絵にしてみたい一日

ロム猫

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腰わずらい その2

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 喉元過ぎれば熱さを忘れる、そんな言葉がある。過ぎ去ってしまえば、その苦しさを忘れてしまう人間の愚かさをたとえた諺である。痛みに対しても同じことがいえるかもわからない。繰り返す深酒、その翌日に何度「もう二度と酒は飲まねえ」と二日酔いの頭痛のなかで誓いを立てたことか。あるいは、ほおって置いても治るわけではないと知りつつ、我慢できなくなるまで放置した虫歯に何度後悔を繰り返したことか。
 ひとは自らに起こった痛みの悲劇にさえ、過ぎ去ってしまえば無関心を決め込むのだ。いわんや他人の痛みをや、なのである。
 「痛み」とは自らの歴史と同時に進行していく極めて主観的な出来事なのだ。その只中にあって初めてその存在の大きさを認識し得る。けれども、ただひたすらに主観的なのである。その客観性の欠如が自らに痛みの歴史を忘却させ、他人の同情を逃しせしむるのだ。想像するに想像し得ない苦痛を、しかめ面で訴えられても、どうしようもできぬ。その無力感への抵抗が無関心という態度なのかもしれない。

 ここまで考えが至った時、再び痛みの波が高潮に達した。「ううっ」と自然、声が漏れる。共感してもらえぬばかりか、無関心、そしてあまつさえ、苛立ちの面《おもて》も向けられる。「痛い」というのは孤独なものだ。好んで「痛い」に罹患したわけでないのにも関わらず、人間を孤独に追いやる。健常な世界からカーテンで仕切られ、孤独に隔離される我が身が情け無い。「ああっ」と今度は、溜息とも呻きともつかぬ声を漏らしていた。

 「そんなに痛いんなら、先に診てあげようか?」
 不意に、カーテンを開けるシャッという音と共に、件の医師が提案をした。腰痛という地獄の只中に垂らされた蜘蛛の糸を払いのける道理はない。
「お願いします」
 憐れみを請うような声を出し、私はその申し出を受けたのである。

 医師は幾らかの問診を済ませ、レントゲン撮影を促した。先程の様に職員に支えられ撮影を終える。写真が出来上がるまでベッドで横になり、さて、どんな異常が私の腰を弄んでいるのかと思いを巡らせる。しばらくすると職員が私の背骨を透かした白黒の写真を持ってきた。ホワイトボードに張り付け、うーん、と睨めっこをしている。私が起き上がろうとすると、そのまま横になって聞いていろと、医師は言った。

「うーん、何もないねぇ」

「何も無いとはどういうことでしょう?」

 私は不安を隠さない調子でそう尋ねた。先程のばあさんの不服が不意に重なる。

「何にも写ってないんだよね、悪そうなものが。ヘルニアも無いみたいだしねぇ」

「いや、でも先生、こんなに痛いのは初めてなんですよ。立ち上がれないほど痛いなんてことは、今までにも無かったんです」

「そう、なんだ。まあ、うちも四つん這いで入って来た患者さんは初めてだからねぇ。痛いんだろうねぇ」

 馬鹿にしているのだろうか。受け付けの「ヒッ」という驚愕が思い出される。

「まあ、気のせいかもしれないよ。湿布を出しておくから、それでちょっと様子をみようか」

 また、「気のせい」という言葉が出て来た。「気のせい」で二足歩行を捨てるほど、人間の尊厳は軽くはない。まして、世に数あまたある職業のなかで、最も「気のせい」と言ってはいけない職業が医師ではないのか。病いは気からと確かにいう。譲ってそういう事もあるかもしれない。けれども、痛みイコール病いではないだろう。妻に疑われ、受付に蔑まれ、挙げ句の果てには医師には軽くあしらわれ、これ程までに声高に存在を叫んでいるにも関わらず、全くもって無関心を決め込められる私の腰痛が、何だか気の毒に思えた。

 そうはいってもこのまま「気のせいだった」と帰る訳にはいかない事情が私にはあった。妻のことである。私の腰痛を「大袈裟」という彼女に、鬼の首を取らせることになりかねない。事あるごとに「大袈裟」から「気のせい」に堕してしまう私の痛みのことを想うと、手ぶらで帰る訳にはいかなかった。

「いや、でも先生。私だってね、伊達や酔狂でここに来ているんじゃありませんよ? いくら何でも、気のせい、ってことはないでしょう、ちゃんと診て下さいよ」

 私は食い下がった。

「痛みがあるんだから、何か原因があるはずでしょう?」

「いや、そう言われてもね、何も無いものは無いんだから仕方ないでしょう」

「いや、無いも何もあるじゃないですか、立ち上がれないほどの激痛が」

「いや、あると言われてもね、私はあなたじゃないんだから、無いものは無いとしか言えないよ、医者として」

 あるだ無いだの押し問答に私は少しずつ苛つきはじめた。

「医者としてなら気のせいなんて言葉は無いんじゃないですか? 私は人生相談に来たわけじゃないんですよ! もっと納得のいく説明ぐらいあっても良いんじゃないですか? あなた、医者なんだから!」

「医者が無いって言ってるから無いんじゃないですか! あなたは何を言ってるんだ!」

「無いって言ってあるんですよ! あなたこそ何を言ってるんだ! あ! イタタタタタ!」

 興奮して身体を捩《よじ》ってしまった。思い出したかのように激痛が脳髄まで走る。
 医師はそんな私を見て冷静になったのか、大丈夫ですか? と声を掛けた。大丈夫です、と返すに精一杯だった。暫《しばら》く沈黙が続く。

「まあ、そんなに痛いんならヘルニアなんでしょう。実は腰痛の八割は原因不明なんです。最近の研究では脳に起因するのではという仮説が立てられています。私が気のせいと言ったのもそういう理由なんです。一応ヘルニアを疑っておきますが、湿布をして安静にして様子を見て下さい」

 そういって医師は痛み止めの注射を打ってくれた。初めからそういってくれれば得心がいったのに。そうは思ったが思わぬ形で「ヘルニア」という印籠《いんろう》を手にした私は、これで妻に大袈裟と言われずにすむことを安堵した。なにしろ「気のせい」から、腰痛の上級種「ヘルニア」に進化したのである。上出来といわざるを得ないだろう。

 隣の薬局で湿布と痛み止めの薬を待つ間に妻が迎えに来た。私は注射が効いたのだろうか、二足歩行の尊厳を取り戻していた。薬を受け取り妻にヘルニアの疑いを告げる。「気のせい」の問答は伏せておいた。

「ふーん。じゃあ、ワンワンはとりあえず手術は受けなくてもいいんだ」

「うん、まだ疑いの段階だからね。とりあえず様子見ってことで……って、ワンワン?」

「見てたよ、四つん這いで入って行くところ。どうするのかなぁって車を停めて見てた。馬鹿だねぇ、電話で私を呼べばよかったじゃない」

 いやいやいや、見てたのなら助けに来るべきではないのか。

「ワンワンさぁ、あのまま入って行くかなぁ。あんた、腰痛より先に診てもらわないといけない医者があるんじゃないの?」

 ヘルニアの話など何処吹く風。こちらを見もせず運転を続ける妻の顔は、嬉しそうとも意地悪そうとも捉えられる笑みをたたえている。

「気のせい」が「ヘルニア」に進化したように、Sの気質が本物に開花するのを、その時私は予感したのだった。
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