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昭和通商店街~レトロな男×男恋物語
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「純(じゅん)ちゃん、見ててよ!」
商店街のはずれにある小さな公園で、達(たつ)彦(ひこ)は声を張り上げた。長かった夏休みも、もうじき終わりだ。明日、母が達彦を迎えにくる。明後日からは、また父母と三人きりの生活に戻らなければならない。
「うん、見てるよ。だけど、達ちゃん……気をつけてよ?」
純の心配をよそに、達彦は得意げに桜の木に登り始める。日頃、どちらかといえば大人しい達彦だが、純といると俄然やんちゃな性格になるから不思議だ。春には見事な花をつけるというが、達彦はまだ一度もその花姿を見たことがない。一番下にある大ぶりの枝に腰掛けると、達彦は天を仰ぎ眩しそうに目を細めた。
「いつかこの木に咲く花を見たいな。おばあちゃんが写真を見せてくれたけど、俺、本物が見てみたい」
達彦は、裸足の足をぶらぶらと揺すった。足の裏についた砂が、風に舞いながらぱらぱらと下に落ちる。
「いつか見においでよ。そうしたら、僕、達ちゃんのためにお花見のお弁当を作ってあげるよ」
「ほんと? 約束だよ!」
達彦の声に、純はこっくりと頷いて笑った。その顔は、桜の葉が作る日蔭にいてもなお、白く透きとおるような肌をしている。
※ ※ ※
まだ世も明けやらぬ下町の商店街。そこは、都会のビル群から電車で一時間ほどの郊外に位置している。駅前にある大通りには中型のオフィスビルが立ち並んで、そこから道ひとつ隔てただけで雰囲気がまるで違う。入り口には「昭和通商店街」という古びたアーチがかかっており、その名のとおり立ち並ぶ店の造りも実にシンプルでレトロチックだ。駅を挟んで反対側にある繁華街には、雑居ビルがひしめくネオン街が広がり、その中でもひときわ目を引く店のひとつに「ゼウス」というホストクラブがある。
明りが消えたその店の裏口から、背の高いひとりの男が出てきた。
男の名は九条雄也(くじょうゆうや)。五年前にこの町にふらりとあらわれ、以来駅向こうにある商店街裏の高級マンションに住みついている。その昔、都会で超一流のホストとして名を馳せた彼も、今や経営者側に回っている。年齢は二十八歳。艶めいた黒い瞳と、彫りが深い整った顔立ち。モデル並みのスタイルの良さと美貌を誇る彼は、それなりの恰好をさせればエリートビジネスマンに見えなくもない。それと同時に、今のように夜の街に映える真っ白なスーツに身を包めば、聖人を墜落させるレベルの漁色家にも思える。
「おはようございます! 雄也さん、今帰りですか?」
ひと月前に入店したばかりの新人ホストが、店の前に立つ雄也に駆け寄って嬉しそうに声を上げた。彼の後には数人の先輩ホストが続いている。彼らは皆明け方からの営業の為に出勤してきたところだ。
「おはよう。雑用を片付けるのにちょっと手間取ってな。ん? おまえ、まだ寝ぼけた顔してるな。朝メシはちゃんと食ったんだろうな?」
「えっと、今朝はちょっと……その、起きるのが遅くなってしまって……」
もごもごと口ごもる頬に、雄也の掌が伸びる。
「メシはちゃんと食えって言ってるだろう。寝不足も厳禁だぞ。ホストっていうのは、健康じゃなきゃやっていけない仕事だからな」
ふっと細めた目に見据えられて、新人は一気に頬を紅潮させる。
「は、はいっ! 今夜から早く寝ます! ご飯もちゃんと食います! 俺、雄也さんみたいにかっこいい男になれるよう、頑張りますから!」
新人は、背筋をピンと伸ばし、宣言する。
「いい子だ」
指先で新人の頬を撫でると、雄也は口元に満足そうな微笑みを浮かべた。
「俺は、これから朝メシの買い出しに行ってから家に帰る。じゃ、みんな後はよろしく」
「はい、お疲れ様でした!」
その場にいる全員が一斉に姿勢を正し、頭を下げる。くるりと背を向けて歩き出した雄也は、左手を軽く振って駅の方へと歩み去っていく。夜の道には、さっき降った雨のせいであちこちに水溜りができている。それを気にして歩くふうでもないのに、不思議と雄也の足元は、汚れた水の一滴も寄せ付けない。
暦の上ではもう春なのに、ここのところ真冬並みの寒さが続いている。商店街は未だ夜の暗闇が続いて、住民達はまだ深い眠りの中だ。その中で、唯一半分だけシャッターが開いている店があり、その入り口には「白石(しらいし)豆腐店」という古びた看板がかかっている。
店の従業員に進言するだけあって、雄也は日々の食事には人一倍気を使っていた。元来アルコールには強く、多少飲みすぎの感がある時でも、ひと眠りすると頭はすっきりと冴え、健康的に空腹も覚える。特別手の込んだものを作るわけではないけれど、朝と昼は基本的に自炊だ。普段どちらかといえば和食を好む雄也は、引っ越してきてすぐにこの豆腐店の常連になった。日によって訪れる時間は違うが、深夜に雑務を片付けることが多い雄也は、今日のように午前四時半ごろに足を運ぶのが常だ。
「おはよう。いつものくれる?」
半開きのシャッターを苦労してくぐり、雄也はセメントが打ちっぱなしの店内に入った。大豆を蒸す湯気が立ち込める中、漆黒の髪をした男がひとり、立ち働いているのが見える。
「おはようございます。毎度ありがとうございます」
雄也とほぼ同じ背丈をしたその男は、水の中から肉厚の木綿豆腐をすくい、透明の容器にするりと移動させた。男の無骨な手とは裏腹に、そのしぐさは極めて繊細で優しい。既に飽きるほど見慣れた光景だったが、雄也は毎回それに目を奪われてしまう。
男の名は、白石達彦。その落ち着いた立ち振る舞いからか、二十五歳という歳の割には少し老けて見える。くっきりとした目元とやや浅黒い肌。きりりと濃い眉は眉間からこめかみへと真っ直ぐに伸び、頑固そうな口元はいつも一文字に結ばれている。
店自体は達彦の父方の曽祖父の代から続いており、この界隈では豆腐屋といえばこの店のことを指す。それを受け継いだ祖父の守(まもる)も四年前に亡くなり、今店を切り盛りしているのは祖母である白石フミだ。夫を亡くした後、ひとりで店を守っていたフミだったが、やはり寄る年波には勝てない。
店はそれなりに繁盛していたものの、ひとり息子である稔(みのる)は、豆腐屋ではなくエリートサラリーマンになる道を選んだ。大型スーパーに客足が流れる昨今、それも無理からぬこと。そろそろ店をたたむことを考え始めていた矢先に、思いがけず孫の達彦が後継者になると言いだした。
それが今からちょうど二年半前、達彦が大学を卒業する春の出来事だ。それ以来、達彦とふたりして店をやっていたフミだったが、去年の暮れ、ちょっとした不注意で転倒し、大腿骨を複雑骨折してしまった。手術自体は上手くいったが、フミは半年の入院生活を余儀なくされてしまう。そのため、彼女がいない今、達彦はたったひとりで店を守っている。
「二百五十円になります」
百八十センチを優に超える男ふたりがいるだけで、そこはもう息苦しくなるほどの狭さだ。雄也はポケットに用意していた小銭を探って、達彦の方に代金を差し出す。
「フミさん元気? ここんとこバタついてて、ゆっくり見舞いにも行けてないんだ」
雄也は、豆腐の入った容器を受け取り、間近にきた達彦の顔をまじまじと見つめた。濃い睫毛の下にある彼の目は、白目が青く見えるほど澄みきっている。
「元気です。リハビリも順調に進んでいます」
視線を下に向けたままそう答えると、達彦は小銭を手にしたままくるりと背中を向ける。
「そりゃよかった。――じゃ、今日はこれで帰るとするか。また明日な」
雄也が声を掛けると、達彦は一瞬だけ振り返り、雄也と視線を合わせた。
「ありがとうございました」
ぺこりとお辞儀するつま先は、もう店の奥へと向かっている。その表情からは、なんの感情も読み取れない。
雄也は再びシャッターをくぐり、店の外に足を踏み出した。そして、ぐっと上体を反らすと、思いっきり大きな欠伸をする。
「……うーん……、相変わらず無愛想なやつだなぁ」
そう言う口元には、薄っすらと笑みが浮かんでいる。雄也は、一緒にいて心地いいと思う相手にはいたって寛容な男だ。一度気に入れば、多少の愛想の悪さなどまるで気にならない。達彦に関して言えば、むしろその方が似つかわしいとすら思う。
毎朝のようにこうして店を訪れ、気が向けば壁際に置いてある椅子に腰かけてひとしきり話し込んでから帰る。そうはいっても、ほぼ雄也が一方的に喋るばかりだ。達彦はそれを聞いているのかいないのか、たまに相槌を打っても、めったに口を開かない。
「さてと、帰って寝るか」
歩き出す足元を街燈の灯りが照らしている。
二月最初の満月は、厚い雲の向こうに閉ざされて顔を見せる気配すらない。店の中から、白い湯気がもうもうと立ち上っては消えていく。その風景を目にするたび、雄也は自分にとっての一日が終わりに近いことを感じるのだった。
雄也が去り、店にまたもとの静けさが戻ってきた。店の奥には豆腐を作る作業場があり、そのまた奥にあるガラス窓の向こうは、彼が日常をすごす六畳ほどの居間が続いている。
模様入りのガラス窓を開け放ち、壁際にある座布団を手にとる。達彦はそれを半分に折り曲げ、枕にして仰向けに寝転がった。フミが入院する前は、豆腐を作ることだけに専念していればよかった。
だけど、彼女が不在の今、接客は達彦がこなすべき仕事のひとつだ。
そんな生活が始まってから、もう二か月にもなるだろうか。客とのやりとりにもだいぶ慣れてきたとは思う。だが、いまだ素っ気ないと思われても仕方のない態度しかとれない。話しかけられれば答えるが、こちらから言葉を発することなど一度もなかったように思う。
自分には、接客業は向かない。愛想のひとつも言えないし、風貌からして町の豆腐屋に似つかわしくないこともわかっている。だけど、ありがたいことに、そんな浮いた存在である自分を、商店街の人々は暖かく見守ってくれているのだ。以前フミが店に来た客と話していた。
「達彦の口数の少なさも、今じゃ町の風景のひとつだ」と――。
そう皆に思わせた一番の立役者は、他でもない雄也だ。
彼は、引っ越してきた当初より町内会に入り、積極的にその活動に参加している。そして、またたく間に商店街の重鎮達と親しくなり、彼らとともに会の運営を取り仕切るようになった。雄也は、達彦がフミのところに来るなり、彼を半ば強引に町内会の青年部に入らせ、あっという間に彼を会の中枢部に引き込んでしまった。それから二年半経った今では、彼は「白石豆腐店の達ちゃん」であり、無愛想だが真面目で働き者の好青年という印象を持たれている。
本当は、そうじゃない。そんなふうに思われるほど、自分はいい人間なんかじゃないのに――。
達彦は、日頃からそんな違和感を感じている。いくらフミの孫とはいえ、自分はこの町の人間ではない。いついなくなっても不思議ではないし、所詮自分なんか根無し草だ。
もともと積極的に豆腐屋を継ごうと思ったわけではなかった。ただ、父親が息子のために用意した人生のレールに乗りたくなかったというだけ。実家から、少しでも遠く離れた場所に行きたい。
自分は父親が望むような人間にはなれない。長年抱き続けてきたそんな思いが、大学卒業を機に爆発してしまったというだけの話だ。
そうはいっても、今ではそれなりに生活は充実しているし、こんな生き方も悪くないと思っている。それに、思いがけず、豆腐屋としての一連の仕事にやりがいも感じ始めているのだ。
