Blood Bag

竹尾練路

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Blood Bag

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0. ◆◆◆

 聖の指先は、古びた玄関チャイムの小さなボタンの上で小刻みに震えていた。 
 意を決してボタンを押しこもうとしても、指先は嫌々と駄々をこねるように引き攣った。
 母は、聖の肩をそっと優しく叩く。勇気付けるように。急かすように。
 何気ないボディタッチだったが、聖の胃はキリリと悲鳴を上げる。
 聖はちらりと表札を見上げた。安アパートの表札には、『長谷』という文字が乱暴に書き殴られている。この苗字が、どちらを意味するものなのか、まだ聖には区別できない。
 母は、もう一度強めに聖の肩を叩く。反射的に人差し指を伸びて安物のチャイムの音が響き、「はい」と物臭げな男性の返事が聞こえた。
 母が古い団地や安アパートばかりをターゲットにするのは、インターフォンが設置されていないからだ。ドアフォン越しではすぐに断わられてしまうが、住人が扉を開けさえすれば、こちらのものだと思っているのかもしれない。
 重い足音が、薄いドア越しに近づいてくる。
 聖は小さな拳をぎゅっと握りしめた。どうか、どうかクラスメイトや知人と関わりない家でありますように。
 あの遭遇事故が起こったのは、中学二年生の時だった。扉を開けたクラスメイトの、嘲笑する瞳を、聖は忘れない。更に不幸だったのは、その子がスクールカーストのトップグループに位置する、軽音部の副部長だったことだ。聖の悪評は、一週間を待たず、学年中にバラ播かれた——。

「はい、どちらさん?」

 眠たげな誰何の声と共に、無精髭を薄く伸ばした男が顔を出した。休日の長寝を邪魔されたのか、眉根を寄せて不快感を露わにしている。……縁も所縁もない相手だったことに、聖は微かに安堵する。
 だが、本番はこれからなのだ。 
 母のヒールが硬い音を鳴らした。白のスカートスーツと、ナチュナルメイク。清廉潔白なイメージで己を鎧った母の目尻と口角が、なだらかな弓を描く。眩いばかりに誠実さと好意を相手に照射する愛想笑いは、母の得意技だ。何千回と目にした母の笑顔。けれども、今日もまた聖の動悸は高鳴り、頭から水に沈められるような息苦しさに頬は青褪める。
 母の指が聖の背中をそっと撫でた。
 慌てて会釈をした聖の頭上を、張りのある母の声が通り過ぎた。

「こんにちは、貴方も私達と一緒に聖書について勉強してみませんか? 
 終わりの時は近づいています。人は信仰によって、やがて訪れるハルマゲドンを越えて、楽園で永遠の生を授かることができるのです。
 それは、なんて素晴らしいことだとは思いませんか?」

 瞬時に男の顔に理解の色が広がり、迷惑げな軽蔑と嫌悪に瞳を細めた。
 ごめんなさい。ごめんなさい。そう謝るように、聖は瞳を地に伏せる。その頭上では、無言で扉を閉めようとした男の腕を、母が笑顔を浮かべながら柔らかく押し留めていた。
 その柔和な笑顔に反して、腕に籠められた力は驚くほどに強い。
 母の目配せに頷くと、聖は鞄から二枚の薄い冊子を取り出した。その表紙では、国籍不明の多人種の男たちが肩を組み合い、母とそっくりの笑顔を浮かべている。
 聖は震える手でそれを差し出し、俯き気味に視線を落として、早口で男に説明した。

「あの……私達は、聖書の勉強会をしています。
 現代の人たちは、みんな悪魔サタンに唆されて、間違った道を歩んでいるんです。
 毎週ここの王国会館で集会をしているので、良ければ来て下さい……」

 男は勘弁してくれ、とばかりのうんざり顔を浮かべたが、冊子に落としていた胡散臭げな視線を、扉を抑える母に向け、肩を縮めて震えている聖に向けた。
 そして、嘆息を、一つ。
 青褪めた顔で泣き出しそうな聖に、幾許かの同情を示したのだろうか。

「それじゃあ、気が向いたら行ってみるよ」

 気の無い口調で男は告げ、聖の手から冊子を抜いて、有無を言わさぬ勢いでドアノブを引いた。安アパートの薄い扉が音を立てて閉まる。
 扉の向こうから、盛大な舌打ちと、冊子をゴミ箱に叩きこんだらしき乱暴な音が聞こえた。
 それでも、母の笑顔には微塵の陰りもない。善行を積む歓びに目尻を緩ませ、隣の部屋の玄関に向けて聖の手を引いた。
 聖は、己の役回りをよく理解していた。聖は幼い頃から自覚している。勧誘を行う母の傍らに彼女が控えると、家人から向けられる不審の目が和らぐことを。母に寄り添い、只管に平身低頭し、望まぬ訪問に不快感を示す住人達の溜飲を下げることが、聖の役割。
 隣の部屋の玄関のチャイムを押す。扉が開き、騒ぐ子供を宥めていた主婦が顔出す。先ほどと同じようなやり取りが、繰り返される。次の部屋も、次の部屋も、その次の部屋も。
 ——このように、直川聖なおかわひじりの休日は、宗教団体『ヤハヱの証人』の布教活動、伝道奉仕に費やされている。







1. ◆◆◆


 聖はこの春、高校に進学した。
 自宅から自転車で30分の場所にある駅から、電車を乗り継ぐこと40分。
 勿論、もっと近場に手頃な高校が無かったわけではない。
 だが、聖は人間関係をリセットしたいが為に、敢えてこの遠方の公立高校を選んだのだ。
 聖の中学時代は暗澹たるものだった。特殊な家庭環境が災いして、聖は家に友人を呼ぶこともできなかった。数少ない友人も、聖の悪評が広まるにつれて、やがて姿を見せなくなった。
 幼い頃は、母を含むヤハヱのコミュニティを信頼していた聖だったが、小学生時代から同じような事態が幾度も繰り返されれば、流石にその在り方には疑念を抱かずにはいられなかった。
 かと言って、母やヤハヱの面々に、正面から己の不満をぶつけるような度胸は、聖にはない。
 聖を支配しているのは、ただ、大事なく物事が過ぎ去るようにと願う、鈍化した諦観だけだった。

 煩雑な手続きを終え、ようやく迎えた入学式。聖は真新しい制服に袖を通して、見慣れない通学路を歩く。
 道の傍では、お約束のように植えられた、桜並木が薄紅色の蕾を綻ばせている。
 けれど聖は、誰もが目を向ける蕾には目を向けず、じっと桜の幹を眺めた。
 横に細かな筋目の入った桜の幹は滑らかで、手を触れると、樹冠を覆う無数の蕾よりなお鮮やかに、桜の木の生命力が感じられる気がした。
 聖は周囲の人間とは違う、どこか独特の繊細な感性を持っていた。
 ふとした時や物事に——開く寸前の桜の幹だとか、無数の手垢に磨かれた校庭の鉄棒だとか、古い部屋の床の間の柱だとかに、抗し難い魅力を感じることがあるのだ。
 だが、それは聖自身、明瞭な言葉では表現できない嗜好だったし、それを打ち明ける友人も居なかったので、聖は変わり者呼ばわりされることさえ無かった。

