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再婚編
26
「怪我は……していないか」
「すみません……大切にしていたのに……」
小さく答えると、ヴィクトル様はそっとその手を両手で包み込んだ。まるで、壊れたブローチよりも、傷ついた指先よりも、私の気持ちそのものを抱き寄せるように。
「こんなものなら、新しく買ってやる」
「ち、違います! こんなもの……じゃないんです……ヴィクトル様にあの時……その……頂いたから……」
青い薔薇のブローチだから、じゃなくて、あの時に貰ったものだから。本当はそう言いたいのに上手く言えなかった。
ヴィクトル様は私が言葉の続きに詰まったのを見て、呆れたのか、そっと視線を落とした。
「……悪かった。そのブローチ」
言いかけて、彼は一度だけ息を整えるように目を閉じた。
「再会した時、お前がつけていてくれたのを見て……俺は本当に嬉しかった」
思いがけない言葉だった。そんなことを言われたら……
「……っ、ヴィクトル様……う……っ」
堪えようと思った涙は頬に流れ落ちた。自分でも止められなかった。
「…………」
「す、すみません……違うんです……悲しいわけじゃなくて……」
声が震えて、上手く言葉にならない。それでも、胸の奥に溢れた感情は確かで。
「……そんなふうに……思って、いたなんて……」
涙の粒が夜気に冷やされながら、次から次へと零れた。
ヴィクトル様はゆっくりと手を伸ばし、まるで壊れ物に触れるみたいに指先で私の頬の涙を拭った。
ヴィクトル様の腕が、ためらいがちにけれど確かな力で私の肩へ回され、私は抗うこともせず、そっとその胸へ体を預けた。
硬さと温かさの混ざる抱擁。胸元に額を寄せると、衣服越しにどく、どく、と規則正しい鼓動が伝わってくる。
大きな、深い音。耳の奥に響いて、私の乱れた心を静かに撫でていくようだった。
◆
ヴィクトル様の胸に身を寄せて、どれほどそうしていただろう。涙はようやく落ち着いたけど、心臓の鼓動だけはまだ落ち着かないままだ。
「そろそろ休んだほうがいい」
「あ……はい……」
肩に置かれていた腕がゆっくりと私を離す。名残惜しさを抱えながら、私はヴィクトル様と並んでバルコニーを後にした。
部屋へ戻ると、淡い灯りが静かに揺れ、さっきまでの冷たい夜気が幻のように思える。
「もう遅い。今日は休め。俺も、戻る」
そう言って、ヴィクトル様が扉のほうへ視線を向ける。
「あの……っ、ヴィクトル様!」
彼が動きを止め、静かにこちらを振り返る。
言葉にするのが恥ずかしくて、でも、言わなければ絶対に後悔すると思った。
「その……今夜は……」
「……今夜は?」
「い、一緒に……眠って、いただけません、か」
言ってしまった途端、顔が熱くなる。
本当は怖い、不安もある。でもそれ以上に離れたくなかった。でも、ヴィクトル様には迷惑だったのかもしれない。
「……わかった」
◆
私はベッドの端に腰掛け、そのすぐ隣にヴィクトル様も座っていた。ほんの手を伸ばせば触れてしまいそうな距離。
恐怖ではなく……それ以上に妙な熱が私を支配していた。
「……無理はするな」
「無理なんかじゃありません。むしろ……早く慣れたいんです」
この人の温もりに触れ、共に眠ることで、私は恐怖から解き放たれたい。
ヴィクトル様の隣で眠れたら、きっと、私はもう大丈夫になる。
「触ってもいいですか?」
自分の口から出た言葉に私自身が驚いてしまった。
いつもはヴィクトル様の方から手を伸ばされて、私は受け入れるだけ。
でも、今夜だけは違う。どうしても、自分から確かめたかった。
返事はなかった。ただ、彼が黙って頷くのを感じたから、そっと、指先を伸ばした。
ごつごつした、硬い掌に触れる。さっきまで外にいたから冷たいはずなのに私には熱を持った鉄のように思えた。
ヴィクトル様は何も言わない。ただじっと、私の手が彼に重なるのを許している。
「……本当に触れていいんですね」
囁くように言って、指を彼の手から腕へと滑らせる。
硬い筋肉と、鋼のような力強さ。でも、それが今は不思議と怖くない。
私は……ちゃんと、自分からヴィクトル様に近づけている。こんなこと、初めて。
胸の奥で鼓動が暴れているのが自分でもわかる。
でも、それ以上にどうしても、確かめたかった。
私はただ受け入れるだけの人形じゃなく、ちゃんと自分の意思でヴィクトル様を知りたかったのだ。
