堕に落つ蝶

はたのれもん。

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 翌日、宏は登校してすぐに進路指導室に足をのばした。昨日、オープンキャンパスはどうするのだと言われたからだ。進路室には進路関係の書籍や情報誌が陳列されていて、分野別に本棚に収まっている。初めてここに来た宏は、それを見てもどれを手に取っていいのか迷うだけだった。進路担当の教諭も不在なようだし、あてもなく探すより諦めたほうがいいと思って引き返そうとしたとき、教室のドアが開く。
「おはよう」
 まろやかな低い声で、零士だと判断した。
「おはようございます」
 まさか会えるとは思っていなかった。手先が痺れそうなほど、心臓が脈動している。どうして自分がここに来たのかも忘れ、零士が次に発する言葉に耳を傾けようと集中した。
「山路さんだっけ?」
「はい」
 まだ気の置けない仲にまで至っていないから、名前では呼んでもらえない。妄想ではたくさん名前で呼んでもらっているせいで、名字呼びされると現実に返る。
「もしかして、進路のこと?」
「はい。夏になるとオープンキャンパスが始まるのでその情報が欲しくて」
「そっか。じゃあ、ちょっと待ってて」
 部屋の中央に設置されている長テーブルに荷物を置いて、零士は窓側に置いてある透明の引き出しを、開けたり閉めたりしながら宏の求めているものを探し始めた。
「これくらいでいいかな?全部、最近届いたものだから最新版だよ」
 零士は、4枚のパンフレットをテーブルに広げる。どれも見知った大学で、東も行きたいと言っていた大学もあった。宏は、両親が勧めてきた学校のパンフレットもリクエストした。
「山路さん、そこに行きたいんだ」
 パンフレットを探しながら感心する。
「僕が行きたいって言ったんじゃなくて、両親が・・・」
「あぁ、そっち系か~。僕がもってるクラスにも、そういう子いるからその気持ちよく分かるよ」
 共感してくれた。嬉しくなりすぎて体がふわふわする。
「はい、これかな?」
「これです、ありがとうございます」
「この学校を受けるとしたら?AO?」
「親は、なんか、特別推薦枠があるからそれで受けろって」
 何も情報を得ていないせいで、どのような方法で受験するのかうまく答えられない。
「あぁ、そんなのがあるのか。僕も調べておくよ。なんか分かったら教える」
 進路担当としての言葉だろうが、零士に特別な感情を抱いているおかげで、じわっと興奮する。
「僕も手が空いてるときって少ないから、進路関係で用があったら職員室に来てくれる?」
「はい」
 今にも「お利口さん」と言ってきそうな目つきをされて、体中に幸せな気持ちが満ちる。

 宏は渡されたパンフレットを持って、教室に戻った。自分の席の周りで、東とその友人たちが談笑を交わしている。東はクラスメイトだから気兼ねなく話しかけられるが、連れている友人らには抵抗感があって近づけない。
 そこへ行けばどいてくれるだろうと思って、彼らの存在を眼中に入れないよう意識して席に向かう。
「おっ、やまじぃ~」
 まずは、東がいつもの調子でくる。
「おはよう」
 東と目を合わせると、自然に周囲にいる東の友人とも目が合うため、目線は下のまま。
「え、お前、大学行くの」
 机の上に置いたパンフレットを見て、東が驚きの声を発する。
「うん、どうして?」
「お前、就職すんのかと思ってた。だってさ、大学で勉強してるとこイメージできないんだよね~、山路って」
 東から見ても自分はそんな立場なのかと思って、心に寒い風が吹き抜ける。
「慎也、トイレ行かね?」
 友人のうちのひとりが、東を見て尋ねる。
「あぁ、いいよ」
 「お前らは?」とほかの3人にも確認して、全員がトイレのために去っていった。
 ほっとした宏は、席についてパンフレットの表紙を眺める。ここへ行けば、明るい未来が待っていると言っているような表紙たち。こういった、明るくて希望に満ちたものを目にすると宏はとてもうんざりする。自分が、影の薄い人で物事に対して中途半端なのに、反対側に位置している場所に飛び込んでいいのか疑問になってしまうのだ。
 しばらく、表紙を見つめたまま固まっていると、零士の協力的な発言を思い出した。同時に、声色も思い出す。頼りがいのありそうな声色で言われたら、ふしぎと自信が満ちあふれてきそうだった。
 一番上のパンフレットを手にして、一ページ目を開く。学校紹介に始まり、四年間の履修プラン、ゼミの紹介、そしてサークルの簡単な紹介。先輩たちのメッセージを載せたページは飛ばした。
 ひと通り読んで、次のパンフレットに手をつける。両親が進学させたがっている学校だ。最初に読んだ学校より履修プランが詰まっていて、必修の専門科目が多い。最終的に修得する単位も大きい。こんなに勉強して、自分はパンクしないだろうか。受験するとも決まっていないのに不安になった。
 履修プランのページだけで気落ちしてしまい、読むのをやめた。
 両親の勧めた学校以外のパンフレットを全て読んでも、宏の気持ちは複雑だった。就職したい希望は親に伝えていないし、零士には協力すると言われてしまったし。始めから、自分の気持ちを伝えていればよかった。後悔と不安がパンフレットから立ち上ってきているようで、ファイルの中に収めた。
 東たちが戻ってきて、教室がうるさくなる。今度は、東の席に集まって騒ぎだす。列の最後尾から、その様子を乾燥した目で見る。
「山路!」
 すっかりスマホに夢中だった宏は、いきなり大声で呼ばれて驚愕の目を東に向ける。
 東はアゴをしゃくって、前方のドアを見るよう促す。見れば、零士がいる。きっと、進路関係で知らせることがあるのだろう。
 宏は、零士の立っている場所まで向かう。
「この時間、来れる?昼休みなんだけど」
 差し出された切り取ったメモ帳には、時間と場所、「AOと推薦についての説明会」と箇条書きされている。
「今日は僕が担当だから、あんまりうまく説明できないかもしれないけど。山路さん、AOか推薦か迷ってるならぜひ」
「はい、分かりました」
 受け取ると、零士は柔らかい見守る目をした。体の底が、温かさで熱せられる。
「今、名前呼んでも気づいてもらえなくて心配になった」
 こんなに零士の声が好きなのに気がつかなかったなんて、申し訳なさが心を占める。
「あ、申し訳ないです。ぼーっとしてて」
「いいんだよ、気にしなくて。でも、山路さん暑くないの?長袖着て」
 長袖のシャツを着ているから、頭もぼんやりするのではないかと零士は言いたいらしい。
「あんまし、半袖持ってなくて」
 恐縮した面持ちで説明する。
「責めてるわけじゃなくて、熱中症で倒れた生徒がいたから気をつけてほしくて。じゃっ、その時間にね」
「はい」
 零士の声を聞いていると、本当に頭がぼんやりする。コンセントを抜かれた電気機器のように、物事が何も入ってこない。それほど、自分は零士の放つ低く魅惑的な声に惚れこんでいる。自覚すればするほど、恥ずかしい性癖だと思ってしまった。

