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第9章

3 通じ合えること③

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 はっと目を覚ましたら部屋は真っ暗だった。
 腕を伸ばして枕元を探り、時計を掴んで引き寄せた。午後七時を回っている。
「ん……、どうしたの……?」
 隣に寝ていた亮弥くんが、時計の光を避けようと私の胸元に潜り込みながら尋ねた。
「もう夜になってる。寝ちゃってたみたい……。夜ごはんどうしようかな」
「あるものでいい……」
「お肉とかお魚とかメインになるものが、何もないんだよね……。お買い物行く?」
「んー……、いいよ。この前のパスタみたいな簡単なやつで、充分」
「そう? それならいいけど……」
 私は材料を確認しようと思って、起き上がろうとした。
 すると、亮弥くんが両腕を滑り込ませて抱きついてきた。
「行っちゃだめ」
「コラ、離しなさい」
「ヤダ」
「だぁめ」
「ヤダ」
「じゃあ、あと二十秒だけ」
 そう言うと、亮弥くんは笑った。
「けっこう短いな」
 私は再び体を下ろして、亮弥くんを抱きしめ返した。

 人肌の感触は、この世のどこにもない。
 なきゃないで何とも思わなかったけど、あればあったで、これナシでよく生きてたなと思う。
 亮弥くんの肉体も、私の人生のご褒美だ。

 汐留から帰ったら、ベッドに直行だった。
 亮弥くん、いつもと違ったな……と、整髪料でゴワゴワの髪を撫でながら考える。
 元カレに会ったことで刺激されたのか、亮弥くんは独占欲むき出しの一面を見せた。
 それに拒絶を覚えるどころか、呑まれるように惹き込まれてしまったから、私は完全に恋の呪いに掛かっている。

 私は私で今日は、亮弥くんへの想いが過去の恋愛とは異質だということを実感した日だった。
 どこか熱烈な衝動を伴った正樹の時とはまた違い、どの瞬間も地に足がついていて、それでもこの人を愛しいと思う、浮かされていない強固な恋愛感情。
 それはもう、冷める時は来ないんじゃないかと思えた。
 亮弥くんの想いよりも、私のほうが確たるものなんじゃないかとすら思ってしまう。

 しばらくすると、亮弥くんはまた眠りについたようだった。
 よほど疲れたらしい。
 私は絡みつく腕をほどいて、そっとベッドを出た。
 服を着て、髪をまとめて手を洗ってから、冷蔵庫の中身やその他の食材を確認していて、ふと、チャンスなんじゃ……と思い立つ。
 ご飯が炊きあがるまで四、五十分はあるし、亮弥くんは寝ている。時間はある。
 私はそうっとキッチンと部屋の間のドアを閉めて、急いで料理に取り掛かった。

 炊飯器のアラームが炊き上がりを知らせた。
 大方調理を終えてメインにパン粉をまとわせていたら、亮弥くんが起きてきた。
「ちょうど起こそうかと思ってた」
「何作ってるの?」
「これはポテトコロッケ」
「コロッケ!」
 思ったより亮弥くんのテンションが上がった。
「あー、でもご期待に添えるかはわからないよ。挽き肉とか入ってないし……あるものだけで作ったから」
「コロッケって挽き肉入ってるっけ?」
 その程度の認識なら助かる。
「あとどのくらいで出来る?」
「うーん、十分くらいかな」
「それじゃ、先にシャワー浴びてくる」
 亮弥くんがバスルームに向かったので、私はテーブルの準備をして、先に小鉢とお箸を並べた。
 そしてキッチンに戻って最後の仕上げに入った。

 用意したのは、ポテトコロッケ。
 コロッケにかけるソース……が無いので、トマトピューレとみりん、オリゴ糖を混ぜて作ったケチャップもどき。
 つけ合わせはキャベツの千切りと、ミニトマト。
 それから小鉢として菜の花の辛子和え。
 作り置きしてあったひじき煮。
 そしてごはんと、厚揚げと野菜のお味噌汁。
 シンプルで王道だけど、私の本気ごはん。

「こんなにちゃんとしたごはんが出てくると思わなかった」
 整髪料が落ちてすっかりいつもどおりの亮弥くんは、部屋に戻るなりテーブルに並んだ料理を見て、感嘆の声を上げた。
「ふふ。やればできるでしょ」
「さすが優子さん! 食べよう食べよう」
 亮弥くんがテーブルについたので、私も向かいに座った。
「どうぞ」
「いただきます!」
 私は内心緊張しながら反応を待った。
 亮弥くんはポテトコロッケを箸で一口分切り分け、それを口に運ぶと、
「うん、おいしい!」
 と笑顔になった。
「味、大丈夫?」
「うん、コロッケも、ケチャップ? もちょうどいい」
「そう、良かった」
 私はほっとして自分も食べ始めた。
 うん、我ながら、美味しい。

 菜の花も、ひじき煮も、お味噌汁も、亮弥くんはちゃんと味わいながら、おいしい、おいしいと言ってくれた。
「味、足りなくない?」
「いや……、たしかにアッサリしてはいるけど……なんだろう。優子さん、味つけがすごく上手いよね。うまく言えないけど、なんかめっちゃおいしい」
「それなら良かった」
「あるものだけでこんなに作れるってすごいな……」
「まあ……いつもやってるからねぇ。亮弥くんとお買い物して、ここで料理するじゃない? その後は、しばらく残った材料で生きてる」
「そうなんだ」
「亮弥くん、お家で何か作れるようになった?」
 そう聞くと、亮弥くんは罰が悪そうに、こちらを上目遣いで見た。
「それが、なかなか……。帰りが遅いから、つい買って帰っちゃって。ここで優子さんと一緒にやるのは楽しいんだけど、自分一人でやるのは……優子さんと会わない週末に、チャーハン作るくらいかな? コンビニでベーコンと卵と、あと野菜サラダ買ってきて、刻んで……」
「エラい」
「えっ、エラい? 教え損だって怒られるかと……」
「あはは、まあ、ここで作ってるのは、あくまで二人で食べる用のごはんだからね。料理慣れできればいいかなってくらいの気持ちだから」
「そ、そうなの?」
「ちゃんと自分で考えて料理できてるの、エラいよ」
「ほんと?」
「うん、包丁使うのも上手くなったしね」
 そう言うと、亮弥くんは嬉しそうに顔を綻ばせた後、食事の手を止めて小さく息をつきながら言った。
「優子さんも正樹さんも、人を褒めるの上手いね。なんか二人って、すごく似てるっていうか、人当たりの良さとか、温かい感じとか、優しいところとか、重なる部分が多かった」
「そうかな……」
「すごくお似合いだったんだろうなって思った」
 それを聞いて、私は一瞬いやな予感がした。
 亮弥くんの、あまりにも屈託のない声色に、このまま別れを切り出されるのではという思いが胸をよぎった。
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