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#67、 娘を思う
しおりを挟むシュトラスとの再会を経て、グランディア王国への道が少し開けてきたような気がする。
セレンディアスに呪いの仲間の間で使っている秘密の亜空間や、隠語などを教えてもらい、奈々江のスモークグラムも使いながらシュトラスとはできるだけ頻繁に情報のやり取りを続けている。
直接顔を合わせたのはあれきりだが、奈々江の中ではすっかりシュトラスの風貌は新しいあの姿に書き変わっている。
午前のお茶の時間、いつもの四人で打合せをする。
「トラバットから返事が来たわ。今夜旧イェクレール聖堂に行きましょう。セレンディアスは、いつもどおりお母様が寝静まったころに離宮に来てね」
「承知しました。しかし……」
セレンディアスがむうっと眉根を寄せた。
「本当に、トラバットのためにあの花嫁衣装を着るつもりですか?」
「そうですよ、ナナエ姫様。盗賊ごときとの約束なんて律儀に守ってやる必要なんてございませんよ」
「セレンディアスもメローナもそういうけれど、その盗賊に頼らなければグレナンデス殿下の居場所がわからないのよ」
「力及ばず、申し訳ありません……」
「それはそうですが……」
セレンディアスが下を向き、メローナが口をすぼめるそばで、ラリッサが手を頬に添えて斜め上を見た。
「ですが、わたくしもその結婚衣装というものをこの目で見てみたいですわ。
メローナの話では、上等な絹に、豪奢な金糸、デザインも大変奇抜だとか。
異国では花嫁がどのような素晴らしいドレスを着るのかと考えると、それだけで胸が躍りますわ」
「ドレスそのものがいかに素晴らしかろうと、文明国で女性があんなに肌を露出するなんて、ありえませんわ!」
「でも、異国の女性の正装なんでしょう?」
「盗賊のいう事なんて信用置けません」
侍女同士のやりとりに、奈々江も少し気がめいる。
「そうなのよね……。勢いで着るといってしまったけれど、正直あのデザインを着るのはそうとう勇気がいるのよね……」
画面越しの主人公に自分を投影するだけの乙女ゲームなら許せることも、夢の中とはいえ実際に自分が着てみるとなると話は違う。
今着ている西洋風のドレスでさえ自分に似合っているとは到底思えないのに、アラビア風の踊り子のようなドレスが絶対似合うわけがない。
しかも、オーガンジーに包まれるとはいえ下着と変わらないくらい肌を露出しシェイプを見せなければならないのだ。
学生時代友人たちと海水浴場に行ったときでさえ、パーカーとハーフパンツでやり過ごした奈々江には、正直ハードルが高すぎる。
(はあ~……、水着を着て人前に出たのなんていつの記憶だろう。
スタイルがいいわけでもないし、自信があるわけでもないし、正直素肌を見られること自体に抵抗が……。恋愛経験知ゼロのわたしには試練すぎる……。
あっ、そうだ、ムダ毛処理しとかなきゃ)
思わず袖をめくって腕を見た。
(あれっ、そういえばムダ毛がない)
どうやら、乙女ゲームの夢の中ではムダ毛は生えないらしい。
そこは脳内処理のディティール情報統合というのか、ご都合主義というのか、綺麗めにバイアスがかかってくれるようだ。
それならそうと、ここはもはやご都合主義バイアスに乗っかって、思いきって割り切るしかない。
ラリッサとメローナがなにを着ても素晴らしいと称賛してくれるように、トラバットの用意した衣装もそうなるものと信じよう。
「わたし、もう覚悟を決めたわ。
ちゃちゃっと着て、ぱぱっと見せて、それで終わりにする!
目的のために、ここは割り切るところよ」
「う~ん……。ナナエ姫様がそこまでおっしゃるのなら、そうですね!
ささっと済ませて、本題の情報を聞き出しましょう!」
「ええ! やりきってしまえば、きっとどうということはないはずよ。
セレンディアスとメローナもいてくれるし、間違いが起こるようなこともないわ」
次の瞬間、セレンディアスが大きく体を揺らして声を上げた。
「えっ……!?」
セレンディアスの反応に、奈々江とふたりの侍女が逆に驚く。
「え?」
「なに?」
「なんですの?」
顔を赤く染めたセレンディアスが慌てて左右に首を振った。
「ぼっ、僕は遠慮しますっ!