 朝に約束した通り、昼食を終えると進路指導室に顔を出した。ほかにも生徒がいるつもりで行ったのに、零士だけがいて黙々と作業をしていた。
「来てたんだ、こんにちは」
 宏の視線を感じて、顔を上げる。いつ見ても、端正な顔つきだ。
「こんにちは」
 何も指示されなかったので、零士の向かいに落ち着く。
「さてと。あ、ご飯食べてきた?なんか、昼休みに呼び出すとお弁当食べないで来る人いるから確認しちゃうんだけど」
「食べてきました」
「よかった。えっと、あ、あれがなきゃだめなのか・・・」
 手元の資料を確認して足りないものがあったのか、立ち上がって本棚に探しに行く。その間に、宏はスマホに入れている録音アプリを起動させる。こんな近くで、録音できる機会なんてないからだ。自分たちのほかに人もいないし、雑音も入らない。快適な収集場所だ。
「よし、ひと通り揃ったから始めようか」
  零士が戻ってくると、スマホをスラックスのポケットにそっと忍ばせる。
「まずは・・・山路ってこの字で正しい?」
 専用の用紙に記入された、自分の名字を確認する。
「あってます」
 答えると、零士は記入作業に戻る。
「クラスは、2年2組だっけ?」
 そこには、首肯で返す。
「うん、よし。まぁ、AOと推薦の説明って言ったけど、山路さんしかいないから、雑談から始めよっか」
「僕のほかに来ないんですか?」
「4人招待したんだけど、全員すっぽかしたみたいだね」
 全く怒りを見せない零士。心持ちつり上がった冷めた目は、落ち着き払っていた。
「雑談って言ったけど、僕とあんまり話したことないよね?」
 授業であてられたときに話すくらいで、それ以外での会話はなかった。だから、今の発言にはうなずける。
「あぁ、はい、そうですね・・・」
「そうだよねぇ。化学基礎、難しい?」
「それなりに楽しいです。めちゃくちゃ簡単というわけではないですが」
 零士は、生真面目に答えた宏を見て破顔一笑した。あまりに真面目で、思わず笑ってしまったのだ。
「難しくないならよかった。僕が授業すると、すぐにみんな寝ちゃうから心配で。いち生徒に聞けてよかった」
 今度は、安心したような微笑みをつくる。一度にこんなにたくさんの零士のいろいろな表情を見られて、宏は悦に浸る。
「山路さん、小テスト満点多いよね。やっぱり、勉強とか好きなほう?」
「テスト勉強やらないと、変な感じになるからやってる感じです」
「ふぅん。本は読む?」
「本、ですか・・・」
 思い返してみるが、自室にいるときはベッドの上でスマホを離さない。読むといえば、漫画くらいだ。
「そうですね・・・好きな漫画くらいしか」
「あぁ。みんな、携帯で読書とか済ませちゃうからねぇ。山路さんもそんな感じ?」
「アプリは入れているので、たまに」
「あ、なんで今、読書してるのかって訊いたのかっていうと、AOで受けるか推薦で受けるか迷ってる学校を、もし   AOで受けるとしたら、提示された3冊の本から一冊選んで、それを読んだ内容を、設けられた字数内にまとめるっていう課題をやらなきゃいけなくて、それで訊いたんだけど。山路さん、あんまり読書に関して苦じゃない印象を受けたんだけど、山路さん自身はどう?」
「苦じゃないです」
 迷わず答えた宏に、零士は「よかった」と何とも言えない優しい、いい顔を返した。
 今回はAOや推薦の詳しい話題は話さず、名字とクラスの確認と読書をするかだけを話した。短い時間ではあったが、宏にしてみれば充実した時間だった。
 進路室を出て零士に別れを告げたあと、録音アプリを止めた。もうすぐスマホのストレージの限界がきそうだから、今日のうちに、撮りためた声を編集しなければ。宏は、帰宅してからの楽しみに心を躍らせた。
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