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第7章

1 愛美と実華子②

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 翌日、出社して仕事の準備を済ませてから、社長が到着する前に営業フロアに足を運んだ。
 秘書より三十分遅い始業時間となっている他部署のフロアには、既に半分くらいの社員が出社済みだった。
 PCを立ち上げて画面とにらめっこしている人や、早くも激しくキーボードを叩いている人、同僚と立ち話をしている人、デスクでのんびりコーヒーを飲んでいる人もいて、それぞれに始業前の時間を過ごしていた。

 愛美ちゃんの席を覗くと、まだ空席のままだった。
 あまりウロウロしていても目立つので、また後にしようと思い、私はエレベーターホールまで引き返し始めた。
 すると、ちょうど向こうから、明るいベージュのファー付きコートを纏った愛美ちゃんが歩いてきた。
 私を見つけると、あっと驚いた顔をして、嬉しそうに駆け寄ってくる。

「優子さん! おはようございます」
「おはよう、愛美ちゃん」
 私は愛美ちゃんをそっと通路の端に促し、小声で言った。
「妊娠おめでとう。良かったねぇ」
「ありがとうございます! いや~、結婚前になっちゃったんで、会社に話しにくいんですけど。でも彼氏も喜んでくれたし、なんかもう、嬉しくてニヤニヤしちゃって」
「それが一番だよ。体辛い時は無理しないようにね」
「は~い! 今日から手すきで引き継ぎ資料作って、いつでも休めるように準備します!」
「それがいいね」
「あっ、実華子!」
 愛美ちゃんの言葉に、私はギクリとして振り返った。
 そこには私を珍しそうに見る実華ちゃんの姿が……。
「実華子、実華子聞いて!」
 愛美ちゃんが実華ちゃんの肩を叩きながらこちらに呼び寄せる。
 もうこのタイミングで何を考えても後悔しても遅い。
 私がいようといまいと、これは確実に起こることなのだからと、私は心苦しいながらも黙って成り行きを見守るモードに入った。
「何? どうしたの?」
「私、妊娠しちゃった~」
 嬉しそうにピースサインを作る愛美ちゃんに、氷の刃のような実華ちゃんの視線が突き刺さる。
「……あれ? どうした実華子」
「優子さん……」
 実華ちゃんがゆっくりとこちらを振り返る。
 え、ちょっと待って実華ちゃん、今こっちに来る!? と心の中で叫ぶも、彼女を穏便に止める手立てもない。

「優子さん……知ってたんですか? いつから? 昨日の夜も!?」
 その声には、次第に悲しみと怒りが滲んでいく。
 不可抗力とはいえ、実華ちゃんの気持ちは痛いほどわかる。
 そしてもう一方からは状況が把握できない人の声がぽつり。
「え、実華子と優子さんって……?」
 仲良かったっけ? という言葉が、愛美ちゃんの顔の前に浮かんで見えるようだ。
「えっと……」
 私は両手を所在なく動かし始める一瞬に、脳をフル稼働して解決策を探った。
 極力早く三人で話さなければならない。
 話すと長くなる。
 社長の出社時間が近づいている。
 今日のスケジュールを頭の中に高速で流し、十五時まで来客予定が無いことを確認する。
 そして両手をそのまま二人の前に突き出した。

「わかった、お昼休みに話そう。二人ともお昼ごはんどうするの?」
「私は買いに行きますけど」
 愛美ちゃんが先に答える。
「私はお弁当持って……きてます……」
 実華ちゃんは状況のまずさに気づいたのか、しどろもどろになって目を逸らした。
「それじゃ、泊さんに話して社長の応接室借りるから、お昼一緒に食べよう。そこでちゃんと話そう、ね。それまでこの話はいったん、ナシで!」
 無理やり二人の背中を押して、事務室のほうへ促す。
 愛美ちゃんのハテナマークが浮かんだ顔と、実華ちゃんのごめんなさいと言わんばかりのうるうるした大きな瞳を見ながら、私は精いっぱいの笑顔を見せて手を振った。
 
 出社した社長を出迎えて社長室へ通してから、朝のコーヒーを出してスケジュールの相互確認を済ませ、秘書室のデスクに戻る。
 椅子に座り、PCのスリープを解いてメーラーを見ると、実華ちゃんからメールが入っていた。
 "優子さん、ごめんなさい……愛美にバレちゃいますね……"
 反省してる実華ちゃんに、私は少し笑ってしまった。
 心配しているだろうと、すぐにメールを返す。
 "私はいいよ。実華ちゃんこそ、知られちゃうけど大丈夫?"
 "自分で蒔いた種なので、ちゃんと刈り取ります。どうせ愛美にはいずれ言うつもりだったし"
 "そう、それなら良かった"
 私自身は、ひとつ隠し事が減ることに、ちょっとホッとしていた。
 愛美ちゃんとの間で実華ちゃんとのことが共通認識になれば、三人の間柄はずいぶん楽になるに違いないのだ。

 私は隣のデスクの泊さんに視線を向けた。
 泊さんはPCを見ながらマウスをぐりぐり動かしている。
「泊さん……今ヒマでしょ」
「ヒマじゃない。会議の開始時刻を待ってる」
「なるほど、あと二十分も」
 と返すと、泊さんは吹き出してこちらに顔を向けた。
「何?」
「個人的なご相談なんですけど」
「いーよ、ヒマだから」
「今日のお昼休み、ちょっと後輩達と込み入った話があって、応接室をお借りしたいんですけど……」
「何? 女子会? 俺も参加していい?」
「込み入った話って言ってるじゃないですか」
「俺がビシッとアドバイスしてあげるから!」
「いい、要らないです。混ぜっ返すだけなので」
「アハハ、厳しい! いいよ使って。社長のお茶だけ出しといてもらえたら」
「わかりました、ありがとうございます。何かあったら呼んでください」
「大丈夫大丈夫! そっかー、片瀬ちゃんいないなら、俺一人で淋しいから隣の部屋でごはん食べようかな~……」
 本気なのか突っ込み待ちなのかわからないけど、泊さんのこういうところが心配でならない。
「社長がいるのに無人にしないでください。拓ちゃんに来てもらったらどうですか? ここ使っていいんで」
 デスクをポンポンと叩くと、泊さんはアハハと笑い、
「そっか、そうする」
 と言ってご機嫌そうに再びPCに向かった。
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