カタナクション

竹尾練路

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第一章 剣帝再臨

第20話 黒兎は夜に誘う(壱・耳削ぎの鬼ごっこ)

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 ――真っ赤な死神が、どこまでも追いかけてくる。

 ライラーは、薄暗きエメンタールの山中を必死で駆けていた。
 森からはじわり、じわりと黄昏の残照が消えていき、御伽噺のような闇が広がっていく。
 何処から吹きつける血臭を伴った生臭い風は、耳元で魔物に吐息を吹きかけられているよう。怜悧な容貌は顔は涙と鼻水で崩れ、魔の薫陶無き無辜の血統を睥睨していた傲慢な眼差しは既にない。闇は刻一刻と濃度を増し、スティルトンという光の国に在って忘れていた原始的な恐怖が蘇った。
 幼き頃、世界が未知の薄膜によって隔てられていた時分の、得体の知れない闇夜の恐怖だ。
 ひたひたと己を追いつめてる追跡者の足音は、負の想像を無限に想起させる黒い万華鏡。
 血塗れた掌が、今にも自分の後ろ髪を掴んで背後から心臓に刃を突きたてるかもしれない。野卑た脚が、今にも自分を蹴り倒して上から圧し掛かるかもしれない。
 今にも――。

 その想像は、次の瞬間には現実のものとなっているだろう。
 次の瞬間で無ければ、その次の瞬間に。
 どれだけ必死に駆けても、距離を離さず近づかず、足音は淡々と後ろをつけてくる。
 心が折れ果て、膝をついたその瞬間に首を掻き切るために。
 振り返りたい。振り返れない。背後の恐怖から逃れたい一心で、ライラーは陽の落ちた暗い山をひた走る。
 それは、終わりなき鬼ごっこ。
 

 ライラーの疲弊は限界に達していた。
 スティルトンの魔道師は品格を持ちと礼節を尊ぶべしと幼き頃から厳しい教育を受ける。
 人目を憚らずに室内を駈けるような慎みの無い真似などもってのほか。地を駆けたのは、幼少の頃の姉との鬼ごっこ以来のことか。
 そんな彼女の全力疾走が、長く続く筈もなく。
 永遠にも思えた鬼遊びは、樹根のうねりに足をとられたライラーが無様に地に伏せり、呆気なく終わりを迎えた。

 彼女の半身にも等しき、セコイアの魔杖が転がっていく。
 セコイアの杖は持ち主に幸運を呼び込むとして、彼女の姉が贈ってくれた品だった。
 しかし、その加護を以ってしても背後の死神を祓うことは叶わなかった。
 拾おうと伸ばした右手は、ただ泥濘を爪先を埋めるばかり。やがて、その手の甲を鉄板仕込みの厚い軍靴の靴底が容赦無く踏みにじった。
 杖より重いものを持ち上げたことも無い細い手首は容易く骨折をして、端正な指先がちぐはぐにあらぬ方向を指した。
 絶叫するライラーの背中を、硬い靴底が慈悲無く踏みつける。

「やだ、やだ、やだやだやだ、やめて、助けて、助けてよっ、やだやだやだっっ――」

 べしゃべしゃと子供じみた泣き声を上げながら、ライラーは懸命に助命を乞うた。
 眼前の死神がそんなものを聞き入れる筈がないことを知りながらも、彼女は己の命の危機にあって冷静であれる程強くはなかったのだ。多くの人間がそうであるように。
 
「ベルヘア姉さま、助けて、助けて、姉さま、姉さまっ――」

 最愛の姉が、いつものように空から手を延ばしてくれる光景を幻視した。
 されどそれは、一瞬の幻でしかなく。
 現実に降りてきたのは、最愛の姉の掌ではなく、冷酷な追跡者の刃だった。
 
 ……ごめんなさい、ベルヘア姉さま。
 
 ……魔王級への同行にあんなに反対してくれたのに。私のことを心配してくれていたのに。
 ……口汚い言葉で罵ってしまって、ごめんなさい。本当は、分かっていた。
 ……姉さまがあの男に体を開いたことだって、本当は、私のことを庇うために――。
 
