僕の英雄の物語

和泉茉樹

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十三

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     十三

 魔迷宮に転移して、一日が過ぎた。
 転移してから、匠子はまともに口を開かなかった。
彼女は腰の左側に吊るした細剣の柄に左手をゆったりと乗せ、冷静沈着そのものの歩調で、魔迷宮を進んだ。僕は、転移が終わった直後に匠子が渡してくれた護符を左手で握りしめ、彼女の後に着き従った。
この一日、まったく危機が無かったわけじゃない。
魔人が頻繁に現れるのだ。
しかし、彼らは僕たちに危害を加えることはできなかった。
通路の奥や、交差点で、魔人が飛び出してくる。が、彼らはぴたりと動きを止め、それきり、まるで時間が停まったようにピクリともしなくなる。
そこに匠子が歩み寄り、細剣を一振りすれば、彼らの首は落ちる。
恐ろしいのは、その首が落ちても、魔人は全く反応せず、首を失った体は微動だにせず、立ちつくす。明らかにバランスが崩れていても、見えない糸に支えられているように、立ちつくしているのだ。首の切断面からは血の一滴もこぼれない。
その不可思議な死者を置き去りに少し先へ進むと、何かの合図があったかのように、背後で重いものが地面に落ちる音と、水音のようなものが聞こえる。
振り返ると、さっきまで立っていた魔人の首なし死体が倒れ、周囲に大量の血飛沫を撒き散らしている。
変わらぬ歩調で歩き続ける匠子の背中から、冷酷さが、滲む。
魔人より、魔人の死より、僕は匠子が怖かった。
これが魔法使い、それも一流の魔法使いの、本気。
本気の殺意と、その体現。
魔迷宮に突入して、四時間ほどの行軍の後、僕は匠子が周囲を警戒する中で、どうにか三時間ほどは眠ることが出来た。匠子は眠ることはなく、しかし僕と一緒に小さくても高カロリーの栄養食を口にした。
魔迷宮の中には明確な昼夜は存在しない。
魔人は一種類だけではなく、様々な姿形の魔人がいる。彼らには昼夜がある、と匠子が歩きながら教えてくれた。
彼らには昼夜の区別があるが、しかし全ての種族が一つの規則で動いているのではないという。ある魔人が昼だと感じている時、ある魔人は夜だと感じている。そして無数にいる魔人の種族がそれぞれの昼と夜を持つことで、魔迷宮には常にどれかしらの種族の魔人が徘徊している。
匠子は黙々と歩く。交差点に到達する度、左右を見て、三本の道のどれかを選んだ。
四時間を歩き続け、一時間の食事を兼ねた休憩、そしてまた四時間を歩いた。
魔迷宮に入ってから丸一日が瞬く間に過ぎた。
「匠子さん」
 匠子が持ってきた、信じられないほど薄いにも関わらず、抜群の保温性を備えた寝袋に入った状態で、僕は彼女の背中に声をかけた。
「何?」
 匠子はこちらを振り返らない。しかし、口調はいつも通りだ。
「僕たちは、今、どこにいるんですか? アオに会うまで、どれくらい、かかりそうですか?」
 質問への答えは、すぐには帰って来なかった。魔迷宮に満ちる静寂の中で、僕は自分の呼吸音を聞き、一回、二回、三回とそれを数えた。
 沈黙の中で、僕が八回呼吸した時、匠子がやっと答えた。
「分からない」
「転移に、失敗したんですか?」
「しなかったと思う」
 そう言って、匠子が息を吐いた。重い息、だった。
「魔迷宮は」匠子が言う。「人間世界と魔界の中間にあるけど、それは層のようになっていて、人間世界に近い場所と、魔界に近い場所がある。ここは魔界に近い場所で、そのせいか、私の魔法に若干の誤差が出ている。そのせいで、進路の選択に戸惑っている」
「迷っている、ってことですね?」
「遭難している、とも言える」
 冗談を言っている場合じゃないが、冗談でも言わないとやっていられない、のかもしれない。
 匠子のジョークにそう思いながら、僕は瞼を閉じた。
「迷惑をかけて、すみません」
「私のミスだ。凪くんが謝ることじゃない」
