融けないΩに触れたくて

Moma

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朝、研究室の扉が開くと、まず最初に聞こえてきたのはカズキのいつも通りの大きな声だった。

「うおっっっしゃぁあ!帰ってきたぜ俺たちの砦! 昨夜はマジで泣きそうだったからな! 消えたデータ見て本気で土下座しようかと思った!」

「だったら今ここでしてくれたら許してあげるよ。床のツヤがちょっと足りないし」

皮肉交じりに笑うリナが、背後から軽やかに入室する。
その足取りは疲れているはずなのに、いつもよりどこかしっかりしていた。
続いて、何も言わず淡々とシンヤが入室。
手には整理されたバックアップディスクと、昨夜作り直した補助コードの束。

「お疲れさま。こっちは再学習と前処理を一応終えてある。再チェックだけお願い」

「うぉ!…それって俺ら、もうほぼ何もしなくていいってこと……?」

「むしろ、することを残しておくのが大変だった」

「あ~~! その言い方がもう~~! 天才のそれ~~! キッッラッッッッ!!」

カズキはデータブースの床に転がりながら感嘆の声をあげた。
そのままの姿勢で、腕を広げてシンヤを仰ぎ見る。

「もはやお前が神。光属性の天才」

「うるさい」

リナが無言で靴のつま先でカズキの肩を押し退けると、カズキは「あっ痛いって!マジのやつやめて!」と情けない声をあげた。

「じゃ、いつものメニュー戻すね。検証コード、バージョン1.12のままで合ってる?」

「うん、変更はなし。あと、前回の重みは保存してるから引き継げるよ」

端的に会話を交わす柊とリナ。
まるで、何もなかったかのように自然なやり取りだった。

だが、柊の声には、ほんの少しだけ掠れが残っていた。
それを、誰もが“寝不足のせい”だと思った。

柊は手元の端末に視線を落としながら、意識の一部を後方へ向けていた。
すぐ背後の席。そこに、楓がいる。

彼は缶コーヒーを指先でくるくると回しながら、モニターを睨んでいる。
その姿もまた、いつもの楓だった。

会話はない。
だが、空気が張り詰めているわけでもない。
疲労が残っている空気に、少しだけ微かな温度差が混じっている。

「柊と楓って、どのくらいまで作業してたの?」

ふいにリナが声をかけてきて、柊は少しだけ肩をすくめた。

「…たぶん五時過ぎまで。少し仮眠とったけど、あまり眠れなかった」

「じゃあ今日は早めに切り上げなよ。人間、睡眠が一番大事なんだから」

「ありがと。でも、もう少しやるよ。リズム、崩したくないし」

会話は自然に流れ、空気もゆるやかに動いていく。

「シンヤー。新しい評価関数、昨日の途中で止まってるやつ渡してー」

「リモートにあげてる」

「シンヤ神~~~!! もうそのうち俺、祭壇作るわ」

「やめろ」

カズキの軽口に、シンヤがぶっきらぼうに返す。
そのやり取りに、柊の口元がかすかに緩んだ。

そんなささやかな日常が、少しずつ戻ってきていた。

柊は小さく息を吐き、ディスプレイに視線を戻す。
端末の光が、少しずつ視界に馴染んでくる。

(…いつも通り、だ)

そう思おうとしても、昨日の記憶はすぐには拭えない。
胸の奥にひっかかる何かが、思考の端を揺らしている。

そのとき――

「楓、モデルの再学習、終わったら知らせて」

「了解」

短く返されたその声も、確かにいつもと変わらない。
でも、その一瞬、視線が交差する。

ほんの一瞬。
ただそれだけ。

けれど、交わったその視線の奥には、
互いの知らない感情の波が、確かにさざめいていた。

何も言わない。
けれど、心の奥では、確かに何かが始まっていた。

それを、誰も知らない。

それで、いい。
今はまだ、それで――いい。

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