 ライラー=カスティヨンは、喉笛を切り裂かれて己の血で溺れながら、虫螻でも見るような瞳で己を見下ろす赤い死神を見上げた。
 ……こんな、化物と出会わなければ。
 胡乱な頭で、ライラーは死神――ボジョレ=セギュールに遭遇した経緯を悔恨と共に回想した。


   ◆
 
 


 ――骸が、あった。
 巨大な隕石が穿ったが如き爆心地グラウンドゼロの光景。ぽっかりと口を開いた眼前の窪穴には、幾つもの幾つものレディコルカ兵の骸が折り重なっていた。
 ライラーは生粋の魔道選民主義者。
 魔の寵愛を受けぬレディコルカ人に、真っ当な人権など認めてはいない。
 しかし、自分たちの奉じる王を守るため、己の身を盾として投げ出した親衛隊の狂信的な烈誠の姿は、彼女の顔色を失わせるのに足るものだった。
 レディコルカの民の価値観は、個人主義者に近い彼女にはまるで理解できないものだった。
 崇めるものに依存した蛮族の血迷った愚行、と、自分の中で無理矢理結論づけて、上辺だけの平静を取り繕う。

 取り急ぎ確認すべきことは、剣帝の生死だった。

 死んだか。きちんと殺せたか。あれで息の根を止めることが出来たのか。
 大型弩砲《バリスタ》や戦奴の弓兵などを用いることになったのは屈辱の極みだが、あの魔王級がどれだけ規格外の大魔道を連発しても傷つけられなかったあのマレビトを、己が采配で倒したという事実に、ライラーは頬を紅潮させる。
 誰もが己を誉めたたえるに違いない。負け犬のシャルドネなどは、歯軋りをして悔しがるだろう。
 姉さまも、これできっと私の評価を改める――。
 
 口許を緩ませながら、優雅にセコイアの魔杖を一振りし、折り重なった骸に火球を放つ。
 着弾、爆発。
 花開く大輪の焔は、彼女も紛れ無く一流の魔道師である証である。
 だがしかし、地に大穴を穿たんとした爆発は、表層の数人分の骸を散らすのみに留まった。
 その開口部からは、焦げ目一つ無い新鮮な骸が覗いている。

「抗魔力――剣帝はまだ死んでいない!」

  彼女の奥歯が低い軋音を上げた。 

「殺さないと――止めを、刺さないと」
 
 青い瞳を不安げに揺らしながら、戦奴隊弓兵に更なる追撃の号を飛ばさんと右手を振り上げる。
 その手首を、病人のように白く冷たい掌が握り絞めた。

「お待ちください、ライラー師匠」

 魔王級の従者の娘、エデンだった。少女はルビーのように赤い瞳を爛と輝かせ、ライラーに傅いた。

「畏れながら申し上げます。今すぐに剣帝を始末するのは下策かと存じます。
 あの恐るべき剣帝を下した手管、誠にお見事にごさいます。あの様子では剣帝は刀を握ることはおろか、立つことすらままならないでしょう。なれば、あの僭主は目も開かぬ子猫と一緒。彼奴の抗魔圏に立ち入らぬ限り、何の危険があるでしょう。このまま虜囚として連れ帰り、王都にて晒しものにするのが相応かと存じます。
 レディコルカの愚民共は崇めた剣帝の不様に涙を流して悔しがり、ライラー師匠の武名は大陸中に響きわたることでしょう。 
 その上で、大衆の前に引きずり出して公開処刑に致すのが、上策にございますかと。お姉様のベルヘア師匠も、さぞやお喜びになるかと――」