「そうだよ」
 そう言ったのは、僕じゃない。目を開いた僕は、匠子の背中を見て、その向こうに立っている女性を見た。
 中年女性の気配だが、しかし顔は若々しい。自然な化粧がうかがえた。
「……ササラさん?」
 身を起こした僕の声に、女性が笑みを浮かべる。控え目で、上品な笑みだ。
 その段になって、その女性の服装が魔迷宮には場違いなものだと気付く。真夏に避暑地を訪れた、上流階級の女性のような装いだ。頭に麦わら帽子があっても良さそうだけど、それはなかった。
 女性、いや、悪魔のササラが匠子に視線を向ける。
「人間の魔法使いのレベルも、落ちたわね」
「なにぶん」体に力を宿らせながら匠子が答えた。「人魔大戦で、悪魔に手ひどくやられて、衰退したから」
「あぁ、そうか」
 ササラが僕たちに近づいてくる。
「最初から、連中は低能だったね」
 匠子の気配に怒りが混じる。ササラは見る見る間合いを狭めてくる。
 ササラは、何をしに、ここに現れたのか。
 僕たちを――始末するため?
 しかし、理由がない。
 匠子の細剣の間合いからわずかに外で、ササラは足を止めた。
「ササラさん……」
 ササラが僕を見て、言う。
「私はあなたたちを――迎えに来たの」
「迎え……?」
「あなたたちを、アオの元へ連れて行くよ」
 匠子がちらっと肩越しにこちらを見た。油断するな、というような意味のようにも思えたけど、あるいは僕の考えを探ったのかもしれない。
 匠子が何も言わないので、僕がササラに確認する。
「ササラさんには、アオの居場所が分かるんですか?」
「もちろん。だって、あいつに力を与えたのは、私なんだよ? 探すのなんて、簡単も簡単、朝飯前よ。寝てる暇なんてないよ、行きましょうか」
 僕は黙りこくっている匠子の背中を確認して、とりあえず、寝袋から出た。
 匠子は動かない。が、僕が立ち上がると、その僕を守るような位置で、ササラとの間にすっと立った。
「何か」ササラが匠子に挑戦的な眼差しを向ける。「言いたげね、魔法使いちゃん?」
「……どうして」
 匠子の声には研ぎ澄まされた刃の、背筋の凍る極寒の殺意。
「そんなことをしようとする? お前に何の得がある? アオは死なないし、そもそも、すでにお前の手をほとんど離れている。助けに行かなくても死にはしないし、居場所が分かるなら、自分で自分の思った通りにコントロールすることも難しくはないはずだ。なぜ、そこに私と凪くんを挟もうとする?」
「そんなことも分からないの?」
 あっけらかんとしたササラに声に、匠子の気配が揺らぐ。
「それはね、単純なの――」
 悪魔の誘惑の声が、響く。
「――アオが、望んだの。凪くんが来ることを」
 アオが、僕が来ることを、望んでいる?
「どうやってそれを証明する?」
 すぐに答えられなかった僕より先に、匠子がササラに言葉を投げている。
「出向いてみたら罠だった、というのでは、笑い話にもならない」
「確かにね。でも、アオがここにいない以上、あなたたち、あるいはあなたは逃げかえっても、凪くんだけはアオの元に行かないと、答えは出ない。違う? あなたたちの目的が、この魔迷宮を無闇にさまようことなら、別に構わないのだけど、アオと会いたいのでしょ?」
 僕はササラの言葉を吟味した。
 一方、匠子はといえば、彼女はすっと横に移動し、僕を見ていた。ササラと僕の間には、もう、誰もいない。
 僕に向けられる、二人の視線。
 選択を求める、言葉ではない、言葉。
「お願いします」
 僕は、頭を下げた。
「ササラさん。アオの元へ、連れて行ってください」
 ふぅっと息を吐いたのは、果たして、ササラだったか、それとも匠子だったか。
「じゃ、行きますか」
 顔を上げた僕は、にっこりと笑うササラを見た。次に匠子を見ると、どこかムッとした表情でありながら、そこには安堵のようなものが浮かんでいて、僕は僕の中の緊張がかすかに和らぐのを感じた。
 僕たちは野営の支度を片付けると、歩きだした。
 ササラ、僕、匠子の順番で、魔迷宮を進んで行く。

