ウサギとカメ

九重智

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 それから一年経った。ウサギは決戦の日を目前にして、ジムで最後の追い込みをしていた。
「はい。ではこちらにむかってインタビューに答えてください。いいですか、ちゃんとカメラのほうに視線をあわせてくださいね」
 ウサギは汗をぬぐい、スポーツドリンクを飲みながら質問に答えた。質問は事前に知らされて、それにどう答えるかも入念にミーティングをしている。応答はほどよく熱っぽく、ほどよく挑発的にしたほうがいい。そうすれば動画に視聴者は感情移入して、勝っても負けても熱狂する。
「では最後に意気込みを」
 黒ウサギがカメラをズームに絞って言った。
「何度も言ったようだけど、俺はこの先を見越している。おい、カメ、観てるか。これに勝ったら絶対に勝負を受けろよ」
 結局、カメはウサギからの勝負を受けなかった。カメは『ウサギとカメ』以降からすっかり芸能人かコメンテーターになって、「諦めなければ絶対勝つ」やら「止まない雨はない」やら毒にも薬にもならない道徳を得々と語っているのであり、腕や脚は肥って甲羅が食い込んでいる。とてもじゃないが丘まで走れるようではない。
 それに比べウサギの四肢は見事にしなやかさと強靭さが同居していた。ウサギは若者から説得された翌日から、善は急げと絶えずトレーニングを積んできた。実際、もはやカメなど敵ではないが、カメと戦うためにという名目で様々な動物と競争し、いまは動画投稿者としてそれなりの知名度を誇っていた。
 黒ウサギと病室で会った日、ウサギは思わぬ熱弁をくらった。実のところこの黒ウサギは稀に見る『ウサギとカメ』のウサギ派だったのだった。
「いいんですか、我々ウサギはずっと何事につけても悪役です。『かちかち山』の件はこちらも悪かった。しかし『ウサギとカメ』に関してはたったひとつの勝負に負けただけじゃないですか。それなのに勝手に周りが取り上げて、ウサギはダメだなんだと言い切るんです。たった一回の敗北なら、一回の勝利でぬぐいましょうよ」
 黒ウサギは唾を飛ばし、白目が見えるほど目を見開いた。それを聞いたウサギ自身も、また熱っぽく高揚していた。
 さて、物語はここで終わってもいい。すくなくとも童話なら、また諦めなければ云々の教訓で締められるだろう。しかしこれは童話ではないから、もうすこしだけ余計なことを言う。
 ウサギはカメとおなじように万人の賛辞を受けれたのかと言えば、それはちがう。実はさらに一年後、ウサギとカメのリベンジマッチは果たされた。それもテレビの番組で、実況解説つきの大舞台である。
 当日ウサギはしっかりと仕上げて丘の麓まで来た。身体のハリも軽さも最高の出来で、いまならカメと言わず虎までも勝ちそうである。一方のカメは相変わらずの脂肪のたるみだった。いや、それまでに放送された密着ドキュメンタリーによると随分鍛えぬいたらしい。元プロの一流のトレーナーを呼び、半年間びっしりとトレーニングをし、どうすればその体型のままでいられるかふしぎではあるが。
 なにはともあれリベンジマッチは果たされた。結果は語るまでもなくウサギの圧勝である。圧勝ではあるが、しかし番組からすればそれはどうでもよかった。丘の頂上までは二十キロとかなりの距離があった。それをカメが踏破できるかどうかが問題である。実際密着ドキュメンタリーのほうもウサギとの競争にはまったく触れず、ただのマラソンのように撮っていた。
 ウサギは長いこと丘の頂上でカメの到着を待った。彼は勝利したのだが、しかし彼のなかではカメの敗北の顔を見ないかぎり実感も湧かない。そして長く待って、カメの頭が勾配から見え始めたとき、スタッフがウサギを手助けに行かせた。ウサギもそれに従った。正直、あまりにも長く待ちすぎてはやくカメをゴールさせたかったのである。
 ウサギがカメの、いまにも崩れそうな肩をもつ。その姿を見て、実況しているアナウンサーは叫んだ。何を叫んだか、あまり人々の記憶にはない。ただまあスポーツマンシップとか友情の華が芽生えたとか、そこらへんのことを言ったのだろう。
 番組が放送され、やはりウサギよりもカメのほうが賞賛は集まった。結局ウサギはウサギなのだから、この勝負の優劣はもとから明白で、それよりもカメが二十キロの坂を上り切ったことのほうが賞賛に値するというものである。カメは上り切ったあと晴れ晴れしい顔でまた例の教訓を言った。
 こうしてウサギの勝利は人々から忘れ去られた。それでもまあ、誹謗中傷だったり殴られたりはなくなったから、マシと言えばマシだろう。ウサギはテレビの画面越しのカメを複雑なまなざしで見つめた。万人の支持を受けた者は、たとえ敗北しても、まるで華々しく勝ったように扱われるものである。

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