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第12章

2 プライバシーの開示③

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 そしてようやく週末が訪れた。
 今週は特に出掛ける予定はなく、優子さん家でゆっくり過ごすことになっている。
 土曜日の午後、俺ははやる気持ちを抑えながら優子さんのマンションのインターホンを押した。
「はーい」
 いつもの可愛い明るい声。
 そういえば、最近外で待ち合わせることが続いたから、この応答も久しぶりだ。
 エレベーターを上がり、優子さんの部屋の前に立つと、ガチャガチャと音がしてドアが開いた。
「いらっしゃい」
 ロングスリーブのTシャツにデニムというラフなスタイルの優子さんが、ふわりと笑って出迎える。
「おじゃまします」
 俺は中に入って鍵をかけ、先に廊下を進もうとしていた優子さんの腕を引いた。
 そしてぎゅうっと抱きしめる。
 春になって薄着になった分、優子さんのかたちがはっきり感じられる。
「淋しかった」
「亮……」
 俺は優子さんの顎を上に向けてキスをした。
 五日間めっちゃ我慢した。
 もう何にも邪魔されない、二人だけの空間だ。
「ちょっと……まって、亮弥くん」
「ヤダ。待たない」
「まって」
 優子さんがそう言うので、俺は仕方なくキスを止めた。
「あはは、そんなに拗ねた顔しないで。髪や化粧ぐちゃぐちゃにしちゃう前に、買い物だけ済ませてこよう? そしたら後は、ゆっくり。いくらでも」
 俺は眉を寄せて口を尖らせたまま、抗議の意を示した。
 優子さんはなだめるように俺の頭を撫でる。
「月曜日からずっとお預けなのに、まだお預けなの?」
 そう言うと、優子さんは少し眉を上げて、一瞬魔性の笑みを見せた。
「亮弥くん、いいこと教えてあげようか」
「何?」
「亮弥くんがお預けされてるって思ってる時は、私も同じようにお預けされてるんだよ」
 マジか――!!
 それって、優子さんも俺としたいのを我慢してるってこと?
 やばい。エロい。
 え、そういう目で見ちゃうよ??

 俺が軟化したのを表情から察したのか、優子さんは「カーディガン取ってくるね」と言って部屋に入っていった。
「優子さんはあんまりそういう気持ち無いのかと思ってた」
「無かったらしないし、今日だって出掛ける予定入れてるよー」
 そうか。今日出掛ける予定が無いのも、そのためだったのか。
 さすが優子さん。さすが秘書。スケジュールの立て方が完璧。
「それじゃ、行こうか」
 戻ってきた優子さんが俺に掴まりながら靴を履く。可愛い。
「優子さんは俺のことどのくらい好きなの?」
 俺は未だにどこか片想い感が抜けずにいるのかもしれない。
 だから優子さんの感情を意外に思ってしまうんだろう。
 心のどこかに、「つき合ってもらっている」という気持ちが残っているのだ。
「うーん、そうだなぁ。量で表現するのは難しいけど」
 そりゃそうだな。俺も「死ぬほど好き」とかしか言えないし。
「今まで出会った人類の中で、ダントツで一番好き」
 なんのためらいもなくそんなことを言われて、俺は一瞬すごく驚いた。
 その後、なんだか急に胸がいっぱいになった。

 俺の九年以上分の想いは、ちゃんと優子さんに届いてた。
 そして優子さんの心を大きく動かしていた。
 俺ばかりが優子さんを求めているんじゃなくて、優子さんも同じように俺を想ってくれている。
 再会した時とつき合い始め。
 つき合い始めと今。
 二人の時間が積み重なるごとに形を変えている。
 今さらになって俺にときめくと言ったのは、そういうことなんだ。
 嬉しいのと安心したのとで気持ちを抑えきれなくなって、俺はもう一度優子さんを抱きしめた。

 買い物を終えて帰ってきて、五日分の我慢を満たし合ってから、俺は優子さんに例の件をちゃんと話そうと考えた。
 優子さんは何も言わないけど、もしかしたら気になっているかもしれないし。
「ね、優子さん」
 ベッドの上で腕まくらをしたまま体をずらし、優子さんの方に向き直す。
「うん」
「この前の、俺の会社の人にさ、言ったから。優子さんが俺の彼女だって」
「え……」
「彼女が大事だから他の女性に興味が無いって。あ、別に告白とかされてないけど……、ああいうこと二度としないでほしかったから」
「亮弥くん……」
「あの時さ、他社にミーティングに行った帰りで、食事して帰ろうって誘われたのを、俺断ったの。会社に戻ってやることあるからって。そしたらあんなふうに……ちょっとしつこくされて、そこを優子さんに目撃されちゃって。でもそもそも俺はあの人と食事する気が全く無いから、その理由をちゃんと伝えたほうがいいと思って」
「そっか……。彼女、なんか言ってた?」
「別に俺を好きとは言ってないって」
「あはは、そっか……」
「めっちゃ話し損。しかも社内に言いふらされるし」
「そうなんだ、それは災難だったね。でも、そっか。亮弥くん彼女いるって、皆知ったんだね」
「うん、まぁ……」
「ちょっと安心しちゃった」
「え?」
「話してくれてありがとう」
 それは、どっちの意味だろう……?
 優子さんに話したことなのか、彼女がいるって話したことなのか。
 後者? 後者だよね?
 俺は優子さんのものだって宣言して良かったってことだよね?