あの衣裳をナナエ様がお召しになっている間は、僕は席を外させていただきます……!」
メローナ曰く破廉恥なドレスにそでを通した奈々江を目に入れてしまうのがはばかれるのだろう。
セレンディアスは忠犬な上に紳士なのだ。
だが、今回はそれでは困る。
「そんなの困るわ、セレンディアス。
万が一、トラバットがおかしな気を起こしでもしたらどうすればいいの?
あなたはわたしのそばにいてくれなきゃ」
「そっ、そ、そんなこと、僕にはできません!」
「そうですよ、セレンディアス様!
いざというとき、わたしの水魔法だけではナナエ姫様をお守りできないかもしれません。
そうでなくても、トラバットは一筋縄ではいかない相手なんですよ!」
「そ、それは……! し、しかし、女性の肌は目に毒といいます! それも、婚前の、ナナエ様の肌など、もってのほかです!」
「でも、あなたはナナエ姫様の従者でしょう?」
「だとしても、無理なものは無理です!
ラリッサが代わりに行ってくれ!」
「そんなの無理に決まってますわ。
そもそも、城抜けはあなたの魔法がなければできないじゃありませんか……」
困ったことになった。
セレンディアスの紳士精神をあなどっていた。
奈々江とラリッサ、メローナは、口々に言葉を変え、なだめながらなんとか説得を続けた。
「じゃあ、目を閉じていてもいいから、そばにいて?
少し離れていてもいいから。
それでも無理なら、声が聞こえるくらいの場所にいてくれればいいの。それならどう?」
「そ……それなら……、わかりました」
なんとか承諾させたところで、部屋にノックの音が響いた。
クレアが直々にダンスの練習に呼びに来ていた。
「あら、お取込み中だったかしら?」
「お母様、今話が済んだところですわ。一緒にお茶をいかがです?」
「いえ、結構よ。それよりも、セレンディアスがいることだし、あなたの今日のダンスの練習はセレンディアスに相手をしてもらったらいいと思って」
次の瞬間、セレンディアスが再び大きく体を揺らして声を上げた。
「えっ……!?」
顔を赤く染めたセレンディアスが慌てて左右に首と両の手を振った。
「ぼっ、僕には無理です!」
「無理って、あなたナナエの従者でしょう? それくらいのことができなくては」
「ナナエ様のお手やお体に触れて一緒に踊るなんて、僕には無理なんですっ!
しっ、失礼しますっ!」
脱兎のごとくセレンディアスが部屋を出ていった。
ぽかんとしたままクレアが奈々江を見た。
「どうしたというの、セレンディアスは……」
「ちょっと、神経過敏になっているだけですわ……」
奈々江はふうとため息をついた。
それを見て、クレアがラリッサに指示をする。
「それじゃあ、まあ、しかたないわね。ラリッサあなたが男性役をやってちょうだい」
場所を移して、ダンスの練習がはじまった。
ワルツに続いて今はスローフォックストロットを学んでいる。
四分の四拍子またはニ分のニ拍子の音楽に合わせたゆったりとしたダンスステップだ。
「クウィックウィッスロー、クウィックウィッスロー」
初めてこのステップを踏んだ時はいささか混乱してしまった奈々江だが、ラリッサの教え方がうまいお陰で、今は難なく踊れるようになっている。
「いいわ、ナナエ。あなたは思ったより筋がいいのね」
「ラリッサがうまく誘導してくれるからですわ」
「これなら、今度の社交界ではダンスをお引き受けできそうね」
「そ……、そうですね……」
体を動かすことが楽しくて失念していたが、そもそもダンスの練習は婚約者候補を見定める目的のためのものだ。
クレアは母親として娘のために一生懸命なのだろう。
奈々江にもその気持ちがわかるから、無下にはできない。
「そうだわ、ナナエ。
先日ブランシュさんから届けてもらった婚約者候補のみなさんからの贈り物を整理していたら、すてきなものがあったのよ。一緒に見てみない?」
「そ、そうですね……。でも、午後はツイファー教授に見て頂く予定がありますし……」
