婆ちゃんの股ぐら

竹尾練路

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婆ちゃんの股ぐら

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 ――体はくたくたに草臥れ果てている。眠りに就いていても、今日と明日の堺すら分からぬ。
 そんな、己が襤褸襤褸に磨り減った晩には、きまってアイツがやってくる。私を探しにやってくる。
 汚穢な粘液で覆われた、クリーム色の体を蠕動させながら、口吻を伸ばして音もなく周囲をまさぐるのだ。
 私は、子供のかくれんぼのように頭から布団を被って、アイツが去っていくのを息を殺して待つばかりだ。
 そんな夜が訪れるようになって、一体何年が経っただろうか?
 
   ◆

 今日も残業は長引き、帰宅した時には22時を過ぎていた。「ただいま」と声をかけたが、居間で韓流ドラマに興じている妻からの返答はない。36インチのプラズマテレビの中で、日本人を名乗る小心そうな男がペコペコと頭を下げていた。
 机上には、形の悪い小さなハンバーグと、荒い千切りのキャベツを載せた皿がぞんざいにラップをかけて置かれていた。電子レンジの500ワットで30秒。申し訳程度に温めて、「いただきます」声をかけて箸を握る。
 茶碗の飯を温め直す一手間より、早く何か腹に収めたい思いが勝って、冷や飯を喰う日々にも慣れてしまった。
 空腹を満たすだけの食事を終え、「ごちそうさま」と両手を合わせる。
 洗い物をして食器を伏せると、時計はもう十時半を指している。 
 これから床に潜り込むまでの一時間半が、私に許されたプライベートの時間の全てだ。

 自室に戻ろうとすると、ごとりと扉を閉じる音と、逃げるような足音。中学生の一人息子の洋輔だろうか?
 部屋の様子を伺い、稚拙な間違い探しを始める。定位置からずれたマウス、熱を帯びたデスクトップPCの本体、体温の移った座椅子。
 洋輔には、何か調べ物がある時は寝室のパソコンの使用を許可していたが、逃げるように出て行ったという事は、何か後ろ暗いことでもあったのだろうか?
 履歴を調べると、その理由はあっさりと割れた。洋輔が私のパソコンで閲覧していたのは、ポルノサイトだった。思春期の少年らしい悪戯である。もう性に興味を持つような歳になったのか、という感慨。プライベートブラウズを使えば閲覧履歴を私に見られずに済んだのに、と稚拙なネットリテラシーを可愛らしく思った。

 息子の履歴を辿り、幾つかのポルノサイトを流し見ると、大袈裟に演出された女性達の卑猥さに、たじろぎそうにった。思えば、ポルノサイトを閲覧するのは初めてのことである。 
 女性達は淫媚に両足を開き、傷口のような部分を露にしている。
 不意に吐き気を催し、ブラウザを閉じた。
 ――今の子供たちは、こんなにも簡単に無修正のポルノを観ることが出来るのか。
 私たちが中学生の時分には、スマホはおろかインターネットなどは勿論なく、質の悪いエロ本やアダルトビデオが男子中学生の性のはけ口となっていた。
 私は、デスクの一番下の引き出しを開き、無造作に青春の残滓が詰め込まれ玩具箱から、一本のビデオテープを取り出した。今はもう、再生することも出来ないVHSのビデオ。ラベルはない。当時悪友達と車座になって食い入るようにブラウン管のテレビで見つめた、無修正のアダルトビデオだった。
   少し目を閉じれば、私はいつだって己を中学校二年生の時分――このビデオを手にした1988年の9月へと巻き戻す事が出来る。
 想起する。あれは抜けるような青い空の下、ジメジメとうだるように湿度が高く暑い夏日だった――。