「この前ね、あの子が去り際に、亮弥くん誘ってもお茶にもつき合ってくれないって、女嫌いなのかなって洩らしていったんだよね。私、それ聞いてホッとして、だから敢えて亮弥くんに問い質す必要もなかったっていうか。……でも、あの瞬間はすごく、イヤだったから、はっきりさせてくれて嬉しい」
「ほんと?」
「うん、ありがとう」
 優子さんはそう言って、ぴったりくっついてきた。
 それを抱きしめて、そっと髪を撫でる。
「亮弥くんにこんなにベッタリくっつけるのって、私の特権なんだなぁ」
「そんなの、当たり前だし」
「ふふ、でも幸せ。ありがとう」
「……ねぇ、俺もさ、優子さんの腕掴んじゃった時あったじゃん」
「あったねぇ。まだ少年の時」
「少年は言い過ぎ。あの時、怖かった?」
 そう聞くと、優子さんは顔を上げた。キョトンとしている。
「いや、男にいきなり腕掴まれて……」
「ああー、ううん。私あの時、亮弥くん足滑らせてとっさに掴んだのかなって思ったから」
「マジで?」
 そんなふうに思われてたなんて、余計カッコ悪いじゃん。
「でも、その後そうじゃなかったってわかったよね、なのに振りほどいたりしなかったでしょ。なんで?」
 優子さんは、ふふっと笑う。
「そんなことわざわざ聞いてくれるの? 嬉しい」
 俺はその「嬉しい」の意味がわからなかった。
「あの時は、亮弥くんの話を聞くほうが先だと思ったからかな? それに、階段で振りほどいたら危ないし」
「そんな理由まで」
「男の子の力にはかなわないしね。焦って振りほどこうとしたらお互いケガするかもしれないし。まあ、そもそも亮弥くんに暴力的な気持ちはないだろうっていう確信も、無意識にあったかな? それに、有無を言わさず振り払ったら、辛い思いさせちゃうでしょう……」
「そっ……」
 そんな時にそんな気持ちが出るの? と俺は驚きのあまり絶句した。
 俺なんか栗原さんに掴まれた時、うわって思って速攻振り払おうとしたんだけど……。
「け、嫌悪感とか無かったの?」
「うーん、無かったな。亮弥くんのこといい子だなって思ってたし……。むしろ本当は抱きしめてあげたかったなぁ」
 は?
「それは、どういう気持ち?」
「う~ん、どういう気持ちだろう。こう、一生懸命なところがすごく愛おしいっていうか。落ち込んでるのを慰めてあげたいっていうか。思いが叶わなくて欠落した部分を、愛情で満たしてあげたくなったっていうか……もちろん、恋愛感情じゃないんだけど」
「博愛だ……」
「わぁ、正解」
 優子さんはぱちぱちと手を叩く。
「でもそんなことしたら余計ややこしくなるから、手はポケットに封印。博愛は押さえ込んで駅に向かったと」
「すげー。あの時の優子さんをめっちゃ鮮明に思い出した。そういう気持ちだったんだ」
 あの時、優子さんが急に素っ気なくなって、やらかした、嫌われてしまったって、ものすごく後悔した。
 でも、そうじゃなかったんだ。

 そしてその底なしの愛情は、この先も俺以外にも向けられる。
 きっといつでも、誰に対してもそういう愛情を秘めているのだ。
 それは少し悔しい。
 できることなら優子さんの愛情は全部俺だけに向けてほしい。
 でも、そうなったらきっと、優子さんは別人になってしまう。
 優子さんの特性をまるごと受け入れられてこそ、側にいる資格があるということ。
 幸い俺はそれなりに許容できている。
 でも、もう少しだけ、自分は優子さんにとって特別なんだという確信を必要としている感も否めない。

 体を起こして優子さんを覆い、そっとキスをした。
 柔らかい唇はすぐに俺を受け入れ、華奢な両腕がすらりと伸びて首に絡む。
 本当に、四十歳とは思えないくらい瑞々しくて色っぽい。
 この優子さんを知ってるのは世界中で俺だけだ。
 今はそれで満足しておくことにしよう。
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