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第5章

2 緊急事態④

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 弟が運ばれたという館林たてばやし市の病院に着いたのは、二十二時頃だった。
 救急入口に伊月を降ろし、俺はそのまま病院の駐車場に車を止めて待った。
 
 伊月が泣くのを見たのは、長いつき合いで初めてだった。
 仕事で何かあったら泣くより怒るタイプだし、恋人と別れたときなんかいつもあっけらかんとしていて、泣き腫らした跡すら見たことがなかった。
 弟の事故の知らせは、そんな伊月が取り乱して泣くほどのことなのだ。

 俺は一人っ子だからきょうだいの感覚はあまりわからないが、三十過ぎて一緒に推し活をしているくらい仲のいい弟だ。そんな人の命が脅かされれば、そりゃああなるよな。
 命に別状なく済んでいたとしても、怪我をしたという事実だけでもきっと辛いだろう。
 仮に伊月に何かあったら、俺だって辛い。

 弟無事だといいけど。
 そう思いながら、消灯時間を過ぎているらしい暗い窓の並ぶ病棟を見上げた。

 結局タイミングを逃して昨日のことを話しそびれたけど、もういちいち蒸し返さなくてもいいような気がしていた。
 事故のことを除けば伊月は普段どおりだったし、きっと俺の考えすぎなんだろう。
 あの手のことには過剰反応してしまうという自覚はある。
 あいつとは長いつき合いだ。
 どんな奴かなんて十分知っているはずなのに、自分の知らない一面を内包しているんじゃないか、なんてあんなことくらいで疑うのは、度が過ぎていた。
 それに、悩みはしたものの、俺にとってあいつが大事だということも変わってない。
 そうじゃなければ、時間も金も労力も費やしてこんなところまでわざわざ連れてこようなんて思わない。

 飯を食ったり宿泊先のホテルを予約したりしながら一時間くらい待った頃、伊月からメッセージが届いた。
“今から帰ります。駐車場にいますか?”
 もう帰れそうなのか、と思いながら、返事を打つ。
“車回す。降ろしたとこでいい?”
“降りたとこでOKです”

 少し後ろに下げていたシートを戻してベルトを締め、救急入口へ車を移動させると、しばらくして伊月が外に出てきた。 
 小走りにこちらに寄ってくる姿を見る限り、表情は落ち着いているように見える。

「すみません、長く待たせて」
「いや。どうだった?」
「はい、大丈夫みたいです」
 伊月は助手席に乗り込んで、ドアを閉めた。
「まっすぐホテルでいい? 何か買うものとかは?」
「あ、じゃあコンビニに寄ろうかな……」
 伊月がベルトを締めるのを確認してから、車を発進させた。

「なんか、後ろの車が追い越そうとして接触したみたいで……。走行中だったから、バイクが倒れたまま地面を滑ったらしくて、バイクの下敷きになった左足の骨折と、あと擦り傷とかがけっこう酷かったみたいです」
「頭は無事だったのか」
「はい、軽い脳震盪のうしんとうを起こして一時的に意識を失ってたとかで、いちおう精密検査では問題なかったみたいです。麻酔で眠ってて話はできなかったんですけど、お医者さんは大丈夫だって……。両親も今夜はもう帰ると言うので、先に出てきました」
「そうか。よかったとは言えないが、ひと安心だな」
「はい、命に関わらなくてよかったです……本当に……」
 涙を含んだ声になって俯いた伊月に言葉を掛ける代わりに、シフトレバーに置いていた左手を持ち上げて頭をポンポンとたたいた。

 チェックインを済ませて、予約していた部屋に入る。
 チェーン展開しているビジネスホテルで、内装はシックで悪くないものの、さほど広くもないダブルベッドの部屋。
 いつも一つのベッドで寝ているとはいえ、こうして改めて自宅より狭い空間で二人で過ごすと思うと、妙な緊張に身体をむしばまれる。

 もしかしたら、本当はまだ昨日のことを引きずっているのかもしれない。
 自分の認識としては平気なつもりでも、潜在意識の方が前に出てしまうことはあるものだ。

 仮に伊月が昨日のことや今日のことで不安定だったとしても、こうして場所が変わったくらいで何かが起きるようなことはないだろう。
 そもそも最初はホテルで会う案もあったくらいだから、この環境を警戒する必要もない。
 それなのにどうしても体が強張っているように感じて、
「コーヒーでも飲むか」
 伊月に悟られないうちにどうにかリラックスしようと考え、提案する。

 お湯を沸かそうとポットに手を伸ばしたところで、伊月がゆっくりこちらに近づいてきた。
「理雄先輩――」
 ため息まじりの、力のない声で俺を呼びながら、肩にそっと額を預けてくる。
 鎖骨辺りにかかる圧力は弱く、いつもハグを求めてくるときとは違って妙に控えめなしぐさに、少し面食らった。

「先輩、本当に、本当にありがとうございました。先輩がいなかったら、私――」
 切実で、どこか苦しそうな、それでいて他人行儀な気丈さの滲む伊月の声。
 その声がいったい俺の何に触れたのかわからない。
 わからないけど、ポットを掴みかけていた手は、そのまま伊月へと向かい、指先が俯く頬に触れた。
 それを不思議に思ったのか、伊月は無防備なままこちらを確認するように顔を上げる。

 ――そして、唇が柔らかな感触を得たところで、俺はハッと我に返った。

「えっ――」
「えっ……?」
 互いに驚いて顔を見合わせたが、俺と伊月では驚きの種類が違うことは容易に理解できた。
 大きく見開かれていた瞳は、「嘘でしょ」と言わんばかりに歪んでいく。

「いやいや、先輩……」
 つぶやきながら、あまりのことに理解が追いつかないためか、少し笑ってしまっているような口元の前で、掲げた指先を右往左往させている伊月。
「いや、いや違う、今のは――」
 とっさに手を振って否定しようとしている俺。
「いやいやいやいや」
「いやいやいやいや」
「いやいやいや」
「いやいや、だから……」
「わ、私……っ」
 ベッドに置いていたバッグに手を伸ばし、それをギュッと抱きしめながら、伊月は言った。
「実家に帰らせていただきます!!」
「えっおい……」
 よくそんな決め台詞がとっさに出てきたな、と感心してる間もなく、伊月は部屋を走り出ていった。
 反動で戻ってガチャンと閉まった扉を、すぐにも開けて伊月を追いかけようかと思ったが、きっと今は追いかけてきてほしくないだろう、という理性が働く。
 それにどう考えても、なだめてこの狭い密室へと連れ戻せるような立場ではない。

 実家がどの辺りか知らないが、まさかここから歩いて帰るということはないだろうし、子どもじゃないんだから外に出る前にタクシーを呼ぶなりしてくれるだろう。
 そう願いつつ、俺はベッドに腰を下ろした。

 言い訳、驚き、困惑、自己嫌悪、後悔――それらがまだ実体を伴わない状態でごちゃ混ぜになった頭は、両手で抱えるのがやっとなくらいに重い。
「まじで意味がわかんねぇ……」

 疑いようもなく、俺から伊月にキスをしてしまった。
 気づいたら、した後だった。
 最悪だ。
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