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67 あっさり正体がバレました…アレ?

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 私がどれだけウジウジと悩んでいても朝日は昇るし、容赦なく定期試験は始まるのだ。

 ノロノロと支度を終えて、始業時間ギリギリに教室へ入ると、待ち構えていた殿下に腕を掴まれた。

「――おはよう、今朝は随分と遅かったな」
「えっ…あの…おはようございます…。今朝は…いえ、二週間の間、試験の個人指導をありがとうございました。もう…お手を煩わせることの無いように…その、頑張りますから…」
「あ?…ああ…別に礼を言う必要は無い。むしろ…いや、夕食も温かいうちに食べることを意識できたしな」
「そ…れは、今後も自己管理をお願いします。あの…そろそろ試験が始まる時間ですから、手を…離して頂けませんか?」
「そ、うか…。では、大事な話は放課後にしよう。試験期間中は生徒会活動も図書室の利用も制限されているのだから、少しぐらいなら時間を取れるだろう?」
「えっ⁈…話なら此処でも…」
「…二人きりでないと話せない内容だからな。…昨日の…執務室での話だ」

 うっそりと微笑みを浮かべて、一瞬だけ私の唇を指の腹でなぞるディミトリ殿下に肌が粟立つ。

 …思わず瞠目する私に一度だけ視線を投げかけると「また…詳しい話は放課後にな」と彼は自席へと戻っていった。

(…まさかまさかまさか…⁈)

 バクバクと心臓がけたたましく騒ぎだすのを止めることが出来ない。

 ――二人きりでないと話せない内容…執務室での話…。
 …まさか無理やりひよこ豆を食べさせたことを今更蒸し返すとも思えないし、そうなると思い当たるのは件の話しかない。

(てっきり…寝ているから気づいていないと思っていたのに…)

 あの時、ディミトリ殿下が目覚めていたのだとすれば、何故あの場で私の事を怒りに任せて叱責しなかったのかは気にかかる。
 しかも今朝になってその話を蒸し返すなんて、試験前に動揺させるのは止めて欲しいっ‼
 …まあ、これも全ては自業自得なんだけれど。

(適当な言い訳なんか思いつかないわ…唇にゴミが付いていたから、舐め取っただけです…とか?! …無理無理無理―っ‼あああ…記憶を抹消して、今すぐに国外逃亡してしまいたい…‼)

 机に突っ伏し、ブツブツと呻き声を上げながら狼狽していると、周りからの冷たい視線に合わせて、無情にも試験開始の鐘の音がカラーン・カラーンと頭上で響いた。

 それは、まるで死刑宣告の鐘の音のようだと…カールにはそう感じられたのだった。



(うう…やっと…一日目の試験が終わった…。でも朝の衝撃が大きすぎて…正直、何を書いたのか思い出せない…)

 虚ろな目で、本日の事を反芻してはみたものの、朝の殿下の発言を引きずり過ぎて、自分の答案に何をどう埋めたのかさえ定かではない。

 ホームルームが終わり、担任から明日の試験日程についての説明を聞き終えた私は、馬鹿の一つ覚えのように今回も"逃げ"を打つことにした。

 ――勿論、ディミトリ殿下からだ。

 これがただの時間稼ぎにしかならないことは重々承知しているが、今は上手い言い訳が思いつかない。せめてもう少し考える時間が欲しい‼

「…っつ⁈ カールっ⁈ …お前っ…どこへ行くつもりだっ⁈」

 私を見咎めた、ディミトリ殿下の狼狽えた声には気づかないふりをして、廊下へ飛び出すとプティノポローン棟目掛けて全力疾走で廊下を駆け抜けた。

 定期試験中は様々な活動が制限されるために、特別室などの使用は禁じられている。
 生徒は黙って自室で勉強していろという学院側の方針なのだが、今の私が寮の自室へ籠っても殿下に即お迎え→後、事情聴取の状況が簡単に読めるのだから、それを避けるためにも医務室でディートハルト先生に匿ってもらおうと考えたのだ。
 この試験期間ならば、どうせ利用者も少ないから大丈夫だろうと、勢いのままに医務室へ駆け込むとその目論見は成功し、無事に私は殿下から逃げおおせたのだった。