   ◆◆◆

「けぇぇぇいちゃぁぁん、けぇぇぇいちゃぁぁん、漏れちゃったよぉ、漏れちゃったよぉ」

 帰宅をすると、玄関先から嗄れた声が幾度も俺の名を呼んでいるのが聞こえた。

「けぇぇぇいちゃぁぁん」

 靴を上がり框に散らかして駆け込むと、祖母が汚れた布団の上で涙を流しながら俺を呼んでいた。

「婆ちゃん、遅くなってごめんな、今おむつ替えような」

 枯れ枝のような両足を持ち上げ、皺が寄って垂れた腿を開き、尿でぐっちょりと重くなった布おむつを取り替える。
 父方の祖母が寝たきりになったのは一年前。原因は階段で滑って腰を打ったというありきたりで些細な出来事だった。最初は肩を貸せば起き上がることもできたが、一日中を床の上で過ごすようになって半年、祖母の足は萎え、すっかり立ち上がることが出来なくなっていた。
 母は、一日の大半をパートタイムのバイトで過ごしている。父は俺が二歳の頃交通事故で他界したらしい。だから、俺は父の顔を遺影でしか知らない。
  
「けいちゃん、おおきにありがとおおきにありがとねえ」

 祖母ははなを流しながら、何度も頭をさげて己の不甲斐なさを詫びた。

「いいけん、いいけん、気にせんで」

 俺は、努めて笑顔を崩さないようにしながら、祖母の股ぐらを拭った。
 日がなパートに出ていた母の代わりに俺を育ててくれたのは祖母だった。俺は祖母に懐き、婆ちゃん、婆ちゃん、と言って暇さえあれば祖母の後を追っていたように思う。
 だが、いつも幼い俺を肩車し、おやつの代わりに甘い卵焼きを作ってくれていた祖母の姿は見るかげもない。
 いつも綺麗な整えて手拭いで縛っていた髪は脂気を失って乱れ、俺を抱き上げてくれていた腕は日に日に萎びていく。
 祖母が、布団の上で何か見知らぬ怪物のような姿に変貌していくのを見るのは悲しかった。
 だが、どんなに姿形が変わろうと、祖母は祖母だ。幼い頃にはおむつも替えてくれた俺の婆ちゃんだ。
 だから、寝たきりになった祖母を世話するのは当然のことだ――そう、俺は思っている。

 クラスの連中の話題なんて、いつもさして変わらない。
 今日なんて、女のアソコは一体どんな形をしているか、なんて下卑た話題を何時間も続けていた。
 馬鹿馬鹿しい。二重丸に縦線を通した俗悪な記号を見るだけで気分が悪くなる。

「さ、婆ちゃん、新しいおむつ敷くよ。もう一遍足あげるからね」

   はだの垂れた祖母の足を持ち上げると、老人独特の饐えた体臭がした。
 清潔なおむつを尻に敷き、巻きつける。その瞬間、ぷすぅ、と気の抜けた屁の音が聞こえ、おむつの中でびちゃびちゃと湿った音が響いた。
 つん、と鼻をつく悪臭。
 ――別段、珍しいことではない。いつも腹の具合が悪く、尻の穴も緩くなってしまった祖母は、屁と共に黄色い粥のような下痢を漏らすことも度々だった。
 部屋の中をわんわん飛び回っていた黒蝿の羽音が一段と高くなる。

「婆ちゃん、もういっぺん綺麗にしよっか」
 
 俺は、努めて笑顔を作った。
 糞で汚れたおむつを取り替え、祖母の股ぐらを拭っていく。
 女のアソコがどうなっているか、なんて話題で盛り上がることができる同級生達とは絶対に分かりあえることはないだろう。
 老人斑の浮かんだ皺だらけの内股。胡麻塩まだらの陰毛は糞で汚れている。 
 ここには、性欲旺盛な中学生たちの股間を膨らませるようなものは何一つとしてない。
 ――この、婆ちゃんの股ぐらには。

 汚れた二枚のオムツを洗って、裏の物干し竿に吊るす。
 少ないおむつを使い回しているので、すっかり匂いが取れなくなってしまった。
 猫の額のように狭い庭には、バラックのようなみすぼらしい小さな平屋が立っている。
 海辺に近いせいか、潮風がつんと薫った。内陸の海独特の、腐ったような潮の香だ。
 糞と潮の香りに切り取られたこの小さな家が、中学校二年生の俺にとっての世界だった。


  ◆◆◆

 近頃、妻が私より遅く帰宅する晩が増えたように感じる。
 卓上に夕食が用意されていない夜には、大抵妻は早くから外出している。
 洋輔に夕食はどうしたのか尋ねてみると、小遣いを多めに貰って外食で済ませているらしい。仕方ないので、そんな晩は買い置きしたレトルトやカップ麺でやり過ごしている。