元来団体で行動するよりも、ひとりでなにかこつこつとやる方が好きだった達彦だ。交流があるといっても、ほとんどが父親よりも上の世代の人ばかり。おせっかいは焼くが、最低限の節度はきちんと守られている。ノリや雰囲気だけで左右されるような薄っぺらい付き合いなど、ここには存在しない。それを心地いいと感じる自分は、こういった一昔前の空間で生きていくに相応しい人間なのだろう。
達彦は、最近そう思うようになった。だけど、如何せん地に足がついているという気がしない。
ここが自分の〝居場所〟であるという確信が持てない。だからといって、他に行くべき場所があるわけでもなし、何をどうしたらいいのかわからないままこうして暮らしている。
五時を少しすぎると、達彦は店のシャッターを全開にする。外気が店の中に入り込んで、店内に立ち込めていた湯気は、一気にどこかへ消え去ってしまう。冷たい空気が、火照った頬をひんやりと冷ましていく。まだ誰もいない路地を少しの間眺めて、達彦はまた店の中へと戻った。その背中を追うようにして、商店街の左手から軽い足音が聞こえてくる。
それを聞いたとたん、達彦の胸の中に、小さなきらめきが生じた。店の中でしばらくの間待っていると、入り口に小鳥のように澄んだ声が控えめに響く。
「おはようございます。いつものください」
「おはようございます。毎度ありがとうございます」
達彦は差し出された桜色の容器を受け取り、前もって指定されている分量の豆腐を丁寧に移し入れる。その声の主は、名を風間(かざま)純(じゅん)といい、商店街の外れにある小料理屋の店主だ。他に従業員はおらず、純はたったひとりで店を切り盛りしている。純は小さいころからこの商店街に生まれ育ち、白石豆腐店の常連でもある。フミが入院してから、ようやくまともに顔を合わせるようになったふたりだったが、実のところ昔よく遊んだ幼馴染でもある。
遊んだといっても、幼稚園から中学に上がるまでの夏休み限定だったが、当時は毎日のように顔を合わせ、遊びに興じた仲だ。それなのに、今はお互い必要以上のことはなにひとつ話さず、当然世間話など一切したことがない。子供のころを知っているという気恥ずかしさもあってか、再会するまでの十年は、ふたりの仲をかえって他人行儀なものにしてしまっている。
純の瞳は大きく、唇はまるで桜の花びらのように柔らかく儚げな風情を含んでいる。絹のように白く滑らかな肌と、細い檜皮(ひわだ)色の髪の毛。身長こそあまり高くはないが、今は亡き祖母の静子から教えられたその立ち振る舞いには、下卑たところなどひとつも見当たらない。
「全部で二千円になります」
達彦は豆腐入りの容器を差出し、純は空になった達彦の掌に豆腐の代金を置く。ほんの少しだけ肌がふれあい、すぐに離れる。そんな近い距離にいるのに、ふたりは互いの視線を避けるかのように常に伏し目がちだ。
「毎度ありがとうございます」
達彦が顔を上げると、ふたりの視線は一瞬だけ交わる。目が合ったとたん、純は視線を桜色の容器に移した。
「じゃ、また明日」
そう言い残して、純は足早に店の外に出て行く。その後ろ姿を目で追う達彦は、去っていく足音をが聞こえなくなるまで、じっとその場に立ち尽くして動かずにいる。そして、おもむろに背伸びをして、いつの間にか強ばっていた肩の筋肉を揉みほぐすのだった。
店の壁にある掛け時計が、五時十五分を示している。純が帰ってしまえば、その後商店街のあちこちの店が開く時間帯までシャッターを下ろしておく。達彦は、いつものように店の奥に引っ込み、買い込んであった食パンをトースターの中に二枚ほど突っ込んで焼いた。
それをコップ一杯の牛乳とともに胃袋の中に流し込むと、膝に落ちたパンくずを払い、流しまでコップを洗いに行く。フミが入院してしまった今では、それが毎日の達彦の朝食であり、その後はテレビを見るでもなく、少し横になって仮眠をとるのが常だ。
毎日、午前三時には起き出し、豆腐の仕込みをして、朝の開店に備える。配達時にはやむなく店を閉めるが、人々が買い出しに来る時間帯には極力店を開いている。午後七時には店を閉め、片付けを終えて風呂に入るのはだいたい八時ごろだ。午後九時には布団に入れるとはいっても、ぐっすりと眠れる夜ばかりではない。達彦の眠りは、時に暗い夢を伴うことがあり、そんな夢を見た日の達彦は、普段よりも一層口数が少なくなる。
店の前は、まだ行き交う人の気配すらない。
達彦は居間に戻り、畳んだ布団から掛け布団だけを手繰り寄せた。いい加減、居間でのごろ寝はやめなければと思いながら、座布団を枕にしてついそのまま目を閉じてしまう。背中に当たる電気ストーブのぬくもりが心地よかった。
ふと、さっき触れた純の指先の感触が掌に戻ってくる。かじかんだ肌の上に感じた、純の暖かな体温。薄い桜色をした純の指先を、あのまま掌に握りしめたらどんな感じがするだろうか。たおやかな純の身体を、腕の中に取り込んだら純はどんな反応を示すのだろう。そんな考えが頭に思い浮かんだとたん、達彦は激しく頭を振って自分を諌めた。
達彦が最初にここを訪れたのは、彼が二歳の時──。
もともと父親である守とそりが合わなかった稔が、フミと自身の妻の初枝(はつえ)に促されて渋々帰省した夏のことだ。その時から小学校六年の年まで、達彦は夏の数週間をこの町ですごした。稔が同行したのは最初の一年だけ。次の年からは初枝だけが達彦と一緒にここで寝泊まりして、小学校に上がってからは、達彦だけが祖父母のもとで長い夏をすごすようになる。
「おじいちゃんとおばあちゃんのところにとまるのは、とてもたのしい。いっしょにあそぶともだちもいるし、おじいちゃんがつくるおとうふは、すごくおいしいです」
達彦が小学一年の夏に書いた作文は、校内で賞をもらい、今もフミが大切に保管している。しかし、そんな習慣も達彦が中学に進学するとともになくなってしまう。勉強とクラブ活動に追われて、遊ぶどころではなくなってしまったのだ。高校進学と同時に寮生活を始めて、祖父母の家どころか実家からも足が遠のく日々が続く。大学に進学した達彦は、そのまま実家には帰らず、そこの寮に入った。そして、達彦大学二年生の夏、初枝が旅先で亡くなってしまう。それを境に、それまで決してよくはなかった父子の関係は、より一層冷めたものになる。ほとんど交渉を持たなかったふたりだったが、稔はときおり連絡を入れてきては、達彦の将来について熱心に話を持ちかけてきたりしていた。それは、卒業後は大学院に進み、将来的に今自分がいる会社に、研究員として入社しろというもの。
そして、達彦が大学四年の冬。フミからの電話で、守が脳溢血で急死したとの知らせが入った。
久々に会った父とともに祖母のもとに駆けつけた達彦は、うなだれるフミの傍らで彼女の小さな背中をさすり続けた。電話ではたまに話すことはあっても、ずいぶんと顔を見せていなかった彼は、祖父の亡骸に無沙汰を詫びた。葬儀も終わり、手伝いの人達も数人を残すのみとなった夕方。休憩所となった町会館の一室で、一同はフミを囲んで故人を忍んでいた。夫の死に憔悴した様子のフミだったが、それでも達彦がそばにいると笑顔になり、弔問に来ていた近隣の店主らに久しぶりに来た孫の顔を見せて回る。
「達ちゃん、大きくなったわねぇ」
「しばらく見ないうちに随分男前になったもんだ」
それを微笑みながら眺めていたフミは、手にしていた湯呑茶碗を見つめながら、ふっと深いため息をついた。
「おじいさんとふたりで頑張ってやってきたお店だけど、私ひとりじゃあ今までどおり店をやっていくってわけにはいかない。寂しいけど、そろそろ店をたたむ潮時かもしれないねぇ」
その言葉を聞いて、商店街の人々も無言で小さく相槌を打つ。店主の高齢化に伴う後継者問題は、大概の店が抱えている共通の悩みなのだ。仲間の店が減ってしまうのは残念なことだが、かといってこれといった打開策など誰ひとり持ち合わせてはいない。
丁度その時、所用で外出していた稔が、入り口に顔を出した。
「達彦、そろそろ帰るぞ」
稔の声は、皆の話し声がする中、妙に冷ややかに響いた。顔を上げたフミが、名残惜しそうに達彦を見る。その表情を見た瞬間、達彦は思わずこう口にしていた。
「俺が、豆腐屋を継ぎます」
達彦の言葉に、フミを始め一同はあんぐりと口を開けてその顔に見入った。
「――おい、達彦! いったい何を言うんだ? おまえの進路はもう決まっているはずだろう!」
真っ先に我に帰った稔は、普段めったに出さないような大声を張り上げ、達彦の顔を正面から睨みつけた。
「大学院に行って、その後うちの会社に入る段取りになっているだろう? 豆腐屋を継ぐ? 何をバカなことを!」
激昂する稔を尻目に、達彦はフミの方に改めて向き直った。
「おじいさんが亡くなったと連絡が来た時から、考えてはいたんだ。おばあさん、僕がこの店を継ぎます。おばあさんのもとで修業をして、一緒にこの店を続けていこうと思う」
「そんなことは許さん! 今まで何の為に大学に行って勉強してきたんだ? ――とにかく今夜はうちに帰ろう。お母さん、明日また連絡します」
そう言ってそそくさと帰り支度を始める稔。達彦は、その背中に向かって、自分はこのままここに残ると言い放った。
「まだ片付けがあるし、ひとりになったおばあさんを、このまま残してはいけません」
そして、フミと今後の店のあり方について、話し合いたいと言ってのける。父子の間で押し問答が続く中、その場の雰囲気に耐えかねた人達がひとりふたりと帰っていく。
「いいだろう……。今日はとりあえずここに残れ。だが、豆腐屋うんぬんの話だけは受け入れるわけにはいかない!」
間に立ったフミは、困惑した表情をうかべながらも、ただじっとふたりの様子を見守っていた。
達彦は、言うべきことを言った後はじっと父を見据えたまま口をつぐんでいる。稔にすれば、そんな戯言は、祖母の悲しみを目の当たりにした達彦の一時の気の迷いにすぎなかった。だが、守の死に関する一連の慌ただしさが去り、再度達彦の意向を確かめた稔は、息子が本気で豆腐屋を継ぐ気だと知り、改めて怒りを露わにする。
「おまえは今まで何の為に頑張ってきたんだ? 私は何の為に必死で……。達彦、私はおまえに豆腐屋を継がせる為に大学へ行かせたわけじゃないぞ!」
稔は、激しい憤りを感じながらも、達彦をなんとか説得しようとした。だが、どうしても達彦が首を縦に振らないと判断したとたん、頭ごなしに達彦をどなりつけた。
「豆腐屋に未来なんかないぞ! おまえは、自分の人生をどぶに捨てようとしているんだ!」
そして、自分が決して達彦の進もうとしている道を容認しないこと、さっさと目を覚まして、院に進むことを言い置き、それ以降達彦と話すことをすっぱりと止めてしまう。しかし、稔の説得や脅しは、なんの功もなさなかった。
大学を卒業して間もなく、達彦は宣言通りフミのもとにやってきて一緒に住み始める。フミは戸惑いながらも達彦を歓迎して、達彦は「よろしくお願いします」と言って、深々と頭を下げた。
それから半年がすぎ、どうせすぐに音を上げて帰ってくると思っていた稔の思惑は、完全に当てが外れてしまう。達彦は、フミのもとで豆腐作りの修行に励み、寝る間を惜しんで技術を学ぶことに没頭した。フミは、一時期ひどく思い悩んだ――。
このまま達彦を豆腐屋にしてしまっていいのだろうか? しかし、日々成長を遂げる達彦を見るうち、そんな心配は徐々に影をひそめていく。そして、達彦の決心が本物であると判断したある朝のことだ。フミは仏前に座り、守が亡くなって以来止めていた配達業務を再開すると報告した。
