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第12章

1 遭遇③

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「あとあれです。普段の自分と、仕事中の自分って違うじゃないですか」
「まあ……そうですね」
「だから、仕事でちょうど合う人がプライベートでも合うとは限らないんですよ。私の場合、仕事柄、上からも下からもあらゆる雑務を引き受けますけど、家ではもう何もしたくないですし。だから仕事中の姿を見てこまめに気がつくところを期待されちゃうと、もう会うのが苦痛になっちゃいますね」
「そうなんだ」
 拓ちゃんがそんな考えだとは、知らなかった。
「あ、別に仕事では全然いいんですよ。仕事でやるのは全然苦じゃないので」
「うん、でもわかるなぁ。私も仕事中の自分を好きになられても無理って思っちゃうもん……」
「そうなの!?」
「うん、私仕事中は秘書だけど、本来は秘書気質じゃないからね。そこ誤解されていつも笑顔で一歩下がって尽くしてくれると思われても……。亮弥くんは仕事中の私を知らなかったから、すごく気が楽だったよ」
「そうだったんだ……」
「まあ、そういう知る順番も心象には影響しますよね。プライベートでつき合う相手はプライベートで出会うのが一番ですよ」
 そういうことはあまり考えたことが無かったけど、拓ちゃんに言われると納得してしまった。
 出会いに先入観は無い方がいいのかもしれない。実華ちゃん達の例もあるから、必ずしもそうとは言えないにしても。
 でもそう考えると、正樹は仕事中もプライベートも人柄はほとんど変わらなかったから、ああいう人だと良いのかもしれない。
 実華ちゃんもおそらくそんなに変わらないだろうし。
「話してくださってありがとうございました。勉強になりました」
 亮弥くんが頭を下げるのを見て、これで一件落着かな、と私は安心した。

 それより亮弥くんこそ、さっきの子に確実に好かれてると思うけど、気づいてるのかな。
 若い人同士が並んだあの絵面は、私の中にけっこうずしりと響いた。

「それじゃ、こっちが解決したなら、次はそっち聞きましょうか」
 拓ちゃんが私の方に両手を向ける。
「あ……じゃあ俺、席外します」
 亮弥くんは席を立とうとした。
「え、どうして? いいよここにいて。別に聞かれて困ることもないし」
「片瀬さんが良いなら私も構いません」
「そうですか、それじゃ……」
「よくわからない内輪の話が出ちゃったらごめんね」
「いや、もう居ないものとしてもらって」
 亮弥くんは椅子に深く体を落ち着けた。

「実はね、まだ亮弥くんしか知らないんだけど、私、会社を辞めるつもりなの」
「えっ……そうなんですか?」
 あまり表情の変わらない拓ちゃんの目に驚きと戸惑いが宿る。
「泊さんに話したら具体的に進んじゃうから、先に拓ちゃんに話しておこうと思って」
「それはありがたいですけど、なんでまた……。あ、もしかして寿退職」
「ちがいます」
 亮弥くんと返事がハモってしまった。
「そんな二人がかりで否定しなくても」
「気が合いすぎてごめん。まあ、理由としては、もう秘書としては限界かなって感じてるのと、他にやりたいことがあって。これから引き継ぎ用にマニュアルとか作って、準備でき次第、退職願を出すつもり」
「そうですか……」
 拓ちゃんは目を伏せてじっと考え込んだ。
「まあ、ご自身でよく考えて決めたことでしょうし、敢えて口は出しませんけど、片瀬さんが抜けるとなると大変ですね……」
「すみません……」
「誰が社長秘書やるんでしょう」
「まあ、社長と泊さんが相談して決めるんだろうけど、私は真鍋さんでも十分務まると思うんだよね」
「真鍋ですか。真鍋はちょっと……」
「良くなさそう?」
「いやまあ、社長が是非と言うならですけど」
 気の進まなさそうな返事が少し気になったけど、亮弥くんの前で深く聞くのもな、と思い、私はそれ以上突っ込まなかった。
「まあ、私みたいに他部署からいきなり社長秘書ってこともあるかもしれないし、一時的に派遣を入れるかもしれないし、なんとも言えないけど、いずれにしても拓ちゃんには色々サポートしてもらうことになるだろうから……。迷惑かけますけど、よろしくお願いします」
「あ、いえいえ、それは。仕事ですので。でも、そうですか……。いなくなると思うと、寂しいですね」
 その一言に、胸がじんと痛んだ。
 いや、痛みではなく、喜びかもしれない。

 私にとってはずっと大切な仲間だった拓ちゃん。
 その気持ちには博愛も多分に乗っていて、私が拓ちゃんに対して心の奥深くで感じている愛情は、たぶん普通の人が思う同僚愛より巨大だ。
 でも普通は相手はそうではない。
 湧き上がる愛情をある程度抑えておかないと、気持ちのギャップから変な誤解が生まれたり、無駄に傷ついたりすることになる。
 だけど、そうか。拓ちゃん、私がいなくなるのを寂しいと思ってくれるんだ。
 そう知れただけで、拓ちゃんに対しては私の心も必ずしも一方通行ではなかったと、思うことができた。

 面談を終えて拓ちゃんを見送ってから、亮弥くんと二人でごはんを食べて帰ることにした。
 すっかり夜になった大通り沿いを、新橋方面へと歩く。
「どうだった? 拓ちゃんと話して」
「うん、姉ちゃんがアンドロイドみたいって言ってたのがよくわかった」
「何それ」
 愛美ちゃん、拓ちゃんのことそんなふうに思ってたのか。
 でもそう言われるとちょっとわかる気がする。
「優子さんの周りって、いい人ばかりだね。俺ももっと優子さんが誇れるような男にならないと」
「もう充分すぎるほど誇ってるよ。私も亮弥くんに恥ずかしくないようにがんばるね」
「優子さん大好き」
 繋いだ指を絡め直す亮弥くんの穏やかな微笑みに、私はまたひとつ、この人と居られる幸せを心に刻んでいた。
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