「それは三時からでしょう? 贈り物を見るくらい大した時間はかからなくてよ」
「は、はい……」
ブランシュが危険物がないか検査してくれた贈り物は、先日ブランシュが直々に景朴の離宮に運んでくれたが、奈々江は顔を見せもしなかった。
贈り物はクレアに管理を任せたきり、開けてみようともしない奈々江にクレアは再三同じ誘いをかけてきていた。
忙しさを理由に誘いを断り続けるも無理がある。
食事を済ませた後、奈々江はクレアの部屋を訪ねた。
「来たわね、ナナエ」
クレアの部屋にあるテーブルというテーブル、すなわち平面的な板を持つ家具の上にはあらゆる箱や手紙の束が置かれていた。
いつもお茶を飲むテーブルの上には、いくつかの宝石や陶器や金属でできた可愛らしい置物。
クレアはさっそくとばかりに手近にあった二十五センチ程の円形の額を手にとって、ナナエのそばにやってきた。
「ご覧なさいな、先日お会いしたザウワー家のパステスさんが肖像画を送っていらしたのよ。
他の肖像画と比べ物にならないくらい精巧に描かれているわ」
見ると、祝賀会の時顔を真っ青にして逃げ出していった青年が、きりっとした顔つきで湖畔を背に立っていた。
確かに本人そっくりだったが、驚くのはその油絵の細かさだ。
人物のみならず、その衣裳や髪の毛一本まで、細密に描かれている。
後ろの風景を覗けば、手前の草木や一緒に描かれている白い馬とその馬具なども、少し立体的に絵の具が盛り上げてあり、金銀の絵の具はきらきらと輝いている。
額縁は純金でできているわ、とクレアがつけ足した。
持ってみたら、ずしりと重く、純金というのは本当だと思われた。
「その他にも、宝石や、チョコレート、花束に、お手紙。
パステスさんはとても熱心に送ってくださっているのよ」
「は、はあ……」
「あなたはどう思って? もちろん、他にも素敵な方はたくさんいるわよ」
クレアのいち押し、パステスさん。
奈々江はもう一度肖像画を見つめた。
このままの流れでいったら、きっとクレアはパステスで押し通していくに違いない。
パステスには恨みどころか、なんの感情もないが、奈々江は首をかしげて見せた。
「なんだか、あまり頼りにならなそうですわ……。
それに、下がり眉なのが男性にしてはちょっと覇気がないというか……」
「あら、そう……? じゃあ、こちらの方はどうかしら?
バルグヴォーグ家のヤヌスさんよ。とても狩りが得意なんですって」
「うーん……、この方は口元がなんだか傲慢そうですわ。
それに、狩りなんてわたし興味がありませんし……」
「そう……。じゃあ、こちらは?」
クレアの進めてくる肖像画に漏れなくケチをつける。
いい加減悪口のネタも尽きてきたころ、ラリッサが気を利かせてくれた。
「あまりまだよく知らない方たちばかりですし、もうすこし様子を見られてはいかがですか?」
「それもそうね、ナナエ。少し休憩しましょうか」
「はい、お母様」
そうはいったものの、クレアは次の肖像画をすでにその手に準備していた。
今度はそれにきづいたメローナが口を開く。
「少し空気を入れ替えましょうか。
それとも、わたくしがなにかピアノでも弾きましょうか」
(あ、そういえば)
奈々江ははっとして、クレアを見た。
(クレアにまだ朧月夜を贈っていなかったわ。現実に戻ったらお母さんと一緒に歌うことのほうに気持ちがいっていて、忘れてた……。というか、隙あらば婚約者候補の話を薦めたがるから、クレアに曲のことを話す余地がなかったのよね)
奈々江は立ち上がって、クレアの部屋にあるアップライトピアノの前に座った。
「お母様に送る曲を作りましたの」
「え……?」
「タイトルは、朧月夜ですわ」
驚いた様子のクレアの顔をひとめ確かめて、奈々江は伴奏を始めた。
「 ♪ 菜の花畠に…… 」
フェリペの書いてくれた伴奏をすっかり覚えた奈々江はすでに楽譜を見なくても演奏ができる。
もともとそれほど難しい曲ではないので、歌いながらでも手は疎かにならなかった。
いつもの練習通りにピアノが弾けた。