     ◆

 どれくらいの時間が流れたのか。
 俺はその狭い部屋で鎖に吊るされ、身動きを取れずにいた。
 部屋の長椅子に、悪魔の姿はない。俺一人しかいない。
 自分の呼吸音が耳障りでしょうがない。鼓動のリズムも、血液が血管を流れる摩擦音も、感じたくなかった。
 自分を無にしたかった。
 考える心も、感じる肉体も、過ぎ去る時間も、回る世界も、全て、消滅して欲しかった。
 明日も明後日も来なくて良い。昨日も一昨日も消え去って良い。
 今さえも、いらない。
「七英雄が、聞いてあきれるね」
 俺は視線を足元に向ける。
 そこには黒猫がいる。
「その程度の拘束も破れないの?」
 猫がしゃべっている。
 猫じゃない。
「ササラか」
 いつぶりに発したか分からない俺の声は、酷く枯れていた。猫の耳が俺の声にぴくぴくと動き、そしてわずかな身じろぎの後、その口がかすかに開く。
「死なないから、どうにかなる、と思ってる? 私が言いたいのは、体のことじゃない。心のことよ」
「……そうか……」
「生物には、その程度に差こそあれ、心が全てを決める。心こそが重要なのであって、肉体はそれを育み、収め、守る器に過ぎないの。私たち悪魔は、人間に超常の力を与えるけれど、しかし、その心を高めることはできない」
 猫がゆっくりと歩きながら、そう口にする。俺はそれをぼんやりと眺める。
「あの地獄の戦争を生き抜いた七英雄の心は、もっと強いと思っていたわ」
「弱いもんだよ」俺は自嘲を多分に含んだ声で言う。「人間なんだから」
「人間ね」
 黒猫が首をし、前足で顔を拭う。
「悪魔には分からんさ。それも、白銀の位階の悪魔には」
「そうでもないな」
 俺の言葉に、黒猫が床に転がりながら、応じる。
「人間は弱い。いつだったか、どこかの人間が、人間は葦のようなものだ、と言ったと伝え聞いたけど、人間も短命で、種としては栄えても、個としては栄えることはほとんどない。人間の言う、孤独、と呼ばれる状態を、人間は好意的には使わないのが、良い例だね」
「なぁ、ササラ、何が言いたいんだ……?」
「あなたに、ここを抜けだす力を与えても良い、と言いたいのよ」
 その言葉は俺の頭の中でぼやけて、あっという間に雲散霧消する。
「その必要は、ないな……」
「凪くんの元に戻れなくても、良いの?」
「それは……」
 俺は、自ら望んで凪の元を離れた。
 それは自分では攻めのつもりだったけれど、こうなって見ては、それは失敗だったと言わざるを得ない。
 それでも、失敗だったとして、今から戻ったところで、どうなるだろう。
 虫が良過ぎる、自分勝手が過ぎる。
「どうしたい、アオ自身は?」
 悪魔のささやきに、俺は瞼を閉じた。
 考えることが億劫で、何も聞きたくなった。
 部屋に一つだけあるドア、その向こうから足音が聞こえてくる。静かだが、どこか傲慢さを感じさせる歩調。
 心が騒ぐ。つま先や指の先には、痺れたような感覚。
 死神の鎌が首にかかっているような、死の濃厚な気配が、やってくる。
 俺は瞼を開ける。
 目の前の床に、黒猫の姿はもうない。
 ドアが開き、口元に三日月を浮かべながら、悪魔が部屋に入ってくる。
「良い返事を期待して良いな? 七英雄」

