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しおりを挟む「先生っ」
僕は今日も、見慣れた花に包まれた小綺麗な一軒家に入ります。
「おや、おはよう」
先生がいつも通り、椅子に座って本を読んでいました。マグカップに注がれたブラックコーヒーから口を離して、僕の方を見て笑います。
「今日も相談があるんですけど、いいですか!」
「また何かあったのかい?ほら座って。教えてごらん」
僕は向かいの椅子に座ります。先生は大人の余裕を持った紳士的な人でした。歳は30半ばくらいでしょうか。聞くのは失礼な気がして未だに分かりません。しかし少なくとも、20歳の僕より遥かに人生経験がある佇まいをしています。
「新しい仕事を始めて5ヶ月目なのですが、やっぱり辛くて辞めたいです……」
僕はこのように毎回先生に悩み相談をしていました。そして先生のアドバイス通りにしてここ数年を生きてきました。
「あの福祉の仕事かい?……まぁあれは中々普通の精神じゃやっていけないよねぇ」
「そうです。あの仕事を始めたきっかけは自分も持っている精神病、発達障害等の理解を深めたい好奇心からでしたが、もうそれも充分満たせた気がして……」
「アハハ、相変わらず動機が変だよね、君」
「そ、そうですかね」
先生はずっと涼し気な表情をしています。夏の今ですらも。白い長袖のシャツを着ていて傍から見たら暑苦しく感じるはずなのに、先生だけは何故か適した服装をしているかのように見えるのです。思えば先生が半袖を着ている所を見たことがない気がします。肌を露出したくないのでしょうか?
「うーん……今すぐ辞めてもいいんじゃないかな」
先生はあっさりと仰りました。
「えっ、でも……今辞めてしまったら次の仕事を探してすらいないから……」
「君、実家暮らしでお母さんが居るじゃないか。お母さんは看護師だし、お金に酷く困っている訳では無いだろう?少しの期間頼っててもいいんじゃないかな」
「母親にはもう迷惑はかけたくありません」
僕は珍しく先生に反論しました。先生はそう返されるのが分かっていたかのように優しく笑い、数秒間黙った後に仰ります。
「その心がけは素晴らしい。けれどね、君がそうやって我慢し続けて壊れてしまったら、君のお母さんは1番悲しむと思うんだ。昔から君は『迷惑をかけたくない』という強すぎる想い故に、逆に迷惑をかける事態になってしまった経験があるだろう?」
「う……」
これには何も言い返せませんでした。僕は痩せ我慢して裏で自分を傷つけ、いつか耐えきれなくなって破綻してしまう経験が何度かありました。
「まぁ……君の人生なのだから、結論はどうするかは君が決めなさい。私がするのは所詮アドバイスだよ」
先生は読書に戻ります。これは『私から言うことはもう無いよ』という合図であり、僕はこのタイミングが来たらいつも帰ります。
「……分かりました。ありがとうございました」
今回は腑に落ちないままな感触が残りました。立ち上がって先生の家を後にしようとした時、先生が思い出したかのように僕に残します。
「頑張りすぎちゃいけないよ、自分を大切にね。人生で1番大切なのは自分、だよ。それを忘れないで」
「……はい」
先生はどこまでも優しいお方でした。僕はこれまで先生に何度も助けられました。
先生との出会いは僕が高校生の頃途方に暮れて宛もなく散歩をしていた時、気づいたら森の中にあるこの家を見つけ、先生が読書しているのを窓越しに見た事が始まりです。
「誰かに似てる……」
ぼーっと涼し気な先生の顔を見つめていたら先生が僕に気付き、家から出て声を掛けました。そうして家に入り、お話をした時から僕は定期的にこの場所へ来て人生相談をする様になりました。"先生"という呼び名も知識が豊富で僕の事を深く理解していて、まるで先生みたいだったから僕がいつからかそう呼んでいました。
僕はその後、出勤した際に辞めたいことを管理人に伝えました。しかし、雇用の関係で後2ヶ月は続けなければならないことを伝えられ、僕はそれを了承するしかありませんでした。
「あと2ヶ月の我慢だ」
そう言い聞かせ、1ヶ月程ひたすら我慢して働きました。
僕はキャパオーバーになってやっと自分がストレスの限界値に達した事に気づく性格?でした。その為2回、自殺未遂を気づいたらしてしまっていた経験がありました。だからそこには特に気をつけて働いていたつもりでしたが、それは"つもり"でした。「2度ある事は3度ある」という言葉を思い出しました。
「ハハハ」
僕は気づいたら家で精神安定剤を過剰摂取して過呼吸になっていました。市販の別の作用の薬も過剰摂取していて、心臓がちぎれんばかりに飛び跳ねる感覚に苦しみもがき、ただただ朝が来て楽になるのを待っていました。
「死ぬ……」
本当に苦しくて苦しくて、何故か夜が、1人が、怖くて仕方なくなってしまい、僕は母親を深夜に起こしてしまいました。その後母親に救急車を呼ぶか聞かれ、首を横に振って母親の隣に倒れて「やってしまった」と僕は絶望しました。
先生があれだけ言ってくれたのにどうして?こうなる事は予期しようと思えば出来たのにどうして?どれだけ人に迷惑をかける?どれだけ人を裏切る?僕は何がしたいんだ?