 紋切り型の入学式では、校長が眠気を誘う声でもう百回は繰り返したであろう、高校生としての自覚と心構えを説き、ありきたりなHRが始まる。
 儀式のように大量のプリントが配られ、漫然と後ろの席へと受け渡されていく。聖は、努めて担任の笑顔を直視しないよう、じっと机に視線を落として時が経つのを待った。
 中年の女教師の見せる白い歯や、意図的に持ち上げられた口角が視界に入るたびに、胸を抑えつけられるような息苦しさを感じる。
 いつからだろう? 聖が人の『愛想笑い』を直視することが出来なくなったのは。
 幼い頃から、聖は他人の見せる笑顔が心からのものか、上辺だけ取り繕った偽りものかを正確に見分けることができた。それは、特殊な感性を持った聖の天分だった。
 人の相貌が、胸中の想いと異なる形を描く様は、仮面じみて不気味で、真正面から見つめるのは余りに息苦しい。
 聖自身も、愛想笑いを形作ることが不得手で、周囲から愛嬌のない子と呼ばれることも度々だった。
 他人と巧く付き合うことができない聖が没頭するのは、いつも本の世界だった。
 幼い頃に母親から義務づけられた聖書の朗唱は、子供には余りに難解なものだったが、お陰で聖の国語力は幼い頃から、周囲の子供達の中で抜きん出ていた。
 HRが終わると、周囲の同級生達は高校デビューに遅れまいと、躍起になって交友の輪を拡げ、繋がらない話題を無理矢理繋げ、友達作りに熱を上げる。
 そんな、青臭いが微笑ましい輪の中に、聖の姿はない。
 手持ち無沙汰に、配られた教科書を漫然と捲りながら、嵐が過ぎるのを待つ。ふと、とある頁で指が止まった。それは大判の美術の教科書の一頁。全裸の男性が虚空の老人へと指を伸ばしているフレスコ画の図版だった。
 躍動する男性の裸体。ただ写実的であるだけでなく、「まさに今」魂を吹き込まれたかのような命の脈動が筋骨隆々とした皮膚の下を這っているのが、教科書の図版越しにも見て取れる。虚空に佇む創造主は、森厳に動き始めた己の被造物を見下ろしている。なんて素敵な絵なんだろう。教科書の図版などでなくこの名画を直に目にすることが出来たら、なんて素晴らしいんだろう。聖は夢想する。同時に聖の中の冷静な部分が、どうしようもなく気付いてしまう。それは絶対に叶わない。この絵のモチーフは——

「そういう絵に興味あるの?」

 無遠慮に背後から肩越しに手元を覗き込んできた黒い頭に、聖はわぁと小さく声を上げて美術の教科書を慌てて閉じた。
 振り返ると、すらりと背の高いクラスメイトの少女が、聖に、にっと白い歯を見せて微笑んでいた。首筋で切り揃えた短い黒髪に、好奇心の強い子猫のような黒い瞳が印象的だ。伸びた背筋に真っ直ぐな立ち姿が、高い身長をより高く見せている。猫背気味の聖とは正反対。
 聖は、一目で彼女のことを、自分とは違う、陽の当たる場所に棲む人間だと思った。
 彼女達のような人種の面前に立つと、否応なしに足が竦む。スクールカーストの天辺に立つ彼女達によって、聖は散々踏み付けられてきたのだから。
 聖は閉じつけるように、震える手で美術の教科書を押さえつけた。自分が赤面していくのを感じる。絵画と言えども、男性の裸体を熱心に見つめていたことに、ひどく居心地の悪い羞かしさを覚えたのだ。
 同時に、聖はそのことが同級生達に知れ渡った時に、周囲からどんな揶揄を受けるのもありありと想像出来た。
 ……これは、短慮だった自分への罰だ。聖はあっさりとそう決めつけて、入学式のその日に高校生活を諦めた。また、中学生時代のような灰色の三年間を自分は過ごす。ただ、それだけのことだと。
 そんな彼女の内心をまるで忖度せずに、沈黙する聖に少女は小首を傾げ、何か閃いたかのように掌を叩いた。

「あ、ごめんごめん、まだ名前が分かんないよね。私は友枝、番匠友枝ばんじょうともえです。直川聖さん、だったよね。
  私が今読んでる本も、絵を題材にしてるんだけど、これが中々難しくて。私、美術ネタとか全然分かんないからさ、ゲイジュツが理解出来る人って凄いな~、って思ってたとこ」
「……へ?」

 間抜けな声を洩らした聖は、眼前の少女——番匠友枝の差し出したハードカバーの表紙を見つめた。
『楽園のカンヴァス』
 そう題された本の表紙から、聖の素人目からは何とも名状し難い独特のタッチの、エキゾチックな裸婦や獣や花々が見上げてきた。
 顔を上げた。眼前の少女は、偽りない笑顔で舌を出して照れたように笑う。

「難しいんだけど、面白くって。この本」

 ……番匠友枝は、とりとめもないことをよく喋り、よく笑った。同級生達のように、右から左に話題を流しながら会話を続けるのが苦手な聖だったが、友枝は聖に歩調を合わせるようにゆっくりと、だが熱を籠めて本に語られる名画の魅力を力説した。
 手元の美術の教科書の中にも、本で語られた名画の図版が収録されていて、聖は友枝に誘われるまま、それらを共に探して遊んだ。エル・グレコの『受胎告知』、ピカソの『アヴィニョンの女たち』、ゴッホの『星月夜』。
 絵は好きだが別段美術に造詣が深いという訳ではない旨。先程の絵は偶々開いていただけに過ぎないことなどを言い訳のように訥々と語っていた聖だったが、

「見て見て、この牛の絵、変な顔! あ、この画家も知ってる! 永久機関みたいな滝の絵を描いた人だよね!」 

 などとはしゃぐ友枝のペースに引き込まれ、いつの間にか顔をよせあって美術の素人品評をしながら笑いあっていた。
 アンリ・ルソーの『詩人に霊感を与えるミューズ』を見つけた時の友枝の喜びようはひとしおで、読んでいる本の中で大々的に取り上げられていることや、美術史に影響を与えた一枚であることを早口に語ったが、聖にはその絵は並ぶ名画には一枚劣る、下手な人物画のようにも思えた。
 評論家のような友枝の褒め言葉も、彼女自身がそう語っているように、総ては本の受け売りで、友枝自身は絵の価値を計れる訳ではないのだろうと聖は思う。
 しかし、語る内容が受け売りだろうと、諾々と周囲に従うしかない聖には、本心からの笑みを浮かべて己の「好き」を熱心に語れる番匠友枝という少女のことが、とても眩しく感じられた。
 普段の聖に語り聞かされるのは、「信仰」と「義務」、それから「悪魔の恐ろしさ」だ。

「ね、直川さんも小説とか読む?」
「……うん。私も本は大好き」

 はにかみながら、聖は肯いた。読書は、母に許された数少ない娯楽だった。母達の語るところの「サタンの誘惑」である漫画やテレビは決して許されなかったが、聖書の勉強の合間に「普通の本」を読むことぐらいは許されていた。
 聖はちらりと友枝の本のタイトル——『楽園のカンヴァス』に視線送る。
 この本は、駄目だろうな。『楽園』というタブーワードを眇めに眺めながら、聖の中の冷めた部分は、早くも友枝にこの本を勧められた時にどう断るかに打算を巡らせていた。