「…カール、お前なぁ…。良いか?医務室は病人や怪我人が来る場所であって避難所じゃ無いんだ。そんな元気に飛び込んでくる病人がいるかっ‼」

 扉を閉め、床に崩れ落ちた私は呆れ顔のディートハルト先生から水を差し出されていた。

「た、助かり…ます。ハァハァ…今日…ハァ…だけ、ハァ…匿って…下さ、い…」

 息も整わないまま、カーテンで仕切られたベッドを見ると、利用者は居ないようで四台すべてのベッドが空いている。しめしめ…。
 素早く一番奥のベッドへ潜り込んで真っ白なカーテンを引くとその閉ざされた空間に、漸く安堵の息が吐けた。

「…ったく‼病人でもないくせに、ベッドを占拠するな。何から逃げて来たのかは知らないが、どうせ王太子殿下絡みなんだろう?…理由を話せば、今日一日ぐらいは匿ってやっても良いぞ」
「…息切れ、動悸、眩暈が酷いんです。何だか顔も熱いし熱っぽい気がするんですよねぇ…。もしかしたら風邪かもしれません」
「そりゃ、あれだけ全力疾走すれば息切れも動悸もあるだろうよ。お前のは、仮病っていう病気だな。…よし、じゃあ王太子殿下を此処へ呼ぶか」
「何でですかーっ⁈王太子殿下には何の関係も無いでしょうっ⁈」
「理由を話す気が無いみたいだからな。向こうから話を聞き出せば同じことだし…」
「わーっわーっ‼止めて下さいーっ⁈…うう…話せばいいんでしょう、話せば…」

 大人ってやり方が汚い…‼
 結局、私はディートハルト先生に昨日の自分の過ちを包み隠さず話すことになった――のだけれど…。

「ええーっ…アイツの執着に引きずられて解けるのが早まるとか…。そんな状況になっているのに全然気が付かなかったぜ…」

 何故か、先生は話を聞き終えるとガックリと項垂れてぼやいている。

「…自分でも…何であんな…は、破廉恥な事をやろうと思ったのか…淑女としてお恥ずかしいです…」

 小さくなって項垂れる私の頭をぐしゃぐしゃに撫でまわすとディートハルト先生は「お前のせいじゃないさ」と優しい声を出した。

「カールは王太子殿下を好きなのか?…その、将来の婚姻相手として…という意味で」

 そんなことを聞かれても答えなんか出せない。
 私だって自分の気持ちを持て余しているのだ。

「わ…判らない、んです。自分でも心がグチャグチャで…い、今まではそんな事を考えた事…無かった…から」

 思わずポロリと一粒の涙が零れると、先生の手が優しく頬を拭ってくれる。
 指先の温もりを感じていると「封印が…完全じゃ無いんだろうな…」と小さく呟く声が聞こえた。

「封印…?それって…」

 “何の話ですか?”と続ける前に、ベッドが微かにギシリと軋む音が聞こえる。
 いつの間にか掛けていた毛布もはぎ取られ、すぐ間近にディートハルト先生の顔が見えた。

 (…なんで、先生が私の上に馬乗りになっているの…?)

 思わずポカンと口を開けて見上げると、余程のマヌケ面だったのか、先生は楽しそうに声を上げて笑っている。
 そのまま、クラヴァットを解かれてシャツのボタンに手が掛けられた時、これは冗談では無いのだと漸く理解が追いついた。

「んっぎゃーっ⁈…やだやだやだっ‼何で先生がこんな事・・・っ⁈ひゃあっ…どこ触って…っ⁈」
「変な声出すな。俺が淫行教師みたいじゃねーか。ちょっと“健康診断”するだけだから、暴れるんじゃないっ…聞いてるか⁈」
「だったらベッドでする必要ないでしょうがっ⁈…ちょっとっ脇腹はくすぐったい…」

 そんな攻防を繰り広げているうちにいつの間にやらシャツは全開にされていた。
 ジッと胸元に視線は注がれているけれど、厭らしさの欠片も無いので、諦めて大人しく従っておく。

「あーあ…想定よりも早い気がするなぁ。やっぱりアイツの執念を甘く見るのはいかんね。…うーん…もう一回やっておくかなぁ…」

 ブツブツと呟いているディートハルト先生は、自分がどういう状況なのかを理解しているのだろうか…?
 …余所から見れば、ベッドで生徒を組み敷く淫行教師そのものだという事に。

 その時、ガチャリと医務室の扉が開く音が聞こえて、思わず息を潜めてしまう。

 コツコツと此方に近づく足音が耳に届いて、先生にも気配を消すように目配せで合図を送る。
 ――まさか閉まっているカーテンを開けるとは思えないが、下手にディートハルト先生がベッドから下りて音を立てれば、逆に怪しまれて見られる危険が高い。
 ドキドキしながら息を詰めていると、少しだけ室内を歩き回った後で、もう一度扉が開く音が聞こえた。