 ただいま、の一言もなく、玄関の扉が開いた。

「おかえり」
「あら、帰ってたの」

 妻は興味無さげに、踵の尖った高いヒールを脱いだ。赤い口紅。背中の開いたドレス。香水の薫り。

「こんな遅くまで、何処に行ってたんだ?」

 私の問いに、妻は不快げに眉を顰めた。

「ちょっと昔の友達と飲んでいただけよ。邪魔だからどいて」

 妻が不貞をしているかもしれない、という疑いは当然あった。
 だとしても、私はそれを咎める気にはならない。責を負うべきは私だろう。
 もう、十年近く夫婦の営みはない。求められても、断ってきたのは私だった。
 妻が失望を露わにしていたのも、最初の頃だけだ。洋輔が生まれると、妻は子育てに手を取られるようになり、そうのうちに寝室も別々になり、今では言葉を交わすことすら滅多にない。
 だが、私としても、そんな生ぬるい現在の関係には別段の不満はない。そんな感情はとうに鈍麻しきっていた。


 ◆

 ――じゅるり、と寝室でアイツが丸く肥えた体を蠢かせた。
 今日も、アイツは私を探している。
 毛布を頭まで被って息を殺す。 
 どんなに疲れていても、風呂で体を洗い、寝る前に香水を首筋に垂らすのは忘れない。
 アイツは臭い匂いが大好きだから、清浄な人間には近寄れないのだ。
 毛布越しにアイツのぶよぶよと肥えた体が通り過ぎて行くのを感じる。
 アイツの気配が去っていく。
 ――もう、いいか?
 寝苦しい熱帯夜だった。毛布の中で体中が汗でべたつく。
 暑いのはいい。だが、布団の中で己の汗の臭いが籠るのは、耐えられない。
 そっと毛布を下げ、瞳だけを出して辺りの暗がりを伺う。
 蠢くものの姿は見えない。
 ……去ってくれたか。
 安堵した瞬間、にゅるり、伸びたアイツの頭が眼前に迫った。
  丸い口吻の先が、ぱっくりと開く。
 中には、黄色く汚れた老女の歯が並んでいた。

 アイツが、私を見つけた歓喜の声を上げる。

「けぇぇぇいちゃぁぁん」
 
 私は、絶叫した。

  ◆◆◆

「お前は、本当にそれでいいのか? 良ければ、俺が保護者の方と話をつけてやるぞ」

 人の善さそうな担任は、真摯な瞳で俺を案じてくれているようだ。

「いいんです。婆ちゃんの面倒みなくちゃ行けませんから」
「お家の事情は分かるが、折角の修学旅行旅行なんだ。俺は、お前にも一緒に来て欲しい。いい思い出になるぞ」

 担任は、幾度も「一緒に」と「思い出」という単語を繰り返した。
 だが、それらの言葉は空虚に俺の中を通り過ぎた。
 小便と糞を吸い込んでずっしりとしたおむつの重みと、鼻を刺す臭気ばかりが実体を伴った俺にとっての毎日で、担任の唱えるお題目はまるで現実感を欠いている。
 相手にするのが鬱陶しくなって、考えておきます、と短く返答をして席を立った。

 職員室を出ると、絵理が待ち構えていた。

「ねえ、圭ちゃん、本当に修学旅行行かないの?」
「ああ。婆ちゃんの面倒をみなくちゃ行けないからな」
「そんなのおかしい! 絶対おかしいよ! 圭ちゃん、ずっとやってたサッカーだって一年生で辞めちゃったじゃん! 折角レギュラーになれたのに! お婆ちゃんのお世話は大切だけど、圭ちゃんの楽しみも見つけなきゃ! これじゃあ、あんまりにも可哀想だよ」

 絵理は頬を紅潮させ、拳を振りながら力説した。
 俺は、小学生の時から同じクラスのこいつが、嫌いでは無い。
 だが、広い庭付きの一戸建てに家族六人悠々と暮らしているような奴に、同情されたくないという思いが俺を意固地にさせた。