やがて二年と少しがすぎ、達彦もようやく一人前になったと認められて、さてこれからという時に起きたのがフミの骨折事件だ。
「あぁ、ドジ踏んじゃったもんだねぇ。でも、達彦が一人前になった後でよかった。あたしの骨も、そこらへんは考えて折れてくれたんだろうねぇ。だってほら、今じゃもう店はあたしがいなくても大丈夫になってるだろう?」
フミは、ベッドの上で明るく笑った。そして、見舞いに来た商店街の面々に、達彦のことをくれぐれもよろしく頼むと頭を下げたのだ。
「達彦、大変だろうけど、店は任せたよ。あたしは、文字通り少し骨休めをさせてもらうからね。そう心配そうな顔しなくていいよ。あたしの骨はいずれ治るし、あんたの作る豆腐は、もうおじいちゃんの作る豆腐とそっくりだもの」
フミは皺だらけの手で達彦の大きな手を包みこんだ。
「今回のことが、丁度いい機会だと考えてごらん。これから自分がどうやって生きて行くのか、自分が今人生のどんな道に差しかかっているのか。今までずっと忙しくしていたんだもの。ちょっと立ちどまって、自分の足元を覗きこんでみるといいよ」
「おばあさん……」
「この町は、今時にしちゃあちょっと古臭いけど、みんな優しくて住み心地がいい。ぼちぼちでいいから、達彦の方からもっと町に溶け込んでみたらどうだろう。あんたがその気になれば、この町はもっといい達彦の〝居場所〟になってくれるよ」
素知らぬ顔をしながら、フミは達彦の胸の内をちゃんと見抜いていた。どこか地に足がついておらず、常に自分のいるべき場所を探しているような達彦の様子を、いつも見守ってくれていたのだ。
「前向きに行こうよ、達彦。そう考えると、あたしの骨折は、きっと必要なものだったんだと思えてくる」
フミの強さは、達彦を前進させてくれる大いなる追い風になった。
「わかりました。おばあさん、店は俺が守りますから、安心して養生してください」
達彦がそう言うと、フミは繰り返し頷き、嬉しそうに相貌を崩した。
※ ※ ※
商店街の外れに、こぢんまりとした小料理屋がある。店の名を「風花(かざばな)」といい、桜の花びらが描かれた暖簾が、道行く人の目を引く。磨りガラスの引き戸を開けると、左手には六つ椅子が並ぶカウンターが、右手には四人掛けのテーブル席が三つほど並んでいる。毎日午後五時に開くその店は、いつ覗いても、何人かは客が座っている。初めて店を訪れたお客は、料理の質の良さもさることながら、店主である純の美貌にまず目を奪われてしまう。そして、なぜかほっとする店の雰囲気に心地よさを感じて、いつの間にか常連になる人も数多くいるのだ。
純の両親は、彼がまだ小学校に上がる前に病気がもとで相次いで亡くなっていた。その為、実質純を育て上げたのは母方の祖母である静子で、彼女もまた若いころに夫と死別している。静子はこの界隈でも有名な美人だった。夫の死後、何人もの男性が彼女に求婚する。だが、静子は決して首を縦に振ることはせず、死ぬまで夫ただひとりを想い続けると公言してはばからなかった。
夫に続き、娘にまで先に逝かれてしまった静子は、娘の忘れ形見であり唯一の近しい身内である純をことさらに可愛がった。だがその一方で躾には人一倍厳しく、純は彼女の古風な考え方や慎ましさを、そっくり受け継いだ形で大きくなる。
そんな静子も五年ほど前に亡くなり、純はその悲しみを静かに受け止めながら、彼女から託された店の暖簾を、告別式の八日後には入り口に掲げたのだった。
「あぁ、腹減った。純、卵焼き焼いて」
純の友人であり、その店の常連でもある雄也は、いつもこんな調子で店に入ってくる。
頼み方はその日によってまちまちで、「野菜食いたい」とか「あっさりしたもの」などと大雑把なことを言う時もあり、具体的に料理の名前を出す時もある。純はその都度雄也の体調をさりげなくうかがい、彼の前に心のこもった料理を並べるのだ。
「いらっしゃい。今日は少し早いね」
「あぁ、店にまた新人が入るんだよ。なかなかの逸材なんだけど、なんせ行儀がなってなくてね。当分の間早出して、一から躾直さなきゃならないんだ」
長い足をカウンターの下で組んで、雄也は思案顔で出されたお茶を一口飲む。
「相変わらず繁盛してるんだね。雄也が経営している限り、あの店も安泰だよ。ううん、店だけじゃなくって、あの界隈全体かな」
彼が駅向こうにホストクラブ「ゼウス」を開店する前、その辺りはまるで活気のないさびれた地域だった。あるのは男性客相手のスナックや怪しげな個室マッサージ店だけ。立ち並ぶ雑居ビルには空室も多く見られて、女性客をターゲットにした店など、一店舗もない有様。
そんな状態の町に目を付けたのが雄也は、まず市役所の地域振興課に足を運んだ。そして、近隣のビルオーナーをも巻き込み、街燈や植え込みを設置し、昼夜問わず女性客が訪れやすいようイメージアップを図った。その上、知り合いの実業家を引き込んで、いくつかの空き店舗にシックなバーやこぢんまりとした洋風レストランまでオープンさせてしまう。
この町に店を出す前、既に東京の繁華街で二件のホストクラブを経営していた雄也は、業界では名の知れた敏腕経営者だ。純とはある日本料理店のオーナーを通して知り合い、妙に馬が合って以来、ずっと付き合いが続いている。
「だけど、よくあの辺り一帯をあそこまで賑やかにできたね。さすが雄也だ」
「まあね。だけど、もともとあの場所はすごく立地がいい。ただ、いいテナントが入っていなかったってだけの話だ。要は使い方だよ。年末には都内にあるヘアサロンの支店も進出してくるしな」
「ほんと? なんだかずいぶん洒落た町になるんだね。雄也って、ほんとたいしたもんだよ」
純は話しながら器用に卵焼きを作り、皿の上にふんわりと盛り込む。その皿は静子がとある地方の町で買い求めたもので、薄緑色の皿に乗る卵料理は、春に咲く菜の花のようだ。卵焼きの横に大根おろしをちょこんとのせ、雄也の目の前に差し出す。
「ご飯は?」
「あぁ、少なめでいい。あと、糠漬けもらえる?」
「了解」
それだけの会話で、後は味噌汁ともう一品何らかの料理が雄也の前に並ぶ。「風花」が営業時間を迎える前、雄也はたまにこうしてやって来ては必要な栄養を補給していく。
「そういえばさ、純。おまえっていくつになる?」
桜模様の箸を片手に、雄也はカウンターの中にいる純を見上げる。
「二十八。何度目だよ、そうやって僕に歳を聞くの。雄也と同じ歳だってば。前も今と同じように突然そう聞いてきたよね」
純は、雄也の顔を見て小さく笑った。その様は、まるで桜の花が綻ぶみたいで、外に吹きすさぶ冬の風を一瞬忘れさせる。
「そうだっけ? 俺、日頃自分の歳なんか考えもしないから、つい忘れちゃうんだよな。ふぅん、二十八か。あぁ、どれもこれもうまそうだな。いただきます」
雄也は胸の前で軽く手を合わせて、湯気の立つ味噌汁に口をつけた。自分の素性を詳しく人に語ることはない雄也だったが、普段の所作から判断するに、ずいぶんと躾の行き届いた家庭で育ったに違いない。
「で、さっきから気になってるんだけど、あれは、何だ? その表装からして、もしかして見合い写真かなんかか?」
雄也はカウンターの上に置いてある二つ折りの写真入れの方に顔を向けた。
「あぁ、これ? 昨夜自治会長の奥さんが持ってきたんだ。あんたもいい歳なんだから、お嫁さんでももらって身を固めたらどうかって……。その気はないって断ったんだけど、とにかく見てくれって無理矢理置いていっちゃってね」
肩を少しすくめながら、純が困ったように笑う。
「見合い? そりゃあ傑作だな。おまえが適齢期だってのは間違いないけど、見合いねぇ……。どう考えても見合いなんかおまえの柄じゃないし、そもそも無理がある設定だな」
「うん、まぁそうだけどね」
純と雄也は、ふたりとも異性に恋愛感情を持てない。それは、ふたりが出会った時に雄也から持ち出した話で、彼は純もそうであることを即座に見抜いてしまっていた。
「どうすんだよ。ほっといたら自治会長の奥さんにも見合い相手にも失礼だぞ。それにしても、おまえが見合いって……」
雄也は、一瞬なにか意味ありげな視線を純に投げかけた後、いきなり首をのけぞらせて大袈裟に笑いだした。
「笑いごとじゃないよ! 奥さん、僕が結婚するまで面倒見てやるって息巻いちゃってね。その子がだめなら、次もあるからって。参ったよ。いくら持ってこられても期待には添えないのに……」
「だろうな」
卵焼きを一切れ口の中に放り込むと、雄也はまじまじと純の顔を見つめた。
「なに? 僕の顔になにかついてる?」
雄也は、卵焼きを悠然と噛んで飲み込んだ後、ゆったりとした声で話し始める。
「おまえってさ、仮に相手が男であっても、見合いして結婚するような奴じゃないだろ。俺と一緒で、心底惚れ抜いた相手じゃなきゃ絶対にダメなタイプだよな? そんなの、ずいぶん前からお見通しだけど、もうそろそろお節介を焼いてやってもいいころだと思ってな」
雄也の謎めいた言葉に、純は目を細めて小首をかしげる。
「お節介? 僕に誰かを紹介してくれるってこと?」
「いや、紹介するまでもないだろ」
箸の先で糠漬けを摘まんで、雄也がちらりと純の方を見上げる。
「それって……、どういう意味?」
雄也の視線を受け、純は急にそわそわと皿を洗い始めた。
「あのな、純。おまえとはもう随分長い付き合いになるよな。だから、様子を見てるだけで程度なにを考えているかわかるつもりだ。おまえにはもう心に想う人がいるだろ? しかも、ここからそう遠くない、ごく近い距離に」
雄也はそう言い終えると、卵焼きをもう一切れ口に入れた。美味しそうに咀嚼し、ごくりと飲み込む。純はその間も、目を伏せたまま忙しく手を動かしている。
「で、俺の出番だ。どうやらおまえは自分から積極的に攻め込む気はないみたいだし、相手側もぐずぐずとその場に留まって動く気配がない。毎朝のように顔を合わせているくせに、一向に距離が縮まらない。傍から見てる俺にしてみれば、じれったくて仕方ないね」
みるみる頬を染め上げる純の顔を見て、雄也はやっぱりな、という顔をしてひとり頷く。
「僕は別に、そんな……」
純は、そうは言ったものの、それ以上言う言葉も見つからず相変わらず皿を洗い続ける。
「ふたりともわかりやすいよ。特におまえな。俺と話してても、時々呆けたような顔をする時があるだろ? それも、俺が達彦について話す時に限ってな。最初は、ただ上の空で人の話を聞いてやがると思ってたけど、そうじゃないとすぐにわかった」
達彦の名を聞いたとたん、純は手にした皿をあやうく落としそうになる。出された料理を綺麗に平らげ、雄也はまた手を合わせて「ごちそうさま」と言った。
「自分では気づかないか? そんな時のおまえって、頬がほんのり桜色に染まるんだぜ? 口元は緩むし、瞳だって潤んでくる。最初それを見た時、こいつとうとう俺に惚れやがった、と思ったけど」
「はあああぁ?」
純が驚いて大声を上げたその時、店の入り口に酒屋のバイクが止まった。
「おっと、もうこんな時間か。何にしろ、おまえは今恋煩いの真っただ中にいるんだ。自治会長の奥さんにはできるだけ早く、はっきり言ったほうがいいぜ? そうでなきゃ、お互いに時間を無駄にするばかりだぞ」
「あ、うん……」
なにもかも見透かされている。雄也には自分の気持ちが全部ばれてしまっている。だけど、それはあくまでも自分だけの想いだと思っていた。一方通行の、完全なる片想いだと。
でも、もし雄也の言葉を信じるなら――。
もし、それを信じていいなら、達彦もまた自分のことを想ってくれているということだろうか?