 エデンの口したその名に、ライラーは柳眉を逆立てた。

「軽々しく姉さまの名を口にしないで。エルフの血を継がぬ卑しきエメンタール人如きが」

 侮蔑の眼差しと共にそう吐き捨てたが、正直に言えば、ライラーはこの従者の少女のことが、そう嫌いではなかった。何事に対しても浅慮で自己中心的で、他人とのコミュニケーションをまるで知らない魔王級――その側近を務め、スティルトン上層部との折衝を行っているのが、この少女である。
 エデンが居なければ、スティルトンはヴァインガルトという怪物の稚気によって蹂躙されていたかもしれない。エデンにとっても、幼稚な魔王級の傍に侍るのは尋常ではない重責らしく、主の目の届かない場所では疲れた顔を見せ、嘆息しているのを目にすることもしばしばだった。
 憎い魔王級の従者ではあるが――エデン当人の事は、ライラーは決して嫌いでは無かったのだ。
 加えて、エデンの言葉には、即座に剣帝を殺さなければというライラーの焦燥を宥める、不思議な説得力があった。ライラーは姉からも融通が効かないと良く窘められていたし、自分でも己は他人の言葉に耳を傾けない気性だと自覚していた。だが、その丁寧な語調や気遣いを感じさせる挙動、心底からの誠意を思わせる表情の機微に、つい絆されてしまう。絶対に――絶対に殺さなければいけないと思っていたのに。
 不承ながらも、魔王との仲を荒立てるならば、この場は肯じて退いてもいいかもしれない。
 そもそも、自己顕示欲の激しい彼女にとって、ヴァインガルトと轡を並べて戦うことは、屈辱でしかなかった。魔王級への個人的な嫌悪感も相まって、一刻も早くこの戦場を離れたくて仕方なかったという本音もあったのだ。
 彼女の中の頑固な部分が解れて、ぽろりとエデンに肯ずる言葉が漏れた。

「いいわ。その代わり、責任を持って王都に連行しなさい。レディコルカのやり方に倣って首を落としてやるわ。この、私がね」

 厳しい口調で念を押して、ライラーは踵を返した。
 
「エメンタールの山には、得体の知れない魔物が棲むと聞きます。
 帰りの道中、どうかお気をつけて」

 スティルトンの魔道七師匠に数えられるこの私が、今更魔物などに遅れを取ると思うのか。
 ライラーは振り返って睨むが、エデンは柔らかな微笑を浮かべた。

「それではライラー師匠――さようなら」

 その邪気の無い挨拶に毒気を抜かれ、ライラーは狐に頬を抓まれたように、再び踵を返す。
 さようなら。その挨拶を聞いた瞬間の、世界が希薄になったような得体の知れない不安感。
 それを振り払うかのように、待機させたいた侍従達の元へと急いだ。

 
 死んでいた。
 三人のライラーの側近達は、一人残らず首筋から血を流して地に斃れていた。
 周囲には魔道の痕跡はない。
 三人は、七師匠たるライラーが側近にと選びすぐった精鋭達である。それが、抵抗もできず一方的に斬り殺されたのは明らかだった。
 彼らの死体には、共通した特徴があった。
 右耳が無い。ハーフエルフの象徴たる長耳が、無惨にも根元から削ぎ落されているのである。

 ――北の森は、魔物が出るという。
 その名は、耳削ぎ。クアルクの森に近づく魔道師を、残さず殺してその右耳を削ぎ落としてしまう。そんな、噂がスティルトン軍ではまことしやかに囁かれていた。
 勿論、根も葉も無い流言飛語の類である。独立戦争の時代のレディコルカ軍の鬼畜の所業が、御伽噺と化して広まったものだ――魔道師達は、そう信じて疑わなかった。 
 ……真実を知る、一部の者たちを除いて。