「何で、お前にそんな事言われなきゃなんねえんだよ」
「私が、圭ちゃんと一緒に、修学旅行、行きたいから」

 絵理は、こっちがたじろく程の真っ直ぐな俺を見つめ、そう言い切った。

「考えておくよ」

 黒い瞳の放つ圧力に耐えきれずに、俺は踵を返した。
 
『けいちゃん、いつもおおきにありがとね』

 弱り切ってしまった婆ちゃんの声。
 そうだ、俺は正しい、善い選択をしている。自分のやるべきことを果たしている。
 ――俺は、可哀想なんかじゃない。

  ◆

 家に帰ると、珍しく母が居間に座ってテレビを眺めていた。
 ブラウン管の中では、崖を登る男がリポビタンDの効能を謳っている。
 母は、漫然とテレビを眺めながら、紙パックの焼酎を、ぬるい薬缶の水で割ってちびちびと舐めていた。
 天井近くでは、今日も黒い蝿がわんわんと音を立てて飛び回っている。
 幾本もの蝿取り紙がぶら下がっていたが、その表面は既に真っ黒く蝿の死骸で覆われ、これ以上の効果は見込めそうにない。

「ねえ」

 母が、不機嫌そうに口を開いた。

「何あんた、私に恥かかせてくれてんの。修学旅行、行けないって先生に行ったそうじゃない。
 その話が伝わって、斜向かいの山口さん家のバアさんに説教されたのよ。
 あのババア、うちの事何も知らない癖して、私を子供の修学旅行費も出せない情けない親だと決めつけやがって。
 誰があんたの事食わせてやってると思ってんの。親に恥かかせるようなことをよく出来るわね」

 心底嫌そうな顔をして、母は箪笥の引き出しの封筒から、折り目だらけの紙幣を取り出し、裸銭を叩きつけるように置いた。

「こんだけあれば、修学旅行費ぐらい足りるでしょ。行ってくればいいじゃない」
「で、でも婆ちゃんが」

 そういった瞬間、母の眉間に縦筋が走った。

「婆ちゃん婆ちゃんって、あんたそればっかりね。産んでくれた親への感謝の気持ちはないの?」

 思えば、俺はこの母に母親らしいことをして貰った記憶がない。
 腹が減った時には食事を作り、泣いた時にはあやして遊んでくれたのも全部祖母だった。
 勿論、父の代わりに三人分の生活費を稼いでくれたのは母だ。そこには、紛れもなく愛情はあったのだろう。
 だが、お婆ちゃん子に育った俺は、母よりも祖母に懐いていたのは間違いない。
 あれは、まだ小学校に上がる前の話だったか。

『ねえ、今日は久しぶりに私が夕ご飯作ってあげようか』

 休日に珍しくエプロン姿を見せた母に、

『いらない! 婆ちゃんのご飯の方が美味しいもん』

 無邪気にそう答えた時、母は裏切られたような、酷く落胆した表情を見せた。
 子供心に返答を誤ったことは理解できたが、取り繕う言葉を続ける程の機微を、その時の俺は持っていなかった。
 年月は過ぎ、いつの間にか、母は家の中の人間関係を『自分と、それ以外』で分けるようになっていた。
 祖母が腰を打って寝込んだ時も、介護をしたのは最初だけのことだった。
 『お前たちは、私とは違う――』母の冷ややかな視線から、そんな言外の想いを感じずにはいられなかったが、それを訂正する機会が得られないまま、ずるずると俺たちの間にある溝は決定的なものとなってしまっていた。
 母は、疲れた表情で嘆息した。

「いいから、修学旅行ぐらい行って来なさいよ。
 じゃないと、私が恥をかくんだから。
 の面倒は、私が見といてやるからさ」

 そう言って、母は後ろに向けた親指で祖母を指した。

  ◆◆◆

 妻とは、上司から紹介された見合いで結婚した。
 当時、既に恋愛結婚がブームになってから久しく、見合いでの結婚は同期でも数少なかったように思う。
 相手が、私にどんな要望を抱いていたかは、あまり興味がなかった。
 結婚など、してもしなくても良い。
 そう考えてはいたが『ちゃんとした大人は結婚をしているもの』という世間一般の考えに反して生きるよりは、当たり障りのない相手と結婚してしまう方が楽だった。
 私が見合いの相手に望んだことは、清潔好きの女性である、というただ一点だった。
 特に、水回りやトイレ周りの清掃は欠かさぬようにして欲しい――そう伝えると「変わった人」と言って、妻は笑った。
 故郷を出た私は東京の商社である程度の成功を収めており、見合い相手は引く手数多だった。
 こう言えば私が酷い人間のように思われるしれないが――結婚しようと思った、最も大きな動機は、自分の代わりにトイレの清掃をしてくれる人間ができる、という事だった。