「今、読みかけてる本がいっぱいあるんだ。森見登美彦とか、辻村深月とか……」

 努めて、当たり障りなく話題にできそうな人気作家の名前を挙げつつ、本の貸し借りを断るためのエクスキューズを張ろうとする聖に、

「ね、直川さん。LINE交換しようよ」

 友枝は、名刺交換の気安さでスマホの画面を差し出した。

「あのっ……」

 息を呑む。続く言葉が出なかった。
 聖はスマートフォンのみならず、携帯電話の類の一切を所持していない。娘を悪魔サタンの誘惑から守るための、母の教育方針だった。中学生時代の聖の孤独は、家庭環境のせいのみではない。聖には同級生達が当然のように用いるコミュニケーションインフラが与えられていなかった。
 ちなみに、以前、聖がLINEの交換を持ちかけられ、己が事情を説明した時に同級生の反応は、ただ一言。
 『あり得ない』という捨て台詞と共に、聖はクラスメイト達から疎外された。
 逡巡。

「ごめん、私、スマホも携帯も持ってない……」

 聖は俯いて、懺悔するかのように答えた。友枝にそう答えなければならないのが、ただ、悲しかった。

「そっか、ごめんね、聞いちゃって」

 けれども、友枝は聖の胸中の葛藤など知らぬとばかりに、短くそう謝罪してスマホを納めた。
 そこには覚悟していた軽蔑も嫌悪もなく、逆に不安になって聖は問い返す。

「その——変だよね? こういうのって?」

 友枝は、その質問こそ意味が分からないとばかりに、ふにゃりと破顔した。

「何で? 全然普通だよぉ! 私の再従兄弟はとこのお兄さんなんて、一緒にスマホを買いに行ってあげて、私と一緒の機種選んであげて、設定も登録も全部してあげたのに、面倒くさいって言って全然使ってくれないんだよ!
 何か用事のあるときは、直接会いに来るか、家から家に電話してくるの! それも古っるい黒電話! あのジーコ、ジーコって回す奴をまだ使ってるんだよ!  信じられない!」
「あっ、ははははっ! 何それ」

 話しながら子供っぽい怒りを顕にする友枝の姿に、つい笑みが零れた。声を出して笑うのは、随分と久方ぶりのことだった。
 友枝は鞄から兎の図柄のメモ帳を取り出すと、さらさらと何かを書き付け、小気味よい仕草で破り取って聖に差し出した。

「何かあったら、いつでも連絡してね」

 開けっぴろげに友枝は白い歯を見せた。
 聖は震える手を抑えて、聖句の刻まれた羊皮紙でも崇めるように、掌の中に並ぶ電話番号を見つめた。





2. ◆◆◆


「聖姉妹、もう高校生になったんですって? 早いわねえ。おめでとう」

 穏やかで上品そうな老婆が、柔らかに微笑みかけた。世の母親達が幼子を預けたくなるような優しげな老婦人だが、微笑みに固定された皺だらけの目尻と口角は、聖からすれば母親の四十年後といった風情だ。
 聖は息苦しさに喉元を抑えるのを堪え、愛想笑いを浮かべて社交辞令程度の返答を行う。
 眼前の老婆は、聖の知る限り最も熱心な「ヤハヱの証人」の信者の一人だ。定期的に、ここ裏野ハイツの203号室で開かれる勉強会の中心人物でもある。
 ここ裏野ハイツの住人は実に半数以上がヤハヱの信者。そもそもが管理人からしてヤハヱの信者であるし、102号室に住んでいる勉強会に顔を出さない男は、信者の縁者の引きこもりで、サタンの誘惑に負けたと悲劇のように語られている。
 裏野ハイツの九畳のリビングに六人の信者達——聖自身を含めて——が膝を揃えて正座している様子には、毎度のことながら聖は嘆息を隠せない。
 ちなみに、ヤハヱの集会では、男性は全員「兄弟」、女性は全員「姉妹」と呼ばれる慣わしだ。神の前では、人は皆等しく兄弟姉妹であるが故に。

「本当、聖姉妹は立派ねえ。日曜はいつも佳子姉妹と熱心に奉仕に出ていて、学校のお勉強もできるんですって。
 良太郎も聖姉妹のような子に育ってくれればいいのだけれど」
「まったくです」

 鳥肌が立つような褒め言葉と、あまり興味なさげにそれに追従するのは103号室の長良夫妻だ。この夫婦、妻の絢香姉妹は独身時代から熱心な信者だったが、夫の康次兄弟は結婚してからなし崩しに入信させられたので、夫婦の信仰に温度差がある。
 一人息子の良太郎は隣の洋室で静かに遊んでいる。まだ三歳なのに、勉強会の間、喚き声一つ上げずに行儀良く一人遊びをするなんて、自分よりずっと良い子だと聖は思う。
 聖は退屈な勉強会に耐えきれず、ぐずりながら母の袖を引き、その挙句——

「子供には幼い頃から正しい教育が必要です」

 老婆——201号室の平井姉妹の凛とした声が裏野ハイツの狭いリビングに響いた。この老婆は、教育談義になると必ず嘴を挟む。

「躾とは、叱ること。愛ある懲らしめこそが、子供たちを悪魔サタンから遠ざけ、正しい道へ導くのです。
 絢香姉妹、己の子に鞭を惜しむ親は、己の子を憎む者と心得なければなりませんよ」

 にこやかな老婆の笑み。人生の先達から、若い親へのアドバイス。それは、微笑ましい光景であるはずだ。美しい光景であるはずだ。だのに、聖はそれを直視できない。
 平井姉妹は七十代の悠々自適の年金暮し。彼女が老いて尚、取り憑かれたように熱心な伝道奉仕に励むのは、何時も傍らに置いて離さない、古い少年の写真に原因があるのだろう。

『父なるヤハヱは約束されているわ! ハルマゲドンによって、悪魔サタンと悪しき者達は滅び去るの! その後、死したる者達は蘇る……正しき者達は楽園で永遠の生を得る……! 私はこの子と再会出来るのよ!』

 頬を上気させて笑顔でそう説く平井姉妹の顔は、聖には追い詰められて歪んでいるように見えた。
 きっとそれは、平井姉妹の心の慰みなのだろうと聖は思っている。
 平井姉妹が孫を亡くした経緯の詳しくを聖は知らない。だが、よくある育児ミスであったこと。今でこそ危険が周知されているが、当時は同じようなミスで子供が亡くなる事故が相次いでいたこと。事故の後、平井姉妹は息子夫婦から激しく責められ、今では半ば絶縁状態になっていること。……などの断片的な情報を繋げるだけで、救いようのない絵が浮かび上がってくる。

「さあさ、子育てのお話はまた後で。勉強会を始めましょう」

 上岡兄弟が手を叩いた。101号室に住む五十代程の落ち着いた紳士で、話し出すと止まらない平井姉妹の諌め役だ。
 いつも礼儀正しく冷静沈着。敬虔な神への祈りを欠かさない、まさに『ヤハヱの証人』の鑑のような人物だが、聖には彼が最も得体の知れない人物のように思える。
 仕草の端々に、生活感がまるでない。平井姉妹のような敬虔な信者であれ、聖や康次兄弟のような血縁に引きずられての形式だけの信徒であれ、誰もが何らかの形で信仰と生活の折り合いをつけているものだが、彼からはそんな匂いがまるで感じられないのだ。文字通り、信仰のために生きてる感じ。
 正直、気持ち悪いとさえ聖は思っている。