いや、まさかそんなはずは――。
「ちゃんと理由も言って断っとけよ。僕には、心底惚れた人がいるんで見合いなんか出来ませんって。そしたらさすがに諦めるだろ。じゃ、話の続きはまた今度な」
「心底って……あっ? あぁ、いってらっしゃい!」
弾かれたように顔を上げる純の様子を見て、雄也は片方の口角を上げてにやりと微笑む。そして、悠然と立ちあがると、左手を軽くひらつかせながら駅の方向へと歩み去って行った。
「はぁ……」
その日の営業を終え、純はカウンターの中でその日何度目かの深いため息をつく。
「おまえは今、恋煩いの真っただ中にいるんだ」
雄也に言われた言葉が、一日中頭の中を駆け巡っている。
「恋煩い……か」
純は誰もいない店内でひとり言を言い、物思いに耽りながらも手だけは器用に動かして料理の下ごしらえをしている。
二年半前の春のこと、「風花」の裏手にある公園の桜が丁度見ごろになった暖かなその日。
純は店のカウンターの椅子に座って、先日夫を亡くしたばかりのフミといつものように話し込んでいた。
「ねぇ純ちゃん、この前話したこと、憶えてるかい? 孫の達彦がうちの店を継ぎたいって言いだしたっていうやつ」
「うん、憶えてるよ」
「実はね、その話が本決まりになったんだよ。二日前、達彦が身ひとつでうちにやって来てね。本当にやれるのか、もう一度気持ちを確かめてみたんだけど、それでもやるって言ってくれてね」
守の葬式の時は、それぞれが忙しくしており、まともに顔を合わせないままでいた彼らだった。
達彦が町会館で父親とひと悶着起こした時も、純はちょうど仕込みの為に店に帰っていて、その場にいなかったのだ。
「確か、僕よりも三つ年下だったっけね。黒糖飴みたいに大きくてきらきらした瞳をした子だったよね。あのころは楽しかったなぁ。まるで弟ができたみたいで、一緒にいるだけで嬉しかったよ」
「ふたりとも本当に仲が良かったもんねぇ。えっと、そろそろここに来るころだね。今日はここらの店に達彦を連れて挨拶に回ってるんだよ。……あぁ、来た来た」
純が入り口の方を振り返ると、桜模様の暖簾を持ち上げる大きな掌が見えた。艶やかな黒髪をした頭が、かがむようにして店の中に入ってくる。黒糖色の瞳が、まっすぐに純を捕らえた。とたんに、純の瞳はそれに吸い寄せられる。
「純ちゃん、わかる? 孫の達彦だよ。達彦、覚えてるかい? ほら、小さいころよく一緒にあちこち遊びに行った純ちゃん」
ふたりの視線が、一瞬絡み合った。その瞬間、純の瞳の奥で眩いばかりの火花が散った。達彦が、軽く頭を下げる。純は慌てて会釈を返して、口元をややぎこちない微笑みを浮かべた。
「おやおや、やけに他人行儀だこと。まぁ、ふたりともすっかり大人になっちゃったからねぇ。純ちゃん、また達彦を宜しく頼むね。達彦、純ちゃんは家族みたいなもんだし、また昔みたいに仲よくやっておくれよ」
お互い無言で頷き、またちらりと視線を交わした。少し戸惑ったような達彦の瞳が、純の胸の奥をきりきりと締め付けてくる。
「さて、っと。じゃあ、また今度ゆっくり話しに来るから」
フミは純にお茶の礼を言い、達彦とともに店の入り口を出て行く。
──それからすぐのことだ。
純の瞳の奥で散った桜色の火花は、炎となってみるみる彼の全身に広がり、その真ん中にある心まで到達していた。誰もいなくなった店のカウンターの中で、純はひとり胸を押さえ、うずくまった。
(僕……どうしちゃったんだろう……)
今まで感じたどんなものとも違う痛みが、純の胸をきつく締め付けている。さっき見た達彦の顔が、頭の中に思い浮かぶ。昔遊んだころの「達ちゃん」が、ひとりの男として純の前に現れ、そのとたん純の心の中でとてつもない大きな存在になってしまった。
(もしかして、恋、しちゃったのかな……)
自分は恋ができない。ずっとそう思っていた。今まで誰に誘われても、心が動くことなんか一度だってなかったのに。なのに、達彦と再会を果たすなり純の穏やかだった日常は一変してしまった。自分がずっとひとりでいたのは、達彦との再会を待っていたからなのだろうか。そう思ってしまうほどに、さっき見た達彦の瞳は、純の胸の奥深くに刻み込まれてしまったのだ。
純が店に豆腐を買いに来るのは、以前はもっと遅い時間だった。それが今のように早朝に変わったのは、守が亡くなってフミがひとりで暮らすようになってからのことだ。
「どうせ朝は早めに起きるし、その方がフミさんともゆっくり話せるでしょ?」
そう言った次の日から、純は朝もまだ早い時間に店に通い始めた。たいていは、木綿豆腐と絹ごし豆腐を五丁ずつ買い、フミと店先で話し込んで帰っていく。その日の朝もいつもどおり純と話し、彼を送り出したフミは店の奥で寝転んでいる達彦を振り返った。
「純ちゃんはね、そりゃあもういい子なんだよ。小さい時に両親を続けざまに病気で亡くしちゃてね。それから静子ちゃんに女手ひとつで育てられて。だけどねぇ、彼女もお店をやってたし、なかなか思うように相手も出来なくって……」
フミの声に、達彦はゆっくりと身体を起こした。もとより本当には眠ってなんかいなかったし、フミもそれを承知している。
「もともと大人しい子だったからね。いつも店の二階でひとり本を読んだり、絵を描いたり。静子ちゃんは、私の大親友だったよ。いつも周りの人を気遣う、本当に優しい人だった。純ちゃんも同じ。あの子もほんと、心根が優しい子だ」
達彦は店に下り立ち、シャッターを閉める為に入り口の方へと歩いて行く。外に出て、遠ざかっていく純の背中を目で追う。それが緩く曲がる道の向こうへと消えてしまうと、達彦はおもむろにシャッターを下ろして、居間の方に戻ってくる。
「純ちゃんはね、夏に達彦が来てまた帰っていく時、いつも笑顔だったんだよ。だけど、見送った後の顔が本当に寂しそうでね。あぁ、この子はまだこんなにも小さいのに、耐えるとか忍ぶとかいうことを知ってるんだなぁと思ってね、……切なかったよ」
フミの独白にじっと耳を傾けながら、達彦は幼いころの純の顔を思い出していた。純は昔から色が白く、美しい子供だった。細くやや色の薄い髪はさらさらと風になびいて、長い睫毛は今も西洋の人形のように目元を縁どっている。
ほぼ毎朝のようにやってくる純と雄也は、それぞれが店で話し込んではフミを笑顔にして帰っていく。達彦にとって、それが一日の始まりの風景であり、聞こえてくる話し声を聞きながら横になることは、達彦にとっての日常の一部だ。ただ、雄也がいる時はすぐに眠れるのに、純が店にいる時の達彦の耳は、彼の声を意図的に聴こうとする。まどろんでいても、頭は常に純の存在を意識している。かつて親しく手を繋いで公園を駆けた子供のころの純が、どこか憂いを帯びた美しい人に成長していた。達彦はただそのことに戸惑い、抑えがたいほど込み上げてくる純への想いを持て余しているのだった。
まだ幼いころ両親を亡くした純には、ほとんど父母に関する記憶がない。先に亡くなったのは父透(とおる)の方で、体調が悪いと病院を訪れた時にはもう余命半年だと告げられてしまった。それを看病していた母の百合(ゆり)絵(え)だったが、夫が亡くなってすぐに今度は自分も彼と同じ病に侵されていることが判明する。最後まで気丈に病魔と闘っていた百合絵だったが、それから二年後には純を残して息を引き取ってしまう。
父母の入院のたびに祖母のもとに預けられていた純は、母の死後正式に静子のもとに引き取られる。
地元の高校を卒業した純は、本人の希望もあって店から一番近い調理学校に進学した。静子は、もっと外の世界を見てきたらどうかと勧めたりもしたが、純は今自分がいる小さな世界が好きだといい、静子もそれ以上はなにも言わなかった。
元来穏やかな性格である純は、身近な人の死を除いては、激しい感情とは無縁の人生を送ってきている。その美しい容姿の為、言いよってくる者は男女問わず多くいたが、純の心を揺さぶるような人には出会ったことがなかった。なのに、大人になった達彦と再会したあの時から、純の心は千々に乱れ、それまでの平穏な生活は完全に失われてしまった。かつて子犬のように一緒に転げまわって遊んだ男の子が、今はもう逞しく成長して純の心を席巻している。
再会してから、ひと月の間はまだ半信半疑だった。もしかして、ただの懐かしさを恋だと勘違いしているのではないのか。自分では意識しない人恋しさを感じて、タイミングよく達彦が現れただけかもしれない。
(いったいどうしたんだろう……)
純は悩み、自分の中に生まれた感情をすっかり持て余してしまう。自分の性癖については、もう十分理解していた。だけど、これまで一度も恋をしたことがなかった自分だ。まさか今になって、幼馴染でもある達彦に心奪われるなんて――。
しかしながら、胸の苦しさは現実に存在する。その原因を求めて、あてどなく医学書のページをぱらぱらと繰ったりもしてみた。だけど、そんなものに答えが見つかるわけもない。何日何カ月経っても、純の瞳は達彦の姿を追う。その声を聞くたびに、これまで味わったことのない胸の高鳴りを覚える。そんな想いを誰に言うでもなくひとりで抱え込んでいた純は、ある晩布団に身を横たえながら、思いきって小さな声で呟いてみた。
「僕、……達彦さんが、好きだ」
そう口にした瞬間、純の瞳から関を切ったように熱い涙が溢れだした。もう一度その言葉を口にした純は、嗚咽とともに何度も頷いている自分自身に気づいた。
「僕は、達彦さんが好きだ」
もう一度言って、また頷く。
「達彦さんが好きだ。僕は、達彦さんが好きだ――」
その時以来、純は自分の中にある想いを疑わなくなった。だけど、それを外に出すことはせず、それまでどおり胸の奥底にそっとしまい込んだまま暮らし続ける。普通では理解されないこんな想いは、相手にとって迷惑でしかないと思ったから。そうして純の想いは、ただ雪のようにしんしんと降り積もって、気がつけば三度目の冬を迎えていたのだ。
前日に降った雪が、まだ陽の当たらない路地裏に残っている。そんな冬曇りの朝、達彦は冷たく凍る両手を手ぬぐいで擦りながら、いつものように居間の入り口に腰を掛けた。床に視線を落として、じっと自分の心の中に探ってみる。店には、さっきまで雄也がいた。冷たい缶コーヒーを差し入れしてくれ、椅子に座ってひとしきり話し込んで帰っていったところだ。途中語られた言葉が、達彦の心に妙に引っ掛かっている。