夜が明けるまでずーーっとぐるぐると思考した末、僕は朝方になってやっと眠れ、夜に起きました。その日は仕事だったので急いで休みの連絡を入れ、サプリや栄養ドリンクで無理矢理必要成分を摂取して心配する母親に「大丈夫」と言って自分の部屋に戻りました。僕はその時にやっと自分が壊れてしまった事に気が付きました。
「味がしない」「頭がぼーっとして現実感がない」「最近の記憶がまるで無い」「自分ってなんだっけ」
微妙な違和感が重なり、重なり、僕は自分を忘れてしまいました。何がしたかったんだっけ?どういう未来が見たいんだっけ?何を目指していたんだっけ?僕って何者なんだろう?
「先……生」
ぼやけた頭から出てきたのは先生でした。僕は寝間着のまま先生の元へ向かいます。そこには何の意思もなく、ただ指定された場所に動く機械の様でした。
「先生……」
雑に森の中の家のドアを開けて僕は言いました。
「やあ、調子は……」
先生は僕の顔を見るなり固まりました。やがて表情は青ざめて、きっと今まで見た事ないような顔をしていました。
「君ーー」
「先生……僕は僕が分からなくなってしまいました」
「あれだけ言っただろうッ!君は君だよ!思い出せ!」
先生が僕の体を揺さぶります。……先生?
「僕にとって先生とはなんでしょう?」
僕は感情を失った瞳で先生を見ます。先生は何かを悟った様に、僕に触れる力が弱くなっていきます。
「君だよ……私は君だよ!」
……?先生は僕?僕は先生?アハハ、何を言ってるんだろう。
「こんな時に混乱すること言わないでくださいよ、先生」
首をゆっっくり傾げて先生の顔を見ます。……アレ?
「今付けてるメガネ、君のと一緒だろう!?何故君を君より理解出来ていたか、それは私が別の時空の君だからだよ!」
「……そうですか。生憎僕はもう僕が分からないので、どう受け取ったらいいか困ります」
へにゃりと笑って見せると、先生はわなわなと震えて涙を流し始めます。
「助けてあげられなくてごめんね。1番君の事を助けられる立場のはずなのに、私は……」
なんでこの人はこんなに泣いているんだろう?僕にとってこの人が大切なのはなんとなく分かるけど、実感は持てなくて気持ちが悪いです。
「で、僕はどうしたらいいんですか、先生」
呆れ笑いと共に尋ねます。
「君はもう私じゃない、心を忘れた"何か"だ。だからアドバイスが出来ない。私にはもうどうしようも無い」
はぁ、困ったな。この人は1番肝心な時に役に立たない。
「そーですか。んじゃ、僕はこの自分が分からない中で生まれる意思に従います」
先生(笑)に背を向けて去る。
「ちょ、何をするつもりだ……?」
「さぁ?僕にも分かりかねますね」
どうしたものか。僕は帰り道にぼーっとする頭で何か案は無いかと考えながら、持ってきたヘッドフォンを付けて適当に音楽を流した。
「何にも満たされないなら 行こう、僕らで全部奪うのさ」
「ハッ……」
これはヨルシカの『強盗と花束』……そうか、そうか。
「何も無いなら、何かがある者から盗んでしまえばいい……!」
塵みたいな理性なんか飛んだ今、僕にはそれしかない。家に帰って包丁を持った。そして何が欲しいかしばし考える。
「うーん……とりあえず、と、り、あ、え、ず……花が欲しい。カトレアだ。赤いカトレア」
200メートルほど先に小さな花屋がある。僕は包丁を裸のまま持って信号を待った。すれ違う何人かが一瞬僕を見て驚いていた。どうでもいい。
「すみません、赤いカトレアはありますか」
包丁の先を店主に向けて言った。
「は……えっ……あ、ありますけど」
「じゃあそれタダでください。お金が無いんです」
店主の手は震えていた。
「わ、分かりました」
おぼつかない手つきで店主はカトレアの花束を僕にゆっくりと近づけた。
「ありがとうございます」
笑顔で感謝を告げる。綺麗な物を盗むしかないんだ。これでカトレアは僕の物。なんでも盗んで自分の物にして、僕を彩れ!そうでもしないと僕は自分にすら忘れ去られる死者同然だ!自分を失った僕の最後の足掻きなんだ!これは!
「すみません、そのティーカップ、タダでください」
「すみません、その食べ物、タダでください」
「すみません、その本、タダでください」
盗め!盗め!盗め!僕を満たせ!全部僕の物だ!盗んだ物が、盗むという行為が僕を形作る!
「どうしてだッ!!!」
しかし僕は幾ら盗んでも心が満たされない。当たり前だ。乾ききった心を満たすにはそれを潤す心が必要だ。どんな強盗も人の心だけは盗めない。
「アンタ何してんの!」
追いかけてきていたのか、母親が血相を変えてこちらに走って向かってくる。
「もう、全部無いんだ」
「は!?」
「自分が何だか完全に忘れてしまった。だから人から盗んで自分を作ろうとした」
「なにバカなこと言ってーー」
「でも分かったよ。簡単に盗めるような物に大きな価値は無い。どれだけ金を払おうが、盗もうとしようが不可能である"心"こそ僕が欲しい物だったんだ」
「……自白しましょ!まだ大丈夫だから!」
「フッ」
やっぱり母親は僕のこの一生の苦痛を何一つ理解していない。それもそうか。正しくまともな人間には分かるわけが無いよな。だって僕も貴方みたいな人間の気持ちなんて全く分からないもの。
「終わった方が未だ増し」
持っていた包丁を自分の首に向けてーー突き刺す。耐え難い息苦しさと破裂するような痛みが血と共に溢れる。
「神様、本当にこの世の全部が人に優しいんだったら、少しくらいは僕にくれたっていいじゃないですか」
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