「良かったぁ…気づかれなかったみたいですね‼じゃあ、そろそろ上から…」
「…っ⁈馬鹿っ‼しゃべるなっ‼」

 てっきり件の人物は出て行ったのだとばかり思って、私が声を出すのと、それに気づいた先生が、私の口元を覆ったのはほぼ同時で――。
 気配を消してすぐ傍に立っていたらしき、恐ろしく冷たい目をした美丈夫がカーテンを開けて、その表情を更に凍り付かせるのを目の当たりにすることとなった。
 
「…ディートハルト…お前…遂に淫行教師として裁かれる覚悟が出来たようだな」
「んなわけあるかっ‼…大体、教師に向かってお前呼びは止めておけよ」
「人のものに手を出して無事で済むと思っている訳じゃ無いんだろう⁈…今日がお前の命日になると思え。…直ぐに剣の錆に変えてやる」
「ハハッ…まだまだお子様には負けねーよ。それにこれは健康診断だから、別に手を出していたわけじゃないって」

 怒りに打ち震えるディミトリ殿下を軽くあしらうと、ディートハルト先生はサッサとベッドから飛び降りた。
 殿下の視線が私の胸元で止まる。
 …そういえば、謎の健康診断でシャツを全開に、胸元を晒していたことを漸く思い出した。
 しかも、殿下の視線の先にはルイ―セと同じ青痣があるわけで…。

 ――あ、これ終わったな。

 それが私の素直な感想だった。



 その後の私がどうなったのかと言うと――。

「おい‼カールが固まっているだろう。いい加減に離してやれよ」
「嫌だ。自分のものに触れて何が悪いんだ。彼女は…ルイ―セは私の婚約者なんだからな」
「ったく…。こうなるだろうから、彼女に男装までさせて、態々学術院に入学させたのに。第一、お前は条件を達成していないんだから、まだ仮の婚約者だろうがっ⁈」
「どおりでカールにも妙に惹かれると思っていたけれど、同一人物かぁ。…ハァ…ドレス姿も可愛らしいけれど、事実を知れば、男装する姿にも色気を感じるな。…まあ、どちらの彼女も魅力的な事に間違いは無いけれど」
「…だ・か・ら、話をきけーっ‼」

 私を、背中からベッドの上で抱き込んでいるディミトリ殿下と、真正面から苦言を呈しているディートハルト先生は、まるで喜劇舞台の役者のように声を張り上げている。
 殿下に私の正体がバレた以上、このまま男装して学術院に通う事は難しい。
 …だって、この調子でベタベタと触れられていたら、周りの目を欺くことも難しいだろうし、かといって今更女生徒として入学し直すのも無理だろう。
 
 …一体どうしたら良いのか…。
 途方に暮れながら、後ろから抱き付いてくる殿下に困惑していると、ディートハルト先生が盛大なため息を吐いた。

「カール、此処からは目も耳も塞いでいろよ」

 その言葉を皮切りに、いきなり先生の大きな手が私の両眼を塞ぐ。
 何も見えない状況に、逆に過敏になったのかディートハルト先生の囁く声と、殿下の悲鳴交じりの呻き声が脳内をグルグルと反響した。

 それはほんの刹那の出来事で、私には何が起きているのか状況すら把握できない。
 そのうちに私の体に回っていた腕の力が、ゆっくりと抜けていくのを感じた。

 殿下の体がズルズルと崩れ落ちそうになるのを、寸でのところで支えると、私の両眼を覆っていたディートハルト先生の掌が漸く離れる。
 所謂“お姫様抱っこ”状態で抱えられた殿下は、そのまま、隣のベッドへ寝かされた。

 只々言葉も無く、息を呑んで見つめる私の視線を受け止めると、先生の長い前髪がサラリと流れ、その僅かな隙間から垣間見えた琥珀色の輝きが、鋭く射竦める。
 
「この事は忘れろ。今日の出来事は夢だったとでも思って、絶対に誰にも言うなよ。そうすれば全ては丸く収まるし、お前も――平穏無事に学生生活を送れるんだからな」

 声に含まれているのは、あからさまなまでの牽制。

 明らかな脅しともとれるその言葉に、ゴクリと息を呑んで頷くことしか出来ない。
 今は隠されていて見ることの出来ない金色の瞳は私が肯定以外の返事をした時、きっと牙をむくのだ。

 何故か、その時の私にはこれが只の脅しでは無いのだという事が本能で察せられたのだった。
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