「おまえ、純のことどう思ってんるんだ? 幼馴染の割には妙によそよそしいし、いつまでたってもお互いの胸の内を隠したままだ。俺にしてみればじれったくて仕方がない。どうだ? 純は奥手だから、おまえの方から心を開いてやれよ」
いきなりそんな風に言われて、達彦はただただ面食らい、混乱した。口を開いたとたん達彦のことを同性愛者だと決めつけ、しまいには「純も同じ気持ちなんだから、さっさとくっついちまえ」などと暴言を吐く。始めこそ、自分には同性愛など無縁だと突っぱね、彼の進言を的外れなお節介だと受け流した。しかし、そんな抵抗も雄也にはまるで効果がない。
ホストクラブの敏腕経営者である雄也は、人を見る目と人物観察には絶対の自信があると豪語している。自分には性的嗜好を嗅ぎ分ける天性の嗅覚がある、そしてそれは、今まで一度だって外れたことはないのだ、と。
「おまえたちふたりは、明らかに相思相愛だぞ。どちらかかが一歩踏み出せば、愛の底なし沼に真っ逆さまだ」
雄也が芝居っ気たっぷりにそう断言した時、達彦はあからさまに眉をひそめ、横を向いた。
確かに自分は同性愛者だ。それに気が付いたのは、中学に入ってすぐのことだ。当然のように戸惑い、自分なりに悩み抜いたが、結局は自分の性癖を受け入れる他はなかった。捨て鉢になっていた一時期、まるで誰でもいいという風に盛り場を徘徊して、たまたま会った男とその場限りの交わりを持ったりした。
そして、そんな自分が汚らしくて仕方がないと思うようになったのが、母親が死んだ大学二年生の夏のことだ。それを機に、もう一生誰とも心も身体も交わさずに生きていこうと決心する。それが、達彦が彼なりに考え抜いて選んだ生き方であり、生き続けていく手段だった。
誰にも迷惑をかけない。誰とも身体を交わらせない。
(心なんて、なおさらだ──)
そうやって今までなんとか自分の中で折り合いをつけ、生きてこられた。だから、これからもそうやって生きていくのだ。今、確かにある純への想いも、口に出してしまえばきっと穢れた肉欲だけに変わってしまう。そして、自身を穢し、ひいては心に想う純までも穢すことになるに違いないのだ。それならば、なおさら純に近づいてはいけない。汚れきった自分が、清らかな純に関わるなんて恐ろしいことはできるはずもなかった。
そもそも、純が自分を想っているなんて証拠がどこにあるのか。
雄也の言うように、仮に純が同性愛者だとしても、自分たちが相思相愛だなんて雄也の頭の中の戯言に決まっている。百歩譲って雄也が善意からそんなことを言っているなら、それこそとんでもないお節介だ。迂闊に信じてしっぺ返しをくらえば、ギリギリで抑え込んでいる気持ちの持っていき場が、完全になくなってしまう──。
居間に置いてある時計の針が、午前五時を示している。
もうじき、あの人がやって来るだろう。
すべらかな額を、さらさらとした前髪で隠して。桜の花びらのような唇に、白い息をまとわせながら。そう思った時、店の入り口から純の細い声が聞こえてきた。
「おはようございます。いつものください」
「おはようございます。毎度ありがとうございます」
はっとしたように顔を上げた達彦の目に、いつもより少し俯き加減の純の顔が映り込んだ。
「二千円になります。」
決まりきった受け答えをして、豆腐を掌の上で泳がせる。それをすくい上げた時、純が達彦の背後で声を上げた。
「あ、この油揚げ、ふっくらしててすごく美味しそうだな」
振り向くと、純が壁際にある商品棚の中を覗いている。そこには、さっき揚げたばかりの分厚い油揚げが置いてあった。
「あぁ、それはこれまでのものより、じっくりと時間を掛けて揚げたものです。まだ試作品なんですけど……、よかったら試しに持っていってください」
「ほんと? 嬉しいな」
純の顔に、はにかんだような微笑みが浮かぶ。
「えっと、じゃあ……」
純の指がバッグの中にある財布を探った。
「代金はいりません。まだ売り物にできるほどのもんじゃありませんし。食べてみて、よかったら感想を聞かせてください」
いつになく饒舌になっている自分に気がつき、達彦はふいに口を噤む。図らずも見つめ合ってしまっていた視線を、容器の中の豆腐に移す。
「ありがとう。じゃあ、さっそく食べてみるね」
純は、いつものように達彦の掌に豆腐の代金をのせた。お札を握ろうとする達彦の指が、純の指先をかすめる。ぴくりと跳ねた純の手元を見て、達彦の手にも同じような緊張が走った。
「あの……、うちのお店、ちゃんと開店するのは夕方の五時なんだけど、雄也とか一部の常連さんの為に朝一度お店を開けているんだ。それで……もしよかったら、達彦さんも朝ご飯を食べに来ないかなって……。フミさんがいないから、ご飯とか用意するのも大変だろうし――」
純はとっさに口にした自分の言葉に驚き、首筋まで桜色に染め上げて俯く。
「……ありがたいですが、俺は……」
達彦の答えを恐れるように、純は急いでその後の言葉を継ぐ。
「ご飯っていっても、材料は前日残ったものを使っているんだ。常連さんが来るっていっても、毎日じゃないし……。だから、遠慮なく来てくれたらいいよ。僕もその方が嬉しい。だってほら、食べ物を残すって、よくないから――」
純はそこまで一気に言って、ちらりと達彦の方を見た。達彦は手に受け取った代金を握り締めたまま、その場に立ちつくしている。
「あ、でも達彦さんもいろいろと忙しいよね。む……無理に誘ってるわけじゃないんだ。たまたま時間が空いちゃったとか、なにか普段と違うものが食べたくなった時に来てくれたらいいかなって感じで……」
差し出された容器に目を落として、純は達彦がなにか言う前に入り口の方へとあとずさった。そして、そっと顔を上げて、もう一度達彦の方をうかがってみる。達彦はさっき見た時と同じ位置に立ったまま、微動だにしない。
「……じゃあ、また」
返事を待たずに、純はくるりと踵を返す。それだけで、精一杯だった。純は、さっき自分が言ったことから逃げるように、店の外へと駆け出していく。しばらくしてはっと我に返った達彦は、純の後を追うようにして店の外に飛び出た。だが、そこにはもう純の姿はなく、ただ朝の静けさが広がっているばかりだった。
その日の営業を終えた夕方。達彦は途中買ってきた缶コーヒーを開けて、居間の入り口に座り込んだ。プルトップを引き上げ、見るとはなしに店の中の風景に視線をめぐらせていく。達彦は、缶コーヒーを一気に飲み干し、部屋の奥にあるゴミ箱に向って、空き缶を放り投げた。畳の上に寝転び、吸い込んだ息をゆっくりと吐きながら目をつむってみる。眠ろう。いつものように、なにも考えず寝てしまおう。
しかし、いくら考えまいとしても、目蓋の裏に純の白い顔がほんのりと浮かんでくる。今までは、ただ純を目の端で見ているだけでよかった。だけど、今朝店に来るように誘われてからというもの、胸がざわついて仕方がない。ややもすれば、純にもっと近づきたい、あの細い肩に触れてみたいと思ってしまう自分がいる。
(馬鹿な……)
達彦は、そんな考えを無理矢理頭から追い払った。
(俺はもう必要以上に人と係わらない。誰とも交わらない。身体も、心も……そう決めたはずだ)
多分、今は気持ちが高ぶりすぎているのだろう。あまりにも自分とかけ離れた純の清らかさに、驚いて惑わされているだけ。純にこれ以上近づくなんて、もってのほかだ。
(大丈夫――。きっとすぐに忘れられる。聞かなかったことにすればいい。それが、一番いいんだ)
今、純に対して抱いている気持ちは、きっと一時的に昔の肉欲が復活しただけのことだ。どうしてもというなら、自己処理で済ましてしまえばいい。そうすれば、一瞬ざわめいた心も、やがて凪いでいくだろう。
一日目は、なんとかそう思いこむことで済ませられた。だが、次の朝を迎えて、達彦はそれまでよりももっと強く純を意識している自分に気づいてしまう。その日店に現れた純は、なぜか瞳を赤く潤ませ、今にも泣き出しそうな面持ちをしていた。自分からそうなるよう仕向けているとはいえ、いつにも増して視線が合わない。いつもなら、ふと顔を上げた瞬間に、目が合うのに――。
今日に限って、純はまったくこちらを見ようともせず、頑なに顔を下に向け続けている。そんな純の瞳を、達彦は覗き込んでみたいと思った。いつもより上気して見えるその頬に手を当て、なぜそんな顔をしているのか聞いてみたい。そして、できるものならその桜色の唇を上向かせて、思うまま貪ってみたい――。そんなことまで願ってしまった。
「駄目だ。……絶対に、駄目だ」
純が帰った後、達彦は声に出して自分に言い聞かせた。なのに、想いはどんどん加速していく。
心はさっきまで店にいた純の面影に憑りつかれ、身体はこみ上げるような欲望に疼いている。自分は恋愛に向かない。過去何人かと男と付き合ったが、いずれもただ同じ人種であり、浅ましい肉欲のはけ口を求めあっただけの関係だった。結局は、その場限りの情交となんら変わるものではなかったし、思い返してみても胸が痛くなるような想いなど今までに一度も抱いたことがない。そんな自分が、純を欲しいと思い、心の底からその白い肌に舌を這わせてみたいと願っている。
そんなことはできない。そんな所業が、許されるはずもなかった。
汚れきった自分が、純と対等に付き合うなどと、あってはならないことだ。仮に、純が自分と同じ性癖の持ち主だとしても、彼に自分の穢れをなすりつけるようなまねができるわけがない。
純だけは、傷つけてはいけない。雄也が言うように、たとえふたりが相思相愛だとしても、だ。
(俺は、幸せになる資格なんかない。あの人を、俺がいる場所に貶めるわけにはいかない――)
そんな考えとともに二日目の夜をまんじりともせずにすごして、三日目の朝は、店に来た純の手元だけを見て接客した。だけど、店を出ようとする純の踵に自分の視線が追いすがっていることに気づいている。もっとそばにいたい。その声をもっと間近で聞きたい。そんな自分に、達彦は今までにないほどの戸惑いを感じた。何度否定しても浮かび上がってくる想いが、達彦をじりじりと追いつめていく。
なぜこんなにも、純のことばかり考えてしまうのか――。それは、決して肉欲だけで片付けられるような単純なものではない。では、なんだ?
