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エピローグ

相談

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 週が明けて火曜日、ル・ピュールの面接を終えた私は、勤務条件に少しの迷いを持ったまま帰宅した。
 それで、すぐに亮弥くんにメールをして、仕事が終わったら電話したい旨を告げた。

 食事と後片づけを済ませた二十時半頃、ベッドに座ってスマホを見ていたら、亮弥くんから着信が入った。
 ずいぶん早いなと思いながら通話ボタンを押す。
「はーい」
「あ、こんばんは」
「こんばんは」
 ちゃんと挨拶から入る亮弥くんが、私はとても好きだ。
「もう終わったの?」
「うん、今帰り着いた。最近、少しは早く帰れるようになって」
 そういえばいつだったか、そうなると思うって言ってたっけ。
「そうなんだ、何か変わったことでもあったの?」
「あー……、ちょっと業務を見直して効率を上げたのと、あと、早く帰るんだっていう強い意志で……」
「あ、そうなの? 努力の成果なんだ。すごい」
「ハハ、がんばりました。それで、そっちはどうだったの? 面接は」
「うん……。あ、話長くなるからこっちから掛け直そうか?」
「いいよ、そんなこと」
「ありがとう、じゃあ……」
 私はル・ピュールの店長さんとの話を亮弥くんに伝えた。 

 ホールスタッフが一人、八月に抜けることが決まっている。
 まだ先のことではあるんだけど、できれば店の雰囲気を知っている利用者さんに来てほしいという気持ちがあって、まずは店頭だけで早めに募集をかけたらしい。
 私は何度もル・ピュールを利用しているので、その点は歓迎された。
 勤務時間については、未経験なので最初はパートタイムで十時~十五時まで。
 事務経験があるのと、料理の素養はあるので、ホール以外の仕事も任せられるようなら、ゆくゆくは正社員として雇うかもしれないとのことだった。

「え、八月からで良くて、慣れるまでは短時間で、その後正社員ならめっちゃいいじゃん」
「うん、そうなんだけど……」
「何か心配でもあるの?」
 私はちょっと後ろめたい気持ちで、もう一つの条件を口にした。
「実はね、土日が仕事で、しかも、パートでも金土日は夜の八時まで入ってほしいらしくて……。そうなると、亮弥くんとの時間が……」
「あー……」
 休みが合わなくなったら、二人でゆっくり過ごせる日がなくなってしまう。
「一応、こちらの希望としては、できれば土日のどちらかは休みが欲しいって伝えはしたんだけど、難しいかもしれない」
「まぁ、そうかもね。でも、それ以外は申し分ないわけでしょ? 収入はどうなの?」
「うん、週末に長く入るから、想定よりは落ちなくて済むかもしれない。社会保険もあるんだって」
「いいね」
「パートなら空いた時間で、起業に向けた準備もしていけるし……」
「とりあえず聞いた感じ、マイナス要素は俺とのことだけだよね?」
「まあ……」
「そんなことで悩むなんて、優子さんらしくないじゃん」
 そう言われて、パチンと目が覚めた気がした。
「館山に行っちゃうことと比べたら、ぜんぜん会えるんだし、俺早く帰れるようになったから、優子さんが良ければ平日にでも会いに行くよ。たまには平日休みも取れなくはないし。とりあえずいったんパートで働かせてもらってみて、お互いにストレスになるならもう一度考え直すってこともできるんじゃない? 俺は、大丈夫だと思うけど」
「ほんと?」
「まぁ、もっと言えば、……あ、でもこれは言うとルール違反だよな……」
 亮弥くんは自分を戒めるように言葉を引っ込めた。
「何? いいよ、何でも言って?」
「その……、一緒に住めたら一番良い気がするんだけど、優子さんはやっぱりそのつもりはない……んだよね?」
「え……」
 私はその言葉に驚いた。
 でも、亮弥くんがそう考えるのも無理はないかもしれない。

