい。あなたの考えも私にはどうでも良い。でも、何をして欲しいかは、教えてもらいたい」
「俺を、魔迷宮に飛ばして欲しい」
 俺の言葉を聞いて、即座に匠子が笑う。
 それは紛れもなく、失笑だった。
「七英雄が、自力で魔迷宮に行けないなんて、お笑いだ」
「反動の悪魔も、そこまで間抜けじゃない」
 俺も笑みを浮かべて、そう応じた。
 第二次大戦の前、第一次大戦の時から、反動の悪魔は人間に力を貸してきた。しかし彼らは人間に味方しても、人間が魔界を制圧し、悪魔を全滅させようとしたわけじゃない。
 人間どころか、悪魔をも屠る最強の兵器である、七英雄とそのすでに死したる同類は、反動の悪魔にその力を与えられたが、しかし、単独では魔界どころか、魔迷宮にさえ踏み込めない。
 俺たちが、魔界へ行けないように、根本的な手段を取ったのだ。
 俺の顔をサングラスの奥から見据えた匠子は、少しの間を置いて、小さく息を吐いた。
「もう戦争は終わったのよ。普通にしていれば、誰かが傷つくこともないし、誰かを傷つける必要もないの」
 いつもと違う匠子の口調に含まれている感情は、俺には理解できない。
 今、俺の頭は普通の人間と同様に働いている。先日の、凪が連れ去られた後、ずっと俺の頭は正常だ。
 それは今が戦闘の最中だからだと、俺の存在が、理解しているからだろう。
 にもかかわらず、俺には匠子の気持ちが分からない。
 理解力ではなく、これは想像力の領域か。
「俺は」
 しかし、匠子の気持ちは、俺には関係ない。
 匠子の気持ちで、俺の刃が鋭くなるわけじゃないのだから。
「兵隊だからな。一振りの、刃さ」
「救いようのない人」
 匠子はそう言うと、椅子から立ち上がった。そして俺の胸に手を当てた。
 唐突に、身につけていた凪が買ってくれたジャージが消え去り、真っ青な戦闘服に変化した。その戦闘服は、俺が匠子に預けておいたものだ。
 さらにその戦闘服の上に、鎧が現れる。
 俺の姿は、学校の歴史の教科書に出てくる、七英雄そのものの姿になっていた。
「戦うなら、装備が必要でしょ?」
 俺に背を向けた匠子の言葉に、俺は思わず笑みを浮かべていた。
 匠子は分かっているのだ。俺の考えも、目的も、これからの行動も。
 俺は、戦うのだ。
 匠子が隣の部屋へ移動するのに、俺はついていった。
 そういえば、と思う。今、どこかに消えてしまったジャージは、どこへ行ったのだろう。それを残しておいてほしいような気もしたし、どうでも良いような気もした。
 凪の顔が、脳裏に浮かび、すぐに去っていった。
 魔法使いの工房の、応接室の隣は、書庫だった。
 しかし、普通の部屋ではない。
 地下にあるにもかかわらず、天井の高さは十メートルはあるだろうか。そこに無数の本棚が浮かび、常に移動している。魔法によって作られた異世界を内包した、不可思議な部屋だった。
 地上に近い位置を浮遊している本棚は、匠子が手を振ると滑るように横に移動する。匠子は部屋の奥へ進んで、俺も後を追う。
 部屋の中心、開けた空間がある。そこの床に、魔法陣が描かれていた。
「転移魔法か」
 俺は思わず呟きながら、魔法陣を眺めた。
 それは戦場でも何度か目にしたことのある魔法陣だった。俺が見てきた戦場では、それを使って人間も悪魔も、ありとあらゆる場所に移動し、戦いを繰り広げ、去っていった。
「私の力じゃ、魔界への直接の転移は難しい。座標を教えてもらえれば、魔迷宮の中でもそこに近い地点に転移させられるけど、どうする?」
 俺は匠子に、座標を伝えた。
 通常なら、魔界の位置情報を人間界から探知することは極めて難しい。間に魔迷宮が挟まり、その魔迷宮が絶えず変化するため、座標が混乱し、安定しないからだ。
 だが、俺は先日、魔界の座標を探知できるようにしておいた。
 俺の言葉を聞いて、匠子はポケットから取り出したチョークで、魔法陣に文字を書き足した。
 俺は背中の処刑刀の位置を直し、ポケットに突っこんでいたのが、今はホルスターに入っている拳銃の位置を確認した。
 いつも通りだ。もう体に染みついて失われることのない、いつも通りの、戦装束。
「これで良い」
 匠子が立ち上がり、俺の方を見る。
「いつでもどうぞ」
 俺は「悪いな」と応じて、魔法陣の真ん中へ進む。
 故郷に帰るような、そんな気分だった。
 戦いのある場所が、俺の故郷だ。
 魔法陣の真ん中で、俺は匠子に向き直る。
「健闘を」
 匠子がそう言って、片膝を床について、魔法陣に触れた。光が、立ち上る。
「凪を、頼む」
 俺がそう言ったのに頷いた匠子の姿が、霞む。
 急に、凪の顔が見たくなった。続いて、心がざわつき、何かに掴まれたように、キュッとした。
 淋しい。切ない。そんなような言葉がふさわしいな、と俺の心のどこかが思ったが、しかし、そんな気持ちなんて、久しく感じたことが無かった。
だから、淋しいのか、切ないのか、そんな言葉が適切なのかも、はっきりしない。
ただ、この心の感じる、何が感じ取っているのか分からない感覚は、確かに、俺の胸の内にある。それは間違いない。
世界が、溶ける。
世界が、変質する。
俺だけが輪郭を残し、変わらず、世界が書き変えられる流れ、渦の中を、すり抜ける。
俺は変わらない心を保って、
戦場へと帰還する。

