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第15章

それからの日々②

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 翌朝は憂鬱な気持ちで出社したけど、エントランスの警備員さんや、エレベーターで一緒になった知人や、廊下ですれ違う人達に、いつもどおりの笑顔で挨拶を繰り返していたら、次第に気持ちも上向いて、仕事スイッチが入った。
 その気持ちを強く握りしめて秘書室に入る。

「おはようございまーす」
「おお、おはよう」

 泊さんはたまたまPCを触っていて、こちらを見なかった。
 そのことにホッとしたら、そこで気持ちが途切れてしまった。
 いつもどおりなんて無理だ。
 心が鉛のように重い。

 それでも私は何も言わず、泊さんの隣で淡々と午前中の仕事をこなした。
 何度か話しかけられて、表面上は普通に返しながらも、うまく笑えていない気はしていたし、泊さんと目が合う度に逸らしてしまったけれど。

 午後になって、社長を定例会議に送り出した後、応接台に常備しているお菓子を補充しようと社長室に入った。
 社長はここに来る社員にお菓子を持たせるのが好きだ。
 だから、キャンディやチョコレート、個包装のクッキーなどを、私が手配して定期的に補充していた。
 お菓子を選ぶのも私にとっては密かな楽しみだった。
 改めて、秘書を通していろんな経験をしたし、楽しみも多かったなと思い返す。
 企業のトップがどんなふうに日々の仕事をこなしているのかなんて、ここに入らない限り一生知ることはなかっただろう。

 社長がいないうちに空気を入れ換えておこうと考えて、窓際の方へ一歩踏み出した。すると、
「片瀬ちゃん」
 入り口のドアが開いて、泊さんが入ってきた。
 私は反射的にビクっとしてそちらを振り返った。
 パタン、とドアが音を立てて閉まる。

「びっくりした、何ですか?」
「あのさ、社長になんか変なこと聞いちゃったよね……?」
 罰が悪そうに首筋をさすりながら、泊さんは苦々しい顔を見せた。
「何ですか、変なことって」
「その、片瀬ちゃんの異動の件で……」
「ああ、社長に聞いたんですか?」
「昨日社長と話してから様子がおかしいからさ、何か嫌なことでも言われたのかと思って……、でも、俺のせい、だよな?」
 聞かれたら答えるしかないので、私はため息混じりに返事をした。
「……はい」
「そう、だよな……」

 しばらく沈黙が続いた。
 泊さんは俯いて、言い訳を探しているように見えた。
 どうせなら言い訳を決めてから来ればいいのに。
 ううん、その前に、一言謝って私を騙した理由を正直に話してくれたら、それだけで私の気は済むかもしれないのに。

「泊さんがそんな人だなんて夢にも思わなかったし、すごく傷つきました。でも別に、もういいです。終わったことなので。あと二週間だけ我慢すれば泊さんともお別れですし」
 淡々とそう言いながら、窓を開けに行こうと泊さんに背を向けた。
 我ながら冷たいなと思ったけど、いつもの関係性があるから冗談として伝わるかもしれないと思った。
 それでやり過ごせるなら、もうそれでいい。

 と思ったのに。
 背を向けた途端、体を後ろに引く力が働いてぐらついた。

 えっ――?

 私は泊さんに後ろから抱きつかれていた。
 驚きのあまり視界がぐにゃりと歪む。
「俺、ずっと……片瀬ちゃんのことが好きで……」
 両腕に迷いを滲ませながら、泊さんは耳元に弱々しい声を落とす。

 ああ――。

 頭が一瞬で記憶の照合を行ったように感じた。
 全て合点が行った。
 そういうことだったんだ。

 私は泊さんをよく知っている。
 この人は、気持ちが先に先に行って、端から見たら一貫性のない行動をする人だ。
 そこに悪気がないこともよく知っている。
 私を好きだったのなら、矛盾の意味がよくわかる。
 泊さんの言葉に違和感を抱くことがなかったのは、それらもまた本心だったからなんだ。
 それがわかって、どこかホッとしている自分がいた。

「能力を認めてたのも、応援していたのもホントで……、活躍させてあげたい気持ちと、側に置いておきたいって気持ちと、その二つでずっと葛藤してきて……、でも社長も片瀬ちゃんがいてくれることを望んでたから……つい、甘えて……」
 そんなこと、もう説明されなくてもわかる。
 何年隣にいたと思っているんだろう。
 あの懺悔は最初から、私の希望より自分の思いを優先させてしまっていることへの罪悪感によるものだった。
 それを私が違う意味に受け取ってしまっていただけだったのだ。
 でもだからと言って許されることじゃない。

「離してください」
「片瀬ちゃん、俺は……」
「社長に言いますよ」
 声を鋭くしてそう言うと、泊さんは一瞬ひるんだ。
「奥さんにも言います。困るなら離してください」
 少し迷いを見せた後、私を拘束していた腕は恐る恐る離れていった。