手を伸ばし、彼の顔に触れる。頬は……硬い。
まるで目で見るだけでは足りなくて、肌に焼きつけようとするみたいに。
「……こうして触れるのは変でしょうか」
「…………」
ヴィクトル様は答えず、ただ黙って受け止めてくれるが、沈黙に耐え切れず、私は首筋から肩へ、胸板へと触れていく。
厚い筋肉に触れるたびに怖さと安心が混ざり合う。
無防備のように見えるけど、きっと違う。
もし私が間違いを犯せば、この腕は一瞬で私を捕らえるだろう。
赤い髪……綺麗だな。部屋のランプの明かりに淡く照らされて、長く、しなやかで、まるで炎の糸のように揺れる。
触れてみたい。でも、髪は……止めておこう。ヴィクトル様の象徴だと思うし、聖域のような気がして……
「……好きなだけ触れろ。俺は抗わない」
「あ、ありがとう……ございます……」
私はヴィクトル様に感謝をしながら、そっと指を伸ばした。
流れるように広がる赤い髪、その一房を軽く掴む。
すごく綺麗な髪。次の世代に受け継がせたい。
私はその髪から手を離し、代わりに頬を胸に寄せた。
厚い筋肉の奥にある、確かな鼓動。ドクン、ドクンって音が耳に響いてくる。
不思議。恐ろしい人だと思っていたのにこうして心臓の音を聞いていると、とても人間らしくて。
ああ、この人も生きているのだと、実感できる。
「お前の為に動いている心臓だ。だから、よく聞いて覚えておけ」
「……はい」
耳を押し当てたまま、私は小さく瞬きをした。ヴィクトル様の心臓の音が少し速くなっている。規則正しいはずの鼓動がどこか乱れているように思えた。
「……早い……」
冷静で、いつも他人を圧するような威圧感を纏っているヴィクトル様。
その胸の奥で、こんな風に心臓が急かされるみたいに打っているなんて。
「ヴィクトル様でも……こんなふうになることが、あるんですね」
私が小さく呟くと、ヴィクトル様の肩が僅かに揺れた。
返事はなかった。でも、彼の大きな手が私の背を優しく撫でていく。まるで照れ隠しのように。
人間らしい一面に触れてしまったから。恐ろしくて、どこか遠い存在だと思っていたのに実際には私と同じように鼓動が速まることがある。なんだか、安心した。
心臓の音が確かにここにあって、それを聞ける距離に自分がいることに。
「すみません……大切にしていたのに……」
小さく答えると、ヴィクトル様はそっとその手を両手で包み込んだ。まるで、壊れたブローチよりも、傷ついた指先よりも、私の気持ちそのものを抱き寄せるように。
「こんなものなら、新しく買ってやる」
「ち、違います! こんなもの……じゃないんです……ヴィクトル様にあの時……その……頂いたから……」
青い薔薇のブローチだから、じゃなくて、あの時に貰ったものだから。本当はそう言いたいのに上手く言えなかった。
ヴィクトル様は私が言葉の続きに詰まったのを見て、呆れたのか、そっと視線を落とした。
「……悪かった。そのブローチ」
言いかけて、彼は一度だけ息を整えるように目を閉じた。
「再会した時、お前がつけていてくれたのを見て……俺は本当に嬉しかった」
思いがけない言葉だった。そんなことを言われたら……
「……っ、ヴィクトル様……う……っ」
堪えようと思った涙は頬に流れ落ちた。自分でも止められなかった。
「…………」
「す、すみません……違うんです……悲しいわけじゃなくて……」
声が震えて、上手く言葉にならない。それでも、胸の奥に溢れた感情は確かで。
「……そんなふうに……思って、いたなんて……」
涙の粒が夜気に冷やされながら、次から次へと零れた。
ヴィクトル様はゆっくりと手を伸ばし、まるで壊れ物に触れるみたいに指先で私の頬の涙を拭った。
ヴィクトル様の腕が、ためらいがちにけれど確かな力で私の肩へ回され、私は抗うこともせず、そっとその胸へ体を預けた。
硬さと温かさの混ざる抱擁。胸元に額を寄せると、衣服越しにどく、どく、と規則正しい鼓動が伝わってくる。
大きな、深い音。耳の奥に響いて、私の乱れた心を静かに撫でていくようだった。
◆
ヴィクトル様の胸に身を寄せて、どれほどそうしていただろう。涙はようやく落ち着いたけど、心臓の鼓動だけはまだ落ち着かないままだ。
「そろそろ休んだほうがいい」
「あ……はい……」
肩に置かれていた腕がゆっくりと私を離す。名残惜しさを抱えながら、私はヴィクトル様と並んでバルコニーを後にした。
