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第5章

3 亮弥の答え

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 浅草駅を地上に出ると、薄藍の空と暑くも涼しくもない風に出迎えられ、ホッと息をついた。
 ここに住んでもう十年近くなる。
 浅草はすっかり私のホームだ。

「あっちの階段が気持ちいいから、行こう」
「はい」
 亮弥くんの表情は堅い。
 さすがに話しすぎたかな……、と、内心反省していた。
 でももう、言ってしまったものは仕方がない。
 あとはどうなっても、ちゃんと受け入れよう。

 隅田川の流れに並行に横たわる首都高の上には、ブレーキランプが長く列をなしている。
 それを見上げながら吾妻橋を渡り切り、親水テラスに続く広い階段を真ん中くらいまで降りて、並んで腰を下ろした。
 ここからは隅田川を挟んで浅草方面を望むことができる。
 ちょうど日が落ちる頃なのか、最後の夕焼けが浅草の低いビル群をシルエットに変えていた。
 煌々と灯りのついた屋形船が、目の前を上流から下流へ、通り過ぎていく。

「今日、楽しかったね……」
 つぶやいても、亮弥くんから返事はなかった。
「映画も面白かったし、お友達にも会えたし、亮弥くんの新しい一面をたくさん知れて、楽しかった」
 それは、嘘偽りのない私の気持ちだった。
「……なのに、最後に台無しにしちゃって、ごめんね……」
 言いながら、胸がズキズキと痛んだ。

 そよそよと風が吹いていく。
 沈黙が続く。
 大丈夫。
 覚悟していたことだ。
 誰も信じないしあなたも信じていない、なんて、見放されて当然のことを、私は突きつけたのだから。

「正直……」
 亮弥くんが口を開く。
「正直に言うと、ちょっと……ショックが大きいっていうか……」
 ズンと心が重くなる。
 思わず目を閉じてその重さに耐える。
「俺……、俺今まで、優子さんの優しい部分しか見てなくて……、ずっと優しさとか、穏やかさとか気づかいとか、そういういいとこ取りしかしてなくて……っ」
 亮弥くんの声は次第に荒れていく。
「それだけでずっと優子さんのこと好きだって思い続けてきて、優子さんがどんな気持ち抱えてたかも何にも知らなくて、でも、だからって、"これからは俺が側にいて優子さんを癒やす"だとか、そんなこと軽々しく言うわけにもいかなっ……」
 私は驚いて亮弥くんを振り返った。
 言葉の最後が涙声に変わって、とうとう途中で切れてしまった。
 亮弥くんは顔をグシャグシャに歪めて、手の甲を額に押しつけながら涙を流している。

「りょ……や、くん」
 私はその時初めて、事の重大さに気づいた。
 と同時に反射的に両腕を伸ばして、亮弥くんの頭を自分の肩に引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
「ごめん……、ごめんね、亮弥くん」
 そんなつもりはなかった。
 亮弥くんを傷つけるつもりではなかったのだ。
 これで私から離れるかどうか判断してくれれば、私のことが嫌になったら離れてくれればそれでいいと、それだけのことだと思っていた。
 ただ選択肢を与えただけのつもりだった。
 亮弥くんが私の言葉に傷ついて心を痛めるなんて、そんな少し考えればわかるはずの簡単なことが、私は全くわかっていなかった。

 亮弥くんの涙が、肩にじんわりと滲む。
「亮弥くん、ごめんね、私……甘えてた」
 涙に呼吸を乱して震える亮弥くんの肩を、ぎゅっと抱きしめ直して、私は遠くの空を見上げた。
「――亮弥くんが、心地よく側にいてくれて、いつも楽しそうに、幸せそうに笑ってくれるから……、私、亮弥くんといて」
 ぐっと言葉が詰まる。
「……亮弥くんといて、幸せだったよ。……だから」
 もしかしたら、何でもない顔で、受け入れてくれるんじゃないかって、期待して、
「……甘え過ぎちゃった。ごめん。酷いこと言って、ごめんね。……でももう、離れていいから。私にこれ以上縛られなくていいから。亮弥くんは、自由に亮弥くんの幸せを求めていいんだよ」