達彦は、自分をさんざん訝ったあげく、四日目の朝には、ついに自分の中にあるものが〝恋〟であるらしいことを渋々と認めた。本当は、自分でもわかっている。わかっていて、ずっと気づかないふりをしていた。そして、そんな自分にも背を向け続けていたのだ──。
毎朝店に来て、フミと楽しそうに話しこんでいく。そんな純のことを、自分はどれだけ店の奥から盗み見ていただろうか。
帰っていく純の後ろ姿を、毎回見逃すことなく見送っていたのは、誰だったか。これまでのことを思い返して、達彦は諦めたように長いため息を吐いた。
(会いに行きたい――)
達彦は、ただそう思った。会いに行って、なにをどうするつもりなのか。いくら誘われたからといって、もうそれから四日も経ってしまっている。だけど、今の達彦には、会いに行かないという選択肢など存在しなかった。時計を見ると、午前十時を少し回っている。
達彦は、いきなり焦りだした自分を嗤いながら、着ていたTシャツを洗濯機の中に放りこんだ。
濃紺のセーターに洗いざらしのジーンズに着替えて、しばらくの間店の入り口に佇む。そして、大きく深呼吸をした後、達彦は、純が待つ「風花」のある方向へと歩き出した。
「はぁ……」
達彦を店に誘ってから四日目の朝。純は、厨房の中でその日何度目かのため息をついた。三月も終わるというのに、公園の桜は連日の寒さのせいかまだ芽吹く気配すらない。
「やっぱり、あんなこと言うんじゃなかった……」
がっくりと肩を落としたまま、買ってきたばかりの豆腐を掌にのせる。
「あれから達彦さん、いつにも増して無口になっちゃったし……。今朝は特によそよそしかった気がする……」
我にも無く目に涙が滲んできて、あやうく手に持った豆腐の上に落ちそうになる。
「達彦さんが作った豆腐、しょっぱくしたら余計嫌われちゃうよ……」
ぐいと顎を上向かせると、純は溢れ出る涙をこめかみへと逃がした。ここ三日間というもの、達彦のことを思うと必ず涙が込み上げてくる。毎朝店に行くたびに痛いほど胸がどきどきして、それを抑えようとしてかえって息が苦しくなってしまう。彼の気持が知りたいのに、はっきりと拒絶されるのが怖くてしかたがない。いったいどうしたらいいのか――。
あれ以来、達彦をまともに見ることができない。余計なことを言ったと後悔したと思えば、どうせなら気持ちをぶつけてしまえばよかったと思ったりして。
「どうしようもないな、僕……」
白い豆腐の向こうに、達彦の俯いた顔が重なって見える。唇を噛みしめ、泣き出したい気持ちを抑えながら豆腐を刻む。そっと掌を傾け、鍋の中にそっと滑らせたその時――。
入り口の引き戸が開き、黒髪で長身の男が遠慮がちに店の中に入って来た。
「……達彦さん……」
戸の内側に掛かる暖簾を手の甲で押し上げながら、達彦がゆっくりと顔を上げた。彼の瞳が、純を視界の中に捕らえる。その瞬間、純の両方の目から大粒の涙が零れ落ちた。
「――どうかしたんですか?」
達彦は、驚いたように一歩足を進めて、戸惑った顔で純の顔を見つめる。まっすぐに自分に向けられたその視線に、純は一気に頬が紅潮していくのを感じた。
「な、なんでもないよ! ちょっと玉ねぎが目に沁みちゃってて――」
純は、急いで涙を拭い口元に笑みを浮かべる。
「いらっしゃい、達彦さん。朝ご飯を食べに来てくれたんでしょう?」
「はい」
達彦が、僅かに頷きながら返事をした。だけど、入り口に立つ足が、それ以上店に入ることを躊躇している。明らかに、純の涙が玉ねぎのせいじゃないことに気付いている。純は慌ててかぶりを振り、厨房の前にあるカウンター席を掌で示した。
「ほら、ここに座って? すぐ用意するから――。達彦さん、何が食べたい? 魚がいい? あ、卵焼きとか好きかな? なにか嫌いなものってある? フミさんが入院してから、ちゃんとご飯とか食べれてるの? ……あ、ごめん。僕ったら、質問ばかりしてるね」
純は、おしゃべりな唇を指先できつくつねった。それを見た達彦は、ふっと表情を緩めて、ゆっくりと店の中に足を進める。
「来てくれてありがとう。……もっと早く誘えばよかった。ずっとそうしたいと思ってたんだよ。ね、座って? 今ちょうど豆腐入りのお味噌汁が出来上がったところなんだ」
「ありがとうございます」
達彦は軽く頭を下げ、純が示したカウンター席の椅子に座った。
「達彦さんがこの町に来てからもう二年半にもなるのに、こんなふうに面と向かって話したことって、子供の時以来だよね」
緊張で震えだす指先を感じながら、熱いお茶とお絞りを達彦の前に置いた。
「達彦さん、小さいころのこともう憶えてない? 一緒に行った虫取りとか、商店街の縁日の夜のこととか。一泊で海水浴に行った時は楽しかったなぁ。空がすごく青くて……そう言えば、今でも思い出す夏の思い出って、ほとんどが達彦さんと一緒だ」
動揺を隠すように一方的に喋り続けて、純はふと顔を上げる。お茶を飲む達彦の姿に、胸が熱くなった。慌てて視線を手元に戻して「落ち着いて」と、自分に言い聞かせる。
「祖母が亡くなってから、僕は本当に天涯孤独の身になっちゃったんだよ。フミさんは、そんな僕を本当の孫のように気遣ってくれて、葬儀の時もずっと僕のそばで大丈夫だからねって、背中をさすってくれてたんだ」
菜箸で卵をかき混ぜ、中にだし汁を加えていく。それを専用のフライパンで焼き上げ、まな板の上にのせて包丁を入れる。出来上がった卵焼きを桜色の皿の上に盛って、達彦の前に差し出す。
「フミさん、僕に言ってくれた。ひとりぼっちになったなんて思うんじゃないよって。あんたにはあたしがいるんだから、決してひとりぼっちなんかじゃないって。僕、本当に嬉しかった。フミさんだけじゃない。お葬式に来てくれた商店街の人も、同じように言ってくれて。みんな本当に優しくって」
「……そうですね。みなさん、優しくていい人ばかりです」
その声に顔を上げた純の視線が、達彦のものとぶつかる。純の息が、一瞬止まった。それほどまでに達彦の瞳はまっすぐに純を見つめており、厨房に立つ純は菜箸を持つ指をきつく握りしめた。
「うん。みんな、本当にいい人だよ」
かわす視線の中、純の口元に微笑みが浮かぶ。それを見る達彦の口元もまた、同じように緩やかな曲線を描いた。純が達彦の瞳から目を離せないでいると、達彦はひとつ瞬きをして、ふっと先に視線を外した。
「ここに来てよかったです。そうでなければ、今頃俺はどうなっていたことか……。おそらく完全に自分を見失って、日々の生活も父との関係も、なにもかも最悪なものになっていたと思います」
葬式の後にあった出来事の話は、人づてに純も耳にしていた。達彦と彼の父親との間に、どんな確執があるのだろうか。そして、そのことが今の達彦にどんな影を落としているのだろう。
見ると、達彦の眉間には、いつの間にか薄い皺が刻まれている。なにか自分にできることがあるなら、なんだってやりたい。達彦の為なら、どんなことでもしてあげたいと思う。
「僕、嬉しいんだ。達彦さんがこの町に来て、住みついてくれたことが。本当だよ。これからは、もっと遠慮なくここに来て、ご飯を食べていってよ」
「はい、ありがとうございます」
顔を上げた達彦の目元に、うっすらとした笑みが戻ってくる。
「あ、そうだ。この間もらった油揚げね、すごくふわふわで、それでいてしっかりとした食べごたえがあったよ。そのまま食べても美味しかったし、お客さんにも試食してもらったんだけど、とても評判がよくって──」
しばらくの間、油揚げについての話が弾んだ。気が付けば、十分近くカウンターを挟んで喋っていた。そうはいっても、話すのはもっぱら純の方だったけれど。
「――そうですか。ありがとうございます。すごく参考になりました。もう少し改良して、ちゃんとした商品として売り出せるよう頑張ってみます」
「うん。楽しみにしてる」
達彦の前に並んでいた皿は、いつの間にかすっかり空になっている。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「よかった」
ふたりは顔を見合わせ、穏やかに微笑み合う。
「ほんと、いつでも食べに来てね。僕、いつだって待ってるから……」
言い終えると同時に、純ははっとしたように頬を染めて下を向いた。
「はい」
低い声でそう答えた達彦と純の間には、入れたてお茶の湯気がゆらゆらと立ち上っていた。
それから、達彦は週に何度か純の店に朝ご飯を食べに来るようになった。時間は、達彦が朝の仕ことを終えた十時半ごろ。その時間帯なら、常連客も店に来ることはない。どうせ残り物だからと代金を受け取ろうとしない純に、達彦はいくばくかのお金を、豆腐の代金から差し引くという形で純を納得させた。
「代金をもらうからには、僕がきちんと達彦さんの栄養管理をする」
純は、フミの見舞いに行ったおり、そう宣言した。それ以来、フミの進言もあって、達彦はほぼ毎日純の店に通うようになっている。
「悪いわねぇ。それでなくても忙しいだろうに、達彦の面倒までみてもらって」
フミは、また別の日に見舞いに来た純を前に、すまなさそうに笑う。
「ぜんぜん平気だよ。僕のことなら心配しないで。だって達彦さん、本当に美味しそうに食べてくれるんだよ。だから僕、すごく嬉しいんだ。ほんと、気にしなくていいからね。もとはと言えば、僕が好きで始めたことなんだし」
持参したカステラを切り分けながら、純はにこやかなに笑った。それを見たフミは、眉尻を下げて嬉しそうに頷く。
「最近の純ちゃん、なんだか嬉しそうだね? 前よりもよく笑うようになったし、ずっと幸せそうだよ。そう言えば、うちの達彦も近頃表情がグンと柔らかくなったねぇ。きっと純ちゃんのおかげだと思うけど、違うかい?」
それを聞いた純の頬は、フミの目の前であからさまに桜色に染まった。
「達彦は、放っておくとパンと牛乳だけで一日すごしちゃうからねぇ。豆腐作りは一人前だけど、料理となるとからっきしだからね、あの子は」
「大丈夫、達彦さんのことは僕に任せて。フミさんもリハビリ頑張ってね。退院したら、美味しいものいっぱいご馳走するから」
以前に比べだいぶ細くなったフミの脚を、純の掌がいたわるようにさすり始める。
「ありがとうね、純ちゃん。あんたはあたしにとって孫同様の大事な子だもの。ふたりの孫が仲良くしてくれてるってことが、あたしは本当にね――、本当に嬉しいんだよ」