 妻の外出が増えてから数週間。家の中は目に見えて汚れが増えている。
 小用を足そうと便座を捲ってみると、裏に飛び散った便が点々と茶色い染みを残している事も度々だ。
 そんな時は、意を決し、腕まくりをして便座の裏をブラシで擦り上げる。
 ――糞の匂いを嗅ぎつけて、アイツがやってこないように。

 ◆

 ただ布団の向こうで佇むだけだったアイツは、ついに言葉を発した。
 あれは、私を呼ぶ声だ。
 決して、答えてはいけない。
 振り返っては、いけない。
 私は、ラベルの無いビデオテープを握り締めた。

  ◆◆◆


 京都への修学旅行は、思いの他楽しかった。見下げ果てていた同級生達との下らないやりとりも、涙を流して笑い転げる程に愉快だった。
 あの小さな庭で、糞尿の香りに囲まれていた毎日は何だったのかと錯覚する程に。
 京都の桜小路で、俺は生まれて初めて女子から告白を受けた。相手は勿論、絵理だった。
 告白に続いて、生まれ初めてのキスをした。女子の髪は、甘い香りがすると知った。
 世の中にこんな楽しい事があるのかと、感情の底が抜けたかのような四日間だった。
 
 ――だから、あの後に起ったことは、全て、何もかもを忘れて遊び呆けていた俺への罰なのだろう。

 修学旅行の浮かれ気分も冷めやらぬまま、俺は土産物の詰まった鞄を背にして家路へと急いだ。

「ただいま!」
 
 この一年、上げたことのないような朗らかな声で帰宅を告げて玄関の引き扉を開く。
 ――瞬間、嗅いだことのないような異様な臭気に、蹈鞴を踏んだ。
 ぶぅん、と何か低い音が聞こえる。

「婆ちゃん……?」

 玄関には、歪んだ臭気と共に、大小の蝿が飛び回り、開いた引き扉から茜さす秋の夕暮れ空に向かって消えて行った。
 尋常ではない、何事かが起こっていることは、瞬時に理解できた。

「婆ちゃん、一体なにが……!?」

 部屋には、秋の田に蚊柱が立つ如く大小様々な蝿が飛び回り、その羽音はうなりを上げて、調律中の弦楽器のように、上下に音程を揺るがしながら、不協和音の咆哮を放っていた。
 顔や剥き出しの腕足に、べたべたと赤い眼の金蝿が貼り付いてくる。不快感で顔中を両手で払う。蝿の何匹は潰れて、その体液が飛び散った。
 恐るべき蝿の羽音に紛れて、か細い声が聞こえた。

「けぇぇぇいちゃぁぁぁん、けぇぇぇいちゃぁぁぁん」

 祖母の声だった。祖母は顔中をびっしりと蝿にたかられながら、しわがれた声で俺を呼び続けていた。
 蝿たちの出所は、勿論祖母の下半身だった。
 祖母のおむつから糞尿が溢れ出し、ぐっちょりと敷布団までを黄色く濡らし、その悪臭が数えきれない蝿を呼び寄せていた。
 ぷちゅ、と足元で何かを潰した感覚。
 床は、蛆虫で溢れていた。