「聖姉妹、言った通り、新しい教科書は持って来ましたね?」

 ぬるり、と覗き込んできた上岡兄弟の笑顔に、息苦しさを堪えながら聖はこくこくと頷く。
 上岡兄弟は慈愛に満ちた笑顔を浮かべながら、聖の教科書と、出処の分からない紙束に目を通しながら鷹揚に頷き、ふと眉を顰めた。

「いけませんね、佳子姉妹。聖姉妹の学校は、体育のカリキュラムに必修で武道が含まれているではありませんか」
「そんな!」

 母の眦が吊り上がり、条件反射で聖の肩が跳ねた。

「武道必修! 子供たちに暴力を教える、悪魔サタンの罠ではありませんか!」

 金切り声を上げたのは絢香姉妹だ。

「王国宣教、イザヤ2の9にも、[彼らはその剣をすきの刃に、その槍を刈り込みばさみに打ち返えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず、彼らはもはや戦いを学ばない]とあります!」
「流石は絢香姉妹、よく勉強されていますね。その通り、ガラテアの聖句では、[敵意、闘争なども戦いを学ぶべきでない]とも説かれています」

 穏やかに上岡兄弟が後を続けた。

「聖っ! あの学校は貴女が頼むから決めさせてあげたのよ。それなのに、貴女は武道必修があるような高校を選んでいたの!?」
「知らなかった! 本当に知らなかったの! ごめんなさい! ごめんなさい!」

 平身低頭して侘びる聖を見下ろして、母の佳子は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。

「私の監督不行き届きです。未熟な娘に、高校など決めせるべきではありませんでした。
 来週、すぐに学校に伺い、きちんと先生に連絡を取ります。うちの娘は、学校が定めた武道必修などより、信仰をとりますと」

 上岡兄弟は目を細めた。

「ご立派です、佳子姉妹。そうです、それが大事なんです。悲しむべきことに、今の時代には悪魔サタンの誘惑が溢れています。その全てに出会わずに生きることは、信仰に生きる私たちでさえ不可能でしょう。
 ですが、恐れることはありません! サタンの腕など、払い除けてしまえばいいのです! 偉大なる神ヤハヱは、必ず私たち正しき者達をお守りになります。
 聖姉妹、良いお母さんを持ちましたね。佳子姉妹は愛する娘のために、サタンの誘惑を受けた学校の先生と、あなたと共に戦ってくれます。何も恐れることはありませんよ」

 堂々たる上岡兄弟の弁舌に感極まったのか、平井姉妹が高価そうな絹のハンカチで皺だらけの目元を拭った。
 聖もまた、伏し目がちな瞳に涙を浮かべずにはいられなかった。
 一生懸命、ヤハヱだって後ろ指さされないように隠してきたのに。
 初めて、仲の良い友達ができたのに。
 高校生活が始まってからおよそ一ヶ月。聖にとって初めての楽しいと思える学生生活だったのに。
 あの人が、学校に来る。何もかも、滅茶苦茶にされる。踏み荒らされてしまう。

「聖。帰ってから、ゆっくり話し合いましょう」

 母を震える唇を頬の筋肉で吊り上げ、上がった眦を無理矢理に弓にして、何時もの笑顔を形作っていた。
[顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る]
 母がよく口ずさむ聖書の一節。彼女は敬虔にこれを守っているのだろう。
 けれども、聖は、この母親の作り笑いが大嫌いだった。
 話し合い、と母は言ったが、きっと一方的に責め立てられるのだろう。この笑顔で。
 それでも、昔に比べればマシだと聖は思っている。
 聖が幼い頃、何か粗相をする度に、母は問答無用で聖を玄関まで引きずり出し、全裸に剥いて、獣のように這いつくばらせ、その尻を烈しく靴べらで叩いたものだった。平井姉妹の語るところの、「愛ある懲らしめ」である。
 泣いても叫んでも赦してはくれなかった。母は総身に怒気を漲らせながらも、これはあなたのためだから、と顔に無理矢理の作り笑いを貼り付け、聖の尻を真っ赤になるまで叩き続けた。
 聖が、他人の作り笑いや愛想笑いを見ると、過呼吸に陥るようになったのは、この体験が原因だろう。
 常に他人の顔色を伺うように聖は成長し、いつしか保身のための従順さを諦観と共に身に刻んでいた。

「それにしても、この教科書はいけませんね」

 上岡兄弟はどこか芝居がかった仕草で首を振る。

「神の教えを貶めるような記述がそこかしこに満ちている」

 声を上げようとする母を片手で制して上岡兄弟は続けた。

「聖姉妹の学校の教科書だけが間違っているのではありません。今や、全ての教科書が間違っていると言っても過言ではないでしょう。
 実に悲しむべきことです。青少年を導くべき教育機関が、悪魔サタンの教えを広めているのです」

 裏野ハイツに集ったヤハヱの証人達は、神妙な顔で頷いた。
 いつから用意していたものか。黒いマジックペンとカラースプレーの入った箱を、兄弟は聖の鼻先に突き出した。

「聖姉妹、貴女自身の手で、悪魔の教えを破り捨て、正しい教えを選び取るのです!」

 選び取るのではない——私には、選ぶしか道がないのだ。聖が諦観と共にマジックペンを握ると、上岡兄弟は生物の教科書のとある頁を開いた。
 進化論について記載された頁だった。

「この世の生きとし生けるものは、我らの父なる神ヤハヱが、七日間で創造されたものです。猿が人間になるなんておかしなことが、起こり得ると思いますか?」
「いいえ、そんな聖書の記述に反することは有り得ません」

 聖は躊躇いなくマジックペンを引いた。折り目もついていない新品の教科書に黒線が走る。

「体育の授業と称して暴力を教えるのは、正しい行いですか?」
「いいえ、間違っています。偉大なる神ヤハヱは野蛮なる行いを嫌われ、人の輪を尊ばれます」

 次々と、黒線が聖の教科書を埋めていく。

「神の似姿を描き、信仰の依り代として崇め奉る行いを、ヤハヱはお喜びになりますか?」

 機械のように黒線を引いていた、聖の手が、止まった。
 それは美術の教科書の一頁。聖が魅せられ、友枝と交友を結ぶきっかけとなった、あの絵だった。
 バチカンのシスティーナ礼拝堂の天井に描かれた、宗教画史の大傑作、ミケランジェロの『アダムの創造』である。
 聖は名残惜しげにその絵を見つめると、マジックペンを置いた。

「いいえ、ヤハヱは偶像崇拝をお喜びになりません」

 マジックペンの代わりに握られたカラースプレーが、一瞬にして『アダムの創造』を黒く塗りつぶした。ティッツィアーノの『マグダラのマリア』が、ダヴィンチの『最後の晩餐』が、友枝と一緒に探したエル・グレコの『受胎告知』が、カラヴァッジョの『キリストの埋葬』が——
 美術の教科書に載せられた宗教画の尽くを、聖は塗りつぶしていく。

「聖姉妹は本当に良い子ねえ。ヤハヱもきっとお喜びになるわ」

 他人事のような平井姉妹の拍手。便乗して、一つ二つと拍手が増え、裏野ハイツの小さなリビングは聖の信仰心を讃える拍手の大合唱に満ちていった。
 聖は、ひどく冷めた心持ちで漆黒に染まった教科書を見下ろしていた。
 ……聖も、この教科書と何も変わらない。聖の全ては、ヤハヱに黒く塗りつぶされている。

 カラースプレーのインクに汚れた指先を拭おうとポケットティッシュを探すと、指先に小さな紙片が触れた。



3. ◆◆◆

「もっしも~し! こちら番匠友枝で~す!
 マサ兄、また公衆電話からかけてきたでしょう?
 ちゃんとスマホの画面に表示されるんだからね!
 そんなに使わないなら新品の5買う意味なかったじゃん!
 あ~あ。友枝ちゃんは現在、稽古帰りで糖分が不足しています。お土産にミスドのフレンチクルーラーを要求しま~す。

 マサ兄、どうしたの? ずっと黙って。
 ……マサ兄?