 あるとき、レディコルカへの侵入を行ったスティルトンの傭兵部隊が、全員未帰還の行方不明となった。
 要石の向こう側であるレディコルカ国内は、魔道師にとっては死地に等しい。ただの一人も残さず未帰還となったのは口惜しいが、レディコルカの哨戒体制が如何に厳戒なものであるかを知ることができた。
 そして、斥候部隊は方針を侵入から要石の外側からの監視に切り替えた。
 だが、小隊単位で哨戒を行う斥候部隊が、次々と連絡を断ったのだ。捜索の結果、発見されたのは耳を奪われた亡骸のみ。
 魔道師の本陣たる要石の外側で、スティルトン魔道師がレディコルカの剣士に破れるなど、ありえぬ話だった。ならばこれはレディコルカ軍の仕業ではなく、未知なる魔物の仕業ではないかと疑うものすら出る始末。下手に公表するれば犠牲者の名誉を損ない混乱を招くとして、真相が明らかにならぬまま、この事件は闇に葬られた。「耳削ぎ」という魔物の噂話の囁きのみを残して。

 スティルトン魔道師の最高位、七人の師匠の四席に数えられるライラーは、この不名誉な事件の存在を聞き、下手人に如何なる存在にせよ、耳を奪われた魔道師が弱かっただけだと嗤ったものだ。
 けれども、無念の表情で宙を睨む部下達の濁った瞳を覗き込んだ瞬間、得体の知れない不安が百足の群れと化して背筋せすじを上ってきた。
 
「何処だ!? 姿を見せろ!?」

 セコイアの魔杖を当所無く彷徨わせながら、ライラーは虚勢混じりの叫びを上げる。
 ――果たして、忌わしき殺人者は、闇に近い藪の奥から半身を覗かせた。右手にだらりと下げた血塗れの刃。腰のポーチからは滴る赤黒い血液は、戦利品として奪われた右耳の悔し涙だった。 
 ライラーは、その顔を人相書きで目にしたことがあった。
 炎の色の赤い髪の下には、訓練された暴力性を冷静さで包んだジャーマンシェパードの面構え。
 
「貴様が、耳削ぎなのか――? そうなのか、ボジョレ=セギュール!!」

 沈黙は、首肯と同義だった。 

「いいだろう、我が右耳、奪えるものなら奪ってみるがいい! カスティヨン家の誇りに賭けて――」

 怯えた犬のように叫びを上げるライラーに、ボジョレは端的に告げた。

「耳を削ぐ? 冗談を言うな。貴様はスティルトンの七師匠だ。首から上は全て貰っていく」 

 ボジョレは右手の人差指で刃の血糊を拭い、その指で己の左耳下に当てた。
 すっと、逞しい首筋を朱線が横切る。それは何てシンプルな殺意の表明。
 屈辱でライラーの唇が紡ぐ言葉も無く震える。
 傷つけられた自尊心を憤怒の衝動で塗りつぶし、セコイヤの魔杖を突きつけた。

「何を勘違いして思いあがっているのか知らないが、高々憲兵隊の分隊長如きが、この私の肌に傷一つ刻むこと適わぬと、身の程を弁えて散りなさい! ――癇癪持ちの針鼠イリタブル・ヘッジホッグっ!」

 絶叫と共に、燦然と輝くセコイヤの魔杖で地を深く穿った。

 突き立った魔杖から一瞬にして魔法陣が広がり、その周囲に一回り小さな魔法陣が不規則に立ち並び、更に小さな魔法陣を発動をさせる。水面に大石を投げ込んだ瞬間の飛沫の波紋の如く、地面が微細な魔法陣が埋め尽くされていく。
 
「ハリネズミの背中で踊り狂いなさい!」

 ⅢS級の固有魔道、「癇癪持ちの針鼠イリタブル・ヘッジホッグ」が発動した。
 ばら播かれた無数のビー玉大の魔法陣から土砂の棘が一斉に牙を剥き、縦横無尽に空間を埋め尽くしていく。何万年という時をかけて、地中で育つ気高き宝玉の再現。土中の圧力を操作し、ありふれた砂礫を凝集させて、一瞬で宝石並みの硬度の棘を形成する魔道は、土属性の至宝とまで讃えられる。
 無秩序に生成と消滅を繰り返す砂礫の棘は、対峙した敵を鋼鉄の処女アイアン・メイデンに押し込み開閉を一万回繰り返したが如き挽き肉へと変えてしまう。
 ライラーの眼前に広がっていた草藪がシャボン玉のように弾け飛び、木々が根本から形を失い大鋸屑おがくずへと変じて夜闇へと溶けていく。森の天蓋を覆う樹冠の木の葉まで粉雪と散って、青臭い生葉の香りがつんと鼻をついた。
  