曲が終わったので、鍵盤からクレアに視線を移すと、驚いた。
クレアが肩を揺らして泣いていたのだ。
「お、お母様……」
「はあ……、ああ……」
「あ、あの、お母様……」
クレアの侍女が慌ててクレアの手にハンカチを握らせた。
そのハンカチを握りしめ、クレアは涙を拭こうともしないで泣き続けている。
「あなたは……、覚えていたのね……。
ワーグナー家の別荘のあの景色、いつか見たあの日の朧月を……」
「え……」
クレアが突然語り出した。
「幼いあなたと共に暮らしたあの別荘で、私は幸せだった……。
あなたの笑顔とスルタンの思い出、それさえあれば、私はなにもいらなかった……」
「お母様……」
「あなたのためを思って、第三王妃の話を受けたけれど、それは間違いだったのかもしれないわね。
いくら政権や覇権を阻んだところで、ここは宮廷の中。
あちこちに目を配って、目立たぬように気を巡らせて、息の詰まるような日陰暮らし。
私が財産を持たないと決めたせいで、娘の才能の芽だって摘みかけたわ。
あのままワーグナー家にいたら、魔法教育だって音楽教育だって、幼いころに気がついて、充分に受けさせることができたはずなのに。
おまけに、しがらみばかりの婚約者候補たち。
奈々江の魔力が特殊だったことは予想しなかったけれど、そうでなければあなたにはあなたの思う人と自由に結ばれる可能性だってあったかもしれないのに……。
私、間違ってしまったの? スルタン……」
唐突な昔語りに驚いてしまったが、どうやらこういうことらしい。
スルタンをなくして王宮を去ったのち、生家のワーグナー家で暮らした昔を思い出したようだ。
そのときの風景が奈々江が歌った朧月夜によってクレアの中に呼び起されたのだ。
一旦は王族としての生き方から離れることになったが、ワーグナー家での暮らしはクレアにとって幸せなものだったらしい。
その後、ファスタンとマイラの意向もあってスルタンの忘れ形見である奈々江のために王宮へ戻ったが、その実王宮内での暮らしは心休まるものではなかったのだろう。
王家の血を引く奈々江のその権利を守るためにと下した決断だったのに、それが今になって正しかったのかどうか、クレアにはわからなくなっているようだ。
(そもそも"恋プレ"には主人公の生まれについての設定はほとんどない。
だから、クレアがこんなふうに自分を責めてしまうのも、元をたどればわたしがストーリーに逆行してエレンデュラ王国に帰ってきてしまったからなのよね。
魔力のことだって音楽のことだって、本来の"恋プレ"には関わりがないことなのに。
わたしの記憶や願望が空白だらけだったエレンデュラ王国の設定に入り込んで、クレアを悩ませている。
ひょっとするとこれは、ライスのBL展開と同じパターンね。
わたしがこの世界に持ち込んだなにかが、顕在化しかけているんだわ……)
母のそばへ向かうと、そっとその場にしゃがんで手を取った。
「お母様、泣かないでください。
お母様は、わたしのためにいろいろと考えてきてくださったのでしょ?
それはわかっているつもりです。
わたしの言葉が足りなくて、ときにお母様を失望させてしまってごめんなさい」
「あなたに失望なんてしたことは一度だってないわ。わたしは自分に失望しただけよ。
わたしはもっとあなたに時間をかけるべきだった。
ここへ来る前はそうしていたはずなのに、景朴の離宮にきてからはいつの間にかそれができなくなっていたのね。
大勢の貴族たちや使用人たちを前に、王家の一員として建前を取り繕い、ユーディリア様の敵対心に耐え、マイラからは姉妹として精神的な支えを求められ、本当の意味であなたと過ごす時間が奪われてしまったのだわ。
せめてスルタンがいてくれたら……。
わたしの心を支えてくれるあの人がそばにいてくれたら、少しは違ったのだろうと思うけれど……」
ハンカチでようやく涙をふくクレアに、奈々江はまるで在りし日の母を見ている思いがした。
(これって……。和左くんと右今くんが来てからのお母さんの状況と同じ……?)