     ◆

「用心した方が良い」
 僕の後ろを歩いている匠子が、そっと身を寄せて僕の耳元で囁いた。
「ササラさんに、ですか?」
「そう」
 囁き返した僕に、匠子が素早く答える。
「悪魔を信じていいわけがない」
 ササラは普通の悪魔とは違う、と億は思ったけれど、そうは口に出せなかった。
 ササラは紛れもなく悪魔だった。でも、反動の悪魔で、アオと契約した悪魔で、だから味方のはずだ。その点で、匠子の意見には反対できる。
 その一方で、ここは魔迷宮で、人間の支配圏ではなかった。魔界に限りなく近い。ここでササラが僕たちを始末しても、誰も僕たちの痕跡を発見できないだろうし、僕と匠子は行方不明のままになる。
 匠子の危惧もその辺りから来ているのは、簡単に予想できた。
「聞こえてるよ」
 ササラの背中がそう言ったので、僕は視線を彼女の背中に向けた。ササラは前を向いて歩き続けている。さっきの言葉は、幻聴だろうか。
 僕が自分を疑ったのもつかの間、ササラが言葉を続けた。
「そこの魔法使いの意見は正しい。しかしね、そこの魔法使いは分かってるんじゃないかな。悪魔である私も、魔法使いである自分と同じ状況にあるんじゃないか、ということを」
「同じ状況……?」
 僕が首を傾げる。
「そう。私も、凪のホームとしての力に、影響を受けているんじゃないか、とね。ただ自分がはっきりとそうだとは言えないし、そもそも凪の力にも確証はない。だから、善後策として、凪に警戒させようとしたってことかな」
「悪魔のあなたは」匠子が僕より先に告げる。「凪くんの力の程度を、理解できるのですか?」
「ま、それが人間の想像力の限界かな」
 ササラが歩き続けるので、僕と匠子はそれを追った。悪魔の言葉が滑らかに流れる。
「私の年齢、知りたい? いや、聞かれても教えないけどさぁ、そこの魔法使いよりは生きているわけだ。もちろん、それは個としての時間の流れじゃなくて、種族としての時間の流れも含めてね。つまり、魔法使いが二代や三代、代替わりして、知識や技術を継承しても、私一人の時間の積み重ねや、私たち悪魔の積み重ねには、及ばないってこと」
 この悪魔、意外に話し好きなのかな、と思いつつ、僕は「それで?」と先を促した。
「悪魔は、人間よりももっと長い時間を経て、情報を蓄積、伝承し、その中で無数のホームと出会っている、ってこと。人間の文明がまだヒヨコの時代から、少しはマシになった現在までに、何人のホームがいたか、想像できる?」
 十人や二十ではない、百人や二百人、でもないか。
 なら、何人だろう。
 想像が、出来ない。
「私もね」悪魔が気軽な調子で言う。「凪の影響を受けないわけじゃない。でも、ただ流されるだけでもない。そして、その秘密の防衛手段を使えば、凪の影響なんて易々と無力化出来る。それくらい、凪のホームとしての力は弱いの」
 その言葉に、僕は少しほっとした。
 僕の無意識は、他人に何かを強制するような、そんな傲慢なものでもないのかもしれない。
「もっと」ササラが言う。「もっと強力なホームは、本当にすごいよ。議論の余地なんて微塵もなく、絶対的な服従を、自分にも相手にも無自覚に強いたりするからね。でもね、凪」
 ササラが足を止めた。僕と匠子がその脇に並ぶ。
「ホームの力の強さなんて、結局、アオの強さと大差ない。アオが私と契約して力を得たようなもので、凪が私のポジションに入ることで、誰かに力を与えるの。私と違うのは代償が必要ないことと、力が上限なしな点かな」
「上限なし?」
「そう」
 ササラが頷いて、手を前に伸ばす。
 魔迷宮の、迷路の行き止まり。目の前には背の高いドアがあった。
 それを、悪魔が押し開く。
「ホームは、自分と相手を高めあうものなの」
 ドアが開いていく。
 光が隙間から細く漏れ、あっという間に膨れ上がった。
 視界が真っ白になり、それが一瞬で塗り変えられた。目眩の予感と、予感の否定、そして目の前の光景に僕は息を飲んだ。隣からは、匠子が短く体を強張らせたのが伝わってきた。
「到着したよ」
 ササラが近所を散歩するような様子で、歩きだす。
 それもそうか、ここは彼女の住む世界なのだから。
「ここが、九十九竜の砦、か」
 僕は眼前にそびえる、巨大な石造りの建物を見上げた。
 人間の建築とは根本的に思想が異なる、異質な建造物。どこかで聞いたこともない獣の鳴き声が響く。空気も今まで違う気がする。骨の芯から冷えるような、そんな空気を感じる。
「行こう」
 匠子が僕の前に進み出たので、慌てて、彼女について行く。
 ここに、アオがいる。
 少しずつ、気持ちが先走り、鼓動が早まった。

     ◆

「おや」
 ガガラがそう言って、部屋のドアの方を見た。俺はぼんやりとした視界でそれを確認し、そしてドアの方を虚ろに見た。
 長椅子に寝転がっていた悪魔が起き上がると、右手を振った。
 するとどうだろう、狭い部屋の壁は消え去り、今まで以上の広い空間が露わになった。壁紙や照明、調度品も古めかしい、趣のある部屋になった。
 長椅子は玉座のような荘厳な装飾のある椅子に変化していて、そこにガガラが乱暴に腰を降ろした。
「獲物が向こうからやってきたな」
 俺は悪魔の言葉を聞きながら、部屋の隅を見ていた。
 黒猫がいる。丸まっていて、動かない。その猫にガガラが気付かないのは、なぜなのか。
「モエギ、モエギはどこだ!」
 大声に黒猫がみくりと耳を動かし、起き上がった。しかし、やはりガガラが気付いたそぶりはない。
 猫が軽やかに歩き、走り出し、そしてちょうど開いたドアの隙間をすり抜けた。走り去った猫の影が消え、ドアからはモエギがゆっくりと入ってくる。
「モエギは、ここにいます」
「客だ。あの少年だけは、ここへ通せ」
「かしこまりました」
 一礼したモエギの姿に、俺は思った。
 俺たちは、誰かにかしずくために強くなったわけじゃない。
 そのはずなのに、どうしてお前はそんな態度を取れるのか。
 かしずくのでも、かしずかれるのでもなく、もっと違うものを求めたのではなかったか。
 極めて安定しない、しかし勝ちのある小さな一点に立つための、そのための力だったはずだ。
 モエギが部屋を出て行く。
 悪魔が退屈そうにあくびをして、唸った。

