壮途

至北 巧

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第九話 自覚

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 深夜の大病院は、がらんとして生暖かった。異様な静けさに、急に頭が冷静になる。

 自分がここに来てどうなるというのだろう。
 痛みを引き受けることなどできず、心を支える自信もない。

 何の心構えもないまま、聞いていた部屋を訪れる。
 テーブルやソファが備えられたやや広い個室、父親と母親は神妙な表情で付き添っていた。兄は、眠っている。

 兄は手を負傷しながらも加害者からすぐに凶器を奪った。しかしその後、先の尖った靴で蹴られた際に肋骨が折れ、肺を損傷したという。
 それでも兄は加害者を逃さなかった。人通りが多い場所なのに、負傷者は兄だけだった。
 厚手のコートを着ていたことと、加害者が刺すのではなく切りつけたことが幸いだったそうだ。

 水色の病衣が兄を弱々しく見せる。その袖、右手から腕にかけて包帯が巻かれている。見たこともない医療器具がいくつか身体に繋がっているのが痛々しい。
 顔色は悪くはなく、穏やかに規則正しい呼吸をしているのを見たが、安心することができなかった。

 泊まることはできないため、両親は一旦家に戻るという。匠も来るように言われたが、まだ親には抵抗があったので断った。
 兄が匠に、精神科に一人で忘れず行くように言っていたことを聞き、いつもの兄だと少しだけ安堵する。
 救急外来のガラスで隔離された待合室に吸い殻入れを見つけて、立ち寄る。
 長椅子に掛けて煙草に火をつけ、不安を少し、煙と共に吐き出した。



 結局帰る気になれず、朝まで待合室に居座った。
 いつの間にか夜がだいぶ明けている。
 病院内に響く足音が増える。

 面会時間は何時からなのだろう、家族なら今日も時間外でも構わないだろうか。
 また一本煙草を吸い始める。残り少ない、売店はいつ開くのだろうか。病院に煙草などは売っていないだろうか。
「おまえいいトコに来た! 煙草よこせよ」
 突然聞こえるはずのない声がして、匠は心底驚いて顔を上げた。
 野木崎だった。兄と同じ病衣を着て、手のひらを合わせて喜色を見せている。匠は戸惑いながら、長椅子に置いた煙草とライターを渡す。野木崎は上機嫌でそれに火をつけた。
「アイコスだから部屋で吸ってもいいかなーと思ったんだけどさー、何回か看護師に見つかって、昨日取り上げられたんだよね」
 煙草を吸っている人間がいたらわけてもらおうとここに来たらしい。喫煙を止められたわけではなく、場所が悪かったのだろうか。判断できない。それよりも。
「何で、ここにいるの?」
 何がどういうわけでここにいるのか、寝ていないこともあって可能性が一つも思い浮かばない。野木崎は煙を吐き出して、言った。
「去年も今年も健康診断引っかかってたんだけどさ、面倒で行かなかったら急に腹痛くなって。紹介状書かれてソッコー入院させられた」
 自分と会う暇があったら病院に行けば良かったのにと、匠はあきれる。一昨日連絡が来なかった理由、それ以前に睡眠障害を訴えたり、夜遊びが激しそうでいて控えめだったのは、本当に体調がすぐれなかったからではないだろうか。
「匠のほうがこんな朝っぱらからココにいるとか、おかしいだろ」
 問いに、匠は煙草を水の入った吸い殻入れに落として、答えた。
「兄貴が昨日、通り魔事件に巻き込まれて、ここに入院してるんだよ」
 野木崎は驚きもあわれみもしなかった。
「その通り魔、勇者だな。俺だったらあんなデカいヤツ襲わねーよ」
 こちらは兄の加減が気になって身動きが取れないというのに、非常に調子が狂う。でも、それなら。
「兄貴が落ち着いたら、部屋に行ってやってよ。あんたが行ったら、いい気分転換になりそう」
 きっと野木崎なら、変に相手に同情せずに、悲惨な出来事を忘れさせてくれるのではないか。
「匠が気分転換させてやれよ」
「俺は、何もできない」
 ずっと、そうだった。兄の望むことなど今までにできたためしがない。兄は大勢の人間を守ったのに、自分はこんな時なのに兄一人を支える力すら持ち合わせていない。
 野木崎は煙草を捨てて、不機嫌そうな表情をした。
「あぁ? 俺が知る限り、匠が熱くなって何かしてんの、基のことだけだぞ」
「何もしてない」
「俺とつるんでることバレねーようにしたり、こうやって朝まで近くにいたり、全部基のためじゃねーか」
「こんなの、兄貴には何の得にもなってない。兄貴のためになるようなことしないと、意味ない」
 匠のために自身を消耗する両親に、兄に、藤花に、匠は自身を消耗し返すことができない。
 人を愛することができないから、愛を返すことができない。愛する力が不足した自分が、情けなくて、恨めしい。
 どこにいても、誰といても、常にジレンマのようなものがつきまとう。
 だから、この世界は生きづらい。
「なんだおまえ、基がありがたがるようなコトしてやんないと気ぃ済まねーの? 恩着せがましいな」
 野木崎の言葉が痛い。
 兄に感謝されたい、でも違う。
「恩に着せたいんじゃない。俺は恩知らずなことをしてるけど、でも兄貴のこと、ちゃんと好きなんだって、恩を返して、わかってもらいたいだけなんだ」
 野木崎の言葉を否定したくて、思ったままに、その言葉が口を突いた。