いつだったか、奈々江は母に同じようなことをいわれた覚えがある。
あれは、自分で生理用品をコンビニで買っていたことを伝えたとき。
あるいは、高校の進路相談に母と担任教師とで三者面談をしたとき。
「わたしがふがいないせいで、あなたはなんでも自分ひとりで決めてしまう……。
わたしはいつもあとから知らされて驚いてばかりよ。
一緒に暮らし、ずっとそばにいながら、わたしはあなたの魔力のことも、音楽の才能のことも、気づきもせずに見逃してしまったわ……。
一人娘の大切な成長や決断の時に、わたしはなんの力にもなれなかった。
わたしはあなたの母親なのに……」
奈々江にもようやくわかった。
(クレアは、お母さんなんだ……)
とたんに、胸がきゅっとなる。
子どものころ、ふたりの従兄弟たちに悩まされ、相談したいときに夫はそばにおらず、夜中ひとりひっそりと泣いていた母の背中。
おもわず、奈々江はクレアを抱きしめていた。
あのときは自分も幼くて、嘆き悲しむ母をどう慰めればいいのかわからなかった。
母が泣くのが辛くて、見ていると心が辛すぎて、見ないように瞳を閉ざした。
母に頼らず、自分のことは自分ですることでしか、母の負担を減らせない。
そう思い、自立することで母から離れた。
だけど、今は違う。
大人になった奈々江の両手は、目の前にいるひとりの人間を包むことができる。
ゲームの設定上、奈々江の体は十六歳の少女だが、現実の自分はもう立派に母と同じ体格や力を供えている。
今にも家庭が壊れてしまうのではと怯えていた気持ちは、成長と共に精神力に変わっていった。
いつか誰もが気づくように、大人だからといってなんでもできるスーパーマンにもスーパーウーマンにはなれないということは、大人になる過程で奈々江も気がついた。
できることなら日夏だってクレアだって理想とする母親像があって、きっとよい母親になりたかったに違いない。
子どもだった時には、どこか大人や親に対して絶対視をいだいてしまう。
でも、大人であっても親であっても、なんでもかんでも思い描いた理想や想定していた未来通りにはなれないのだ。
当時には寄り添えなかった母の想いに、今なら寄り添える。
「お母様、でしたら一緒に歌ってください。
これからのお母様の時間を、わたしにかけてください」
「ナナエ……」
「さ、ピアノの前へ。わたしが伴奏しますわ」
ピアノの伴奏に合わせて、母と娘の声が重なる。
「 ♪ 菜の花畠に 入り日薄れ…… 」
歌ってみて、奈々江にははっきりと分かった。
(きっとお母さんもクレアと同じ気持ちなんだわ。
わたしはお母さんの気持ちに薄々気がついていたけど、改まってそれを言葉にはしてこなかった。
どこか、わたし自身の気持ちが片付いていなかったのかもしれない。
お母さんにもっとわたしを見てほしい、一緒にいてほしい、話を聞いてほしい、一緒に笑ってほしい。
本当はわたし、お母さんにずっとそういいたかったんだわ……)
子どもの頃、おもちゃのピアノの鍵盤を叩きながら歌った日のことが胸に甦る。
クレアを見ると、あのときの母そっくりの若々しい笑顔があった。
曲が終わっても、奈々江はクレアを離す気にならなかった。
「お母様、もう一回歌いましょう」
「だったら伴奏はわたしが弾くわ」
「え?」
「あなたの伴奏ったら、ちょっと酷いわよ。ちょっと楽譜を持っていらっしゃいな」
「えっ、そうですか?」
(あれえ、暗譜は全部できているはずなんだけど)
メイドが楽譜をとりに行ってくれた。
楽譜を一瞥したクレアが鍵盤に手をやる。
すると、奈々江よりもくっきりとした音色が空間に響いた。
「伴奏だからっておざなりはだめよ。一音一音とそのあいだに情感を描くのよ」
「は、はい……」
さすがは貴族の嗜み。
現実の母はおもちゃのピアノを弾くのがせいぜいだったが、この世界の母はしっかりとした音楽的素養に裏打ちされていた。
「お母様、お上手ですわ……」
「あたりまえでしょう。わたしは王妃なのよ」
「ですよね……」
「さあ、ナナエ。もう一度歌ってみましょう。今度は二部合唱よ」
「えっ、二部?」
「あなたが主旋律、わたしは下を歌うわ。この程度の楽曲なら楽譜を見なくてもコーラスできるわ。それからあなたの発声なっていないわよ」
「え……」
「もっと背筋を伸ばして。口は縦に大きく開けて。お腹から響かせて」
いきなり始まった指導に戸惑う奈々江だったが、クレアは嬉々としていた。
「まったくもう、あなたに音楽の才能があると知っていたら、私だって初めから立派な教師をつけさせていたわ。
でも、わたしもスルタンも音楽については人並みだったら、トンビが鷹を生むなんて想像すらしていなかったのよ」
「でも、お母様はピアノも歌もお上手ですわ」
「これは訓練のたまものよ。あなただって練習すればこのくらいできるようになるわ、さあ」
唐突にクレアの声楽レッスンが始まってしまった。
凡才を決め込んでいる奈々江にとって、この期に及んでレッスンなど必要なかったが、これがクレアなりの娘との時間の過ごし方なのだと思えば、付き合うのも悪くない。
「お母様、わたしに音楽教師はいりませんわ」
「今からだって遅くないのよ」
「だって、お母様いるじゃありませんか」
クレアが嬉しそうにほほ笑むのを、奈々江も嬉しく思った。
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