 不意に、けらけらと笑い声がした。
 見れば、襖で隔てられた六畳間の向こう側で、人の声がする。
 駆け込むと、母のぎゃ、という悲鳴が響いた。

「ちょっと、やめてよ、蝿がこっちにも来るじゃない」

 母は、テレビでドリフターズのお笑い番組を見ていた。
 盥が芸人の頭に落ちる。テレビのオーディエンスと一緒に、母がけらけらと笑い声を上げる。

「どど、」

 どうしてこんな事に、と尋ねる迄に、5回詰まった。
 母は、拗ねたように口を尖らせた。
 
「私だって、最初はおむつ替えてあげようとしたのよ。
 でもさ、足が痛いとか、圭ちゃんはもっと上手にしてくれる、とか文句ばっかり言うからさ。
 世話して貰う分際で、図々しいったらありゃしない。だから、圭ちゃんが帰ってくるまで待ってて貰うことにしたの」
 
 母は、紙パックの焼酎をストレートで煽った。
 
「ほら、帰ってきたんなら、大好きなお婆ちゃんのとこ、綺麗にしてあげな。それから、この煩い蝿も追っ払って」

 母は俺の事を、蝿と共に掌で払った。

 祖母は寝返りすらも禄に打たせて貰っていなかったのだろう。枕元に粥と水差しこそあったが、体には幾つも床ずれができていた。
 ――祖母のおむつの中を開くと、中では眩暈がするほどの数の蛆虫が縦横無盡に這いまわっている。
 鼻が曲がる程の糞尿の臭気。まだ暑気残る九月に、三日か四日か。
 蛆虫と、新たに卵を産み付けようとする蝿と、蛆が羽化して飛び立った後の蛹の殻。蝿の短い一生がそこにはあった、
 眼前のおぞましい光景と臭気で目がちかちかとする。
 部屋中を我が物顔で闊歩する蛆虫たち。
 気が遠くなるような緩慢な動きで、奴らは糞便を食い荒らし、部屋中へと散って回ったのだ。
 箒で何度も丸々太った蛆を集めては庭に捨て、屎尿で蛆の苗床となった敷布団を捨て、祖母の全身を拭き清めるまで、4時間近くかかった。

 ようやく、目につく限りの蛆虫を退治し、ほっと一息をついて祖母の股ぐらをお湯に浸したタオルで丁寧に拭いていると。
 不意に、ぷりぷりとした大ぶりの蛆虫が、祖母の疎らな陰毛を掻き分けるようにして、股の奥から、這い出してきた。
 やがて、蛆は丸々とした全身を見せると敷き替えた布団の上にポロリと転がり落ちた。
 最期まで隠れていた一匹なのだろう。辺りを伺うように口吻を伸び縮みさせ、クリーム色の体を蠕動させながら、清めたばかりの布団の上を這いまわる。
 胸の奥にひりつく感情は、未だ怒りと呼べるまでの温度に高まらない。
 だが、これだけは決めた。
 ――殺そう、叩き潰そう。
 拳を握って腕を振り上げるが、指先は震え、肩はガチガチに固まって動かない。
 その時になって、俺は涙と鼻水を垂れ流して、自分が泣きじゃくっている事を自覚した。
 ――気が付いた時には、祖母の股ぐらから剥い出した蛆は、白い体をくねらせて、何処かに去ってしまっていた。

 ◆
  
 祖母は、その二ヶ月後に逝った。
 悲しみは感じなかった。悲しみより何より――安堵と開放感が勝った。
 祖母から受けてきた筈の13年間の慈しみ。それを、たかだか一年の介護で喪ってしまった己の不甲斐なさこそ、悲しかった。
 知らなかったのだ。俺が、こんな不義理な人でなしだったなんて。
 母は葬儀で泣きじゃくり「あんたはたった一人で家族を支えて、今までよく頑張ったよ」と親戚から背中を撫でられていた。

 ◆

 祖母を喪って、生活の軸を失い呆としていた俺を、修学旅行の悪友が誘った。
 無修正のアダルトビデオがあるから、一緒に鑑賞しないかという誘いである。
 興味はなかったが、その時の俺には、何行動を起こす為のモチベーションが決定的に欠如していて、悪友の誘うがままに鑑賞会へと出かけた。
 観賞会の会場は、両親が共働きの家の居間だった。
 古いブラウン管のテレビを囲み、悪友たちと画質の悪いアダルトビデオを見つめる。
 わざとらしい嬌声。手ブレの酷い映像。画面には時折ノイズまで走る、劣悪なビデオだった。