部屋へ戻ると、淡い灯りが静かに揺れ、さっきまでの冷たい夜気が幻のように思える。
「もう遅い。今日は休め。俺も、戻る」
そう言って、ヴィクトル様が扉のほうへ視線を向ける。
「あの……っ、ヴィクトル様!」
彼が動きを止め、静かにこちらを振り返る。
言葉にするのが恥ずかしくて、でも、言わなければ絶対に後悔すると思った。
「その……今夜は……」
「……今夜は?」
「い、一緒に……眠って、いただけません、か」
言ってしまった途端、顔が熱くなる。
本当は怖い、不安もある。でもそれ以上に離れたくなかった。でも、ヴィクトル様には迷惑だったのかもしれない。
「……わかった」
◆
私はベッドの端に腰掛け、そのすぐ隣にヴィクトル様も座っていた。ほんの手を伸ばせば触れてしまいそうな距離。
恐怖ではなく……それ以上に妙な熱が私を支配していた。
「……無理はするな」
「無理なんかじゃありません。むしろ……早く慣れたいんです」
この人の温もりに触れ、共に眠ることで、私は恐怖から解き放たれたい。
ヴィクトル様の隣で眠れたら、きっと、私はもう大丈夫になる。
「触ってもいいですか?」
自分の口から出た言葉に私自身が驚いてしまった。
いつもはヴィクトル様の方から手を伸ばされて、私は受け入れるだけ。
でも、今夜だけは違う。どうしても、自分から確かめたかった。
返事はなかった。ただ、彼が黙って頷くのを感じたから、そっと、指先を伸ばした。
ごつごつした、硬い掌に触れる。さっきまで外にいたから冷たいはずなのに私には熱を持った鉄のように思えた。
ヴィクトル様は何も言わない。ただじっと、私の手が彼に重なるのを許している。
「……本当に触れていいんですね」
囁くように言って、指を彼の手から腕へと滑らせる。
硬い筋肉と、鋼のような力強さ。でも、それが今は不思議と怖くない。
私は……ちゃんと、自分からヴィクトル様に近づけている。こんなこと、初めて。
胸の奥で鼓動が暴れているのが自分でもわかる。
でも、それ以上にどうしても、確かめたかった。
私はただ受け入れるだけの人形じゃなく、ちゃんと自分の意思でヴィクトル様を知りたかったのだ。
手を伸ばし、彼の顔に触れる。頬は……硬い。
まるで目で見るだけでは足りなくて、肌に焼きつけようとするみたいに。
「……こうして触れるのは変でしょうか」
「…………」
ヴィクトル様は答えず、ただ黙って受け止めてくれるが、沈黙に耐え切れず、私は首筋から肩へ、胸板へと触れていく。
厚い筋肉に触れるたびに怖さと安心が混ざり合う。
無防備のように見えるけど、きっと違う。
もし私が間違いを犯せば、この腕は一瞬で私を捕らえるだろう。
赤い髪……綺麗だな。部屋のランプの明かりに淡く照らされて、長く、しなやかで、まるで炎の糸のように揺れる。
触れてみたい。でも、髪は……止めておこう。ヴィクトル様の象徴だと思うし、聖域のような気がして……
「……好きなだけ触れろ。俺は抗わない」
「あ、ありがとう……ございます……」
私はヴィクトル様に感謝をしながら、そっと指を伸ばした。
流れるように広がる赤い髪、その一房を軽く掴む。
すごく綺麗な髪。次の世代に受け継がせたい。
私はその髪から手を離し、代わりに頬を胸に寄せた。
厚い筋肉の奥にある、確かな鼓動。ドクン、ドクンって音が耳に響いてくる。
不思議。恐ろしい人だと思っていたのにこうして心臓の音を聞いていると、とても人間らしくて。
ああ、この人も生きているのだと、実感できる。
「お前の為に動いている心臓だ。だから、よく聞いて覚えておけ」
「……はい」
耳を押し当てたまま、私は小さく瞬きをした。ヴィクトル様の心臓の音が少し速くなっている。規則正しいはずの鼓動がどこか乱れているように思えた。
「……早い……」
冷静で、いつも他人を圧するような威圧感を纏っているヴィクトル様。
その胸の奥で、こんな風に心臓が急かされるみたいに打っているなんて。
「ヴィクトル様でも……こんなふうになることが、あるんですね」
私が小さく呟くと、ヴィクトル様の肩が僅かに揺れた。
返事はなかった。でも、彼の大きな手が私の背を優しく撫でていく。まるで照れ隠しのように。
人間らしい一面に触れてしまったから。恐ろしくて、どこか遠い存在だと思っていたのに実際には私と同じように鼓動が速まることがある。なんだか、安心した。
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