フミは、純の白い手に自身の皺だらけの手を重ねた。そして、しみじみと頷きながらまた話し始める。
「達彦は、昔はもっと元気で明るい子だった。純ちゃんも、憶えているだろう? それが、いつの間にか人が違ったみたいになってしまって。両親のことやこれからのこと……、いろいろと考えることがあるのかもしれない。だけど、あたしにはこれ以上どうしてやることもできない」
小さくため息をついたフミだったが、純の顔を見てまたにこりと笑った。
「純ちゃん。あたしはね、あんたなら達彦を昔みたいによく笑う子にできるような気がするんだよ」
「僕、が……?」
フミはこっくりと頷き、純の手を両の掌でぎゅっと包み込んだ。
「なにかあったら、あの子のそばにいてやってくれるかい? 達彦は、芯が強そうに見えて、実は脆いところがあるように思う。あたしは、あの子がまた本当に笑うところが見たいんだよ。昔みたいに、心から笑うところを……」
フミの言葉を聞きながら、純は何度も首を縦に振った。
「僕も達彦さんの笑顔が見たい。昔みたいに、瞳をきらきらさせて笑う顔が見たい。……大丈夫、きっとまた笑ってくれるよ。その為にも、僕がそばにいるから。約束する」
純の力強い言葉を聞いたフミは、安心したように笑顔を零れさせる。そして、差し出された純の小指に、自分の小指を嬉しそうに絡めた。
※ ※ ※
達彦が純の店に通うようになってからひと月経ったある日のこと。いつものように「風花」にやって来た達彦は、店に入り、暖簾越しに入り口の引き戸を閉めようとしていた。するとそこへ、明るい髪色をしたひとりの男が、達彦にぶつかるようにして店の中に走り込んできた。
「あ! 達彦さん、ごめんね! 純、ちょっと二階にかくまってくれる?」
後ろ手で戸を閉め、そわそわと足をばたつかせる。
「あ、うん。いいけど――」
「サンキュ! ふたりとも、僕がいることはくれぐれも内緒だからね!」
達彦ににこりと笑いかけた男は、バタバタと急ぎ足で二階へと駆けあがっていく。
「ごめんね、達彦さん。光樹(みつき)ったら、いつもあんな感じで飛び込んでくるんだ」
純の幼馴染にして親友でもある橘(たちばな)光樹は、スタジオミュージシャンをする傍ら、母親とともに近所のピアノ教室で講師を務めている。ふわふわとした胡桃色の髪に赤い唇。純よりも少しピンクがかった白い肌を持ち、二十三歳という年齢にしては幼く愛らしい顔立ちをしている。
「知ってると思うけど……、光樹って、その……」
「はい、知ってます。雄也さんの恋人なんですよね? 光樹さんについては、雄也さんからいろいろと聞かされてますから」
引き戸を閉め、めくれあがっていた暖簾をもとの位置に戻す。光樹とのノロケ話は、朝達彦のところで話し込んでいく時の雄也の十八番なのだ。
「そっか」
純が、ほっとしたように肩の力を抜く。毎日会って話をするといっても、いまだ色恋の話など持ち出したことがないふたりだった。
「今朝は湯豆腐にしたんだ。後は、鯛茶漬けと菜の花のお浸し。それと、茶碗蒸しもつけるね」
美味しそうな料理名が並ぶと、達彦はいつも口元に薄っすらとした笑みを浮かべる。それを見る純もまた幸せそうに微笑む。毎日積み重ねられていく達彦とのこんなひと時。それが、純にとって一番大切で幸せな時間だ。
達彦がカウンターの方へ歩き出そうとした時、入り口の引き戸が勢いよく開けられる音が鳴り響いた。純が驚いて顔を向けると、鬼のような形相をした雄也が、暖簾を突き通して店の中に走り込んできたところだ。
「純! 今、ここに光樹が来たろ? あいつの匂いがするからわかる……、二階だな? ったく、あの分からず屋が!」
「ちょ、ちょっと待って、雄也!」
カウンター越しに純が身を乗り出す。その声を振り切って二階へ駆けあがろうとする雄也を、咄嗟に伸びて来た達彦の手が阻んだ。
「なんだよ! ――あぁ、達彦か。おまえ、なんでこんな時間にここにいるんだ?」
達彦と純の顔を見比べると、雄也はくいと左眉を吊り上げてにんまりと笑った。
「なるほど……、おまえらやっとくっついたんだな? 純、達彦をずっと想い続けていた甲斐があったな。まったく、これ以上進展しないようなら、いよいよ俺がでしゃばるしかないと思ってたところだ」
雄也の言葉に、純は絶句してカウンターの上で固まってしまう。その顔色は、貧血でも起こしたかのように青白い。
「おっと、悪いけど今取り込み中なんだ。純、しばらく二階借りるぞ」
達彦の肩をポンと叩いて、雄也は大股で二階へと駆けあがっていった。
「も……、雄也っ!」
身を乗り出したままの純の瞳に、達彦の驚いたような顔が写る。血の気を失っていた頬が、じんじんとした熱を帯び始めた。
「あ……っと、ご、ごめんね。朝から騒がしくて。ほら、座って? 今お茶を入れるよ」
ゆっくりとカウンターの方に歩いてくる達彦の動作が、心なしか躊躇しているように思える。
(雄也ったら、なんてこと言うんだ!)
お茶を入れる純の手元が、小刻みに震える。カチャカチャと響く茶器の音が、純の動揺をばらしている。純は、それを誤魔化すように唐突に喋り始めた。
「あのふたり、始めて顔を合わせたのはこの店のカウンターだったんだよ。光樹と僕は、幼馴染。雄也と僕は、もう知り合って七年になるかな。彼、和食好きだろ? たまにお店の子を連れてきたりもするんだ。雄也って、昔からすごく優しいし、いい奴なんだよ」
湯呑みを持つ指先の揺れが、湯気を立てるお茶にさざ波を立てる。
「だけど、時々突拍子もないことを言いだすんだ。だから……」
カウンター越しに湯呑みとおしぼりを置き終え、純はその後に言う言葉を懸命に探していた。いったいなんと言って説明すればいいのか。あんな言葉を残して二階に行ってしまった雄也を、純は思いきり蹴飛ばしてやりたいと思った。
「さっき雄也が言ったことは気にしないで。あれは……、その……」
頬にあった火照りが、今やもう胸元にまで達している。指の震えが、全身に伝わりだす。
席についた達彦は、おしぼりを手に取り、それをぎゅっと握りしめる。そして、下を向いていた顔をおもむろに上げると、純の目をまっすぐに見つめた。
「わかってます。さっき雄也さんが言ったことは、全部彼の勘違いでしょう?」
そう言った達彦は、見つめ合った視線をカウンターの上に戻した。
「雄也さんは、なにかとんでもない思い違いをしているみたいです。あなたが俺のことをどうとか、そんなありもしないことを……。とにかく、大丈夫です。あんなの、誰も本当にしたりしませんから」
達彦の節くれだった指が、ごつごつとした湯呑みの上を滑った。冷たさに慣れた達彦の手に、熱いお茶の熱が伝わっていく。純の目に映る達彦の眉間が、みるみる険しくなる。せっかく近づいた達彦との距離が、一気に広がっていくような気がした。こんなに近くにいて、手を伸ばせば届く距離にいるのに、達彦はもう純の方を見ようともしない。
「達彦さん……、違うよ。そうじゃないんだ……、達彦さん、僕は――」
達彦の瞳が、ゆっくりと純の方を見上げる。純が言葉を継ごうとしたその時、二階から雄也の怒声が聞こえてきた。そして、どさりと人が倒れ込むような音がした後、光樹の甲高い悲鳴が、上の階に響き渡る。
それを聞いた達彦は、一瞬椅子から腰を浮かせた。だけど、純の困ったような表情を目にして、上でなにが行われているのかを悟り、また椅子に腰を下ろした。続いてやって来た静寂は、いかにも気まずくて、純はいたたまれない気持ちになる。
「ほ……ほんと、もうなにやってんだろうね、あのふたりは……。ものすごく仲がいいくせに、いつもああやって鬼ごっこみたいなまねして」
純は、わざとのように音を立てて野菜を洗う。
「雄也さんが言ってました。俺の最愛の恋人は、しょっちゅう俺から逃げ惑うウサギみたいなやつだ、って」
「雄也ったらそんなこと言ってた? うん、確かに……。光樹がウサギなら、雄也はさしずめ腹ペコの雄ライオンってとこかな」
「あぁ、そんな感じですね」
ふたりして顔を見合わせ、口元を綻ばせる。
「雄也さんは、俺にいろんな話をしてくれます。光樹さんのことや、お店のこと……。彼は、不思議な人です。いきなりやって来た俺を、すぐに受け入れてくれて。当たり前のようにいろいろと世話を焼いてくれて、いつの間にか俺をこの町に溶け込ませてくれました」
「うん」
純は頷き、手にしていた菜の花を傍らに置いた。
ふたりの話は、雄也と光樹が出会った時のことに及び、また少し場が和んだように思えた。純は、話しながら達彦の方をちらちらとうかがう。一方、達彦は純の話に軽く相槌を打つものの、視線はじっと目の前の一輪挿しに固定したままだ。
今更話を蒸し返すわけにもいかずに、純はその場を取り繕うように忙しく立ち振る舞う。
「言いそびれちゃったな……」
後ろを向いた時、唇の先で呟く。茹でた菜の花をお浸しにして、その上にちょこんとかつお節をのせる。
(ううん、その方がよかったかも……)
気持ちを伝えたところで、かえって距離ができてしまうなら言わない方がいいに決まっている。それにしても、二階がやけに静かだ。いつもなら、あてつけがましいほどにいちゃつく物音が聞こえてくるのに。
「やけに静かですね」
図らずも、達彦が純の思っていたことを口に出した。ふと、カウンター越しに目が合う。はにかんだ純は、視線を階段の方に向けた。
「うん、いつもはもっと騒がしいんだけど……。気を、使っているのかも」
それとなく睦言のことを仄めかしてしまった自分に気づいて、純は唇を噛んで俯く。達彦は、なにも言わない。店の中には、純が立てる調理の音だけが聞こえている。
「おまちどおさま。熱いから、気をつけて」
カウンター越しに、できあがった料理を達彦に手渡していく。微かに指先が触れ合うたび、純は爪先立った指をきゅっと丸める。
豆腐入りの味噌汁を受け取る達彦の顔に、ふと柔らかな微笑みが浮かんだ。
「純さんの作る味噌汁、本当に美味しいです。俺が作った豆腐をこんなに美味しく料理してくれて……。俺、すごく嬉しいです。いつも感謝してます」
達彦の、これまでに見たことのないような優しい微笑み。ついさっき触れた温かな指先。純の心の中で絡んでいた糸が、緩やかにほどけていく。
「――好き……なんだ……」
純の唇から、今まで隠していた想いがふいに零れ落ちる。
「えっ……?」
