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第6章

2 定まらない気持ち③

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「伊月は、俺に好かれたとしたら、どう思うんだ? 嬉しいのか、嫌なのか……」
「……どうだろう。わからないです」
「そうか……」
「でもよそに向かうよりはいいのかな……。先輩が他の人を好きになってしまうよりは」
 窓の方に顔を向けた伊月の声は、少しだけ小さくなっていた。
「――おととい、ミーティングの後……先輩があの人に連れてかれた時、そんなことを考えました。取られたらどうしようって」
「……は? 何言って……」
「だって」
 再びこちらを向いて、伊月は思い詰めたように声を絞り出す。
「もし他の人と恋愛が始まったら……、もう先輩を、私の側には引き留めておけないじゃないですか……」

 いや、全然笑える立場じゃないのは重々承知だが――それでも俺は、伊月のその言葉を聞いて、笑いをこらえることができなかった。
「なっなんで笑うんですかッ」
「いや……」
 こっちが微塵も考えていないようなことで、そんなに追い込まれた気持ちになっていたのかと思うと、……普通に考えたら面倒くさいけど、伊月だからか妙にかわいい。

「それでなんか怒ってたの?」
「お、怒ってたのは……先輩があの人と仲良くするから」
「それってやっぱ嫉妬じゃねぇの? てか、全然仲良くしてねぇけど」
「違うんです。あの人、ミーティングの時とかず~っと私を無視してるんですよ」
「え?」
「だからずっと腹立たしかったところに、あれだったんで、あの人の要求に普通に応えてる先輩にも腹が立ってきて……」
「はぁ~? お前な、そんなことは先に言っとけよ」
 まさかそんなことが起きてたなんて、考えもしなかった。
 ていうかわかるわけがねぇ。
 でもそう聞くと、あの一連の変な態度も、すごく伊月らしいものに思えてきた。

「だって、これから一緒に仕事してくのに、ちょっと無視されてるくらいで悪く言えないじゃないですか……」
「言ってくれればそれとなく配慮できるだろ。それに、聞いてたらそんな奴からの仕事外のどうでもいい質問になんかいちいち答えてねぇし、カフェにもつき合わねぇよ」
「そんな、私の話だけ聞いて態度変えるんですか? 私の勘違いかもしれないのに?」
「勘違いでも、実際に嫌な思いしてるんだろ?」
「そうですけど……」
「お前がそう言うんなら、そうなんだろ。被害妄想で誰かを悪く言ったりする奴じゃないって、俺が一番よく知ってんだから」
「なんでそんなイケメン発言するんですか~~! おかしいですよ理雄先輩! キスしたからってかっこつけないでください!」
「は? 何もかっこつけてねぇし、いつもどおりだろ」
「そうかなぁ……」
 伊月はしぶしぶといった様子で静かになった。

 こんなに簡単なことだったのに、いろいろ勘ぐって警戒して、無駄に悩んでしまった。
 もっと早くに話せていれば、アレだって起こらなかったかもしれないのに、なんて考えても、今さらか。

「どっちにしろ俺はあの人のことなんて何とも思ってないし、これから恋愛に発展する可能性はゼロだから、変な心配するな。……まあ、たしかに連絡先はしつこく聞かれたけど……丁重にお断りしたし」
「ぎゃー! あの女、公私混同して!! 大した関係性もないのに、ホンッット信じらんない!!」
「いやほんと、そろそろ戻ろうとした時にその話が始まって、地獄だったな……」
「それで遅かったんですね」
 遅かったのは、帰らせた後気分が悪くなってしばらく休憩していたからなんだが、それは別に言わなくてもいいだろう。

「これからあの人と仕事してかなきゃいけないと思うと憂鬱だなぁ……」
 伊月はそう言って、大きなため息をついた。
「お前はむしろ優越感持って臨めば?」
 ソフレなんだから。
 そう言おうとして、果たして今後もソフレのままいられるのかと、疑問がわいて思わず言葉を止める。
「そうですね……。こっちは先輩にキスされてますからね」
「それネタにすんのやめてくれる? 重々反省してるから……」
「ていうかこんなに怖い見た目なのに、中身を知らずに好きになるなんてあります?」
「失礼極まりねぇ」
「だって最初に会った時、本当に怖かったんですよ」
「そのわりに懐くの早かったよな」
「それは、だって……。先輩が、居心地がよかったから」
 そこまで言うと、伊月はまた黙り込んだ。

 車はバイパスを順調に進み、利根川にさしかかる。
 だだっ広く開けた景色は、とても平たく見えて、どこまでも行けそうなのにこのまま窮屈な都心に帰るのはもったいない気がした。

「――私、考えてみます。理雄先輩と、この先どういう関係でいたいのか」
 思わず隣に目をやると、決意の滲んだ横顔がある。
「今は正直、昨日のことをどう受け止めればいいのか、全然わからないから……。先輩の気持ちが定まってないなら、自分の気持ちから見つめてみます。だから、先輩も考えてください。お互い本気で考えて、そして、来週末に答え合わせしましょう。それぞれが本心から出した答えが、もしも同じだったら、きっとこの先も……一緒にいられると思うから――」
 考えた先で、一緒にいたいと、伊月はまだ思ってくれている。

「……わかった」
「はい、それじゃこの話はおしま~い! この後は楽しく帰りましょう」
 急に明るい声に戻る伊月。
 こいつのテンションは自由自在なんだろうか。
 ……いや、全部気遣いだ。
 昨日の夜ウチに来た時のあの明るさも、きっと、全部。
 何でも受け入れられて、何でも許されて――俺が伊月を甘やかしているようでいて、俺が伊月に甘やかされているのだ、この関係になってから、ずっと。

「どこか遊びに寄ってくか?」
「え、いいんですか?」
「行きたいとこあるなら」
「埼玉で行きたいとこ……通り道じゃなくてもいいですか?」
「今日中に帰れるなら」
「えっ、それならどこでも行けるじゃないですか」
 伊月は嬉しそうにスマホを取り出して検索し始める。
「昼食べるとこも探して」
「はーい!」

 伊月とどういう関係でいたいのか――。
 俺の中では、もう答えは出ている。今までどおり以上に望むことなんて何もない。
 でも、そのつもりだったのにあんなことが起きてしまった。
 起こりそうもないと思っていたことが、起きてしまった。
 しかも、自分がやったくせになぜ起きたかがわからないとなれば、また繰り返してしまう可能性もあって……そんな状態で元どおりなんてどの口が言えるのかって話だ。

 今度こそ正確な気持ちを見つけ出して、それに向き合わないといけないんだろう。
 そうして出た結論が恋愛だったらどうなってしまうのか――それはわからないけど。
 その後のことは、もうなるようにしかならない。
 とにかく、考えてみるしかない。
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