 不意に、大股開きになった女性の姿がアップに映った。
 秘所へと、カメラがクローズアップする。
 瞬間、テレビの画面から、ぼとりと、丸々太った蛆虫が零れ落ちた。
 アイツだ。
 あの時の蛆虫だ。
 続いて、退治した筈の蛆虫の群れが、次から次への、画面の中から湧き出して、画面の外へと溢れ出してくる。
 俺は、悲鳴を上げ、トイレに駆け込んで嘔吐した。
 
 そんな俺の肩を、悪友はぽんぽん叩いて口の端を吊り上げた。

「お前、女にロマン抱き過ぎだろ。本物のアソコは、結構グロイんだぜ」

   ◆◆◆

 あの時のビデオテープは紆余曲折を経て、まだ私の手元にある。
 高校で、絵理に振られた私を慰めるために悪友がくれたものだ。
 まったく大きなお世話だったが、あの時蛆虫が這い出たこのVHSのビデオは怖ろしい穢れに思えて、容易に手放すことは出来なかった。
 ――絵理に振られた理由は単純だ。初体験の時、絵理の裸を見た私が嘔吐してしまったせいである。
 あの時の、見下げ果てたような視線は未だに脳裏に焼き付いている。
 その反省を踏まえて、結婚してからの妻との行為は、努めて夜闇の中で、目を逸らして行った。

「ねえ、あなた」

 或る晩、珍しく妻から私にかけてきた。

「あなたのお母さまが具合悪いらしくて――最後は、家族一緒に過ごしたいんですって。
 ねえ、断って。あなた。
 もう、お母さまには興味ないって言ってたわよね。
 きっと、病院で丁寧なケアを受けた方がお母さまも幸せよ」

 長らく、老人ホームで別居していた母からの連絡だった。
 それを拒む妻の表情――それは、祖母を疎んでいた母と、まるで同じ顔をしていた。

 ――このまま、母と同じ顔のこの女と一生を過ごすのか――。

 そう思い悩むうちに、私はビデオテープを片手に電車に乗っていた。
 行き先は、生まれ育ったあの町だった。

  ◆

 到着したのは、空に夜の帳がかかり始めた頃合いだった。
 ――忘れもしない、私が逃げ出した糞のような潮風の香り。
 過疎化が進み、明りが灯っている家さえも疎らだ。
 生家を探そうと試みたが、二十年の歳月で土地勘を失い、ついぞ見つけることは出来なかった。
 
 不意に、海を眺めたくなって立ち寄った船着き場で、猫の死骸を見つけた。
 誰も片付ける者はいないのだろう。
 放置され、鴉に突かれて半ば肉塊となった猫からは、何匹もの蛆虫が這い出して蠢いていた。
 
 私は、悲鳴を上げて走りだした。
 アイツがいる。背後にアイツの気配がする。
 ぶよぶよした大きな体。蠕動するクリーム色の汚穢な表皮。
 アイツだ。
 あの日、婆ちゃんの股ぐらから這い出てきた蛆虫だ。
 私の人生は、漫然と過ごしているうちに正午を過ぎてしまった。このまま、薄闇に包まれるのを待つばかりの人生。思えば、私の半生はあの蛆虫から逃げ続けるばかりであった。
 これからも、ただ一匹の小さな蛆虫に追いかけられて、残りの半生をを過ごすのか。
 小指の先ほどにもない蛆虫に怯えて、子供のかくれんぼのように頭まで布団を被り、ガタガタ震えて夜を過ごすのか。
 アイツは直ぐに私の背後へと追いついた。肩口で蛆虫の口吻の先がぱっくりと開き、嗄れた声で私を呼ぶ。

『けぇぇぇいちゃぁぁぁん』

 私は、悲鳴のような叫び声をあげて振り返り、そこにいるかも分からない蛆虫へ、VHSのビデオテープを叩きつけた。
 そのまま、何度も何度も、子供の地団太のように踏みつける。
 靴の下には、割れたプラスチックの破片と、だらしなく広がったテープの塊に変じたVHSが。
 バラバラに砕けたビデオテープを海に向かって蹴り込むと、ほつれたテープを海藻のように揺らめかせながら、ゆっくりと暗い夜の水面へと沈んでいった。

 完
 
 
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