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第8章

それぞれの思い②

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 インターホンが鳴る。
 土曜日は十九時くらいに来ることも多いが、今日は平日の遅い時間と変わらず、二十時半を回っていた。

「お久しぶりです」
「昨日も会ったけどな」
 部屋に来た伊月がどこか元気がないように見えるのは、当たり前といえば当たり前なんだろう。
「今日もごはん作ってくれてるんですか?」
「こんな時間に来て、飯がないと困るだろ」
「困ります」
「今日は春野菜のポタージュと冷製パスタにした」
「え、珍しい!」
「でもパスタはまだ作ってない。飯と話とどっちからにするのかわからなかったから……どうせ十五分もあればできるし」
「はや! じゃあ……話からにしようかな。緊張したままごはん食べるのも嫌だし」
「じゃ、コーヒーでも入れるか」
 俺はキッチンに入り、伊月は荷物を置きにソファの方に行く。この四ヵ月間で、もう数えられないほど繰り返された光景だ。

 お湯を沸かし始めて、器具の準備をしていたら、こちらに来た伊月がカウンター越しに話し掛けてきた。
「もっと早い時間に来れたらよかったんですけど、今日昼から弟のとこに行ってきて」
「あ、そうなの? 別にこっちは日をずらしてもいいんだし、ゆっくりしてくればよかったのに」
「いいんです、どうせ来週ゴールデンウイークに入るし、休みの間は向こうにいようと思ってるので」
「あ、そう」
 ドリッパーにフィルターをセットしながら、ゴールデンウイークはここには来ないんだな、と心の中で思う。
 いや、明日以降もこうして会えるのかなんて、そもそもわからないわけだが。
「それに、もうこれ以上先輩とのことを保留するのも限界で」
「そうか」

 伊月がどんな答えを出すのか、いくつかの可能性を想定していた。
 そのどれが来るのか、今のところはまだ読めない。  
 英司が言っていた、「何を優先するか」――。
 それはきっと、こいつにとっても難しい判断だったに違いない。

 豆を挽いてフィルターに移す様子を黙って眺めていた伊月は、ドリップを始めたらまた口を開いた。
「私この六日間、本当に悩んだんです。悩んで悩んで、友達に軽く話してみたけどあんまり理解されなくて、最終的に、優子さんに相談に行きました」
「マジか」
「相手が大宮さんだとは言ってないですよ」
「片瀬さんはなんて?」
「二人でしっかり向き合ってよく話せって」
「ごもっとも」
「優子さんと彼氏のことも、少し聞けました。優子さん、幸せそうだった」
「そうか」
 そこで伊月はまた無言になった。
 抽出されたコーヒーがドリッパーからサーバーに落ちていく音が、沈黙を埋めている。

「俺も親友に相談した」
「え、先輩も? 親友って、えーじさんでしたっけ」
「そ。英司」
「えーじさんなんて?」
「あー……いろいろヒントをくれたかな。あとお前に会ってみたいって言ってた」
「えーじさんは、ソフレ関係に好意的なんですか?」
「まあそうだな、あいつは……俺がよければなんでもいいって感じだから」
「そっか……。それで、ヒントをもらって結論は出たんですか?」
「出たよ」
「そうですか……」
 伊月は視線を下げながらつぶやいて、少しのの後、はぁっとため息をついた。
 そしてカウンターを離れ、ソファに腰を下ろすと、大きめの声で言う。
「聞きたくないなぁ」
「何しに来たんだよ」
 そう返しながら、心情を素直に吐露した伊月に思わず笑ってしまった。

 コーヒーをテーブルに置いて、伊月の隣に座る。
 それとほぼ同時に、伊月がこちらを見上げながら切り出した。
「私から話してもいいですか?」
「どうぞ」
「……すごく、わがままを言うけど、いいですか?」
 あまり聞いたことのない、甘えと不安の入り混じる声。
 きっと伊月は俺以上に、今日の話の行方が見えていない状態なんだろう。
「お前のわがままなんていつものことだろ」
 伊月は俺の返事を聞くと、カップを手にとってコーヒーを一口飲んだ。
 それをまたテーブルに戻し、ソファの上に膝を抱える。

「私、理雄先輩が好きです。叶うならこの先もずっと先輩の隣にいたい。でも、その気持ちは恋愛感情として定義できるものじゃない。キスとか、それ以上とか、ない関係のままでいたい。先輩ならいいと思わなくもないけど……でも、避けられるなら避けたい」
 思い詰めたような顔で話す伊月の横顔を見つめながら、俺は黙って耳を傾け続けた。
「友人たちはソフレに肯定的ではなかったし、仲間だと思ってた優子さんも結局恋愛に幸せを感じていて……。きっとみんなから見たら、私もこのまま恋愛に踏み出すのが一番自然に見えるんだろうし、腑に落ちやすいんだと思う。でも私が求めているものはそうじゃない。先輩との今の関係が本当に大切で、ずっとずっと欲しかったもので、失ったら二度と手に入らない気がして……」
 伊月は両膝をきつく抱きしめて、声に切実さを滲ませていく。
「壊したくない。キスに意味がないのなら、意味がないままでいてほしい。ずっとそのままでいい。恋愛感情なんていらない。私はただ、信頼できる理雄先輩と、この先ずっと、誰よりも近しい存在として一緒に居続けたいんです」

 伊月らしいその答えに、俺はどこかホッとしていた。
 一方で、これから告げなければいけないことを伊月がどう受け止めるのか、考えて気まずい気持ちになる。
 でもここで答えを変えて、繕って、それで続けることを是とするのなら、そもそも悩む必要なんてなかった。

 俺は意を決して口を開いた。
「そうか。それじゃ結論は分かれたんだな」
「え……」
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