 ……
 ……あのあの、どちら様ですか?
 ……どちら様ですかっ!
 不気味だから切っちゃいますよ~、いいですね~?

 ? ……あ!、その声、直川さん!?
 嬉しい! 電話してきてくれたんだ!
 でもでもどうしたの? こんな時間に?

 ……何か、相談ごと?

 いいよ、何でも相談して。私、こう見えて友達から内緒の相談事を受けるの、結構多いんだよ。よっぽどヤバい内容じゃなければ大丈夫。秘密にするから。
 解決してあげれれるかどうかは分からないけど、とりあえず、話を聞いてあげることだけはできるからさ——」





4. ◆◆◆

「ねえ、アンタもサボり?」

 体育座りで武道場の端に身を縮めていた聖に、暇潰しとばかりに上から声をかけてきたのは、狩生かりう凛々花りりかだ。
 伸ばした爪。茶色く染めた髪。細く短い眉の下で、不満げに周囲を睥睨する瞳にはアイラインをいじった跡がある。そこそこの進学校の中で、ステレオタイプなパーツを纏って己のキャラクターを誇示しようとするような少女。
 言葉遣いは悪いが交友関係は広く、幾度か友枝と談笑している姿も聖は見たことがある。

「あの、私は……」
「何だ、ただの病欠かよ。つまんねーな」

 凛々花はどっかりと柔道畳の端に腰を下ろし、頭の後ろで指を組んだ。

「ったく、やってらんねーよな。武道必修なんて。痛てえし臭せえし面倒臭せえし」

 聖は曖昧に頷く。
 反応の薄い聖に凛々花は何か言いたげな視線を送ったが、頬杖をついて、退屈そうに眼前の剣道の授業を眺め始めた。
 板張りの剣道場では数人の経験者の生徒達が道着袴姿に防具を着けて元に立ち、その他大勢のズブの素人達が、ハーフパンツに借り物の竹刀という何とも格好のつかない姿でずらりと並んでいた。
 体育教師の号令と共に、めん、めん、と気の入らない声を出しながら、生徒達がぽかりぽかりと経験者の頭へと竹刀を振り下ろす。
 もっと気合いを入れんか! と体育教師は怒りの声を上げ、心持ち程度に竹刀の往復が速まる。
 ……確かに、授業の様子は凛々花でなくとも眠気を催すようなものには違いない。

「おーおー、群がっちゃって。番匠も井崎もボコボコ叩かれてストレス溜まってるだろうな~」

 凛々花は意地悪げに嗤うが、聖にはそんな風には見えなかった。剣道部の友枝はただ打たれる案山子に徹するのみではなく、熱心に竹刀の軌道を正し、腕に己が手を添えて、真摯に指導を行っていた。
 面の下の表情は、きっといつものような屈託のない笑顔だ。
 聖は、じわりと高鳴る鼓動を抑えるように胸に触れた。

 ……母の来校は、聖が想像していたようなトラブルもなく、呆気ないほどあっさりと終わった。
 教師は母に言う通りに頭を下げ、必修授業の単位を、レポートの提出で代替することを約束。
 溜飲を下げた母は早々に帰路についた。

『どう? どう? 上手く行ったっぽい?』

 万事解決して拍子抜けする聖の前に、Vサインを突き出しながら姿を見せたのが友枝だ。

『番匠さん……どうして?』

 先日、万策尽きた聖は友枝に電話し、涙ながらに己が窮状を語った。ヤハヱであることも友枝には明かしても良い気がしたし、何より聖には誰かに泣きつく以外のことはできなかった。
 友枝は同意を示すでもなく、義憤を顕にするでもなく、ただ最後まで聖の話を聞いて。

『そっか。お家の事情は、みんな大変だね』

 とだけ漏らした。
 ただそれだけで、聖は救われた気がした。

 だのに。

『どう? 上手く行った? うちのお母さんPTAの役員やってるからさ、先に先生に話を通しといて貰ったの。それに、うちの親戚にはこういう問題に詳しいプロフェッショナルが多いからさ、相談相手が多いんだ』

 薄い胸をそらして誇らしげに語る友枝を、聖は信じられないものでも見るような視線で見つめた。
 友枝の言葉は大袈裟なものかもしれない。PTAの多少の諫言など、元より無関係で、聖の母のようなケースにどう対応するのか、最初から決まっていたのかもしれない。
 だが、聖の眼前の事実はそうではない。
 聖の全てを支配する、聖の宇宙の歯車である母。
 友枝は、それに逆らって、歯車を逆に回してみせたのだ。
 聖の抑圧された世界の中でのみ成り立つ奇蹟。
 聖は、聖人でも崇めるような視線で友枝を見つめた。

 ——そして今、聖は何の後顧の憂いもなく、武道場の端で、母達がサタンの教えと呼んだ武道授業を見学している。

「番匠さん……」

 友枝の指導風景を見学していた聖だが、次第に胸の中に澱のようなものが溜まっていくのを感じていた。
 友枝に手を取って指導して貰いながらも、気怠げにしている同級生達の怠惰は何だ。手を触れ、声をかけてもらいながら喜びもしないあの態度は何だ。
 眼鏡の下の聖の瞳が、彼女自身言葉にできない感情に細まっていく。
 だが、聖のやるかたない憤懣は、教師の声に中断された。

「それでは、試合練習の模範稽古を始める!
 代表は番匠と井崎だ。みんなよく見るんだぞ!」

 号令と共に、開放された表情で体操着の生徒達は道場端に座り、友枝と指名されたもう一人の男子、井崎は上座で面をつけ直した。

「アハハ、見ろよ井崎のあのツラ、剣道の授業で格好つけられる筈が、番匠と試合させられることになってむくれてやがる! だっせえ!」
「あの……試合って、男女別にやるんじゃないの?」
「は? 何言ってんの? 番匠だろ? 関係あるかよ」

 凛々花の返答はどうも要領を得ない。
 聖が首を傾げているうちにも試合が始まり、友枝の試合を注視しようと、体育座りから正座に居住いを正した刹那、友枝の竹刀が雷光のように井崎の面へと駆け抜けた。
 聖は目を丸くして凛々花に尋ねた。

「番匠さんって、剣道強いの?」

 聖は凛々花のようなタイプの人間には絶対話かけることは出来なかったのに、友枝を話題の取っ掛かりとすることで平然と話を振っている。
 その変化に、己では気付きもしない。
 凛々花は頭を掻きながら気怠げに答えた。

「おまえ、さっきから何言ってんだ? よく番匠とつるんでる癖に、アイツのこと全然知らねーんだな」

 その一言は、聖をいたく傷つけた。

「番匠が剣道バカなのは、有名な話だろ。中学の頃に全国の三位ぐらいまで行って、剣道推薦でウチの高校入って、朝練してから学校来て、遅くまで部活行って、帰ってから親戚のとこの道場まで行ってるって噂だぜ? そんなヤツに勝てるかよ。
 何が楽しくてそんなに部活やってんのかねー。絶対馬鹿かマゾだぜ。
 ハハッ、知ってるか? 番匠の奴、いい子ちゃんやってるけどな、クラスの奴らから結構評判悪いんだぜ。
 いつもすぐ部活行っちまうから付き合い悪リーし、八方美人でいい子ぶってるし、夜はすぐに寝ちまうからLINEの返信が帰ってこねーんだと!」