     ◆

 アオが帰って来なかった翌日、僕は学校へ行かず、朝から匠子の工房を訪ねた。
「学校には行った方が良い」
 僕を工房へ招き入れてから、匠子は応接間の椅子に座って、そう言った。僕は無視して、勝手に空いている椅子に腰を下ろした。
「匠子さん、アオが昨日、ここに来ませんでしたか?」
 匠子の口調から、僕は確信してそう口にした。
「その口ぶりは、決めてかかっている、という雰囲気だ」
「そうです。そうでしょ?」
「間違いではない」
 魔法使いのその返事に、僕の心が一瞬、沸騰した。
「どこへ行ったんです? アオは」
「魔迷宮」
 短い匠子の言葉に、一瞬、僕は理解が追いつかなかった。
 魔迷宮?
「どうして――」
「彼が望んだ」
 有無を言わせぬ口調だった。
「彼が望み、私が叶えた。そこに凪くん、あなたは存在しない」
「何を言っているんです?」
「あなたは、私とアオの間にはいないのよ。あなたは私の反対側で、アオと繋がっていて、私ともまた別に、繋がっている」
 謎の問答に、僕はどう答えればいいのか、分からなかった。
 こんな問答をしている場合じゃない。
 アオは魔迷宮に行ってしまった。ここにいても、僕には何もできない。
 でも、僕が魔迷宮に行っても、やはり何もできない。
 状況は、すでにアオを引き留めるという段階ではなく、その先に進んでいる。
 選択肢は、アオを待つか、アオを追うか、しかない。
「凪くん」
 匠子が穏やかな口調で言う。まるで幼子に言い聞かせるような、そんな調子さえする口調だった。
「アオはあなたのそばにいて、あなたを幾度となく守ったけれど、でも、彼は彼という個人で、あなたの剣や楯ではなく、ましてや手足でもない。それを、考えなさい」
「そんな、アオを武器や体の一部だなんて、思ったことは、ありません」
 匠子が煙草の箱を取り出し、そこから取り出した一本を、くわえた。
「人間は」
 煙草に火をつけ、匠子が言う。
「自分のことを、完璧には知覚できない。当り前だけど、例えば何かしらのハプニングなしで、寿命で死ぬとして、その死ぬ時期が分かる人間はいない。病気になっても、たとえのその人が医者でも、自分を完璧に診断できるわけがない」
「何を言いたいんですか?」
「あなたも、あなた自身を理解できていない」
 僕自身?
「僕が、なんだっていうんですか?」
「あなたは、『ホーム』なのよ」
 ホーム? 家?
 何を指しているのか、僕には理解できない単語だ。
 匠子が語り始める。
「ホームというのは、簡単に言えば、カリスマね。それも強烈な力がある、一目見たら目を離せないような、そんな類稀なカリスマ」
「僕がそれだ、と言うんですか?」
「力は弱いけれど」
 匠子がそう言って、煙を天井に向かって吐いた。
 僕にそんな力が?
「アオは」匠子が天井を見上げたまま言う。「あなたのホームとしての力に引き寄せられていた、かもしれない。なにぶん、凪くんのホームとしての力は弱いし、それに対してアオは極めて特殊で、強力な存在だから、はっきりとはしない」
 それはつまり、と僕は考えた。
 アオが自分の意志で、僕のそばにいたかもしれない、ということではないのか。
「でもね、凪くん。アオは、あなたを守るために、戦いを選んだ」
「僕の、ために」
「それは、あなたの中の無意識が、アオに影響を与え、彼に戦いを強要した、とも言えることは、分かる?」
 そんなバカな。僕の心の中にそのつぶやきが漏れ、何度も響いた。
「私もね」
 僕の心の動揺を余所に、匠子が告げる。
「私自身が、あなたの影響を全く受けていない、とは、言えない。私もまた、ホームであるあなたに引き寄せられたんじゃないか、と思う時がある」
「僕は……、何も、していませんよ」
「それは分かるけど、それとは別。あなたの意志や思考とは切り離された、存在そのものの、影響だから」
 もう僕は何も言えなかった。匠子の細い指が、煙草をそっと灰皿に置いた。
「アオからは、あなたのことを頼まれている」
 ぼんやりとしたまま、僕はこちらを見る匠子の言葉を聞いていた。
「私には、アオのような力はないけど、あなたをもっと安全で、安らげる場所へ、導ける。そうしたいと思う。たぶん、私の意志として。凪くん、この話、受ける?」
 真っ先に浮かんだのは、あの部屋を出て行ってしまったら、もし、アオが帰ってきても、二度と会えないのではないか、ということだった。
 脳裏でアオの顔が、チカチカと浮かんでは消え、浮かんでは消え、した。
「今すぐじゃなくてもいい」
 匠子のサングラスの奥の瞳は、うかがえない。
「考えておいて」
「……はい」
 輪郭のない、どこまでも曖昧な心のまま、僕は頷き、匠子も頷き返した。
 僕は椅子に座ったまま考え込み、匠子が嘆息し、
「学校、行った方が良いよ。二度目だけど」

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