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第6章

2 実家にて③

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「あれ、ルリちゃん達いねーの?」
 ルリちゃんとは母親・青山瑠璃子のことである。
 中学生の頃から仲良しで、よくウチに出入りしていた晃輝は、当時四十そこそこだった母親に"おばちゃん"と呼ぶのを禁止され、以来ずっとルリちゃんと呼んでいる。
「あー、なんか買い物に行った」
「せっかくお土産持ってきたのに」
 晃輝が差し出したのは、母親のお気に入りの和菓子店のお饅頭だった。
「お前、いつの間にこんなことできるようになったんだよ……」
 晃輝がウチに土産を持ってくるなんて、過去一度もなかった。
 もちろん俺も晃輝の家に何か持っていくことはなかったが、そもそも俺のほうから晃輝の家に行ったこともほとんどない。
 だから俺は、晃輝の突然のオトナな行動にビックリしてしまった。
「や、たまたま近くを通ったからさ。そういや好きだったなーって思い出して。ルリちゃんにあげといて」
「悪いな、わざわざ……。きっと喜ぶよ」
「あともう一つお土産の、ビッグニュース!」
 晃輝はそう言いながら、急に両腕を左右に勢いよく広げた。
 舞台俳優のような振る舞いに、何が始まったのかと思っていると、その顔は満面の笑みへと移り変わっていく。

「もうすぐ、子供が生まれま~す!」
「えっ……」
 あまりに唐突な情報に、一瞬頭がフリーズした。
「え、え、誰の?」
「俺に決まってんじゃねーかよ」
「ま……マジで?」
 フワッと心が浮くような感覚が沸き起こる。
 現実味がない。
 晃輝に子供が?
 戸田さんが赤ちゃんを産む?

「見ろよ、あかりに写真借りてきた!」
 晃輝はポケットをゴソゴソ探ると手帳を取り出し、そこに挟んであったエコー写真を俺に渡した。
「えっ、もうめっちゃ赤ちゃんじゃん!」
 そこにはカラーでくっきりと赤ちゃんの顔が写っている。俺はそれを、信じられない気持ちで見つめた。
「こ、これが戸田さんのお腹の中にもういるの? すげー……」
「すげーだろ! 俺の子だぞ!」
「すげーよ、マジすげー!」
「だろ~?」
「スゲーじゃん!!」
 興奮した俺は晃輝の肩を抱き寄せて、思い切り揺さぶった。

 まさか晃輝に子供ができていたなんて。
 あの相田晃輝が、――出席番号順に並んだ中学校の教室の一番前の席で、落ち着き無く後ろを向いて、俺にアホほど話し掛けてきた、あの晃輝が。
 いつも明るく笑って力づくで俺のテンションを上げに来ていたあの晃輝が、父親になる。
 それは俺にとって、震えるほどの感動だった。

「実はお前らと銀座で会った時はもうわかっててさ。ちょうど安定期に入ってあかりも体調良かったから、ママになる前の最後の誕生日デートするかって、出掛けたとこだったんだよ」
「そうだったのか……! え、いつ生まれんの?」
「予定では来週」
「来週!? もう性別もわかってんの?」
「おう、男だってよ」
「マジで! ヤンチャになりそうだな。名前は? もう決めた?」
「いや、まだ候補段階。でも、俺もあかりも光系だから、そういう要素は入れようと思ってる」
「いいじゃん。お前みたいな明るい子になるかもな! あー、なんかすげー嬉しい。良かったな、晃輝!」
 そう言うと、晃輝は急に力の抜けた顔になって、涙を滲ませた。
「亮弥……」
「何泣いてんだよ!」
「だって、亮弥が俺のことでめちゃくちゃテンション上がってくれたから……、嬉しくて……」
「当たり前だろ、そんなの! お前に子供が生まれるんだから」
「ありがとな、……俺、元気な子を産むわ」
「お前じゃねーわ」
 晃輝は目元を指で拭いながら、笑った。

 ふいに、高校の教室で晃輝の机に腰掛けて、行儀悪く開いた足をぶらぶらさせている戸田さんと、楽しそうに話している晃輝の姿が頭をよぎる。
 二人に幸せな未来が待っていて、本当に良かった。

「で、お前のほうはどうよ、順調か?」
「あ……、いや、まぁ……」
「何だソレ。苦笑い? 照れ笑い?」
「まあ、座れよ。お前ココアでいいの?」
「おう」
 俺はキッチンに行ってマグカップを二つ取り出し、続いてココアを探したが、いつもあった場所にも、その周辺にも、見当たらない。
「ココアねーわ」
「あー、さすがにルリちゃん達二人じゃ飲まねーか」
「ぽい」

 俺が家を出て、数年後に姉ちゃんもいなくなって、次第にウチは両親二人暮らし仕様になっていってる。
 例えば洗面台の歯ブラシを置いてある位置が変わっていたし、当然二本しかない。
 玄関にやたらと並んでいた靴もスッキリと片づいて、毎日二つのモードで回していた洗濯機も、洗濯物が少ないので日替わりで交互に回すようになったらしい。
 母の得意のふわふわのだし巻き卵や、鍋いっぱいのカレーもほぼ作らなくなったそうだ。
 ココアが無くなったのを見て、あれは俺達のために買ってくれていたんだと、改めて気づく。
 と同時に、これまであるのが当たり前だと思っていたものが、両親にとってさえ当たり前ではなかったと知って、なんだか妙な感覚になった。

 仕方がないので、さっき買ってきたサイダーをグラスに分けて出した。
「お菓子は好きなの適当に食べて」
「おう、ありがとう」
 コンビニの袋ごと差し出すと、晃輝はその中からスナック菓子を選び出して開けた。
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