     ◆

 ササラは砦に侵入して早々に、「私のことは良いから先に行って!」と叫び、まだ魔人の一体にさえ遭遇していない段階で、どこかへ走り去ってしまった。
 彼女が消えた通路の奥の闇を思わず凝視したけれど、結局、彼女は帰って来なかった。
「悪魔なんて、こんなものだ」
 匠子がそう言って、腰の細剣を引き抜き、砦の奥へと進む。僕は護符を握りしめて歩く。
 砦の中には警備のための魔人がいたが、匠子がそれを漏らさず切り倒したので、僕は何もしないで済んだ。むしろ、匠子からすれば邪魔だったと思う。
 僕たちは階段を上がり、最上階の通路に出た。通路を進むと、向こうから何かが歩いてきた。
 それに対して、匠子は少しの迷いもなく駆けだすと、即座に肉薄する。
 細剣の刃は過たずにその人物、僕には見覚えのある女の首筋に落ちる。
 いや、落ちたと予想し、それは外れた。
 細剣を女の手が余裕を持って払い、匠子に一歩踏み出すと、その拳が匠子の胸に直撃していた。
 ズシンと音が響き、匠子が吹っ飛ぶ。
 その体が床に落ちる前に、女、モエギの足が、強く床を踏んだ。
 僕の靴底が一瞬、床から離れたと思ったのは勘違い、床が激しく断続的に揺れ、崩壊する。
「わわっ……!」
 匠子の無事を確認する間もなく、床の崩壊に巻き込まれ、僕は体が浮くのを感じた。
 次の瞬間、信じられないものを見た。
 モエギが床を蹴り、空中にある床だった瓦礫を蹴りつけ、こちらに迫ってくる。
 反射的に、瓦礫の間に匠子を探したけど、見つからなかった。
 誰も、助けてくれない。
 モエギがすぐそこに来て、僕は目をつむりたいのを必死にこらえた。
 僕にモエギが手を伸ばし、僕は必殺の一撃が繰り出されるのを待った。
 彼女の手が僕の腕を掴み、引き寄せる。
 そのまま僕の体を抱えると、瓦礫を蹴って、残っている元の通路に着地した。
 死んでいない。僕はどうして自分が殺されなかったのか、不思議だった。
 床だった構造物が下の階に落下し、下の階の一部を巻き込んで崩壊し、他に何も聞こえないほどの大騒音を響かせ、僕はモエギに抱えられたまま、身をすくませる。
 音が消えてから、モエギが言う。
「主が」
モエギの声には、抑揚が無い。
「お待ちです」
「あ、主?」
 僕の言葉を無視して、モエギが振り返る。
 目の前には数メートルに渡り、床が崩落し、まだ煙となった埃が残っている。
 モエギがわずかに膝を曲げたのが分かり、悲鳴が喉を衝き、しかし声になる前に僕の喉が声を押し込めた。
「――――ッ!」
 ふわりと浮いたモエギの体が、不自然なほど長い滞空時間の後、対岸の床に着地する。
 僕をそっと床に卸し、僕の膝には力が入らず、腰が床に落ちた。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫……」
 恐る恐る、背後を顧みる。
 さっきよりも良く見えた瓦礫の中には、匠子は発見できないままだ。無事だとは思うけど。僕には何もできない。
 ここで立ち止まっていては、何もかもが無駄になる。
「連れて行ってください」
 そう言って、僕は通路の先を見据えた。
 モエギが微かに頷き、早くも遅くもない歩調で先導する。
 通路の奥、大きな扉をモエギが押し開き、入っていく。
 続いて部屋に入った僕を向けたのは、ガガラだった。
「さて」
 悪魔が言う。
「暇をつぶしてもらおうか、人間」
 その言葉は、僕の耳に届いても、形になる前にどこかへ消えた。
 僕の視線は、部屋の奥に向けられている。
「アオ……」
 アオが、鎖に吊るされて、そこにいた。

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