 兄の望みを何も叶えられないけれど、自分に寄り添ってくれていることに感謝しているということ。
 それを理解して欲しかった。
 少しでも行動で示して、わかっているよと、言って欲しかった。

「は? 基、愛されすぎてて腹立つんだケド」
 突き放すような野木崎の物言いで、匠は不意に、我に返る。
 自分は、兄を愛せているのだろうか。
 愛しているなら自発的に、積極的に、相手の喜ぶ行いをするものなのだと思っていた。
 それができなくても、愛していると言えるのだろうか。
「これもらってくぞ。向かいにコンビニあるから、新しいの買ってこいよ」
 二、三本しか残っていない煙草とライターを手に、野木崎はその場を離れていく。
 匠はその姿を見送ることは、しなかった。




 言われた通りにコンビニへ行き、煙草とライター、コーヒーを買って、待合室に戻る。
 一服してから、兄の病室に向かった。
 左手首のデジタル時計は七時を少し回っていた。

 横開きの扉を引く。兄は起きていた。
 包帯を巻いた右手を使って、朝食をとっていた。
 匠を見て、いつものように包容力のある笑みを見せる。
「おはよう。びっくりしただろ、ごめんな」
 酷い怪我をして、苦痛に耐えているのだろうと思っていた。不幸なことに巻き込まれて、憔悴してはいないかと心配していた。
 そんな姿に微塵も見えなかったことに、心の底から安堵した。
「俺は、兄貴が元気なのがいい。兄貴がいてくれれば、それでいい」
 本当にそれだけだ。兄を失う恐怖が消えて、兄が普通に存在していることが嬉しい。感情が込み上げた。言葉と共に、涙があふれた。
 兄は箸を置いて、匠を見据みすえる。
「それ、ずっと俺が匠に思ってたことだぞ」
「そうか、今までわからなくて、ごめん」
 涙は、止まらなかった。
「俺も匠に一つ、謝ろうと思ったことあるよ」
 兄は、視線を自らの右手に移す。
「身体は動くと痛いけど、手の怪我は、血は出たけど全然痛くないんだよ。匠のこと、ちょっと心配しすぎたなって、思った」
「そうか。言っただろ、大丈夫だって」
「そうだな、ごめん」
 匠は腕時計を外して、傷を見る。
「これやった時、兄貴、今の俺と同じ二十歳はたちだったよな。俺だったら絶対あそこまで、できない」
 入り口に立ち尽くす匠に、兄がタオルを差し出す。近づいて受け取り、涙をぬぐう。 
「あの時は、ありがとう」
 兄は怪我をしていない方の手で、子供の頃にしたように、匠の髪を撫でつけた。
「どういたしまして」

 死ぬまでけないだろうとあきらめていた呪いが、幸運にも解けていた。
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