 私は大きく息をついてから、振り返って泊さんに向き合った。
 泊さんは普段見せないようなまじめな顔で、息をのんで私を見つめた。
「話はわかりました。でも泊さん……それは絶対ダメです。そんな個人的な理由で、若い芽を摘んだら絶対にダメなんですよ。社長が自分のために私を離さなかったことも残念に思っていましたが、泊さんは論外です」
 腹立たしさよりも、悲しい気持ちが上回っていた。
 だから私は、泊さんの目を見て、切実な思いで訴えた。
「私ももう四十になって、だからこそ一層思うんですけど、若い人を活躍させられない会社に、未来なんかないですよ。一定の年齢を越えたら、自分の利益より下の世代のことを考えてやっていかないと……若い人のほうが時代に馴染む感性も柔軟な発想力もずっとあるんです。それを上の世代がエゴでつぶしてしまっていたら、誰が会社を良くしていくんですか? しかも恋愛感情でそんなことをするなんて、絶対に、絶対にあってはいけないことです」
 泊さんは少しだけ悲しそうに笑った。
「片瀬ちゃんは、こんな時でもそういう視点でものを考えるんだね。好きって言われても、気持ちは動かないの?」
「当たり前です」
「厳しいなぁ」
 いつもの笑みを見せる泊さんに、私の気持ちも少しだけ緩む。
「私は既婚者には厳しいんです。好きだと思う気持ちが嘘だとは言わないけど……誠実さに欠ける以上、それは愛じゃなくて、欲なんです」
「そう言われると、何も言い返せないじゃん……」
「当たり前です、言い返せる立場ですか」
「ははっ……手厳しい」

 口では気丈に対処しながらも、私の胸は痛んでいた。
 その痛みはもう、怒りでも傷つきでもなくて、目の前の人が不誠実ながらも秘めてきた思いを跳ね返す痛みへと変わっていた。
 こんな時、相手を軽蔑して罵倒できたらもっと楽なのだろうか。
 でも私は、馬鹿みたいに他人の気持ちを理解して受け入れてしまう。
 好きになってしまったら、結婚していようがしていまいが、その気持ち自体はどうしようもないことくらいわかる。
 それに、いくら相手が泊さんでも、私を想ってくれていたことは嬉しいし、今日の今日までそれを感じさせない振る舞いをしていてくれたことは、感謝しないといけない。
 これまで接してきた中で、いくらでも手を出すチャンスがあったのは事実なのだから、十分理性的であったとも言える。
 だからこそ、今私が触れるべきことは恋愛問題ではないのだ。

「そんなことより泊さん、約束してください」
「約束?」
「この先絶対にこんなことをしないって。私のことはもう本当にいいです。過ぎたことだし、もう若くもないし、動けなかったからこそ踏み出す決心も付いたので。でも、同じことを繰り返さないってことだけは、約束してください。もう二度と、若い人の未来も、会社の未来も、潰さないでください。誰のことも、傷つけないでください」
「俺は片瀬ちゃんだから好きになったんだけどなぁ……。他の子をそんな目で見たことないし」
 泊さんはまた首をさすりながら、納得いかなさそうに言った。
「でも、わかったよ。言いたいことはよくわかった。それは約束する」
 その言葉を聞けたので、私はホッとした。この先守られるかどうかは私の知るところではないけれど、伝わったなら、今はそれでいい。
「それじゃ、部屋に戻ってください。さっきのことは無かったことにしますから、退職までの間、これまでどおりの対応をお願いしますね!」
「はぁい」

 後ろ姿を見送ってドアが閉まるのを確認してから、私はようやく窓際にたどり着き、窓を開けた。
 往来の空気の音が入ってくる。
 その音を聞きながら、憂鬱が去ったことに気づく。
 決してスッキリと気の晴れる展開ではなかったけれど、でも腑に落ちた。
 昨日悔しくて泣いた思いを慰めるには、それだけで十分だった。

 泊さんの想いに対してキチンと答えずじまいにしたのがなんとなく気まずかったので、私はお詫びの印に社長のお菓子からチョコレートをひとつ拝借して秘書室に戻った。
 泊さんはすっかり仕事する気をなくした様子で、チェアーを大きく後ろに引いて背にもたれて座っている。
「はい、これ」
 チョコレートを差し出すと、泊さんは体を起こしてそれを受け取った。
 私はそれ以上何も言わずにデスクについて、仕事を再開した。

 パートナーとして長年信頼し合ってきた仲だ。
 決して嫌いじゃないし、悪意は無かったこともわかったし、本当はもっと言葉をかけて気持ちを軽くしてあげたい。
 きちんと想いを受け止めて、丁寧に返事を返してあげたい。
 でも、泊さんがしたことを踏まえると、今は安易に優しくするべきではないということも、わかっている。
 そう思って我慢していると、
「……片瀬ちゃん、ごめんな。本当に、ごめん」
 あのいつもの懺悔のように謝るので、私の胸にはまたズキズキと痛みが走った。
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