 私がこれまで一緒に住むのをやんわり避けていた一番の理由は、いつか別れるかもしれないという気持ちがあったから。
 それに、仕事を辞めて起業するまでの不安定な時期に、同棲も結婚も、進めるわけにはいかないとも思っていた。
 でも今は違う。
 具体的な結婚の時機はまだこれから話し合うとしても、すぐにでもと言われた以上、そう遠い未来だとは思っていない。
 その時が来れば、当然一緒に暮らすつもりでいる。

 そんな私の気持ちを知らない亮弥くんは、返事を待たずに話を続ける。
「でもさ、一緒に住めれば毎日会えるし、家賃とか光熱費の負担も少しは減るだろうし、つか俺が持てる部分は持つし。優子さん少なからず収入は減っちゃうわけだし、そうじゃなくても起業を考えたら出費は減った方がいいでしょ? ……あ、それに、一緒に住んでも休みが別々だったら、それぞれ一人の時間を持てる感じになって、優子さんの自由も守れてちょうどいい気もする……」
 その発想に、私は思わず笑ってしまった。
 でも、休みが合わないことを前向きに捉えてくれて、ありがたい。
「たしかに、お互い同居に慣れるにはちょうどいい距離感かもね」
「え、じゃあ、アリ?」
「うん、あり」
「マジで!!」
 驚きの入り交じる嬉しそうな叫びに、こっちは笑いが止まらなくなる。
「マジで一緒に住んでくれるの!?」
「うん、亮弥くんが良ければ、そうしよう」
「うわ、マジでっ……! 良かった、俺、この前すごく必死だったから別居でも良いって言ったけどさ、後になってめっちゃ後悔してて……それ言わなくてもOKもらえたんじゃないかって。でも言ったからには取り消せないし……。あー、でも、良かった」
 そんなに悩ませていたのかと思うと、なんか申し訳ない。
 でも、一緒に住みたいと言っていた亮弥くんが、それを諦めてでも私と結婚したいと言ってくれたことは、正直なところ嬉しかった。

「それじゃ、一緒に住む方向で、ル・ピュールを受けることにするね」
「うん、わかった」
「帰ったばかりなのに聞いてくれてありがとう。ごはんまだなんでしょ?」
「うん、またコンビニで買ってしまいました……」
「一緒に住んだら平日は作ってあげるから、大丈夫」
「マジで? 最高しかないんだけど」
 亮弥くんが毎日家に帰ってきて、私の作ったごはんを食べてくれるなら、私も嬉しい。
 なんだか急に、楽しみになってきた。

「それじゃ、ごはんゆっくり食べてね」
「うん、あ、優子さん……」
「うん?」
「相談してくれてありがとう」
 一瞬驚くとともに、胸がトクンと鳴った。
 その一言で、自分の中の変化を知る。

 電話を切って、ベッドに寝転がった。
 二人でシェアできるロングクッションの枕には、一昨日までここに居た亮弥くんの匂いが残っている。

 プロポーズを受けて、まだたったの四日。
 その前は、このまま終わるんだろうとさえ思っていた。
 なのに今の私は、もう完全に、亮弥くんを伴侶として見ている。
 大事なことは二人で話し合って決めようと、ごく自然に、思うようになっている。
 この先もずっと亮弥くんと生きていくことを、当たり前のように信じられている。
 いつか終わるだろうと思っていたことの方が不思議なくらいに。

 そんな気持ちになれたことを、幸せだなーと思っていたら、涙が込み上げた。
 こんな時が来るなんて考えもしなかった。
 亮弥くんと出会えてから、私の人生に無かったはずのものがたくさん入ってきた。
 それはすべて、亮弥くんがいつも諦めないでくれたから。
 根気強く私のことを愛してくれたから。
 ありがたくて、亮弥くんと重ねてきた時間の全てが愛おしくて、次々涙がこぼれた。
 私はこれから、どれだけのことを返していけるだろう。
 私にできることなんてそう多くはないけれど、良い時も悪い時も、思いやって、愛を持って亮弥くんの側にいよう。
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