 狩生凛々花は気付かない。何時もの女子同士の軽口として友枝の悪口を並べているうちに、聖の目が見た事も無い凶相を浮かべている事に。
 凛々花の軽口は、聖にとって都合の良い上澄みだけが掬い取られた。

「そっか……番匠さん、強いんだ。男子よりも、誰よりも強いんだ……
 ううん、当たり前だよね、番匠さんだもん」

 聖は、友枝の腕を安く見積もった己の不明をこそ恥じた。そこにあるのは、友情や信頼といった領域を明らかに超えた無根拠の信仰だった。
 試合練習の模範稽古と教師は言ったが、友枝と井崎が行っているのは、地稽古と呼ばれる互角稽古の類だ。審判をつけて二本先取で試合を行えば、即座に勝負がついてしまうが故の配慮だ。
 井崎は、クラスメイト達の面前で延々と友枝に打ち据えられたことに、青いプライドをボロボロにされていた。尤も、正直な話をすれば、目も追いつかない素人達の中には、「よくわからないけど、凄いことをやっている」程度の感想しかなかったのだが。
 稽古の打ち切り時を悟った友枝は、天を突くような上段に構えた。曙の日輪の中に白鶴が翼を広げるような凛とした立ち姿。
 おいおい、上段は無いだろ。高校から上段が解禁されるのは知ってるけどさ、まだ入部して一月なのにどこで習って——千々に乱れる胸中を抑えながら、井崎はせめて定石通りにと、剣先を友枝の左小手に定める。
 そんな、蟷螂の斧も同然の抵抗を意にも介さず、友枝は真っ二つに井崎の正面を切り下げた。何て分かり易い決着。
 その姿を見て、塗り潰してしまった美術の教科書の頁の下から、聖画が輝きを放ちながら蘇ったかのような錯覚を覚えた。言葉にしようもない、冒し難く神々しいものに聖は感じていた。
 信仰は心に宿らずとも、朝晩繰り返した仕草は体へと宿る。
 知らず知らずのうちに、聖は祷りを捧げるように胸の前で指を組み、密やかに瞳を閉じていた。



5. ◆◆◆

 友枝の通う切畠尚武館きりはたしょうぶかんは、近辺の剣道家なら知らぬものの無い大道場である。片田舎の道場ながら、指導者には範士八段の名人を始め、近隣の有力な剣士が名を列ねる。
 八段の館長は高齢だが、ゆくゆくは若手の昇り龍と呼ばれる孫の大男が道場を継ぐとの噂。
 友枝は今日も稽古の汗を拭いつつ、竹刀袋を片手に青葉薫る初夏の夜風と月夜を楽しむ。
 爺臭い感性だと、想い人にはからかわれたが、この瞬間が友枝の楽しみだった。心地良さに思わず口もとがほころぶ。
 女子高生の嗜みとばかりに、マスコットキャラクターのストラップが下がったスマホをポケットから取り出した友枝は、画面表示に目をとめると、その表情を曇らせた。

《不在着信 37件 公衆電話》

 眉根を寄せて見つめていた友枝だったが、スマホをポケットに投げこむと、嘆息と共に家に向けて歩き出した。
 女子高生一人で歩く夜道だが、別段の危険は無い。友枝の家は、切畠尚武館の隣家だ。
 時代がかった切妻造の下の玄関を横目に、檜葺きの門扉を潜ると、田圃に面した田舎の農道だ。青田には植えられたばかりにの稲の苗が、懸命な様子で背比べをしていた。
 見慣れた田園風景の片隅に、小さな影が蹲っていた。

「あ、番匠さん! やっと来てくれた!」

 聖は、学校の昼食の待ち合わせと変わらぬ顔で手を振った。

「直川さん、どうしたの!? こんな時間に!」
「テレカ、全部切れちゃって。うち、お小遣い少ないから、これ以上は買えなくって。番匠さんに会いたくなったから、自転車で来ちゃった」

 見れば、路傍には自転車が停めてある。
 しかし——聖の家は、確か学校を挟んで反対側、電車と自転車の乗り継ぎで小一時間はかかる距離ではなかったか。
 頭を過ぎった疑念を払って、友枝の口から出たのは、

「ダメだよこんな時間に! きっとお家の人も心配してるよ!」

 という彼女らしい常識的な一言。

「大丈夫だよ、母さんには一人で伝道に行くって言って出掛けたから。どちらかと言うと、これ全部配らないと、家に入れて貰えない感じ」

 聖は爛と瞳を輝かせて苦笑した。
 その笑顔に、友枝はぞっとする。
 自転車の籠の中には、ヤハヱの証人達が伝道に使う小雑誌が所狭しと詰め込まれていた。
 悪魔サタンの誘惑に負けた哀れな凡夫達に、神の言葉が綴られた薄っぺらな冊子は『目ざめよ!』と呼びかけている。

「これ、どこかに棄ててから帰らなくっちゃね」

 聖は笑顔で、スナック菓子の空き袋でも扱うように神聖な冊子を振ってみせた。

「そういうの、良くないよ。直川さん、お家遠いんでしょ。早く帰らないと、お母さんが心配するよ……」
「大丈夫だよ。うちの親は神様に見栄を張ることにしか興味ないから」
「そう言うこと言っちゃダメだよ! お母さんのことは大切にしないと!」

 友枝の言葉は、何ら中に詰まるもののない一般論だ。しかし、友枝の諫言を受けた聖は、少しだけ息を詰まらせ、目を丸くすると、

「うん。番匠さんがそう言うなら、そうするね!」

 と微笑んで見せた。
 友枝は預かり知らぬことだろう。聖の笑い方は、彼女自身が忌み嫌った母の微笑みと瓜二つだった。
持ち上げられた口角。弓なりに固定された瞳。
 隠そうともせず、ぶつけられる無根拠な好意にそら恐ろしいものを感じ、友枝は聖の袖を引く。

「駅まで送るよ。今日はもう遅いから」
「え……? もうお別れなの? もっと番匠さんと一緒にいたいのに…… それとも、番匠さんは、私がいると……迷惑?」

 聖の行動と言動は明らかに常軌を逸脱していた。
 友枝は微笑んで首を振る。

「ううん、今日は剣道の稽古でちょっと疲れちゃっただけ。また今度遊ぼう」

 その笑顔は、明らかに聖を慮った愛想笑いだった。
 以前の聖なら、一目で勘づいただろう。しかし、今の聖では気付かない。気付けない。

「うんっ、約束だよっ!」

 聖はただ、童女のような満面の笑みを浮かべる。
 少女達は手を繋ぎ、カジカガエルの鳴く井路傍の夜道を、カラカラと自転車を押して歩いていった。





6. ◆◆◆


 上岡は休日の街での伝道奉仕の途中、見慣れぬものを見かけた。
 共に裏野ハイツで勉強会を開いているヤハヱの輩、直川家の聖である。はて、休日のこの時間帯は、母の佳子姉妹と担当の地区で伝道奉仕を行っている筈だったが、と首を捻る。
 聖は学友らしき長身の少女の手を引きながら、一心に何かを語りかけていた。その表情は、休日を級友と楽しむ女学生のものではない。寧ろ、日曜日に王国会館に集ったヤハヱの証人達のような……