 やり過ぎた、とライラーは激怒に任せた己の魔道の行使を恥じた。
 死体は原型を留めてはいまい。部下の右耳を取り戻りして供養してやりたかったが、ここまで徹底的に破壊してしまえば、それも叶わないだろう。
 ――レディコルカの蛮族如きに破れるなんて、元より己の従者には相応しくない弱者だったのだ。
 魔道師らしい冷徹な思考でそう切り捨てて、眼前を埋め尽くす針山への、魔力の供給を解いた。
 砂の城郭のように、眼前を埋め尽くす針山が崩れ落ちていく。

「……これが噂に名高い、七師匠の固有魔道か。なるほど、恐るべき殺傷力だ。正面から相対するのは甲種の抗魔剣士でも不可能だろう」

 その向こう側には、当然のように佇むボジョレの姿が。
 彼の半身を隠していた藪は弾け飛び、木々が粉砕された森の一角には、青褪めた月明かりが差し込んでいた。

「どうして、貴様は――」

 問いかけて、ライラーは口を噤んだ。
 鍛え上げられた屈強なボジョレの体躯。その背には、意識を失った黒髪の少女の姿が。
 頑丈なロープで、少女の体を己の体に幾重も結え上げて背負っている。
 マレビトの抗魔力は、意識を失っている最中にも効力を発揮する。ライラーの魔棘の全ては、彼女の抗魔圏の円周で当然のように消失したのだ。

「それはまさか――マレビト、番匠友枝姫……!?
 貴様、正気か、一介の部隊長が、一国の姫を己の盾として使ったというのか!? 
 そんな不敬が、非道が、レディコルカではまかり通ると言うのか!?」

 吼えて、蛮族と蔑む敵に倫理を説く虚しさに愕然とした。眼前の敵は、一切の常識の通用しない、文字通りの怪物なのだ。
 彼女を見つめる瞳は、昆虫の複眼のように冷たく無機質だった。
 
 その行為が全くの無為であることを理解しながら、ライラーは、セコイヤの魔杖をボジョレに突きつけた。ただ、焦燥と恐怖から。
 先端は輝きは、先の比ではない。全てが消し飛び拓けた森の一角を、真昼の如く照らし出し。
 
 蝋燭の火でも吹き消すように、その明りは不意に途絶えた。
 魔杖の輝きに明順応していたライラーには、周囲の景色が一瞬にして泥沼の底に没したようにも見えただろう。
 一瞬で間合いを詰めた猫科動物の動きは、人一人背負っているとは思えない軽やかさ。
 ボジョレは刀を軽飄に振るって、ライラーの端正な鼻から頬にかけてを、浅く切り裂いた。
 分厚い刃が、薄いチークの乗ったふくよかな頬に朱線を走らせる。

 ここは、既に意識無き友枝の抗魔圏内。遍く全ての魔道師にとっての絶対の死地。 

「ひっ、ひっ、ひぃぃぃ!」

 頬を抑えて、涙を流しながら覚束ない足取りで駆けだす女を、ボジョレは静かな足取りで追い始めた。
 この場で仕留めることも出来たが、死に瀕した人間は窮鼠猫を噛むが如き条理から外れた力を発揮することがある。
 友枝に万が一の累が及ぶ可能性を考えれば、このまま追いまわして、体力の尽き果てた時にその首を狩るのが最適解だと考えたのだ。
 狩人は、静かだが、力強い確かな足取りで点々と続く血痕をなぞるように歩き始めた。
 その瞳に、冷たい輝きを宿して。
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