 言いながら、涙がにじんできた。
 楽しかった日々が終わる。
 もう終わるんだという実感を、深く心に刻みつけた。

 ぐす、と鼻をすする音がして、亮弥くんが顔を埋めたまま、くぐもった声で言った。
「それじゃ、俺とつき合ってください」
「……え?」

 意味がわからずに、体を離して亮弥くんの顔をのぞき込んだ。
 一瞬、涙で濡れた顔が見えたと思ったら、ぐっと背中を引き寄せられて抱きしめ返された。
「わ、ちょっと……」
 胸がぴったりと密着して、亮弥くんの体温が伝わってくる。
 さすがにこれには私もビックリして、うん、ビックリして、ドキドキと胸がうるさくなって、顔が熱くなるのがわかった。

「俺は……優子さんがそんな思いを抱えて生きてきたなんて、全く考えもしなかった自分が、悔しくて……」
「え……」
「なんで優子さんがそんな思いして生きないといけなかったんだろうって……、さっきの話聞いて、本当に理不尽で、悲しくて……本当に、胸が痛くて……」
「亮弥くん……」
「俺は優子さんは間違ってないと思う。心が綺麗な人が否定されて苦しむなんて、絶対おかしいよ。だって世の中がみんな優子さんみたいな心を持っていたら、天国みたいになるってことでしょ? それは絶対良いことなのに、なんで肩身の狭い思いして生きなきゃいけないの?」
 亮弥くんはほとんど涙ながらに、誰にともなく問いかける。
「だからって、俺が側にいて何をしてあげられるかなんて、本当にわからないし、俺が優子さんを傷つけることもあるかもしれないし、無責任なこと言えないけど……、でも、それでも俺は、優子さんの側にいたいです」
「で、でも……」
「俺のこと信じられないとか、容姿とか、年齢差とか、子供がどうとか、他に何が来たって、俺にとっては全部小さいことなんですよ、優子さんを失うことと比べたら。だって俺は、ずっと優子さんみたいな人を探してたんです。嘘とか悪口とか言わない、心の綺麗な人。本当に嘘偽りなく優しい人。せっかくその人が目の前にいて、しかも俺といてちょっとでも幸せだと思ってくれるのなら、離れる理由なんかないです。だから――」

 亮弥くんは腕を緩めて体を離し、私の目を見た。
 真っすぐで、強い意志のこもった瞳が、街灯の灯りを湛えて美しく光っている。

「優子さんが俺のこと信じなくても、俺は俺の意志で、優子さんの側にいます」

 強い光にてられるように、心が塗り替えられていくのがわかった。
 私は愚かかもしれない。
 人には裏の感情があって、決して表面だけで信じられる存在ではないと、知っているはずなのに。
 誰も私のことなんて理解しないと学んできたはずなのに。
 もう二度と、誰に心を動かされることもないと思っていたのに。
 自分の気持ちさえも信じられないのに。
 なのにまた信じそうになってる。
 この人だけは私を受け止めてくれると、期待しようとしている。

 ううん、それよりも、もっとわかりやすく、もっと単純に。
 私の話を言葉どおりに受け止めて、こんなに言葉を尽くして理解を伝えてくれる亮弥くんを、好きだと、失いたくないと、抗いきれないほどの強い感情が込み上げた。

 ぱたぱたと涙が頬を流れ落ちていく。
 亮弥くんの指がそれを優しく拭う。
 私の負けだ。
 返事をしなければと、口を開く。
「私は……」
「はい」
「私は、どういう返事でも、亮弥くんの思いを受け入れようと、決めてたから……」
「はい」
「亮弥くんが、こんな私でも、本当に良いのなら、よろしくお願いします……」
 目の前の美しい顔が、みるみる満面に笑みを浮かべていく。
「っしゃー!!」
 今度こそ本当に安心しきった、喜びに溢れる亮弥くんの顔を見て、私の胸はなすすべなく甘く軋んだ。
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