「やあ、こんにちは聖姉妹。今日は奉仕はお休みですか?」

 上岡が声をかけると、聖はたちまち警戒心を顕にし、ハリネズミのように身体を強ばらせた。
 勉強会では、ありえない反応である。

「あの——私のこと、姉妹と呼ばないで下さい」

 挨拶の返事より先に、そんな攻撃的な言葉が投げつけられた。
 上岡は、別段怒る様子もなく、静かに問い返す。

「何故です? 私たちは、大いなる神ヤハヱの前では、何時も等しく兄弟でしょう?」

 聖は身を縮め、隣の少女の手を握ると、

「番匠さんの前では違います!」

 と一言吐き捨て、踵を返した。
 隣の少女——番匠は全く事情が飲み込めない様子で、「ちょ、どうしたの? 失礼だよ!」などと言いながら、上岡に申し訳程度の会釈を残し、聖に連れられて去っていった。
 それを見送る上岡の表情は、いつもと変わらぬにこやかな微笑。

 二人の後姿が小さくなっていくのを見送って、ようやく上岡は憫笑を浮かべた。

「これだから凡夫は救い難い。
 救いを求めるのなら、ヤハヱにしておけばよかったものを。
 神ならば、人の子がどれだけ寄りかかろうと、足に縋りつこうと、鴻毛程の重みも感じはしまいだろうに」

 小さく呟いて首を振ると、上岡は通りがかりの男性に微笑んで手の中の冊子を差し出した。

「こんにちは、私たちと一緒に聖書の勉強をしてみませんか?
 世界は今、終わりの時を迎えようとしています——」





7. ◆◆◆


「もう、目上の人にあんな失礼なこと言っちゃダメだからね」

 叱る友枝の声には、力がない。
 はっきりと物事を口にする性格の友枝が、聖を拒絶しないのは、偏に彼女の聡明さ故である。
 友枝には、聖の病根が闇の底まで広がっているのが見えていた。
 拒絶するのは簡単だった。
 その結果、聖が決定的に壊れてしまうのを、他人事だと切り捨てられる人間ならばよかった。
 けれども、友枝は自分が聖のストッパーになれると気付きながら、無視することはできなかった。
 友枝は憶えている。入学式の日に、美術の教科書を囲んで遊んだことを。はにかむような、聖が微笑みを。
 高校一年にしてコネを使うという手段に長けた友枝だが、他人の家庭環境への介入は、天辺が見えない程に壁が高い。宗教団体ならば尚更だ。相談した年上の再従兄弟はとこは、「こういうケースはこじれるぞ」と真剣な顔で忠告してくれた。
 結局、ただの小娘である友枝には、聖の隣で機嫌をとることしかできない。

「献血をお願いしま~す。現在AB型の血液が不足しておりま~す。ご協力お願いしま~す」

 街頭に停まった献血車。
 会話の継ぎ穂を失っていた友枝は、律儀に赤十字のティッシュを受け取ると、

「そういえば私、献血ってしたこと無いんだよね」

 と取ってつけたように繋げた。

「番匠さんもしたことないの? 私もだよ~」
「うん、本当は一度ぐらいはしてみたいんだけど、400ml献血しちゃうと稽古に障りが出ちゃうからさ、見てるだけ~」

 気軽に受け答えていた友枝だったが、ふと己の失言に気付き、青褪めて口元を押さえた。

「……ゴメン。無神経だったね、私」

 友枝でも知っている。ヤハヱは教義で輸血を禁じていることで有名だ。以前、怪我をしたヤハヱの少年の母親が輸血を拒み、その結果少年が死亡するという事件が起こり、その是非を問うて社会問題になったこともある程だ。
 輸血を拒否するヤハヱは、当然他人に血液を与える献血も拒否する。

[生きて動いているものは皆、貴方がたの食物である。
 緑の草と同じように、全てのものを貴方がたに与えた。
 しかし、肉は、その命である血のあるままで食べてはならない]

 聖もまた、創世記 第9章3:4から拡大解釈されたヤハヱの教えを忠実に守っているのだろう。友枝はそう思っていたが、

「気にしないで。それにね、きっと、輸血は悪いことじゃないんだよ。
 ——だって、番匠さんがやってみようと思ったことなんだもん!」

 聖は手を広げて笑う。
 ……この子は、私が死ねと言えばすぐにでも死ぬかもしれない。
 聖の中の自分が重た過ぎて、友枝は吐きそうになった。



8. ◆◆◆


「あ……あのっ! 献血をお願いしますっ!」

 献血車の前でそう叫んだ理由は、聖自身にもうまく言語化できない。
 友枝が稽古の時間となり帰宅の途へ着いた後、聖は衝動に突き動かされるように、この献血車の前に戻ってきた。
 友枝という新たな信仰対象の目覚めて、抑圧されてきたヤハヱへの反抗心が頭をもたげた、というのもあるだろう。
 だが、聖の胸中を最も大きく占めるのは「番匠さんがやりたかったことを、これからやるのだ」という、歪んだ自己同一化願望だ。

「献血は始めてですか?
 こちらの問診票にご記入をお願いします。
 ご自分の血液型はご存知でしょうか——」

 てきぱきと流れ作業で受付が進められ、待合室で簡単なストレッチのようなことをさせられた。
 献血車の中は思っていたより広く、ベッドが三台も並んでいる。嗅ぎ慣れぬ消毒液の香りが、つんと鼻をついた。
 背筋を駆け上がるのは、果たして高揚か、背徳感か。

「献血の前に血液検査をさせて頂きますね」

 左腕の静脈から、注射器の中に赤黒い血液が流れこむのを、聖は興味深げに眺める。
 繰り返し繰り返し植えつけられた、禁忌と嫌悪は動作不良。
 当然だ、とも聖は思う。人間、皆皮の下は血袋だ。人の価値は、尊い人間性にこそある、と。

「ちょっと、これ凄いですよ!」

 検査ブースの方から、興奮した慌ただしい声が聞こえてきた。

「間違いないんですか?」
「間違いありません。年のため、ご本人さんにもう一度確認してみます」

 頬を上気させた看護師が、ゆっくりと聖に問いかける。

「もう一度、血液型を確認させていただいてもよろしいですか?」
「確か、AB型ですけど……」

 そういえば、AB型が不足しているとか言ってたか、と聖は看護師達の期待に満ちた視線を好意的に解釈しようとした。

「血液型には、一般的によく知られるABO式とは別に、Rh式という分類があるのはご存知ですか?」
「そういえば、Rhマイナスとか言われたことがあります」
「ご両親ともに、Rhマイナスですか?」
「そうです」

 間違いない、という喜色が看護師達の間に広がった。
 しかし、聖にとって、Rhマイナスという響きは、幼い頃の苦い記憶を呼び覚ますものでしかなかった。

 ……母の佳子は、聖に語って聞かせたことがある。Rhマイナスの女性が、Rhプラスの男性と結婚して妊娠した場合、『血液型不適合妊娠』を起こす可能性がある、という話を。
 Rh型の違う血液を輸血すると拒絶反応が起こるのは知られているが、『血液型不適合妊娠』とは、これが母胎と胎児の間に起こるのである。
 母は、このことを知った時、大いに悩み苦しんだそうだ。
『自分の血は、毒になる』
 それが母の認識だった。万が一にも不適合妊娠を起こさないように、母は伴侶に二百人に一人のRhマイナスの男性を探し求めた。
 しかし、それは後年の結婚生活の破綻に繋がった。父のプライドは、己が血液型によって選ばれたという事実を許せなかったのだ。
 そんな折に、母はヤハヱに出会ったという。まるで、天啓を受けたようだった、と母は語った。
 不十分な知識に植え付けられた『自分の血は、毒になる』というコンプレックスは、ヤハヱの教えによって上書きされた。
『元より、全ての血は毒でしかなかったのだ』と。

 ……馬鹿馬鹿しい。
 聖は頭を振って、母の思い出を脳裏から追い出した。

「それで、Rhマイナスの血だと、何かを違うんですか? もしかして、献血ができなかったりするんですか?」
「とんでもない」

 年輩の看護師は穏やかに目を細めた。

「Rhマイナスの血液はとても貴重なんです。中でもRhマイナスのAB型はとりわけ数が少ない。事故や手術に対応するため、いつも全ての血液型の血を備蓄出来るように、私たちは献血をお願いしています」

 聖は、その言葉を限りなく単純化して捉えた。

「つまり、献血すると、私の血は役に立つんですか……?」
「もちろんです! 直川さんと同じRhマイナスの血液型の方が手術をされる時や、事故に遭われた時に、輸血用の血液が足りない! という事態を防ぐことができます!
 良ければ、後で是非ドナー登録もお願いします! 直川さんのような特別な血液型の方にはいつもお願いしているのですが、不測の事態や大きな手術の時に、こちらからご連絡して、献血をお願いさて頂くこともありまして——」

 ……すごい。
 ……すごい、すごい。
 看護師の説明は、半ばからは聖の脳裏を素通りしていった。
 聖にとって重要な事実は、ただ一つ。
 ……私は、こんなにも世界に必要とされる人間だったんだ。
 番匠さんの言う通りだ。
 献血は、本当に「いいこと」だったんだ!
 みんなが私を認めてくれてる。必要だって言ってくれてる!

 ……ヤハヱの証人という社会の中で聖に与えれた承認と賛美は、彼女を癒さなかった。
 鋭敏だった聖の感性が、その裏にあった惰性と欺瞞を見抜いていたが故に。
 しかし、新たな神を得て、固い殻を脱ぎ捨てた彼女は、盲たように注がれる承認と賛美に酔いしれている。
 ここにいるのは、もう、全裸で尻を叩かれながら助けを乞うていた幼子ではない。

「はい、ぐっと握って下さ~い。ちょっとだけチクッとしますよー」

 献血の注射の痛みは、あの耐え難い「懲らしめ」とは比べものにもならなかった。
 血液袋の中に、一滴、また一滴と、ノーブルの血が注がれていくのを、聖は満たされた心持ちで眺める。
 時折、水分補給にと渡された紙パックのオレンジジュースに唇をつける。
 思えば、ジュースや駄菓子の類いの一切も、サタンが~から始まる警句によって禁止されていた。
 今更ながらに聖は悟る。
 サタンとは、母にとって自分の気に食わないものを押し込む為の匣にしか過ぎなかったのだと。
 もうここには、ヤハヱもサタンもいない。
 私を導いてくれるのは、番匠さんだ。
 聖は今、満ち足りていた。




 献血車を出ると、空は血のような茜色に染まっていた。
 十分ぐらいは押さえていて下さいね、と言われた針痕の絆創膏を、聖は躊躇いもなく乱暴に毟り取った。
 止まったばかりの血が肘から掌へと滴り落ちる。
 止血された傷口からの出血は弱く細く、聖は僅かな血潮を掌で転がして遊ぶと、高らかに左手を天に突き上げた。
 止まり損ねた僅かな量の血潮が、蛞蝓の這うような速度で、聖の白い肌を伝って滴り落ちてくる。
 ……ああ、なんて綺麗。
 夕焼けに照らされる己が血潮に、聖はうっとりとする。
 通行人の幾人かが少女の奇行に足を止めるが、聖は気にもかけず、恍惚の表情で二の腕に這った朱線を舐めあげた。それは、聖だけの黒彌撒。ほんのささやかな涜神行為。
 エクスタシーのような表情で血潮を味わっていた聖の舌が、びくりと止まった。

 大通りを挟んだ向かい側、横断歩道の向こうから信じられないもの見る目で母が聖を見つめていた。
 母は見ていた。伝道奉仕から逃げ出した娘が、献血車から出てくるところを。呆然と立ち尽くしながら、ずっと見ていた。淫靡な表情で、血の穢れを口にする娘を。
 その顔に、聖を脅かした仮面のような愛想笑いはない。
 怒りとも悲しみともつかぬ表情に、不気味に顔を歪ませていた。
 母は何かを叫んでいた。しかし、帰宅ラッシュの通行音に遮られ、言葉として明確な像を結ばなかった。
 どうせまた、サタンがどうとか言っているのだろうと聖は思う。
 頭を掻き毟る姿と表情だけで、金切り声が想像できて少しだけ憂鬱だ。
 対岸から醒めた表情で見つめる聖の姿に冷静な判断力を無くしたのか、母は車の途切れた合間に赤信号を走り出し、交差点を右折してきた軽乗用車に撥ね飛ばされた。
 斜めに撥ね飛んだ母の身体はピンボールのように対向車線の車にも撥ねられ、聖の側のガードレールにぶつかって停止した。
 一拍遅れて、クラクションとブレーキ音の重奏が響き渡る。
 ブレーキ痕が縦横に刻まれた路面に横たわる母の身体を中心に、ゆっくりと大き過ぎる血だまりが広がっていく。
 突然のことで動けないもの、横転した車から這い出すもの、携帯で救急に助けを呼ぶもの。
 誰も統制の取れぬ惨状の中で、聖は血だまりに沈む母の側に歩み寄って、呟いた。

「もったいない。Rhマイナスの血は貴重なのに」

 母の胸郭は、まだゆっくりと上下を続けていた。
 胡乱な母の目が、聖を捉えた。
 唇が 、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
 音にならなかったが、今度ははっきりと捉えることができた。

『これは、ばつ?』

 通りの良い声で、聖は答えた。

「ううん、違う。これは、事故だよ」

 その言葉は、果たして母の耳に届いたものか。
 もはや応えず、母は血塗れの胸を小さく上下させるだけだった。
 遠くから、救急車のサイレンが近づいてくる。
 聖は母の傍らに膝をつき、血塗れの胸をまさぐり、母がいつも胸ポケットと財布の二箇所に入れている紙片を抜き取った。
 そこには、
『輸血拒否カード:私は信仰上の理由で、治療にあたって一切の輸血を拒否します』
 と記されている。
 意識のない耳元に、聖はそっと囁く。

「助けてあげるね。番匠さんが、お母さんのことは大事にしなさい、って言ってたから」

 母の血液型も、RhマイナスのAB型だ。もしかすると、早速聖の血が人の役立つ機会が来たのかもしれない。
 そう考えると、少しだけ愉快だ。
 聖は血塗れの輸血拒否カードをポケットに押し込むと、真っ赤な掌を隠そうともせず、颯爽と立ち上がった。
 到着した救急隊員の誰何の声に耳も貸さず、そのままひらりと身を翻し、野次馬達が集まり始めた雑踏の中に、聖は軽やかな足取りで消えていった。




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