お椀を受け取った達彦の手が、ぴたりと止まった。達彦は、味噌汁の碗を慎重にテーブルに置いた後、ゆっくりと顔を上げて純の顔を見つめる。その瞳は、純の胸の内を推し量っているみたいで、純はその視線を受け止めたままもう一度小さな声で言った。
「僕、達彦さんのことが好きだ……」
見つめ合う瞳の中に、それぞれの想いが宿っている。
「本当だよ。僕、達彦さんがフミさんと一緒にここに挨拶に来た時から、達彦さんのことが、好きで好きでたまらなくなっちゃってて――」
そう口にした純の顔が、みるみる赤く染まった。
「あ……僕ったら、なにを……」
緊張の糸が、これ以上ないというほどに張りつめ、瞬きの音すらも聞こえてきそうな静寂がふたりをつつみこんだ。
その次の瞬間、騒々しい足音が二階の階段から聞こえてきた。それまでの静けさが、嘘のように破られ、どすどすという鈍い音とともに、光樹の甘ったるい声が聞こえてくる。
「もぉ~、降ろしてよぉ」
見ると、雄也がちょうど階段の下に下り立ったところだ。その右肩には、捕らえられた獲物と化した光樹が、だらりとぶら下がっている。くいと顔を上げた光樹は、やや恥ずかしげに達彦を見たかと思うと、純の方を向いてペロリと舌を出していたずらっぽく笑った。
「邪魔したな、純。実はちょっとした行き違いがあってな──」
「雄也ったら、僕が生徒のお父さんと話してるのを、勝手に浮気だと勘違いしちゃったんだ。ひどいんだよ。いきなり追いかけてきて、怖い顔で質問攻め。怒った時の雄也って、まるで仁王像みたいだ。そりゃ逃げ出すよね」
光樹が横から口を挟む。雄也は、空いている方の手で、悠然と髪の毛を整えている。
「誤解だって言ってるのに、ぜんぜん聞いてくれないんだもの。いっつもこう。僕が男の人とすれ違うだけで、やきもち焼くんだから参っちゃうよ」
不平を言う光樹の尻を、雄也の掌が撫でる。
「おかげでとことん拗ねられてな。いつもより降りてくるの早かったろ? だってこいつ、キスだけで寸止めしやがるんだぜ。ひどすぎるよなぁ? だから、場所を変えてじっくり可愛がってやろうと思って」
さっきとはうって変って上機嫌の雄也は、光樹をひょいと肩の上で弾ませ、もう一度しっかりとその身体を抱え直した。
「降ろしてってば! このままマンションまで行くつもり? もう……恥ずかしいから降ろしてよぅ。そこら中で評判になっちゃうぅ……」
光樹は軽く抵抗して見せながらも、雄也の腰のあたりで指先を遊ばせている。
「別にいいだろ。どうせもう評判になってるじゃないか。達彦、騒がしくして悪かったな。この店は今みたいに常連が遠慮なしに入ってくるから、今から純をどうにかするつもりなら、入り口の鍵は閉めといた方がいいぜ?」
「雄也っ!」
純が雄也を睨みつけたと同時に、光樹がはしゃいだように雄也の腿をパシンと叩いた。
「じゃあな、おふたりさん。また夜にでも顔を出すよ」
そう言って軽く手を振った雄也は、光樹を肩にのせたまま颯爽と店の外へと出て行ってしまった。
(もうっ!)
どうしていいかわからないまま、純は厨房をせわしなく動き回る。さっきの告白を聞いて、達彦はどう思っただろうか?
いきなり好きだなんて言ってしまった。思い返すと、恥ずかしくてこの場から逃げ出したくなる。
それに加えて、雄也のあの言い草。
(達彦さん、呆れたんじゃないかな? 明日からどんな顔して達彦さんのお店に行けばいいんだ? もしかして、もう来ないでくれって言われたらどうしよう。っていうか、今――)
純は、店で出す料理の下ごしらえをしながら、あれこれと言うべき言葉を探していた。だけど、結局なにも言えないまま、時間ばかりがすぎていく。
皿を洗う水音が、店の中に響き渡る。こんな時に限って、妙に店の外が静かだ。いろいろと考えているうち、ますます胸が苦しくなって達彦がいるカウンターの方を、二度と見られないような気がする。俯いたままの純が何度目かのため息をついた時、達彦のいつもより柔らかな声が聞こえてきた。
「ごちそうさまでした」
見ると、出した料理はすべて綺麗になくなっている。
「今日もとても美味しかったです」
達彦の視線が、まだ伏し目がちな純のそれと出合って、ふんわりと混じり合った。その顔を見る限り、決して気を悪くしているふうには見えない。
「よかった……」
いつもどおりの返事を返して、差し出された空の皿を受け取る。心の動揺を悟られないように気をつけながら、思いついた言葉をそのまま口に出した。
「達彦さんがそう言ってくれるのが、一番嬉しい。朝、僕がお豆腐を買いに行って、昼前には達彦さんがここに来て僕の料理を食べてくれて……それがすごく嬉しいんだ。毎日が楽しくって、こんな時間がいつまでも続けばいいって思っ──」
皿を受け渡す指先がはっきりと重なり合う。
はっとして顔を上げた純の瞳を、達彦の瞳が待ち受けている。カウンター越しに、ふたりの視線が交錯した。見つめ合ううち、純の目から、つうっと一筋の涙が零れ落ちた。
「あ……」
純は慌てたように皿を流しの中に置いて、濡れた頬を掌で拭った。
「やだな……。どうしちゃったんだろ……」
懸命に誤魔化すけれど、零れ出た涙をなかったものにはできない。
「……僕、あまりたくさんのことを望まないようにしているんだ……。もしそれが叶わなければ、その分がっかりしちゃうだろ? だから、今ある幸せで充分だって思うようにしてる。……そう思わなきゃやっていけない時があるから。そういうのがあるってことを知ってるから……」
話せば話すほど、喉の奥に熱い塊が込み上げてくる。
「ふふっ、なに言ってるんだろうな。自分でも、よくわからない……。ごめんね、今日の僕、どうかしてる――」
「俺を、好いてくれているんですか?」
達彦の言葉に、純の心臓がどくりと跳ねる。
思い切って顔を上げると、達彦の視線が、ずっと自分に注がれたことに気づく。
「純さん」
達彦は、一瞬視線を入り口の方に流して、またすぐに純の方に顔を戻した。そして、そのまましばらくの間純を見つめてから、ごく低い、だけどはっきりとした声で言葉を継いだ。
「すみませんが、入り口の鍵を閉めてもらえませんか」
その言葉を聞いたとたん、純の全身は炎に包まれたように熱く震え始める。頷いたことは憶えている。だけど、厨房から出て入り口まで歩いたという記憶がない。気が付けば、引き戸の鍵を閉め、その場に立ち尽くしていた。その背中に、達彦の声が寄り添う。
「俺は二年半前にここへ来て、本当の意味では誰とも心を通わすことなく今までやってきました。祖母や雄也さんにすら、距離を置いて――。だけど、それでいいんだと思っていました。なのに、あなたは……。純さん、あなただけは――」
暖簾の縁を握る純の指が、微かに震えている。ふいに肩に手を置かれて、純の身体がそのまま達彦の方へと反転した。
「俺は、そうと気付かないうちに毎朝来るあなたのことを心待ちにするようになっていました」
振り向いた純の視線を、達彦の黒い瞳が捕らえる。
「祖母と話すあなたの声に耳を澄ませて、あなたの笑い声を聞きながら店の奥で横になって――」
純の肩を持つ達彦の掌に力がこもった。
「祖母が入院して、あなたとふたりきりでやり取りするようになって……、毎日少しだけ触れる指先が、すごく柔らかで温かくて」
純を見る達彦の視線が、ついと横に逸れた。
「俺は小さいころから異性に興味がもてなかった。自分が普通とは違うと自覚したのは、中学一年のころです」
達彦の告白に、純の心臓が跳ねた。まさか、彼が自分と同じ性癖を持っていたとは――。だからといって、達彦が自分と同じ気持ちでいるということにはならないけれど。
「どうしていいかわからなかった俺は、母に相談して……。母は戸惑いながらも、俺を理解しようと努力してくれました」
純は、昔会った達彦の母のことを思い出した。
「いつも達彦と遊んでくれてありがとう」
そう言って、純の頬をやさしく撫でてくれたことが思い出されて、胸が詰まる。
「それは、俺と母だけの秘密だった。だけど、ある時俺が同性愛者であることが父にばれてしまったんです」
純の背後にある店の暖簾に、桜の花びらが描いてある。その儚げな色合いと純の唇の色を見比べ、達彦はまた言葉を繋ぐ。
「厳格な父は、激怒しました。俺を責め、ひどい言葉を浴びせかけてきました。そして、そうと知りながら黙っていた母のことも責めてなじって――」
その後、稔は仕事が忙しいと言って家を空けることが多くなった。そんな中、達彦は当初の予定どおり、他県にある進学校を目指し勉強に没頭する。そして、見事希望の高校に合格すると同時に、家を出て高校の寮に入ったのだ。
「高校の三年間、俺は一度も家に帰りませんでした。表向きは勉強が忙しいという理由で。本当は、ただ単に家に帰るのが嫌だったんです。父は相変わらず家を空けてばかりいたようでしたけど、その家にひとりぼっちでいる母を見るのも辛くて……。今思えば、とんでもなく卑怯なまねをしていました」
達彦は純の肩から手を離すと、一歩後ろに後ずさった。
一家の住まいは、東京近郊にあるファミリー向けのマンションだ。しかし、周りに新しくマンションが乱立したせいか、全戸埋まっているわけではなく、ところどころ空いている部屋もある。自治会はあるが、活動はあまりしておらず、隣近所の交流もあいさつ程度だ。
「希望していた大学に合格して、俺は一度家に帰りました。まさに、三年ぶりでした。……そして、その間に、母はすっかり壊れてしまっていたんです」
家に帰り着いた達彦は、リビングの椅子に座っている初枝を見て、愕然としたという。その顔にはまるで生気がなく、三年前に比べて明らかに痩せ細っていた。達彦の顔を見ても「おかえり」とひとこと言ったきり、薄い反応しか示さない。冷蔵庫の中は、生鮮品はひとつもなく、あるのは冷凍食品と賞味期限がすぎた惣菜だけ。部屋の中は片付いていたが、リビングとキッチンの一部を除けば、驚くほど生活臭がない。
焦った達彦は、母親に対して、いったいどんな生活をしているのかと質問をぶつけた。その結果、
達彦が家を出てから、稔はより一層家に寄りつかなくなっていることが判明する。どうやらよそに部屋を借りている様子で、家に帰ってくるのは必要だと思われる郵便物を取りに来る時のみ。その際も、ほとんど会話することもなければ、目を合わせることもないという。
達彦が帰宅してしばらく経つと、初枝はいくぶん元気を取り戻した。そして、それまで語ったことがなかった自分の生い立ちについて話し始めたのだ。
「母は言いました。自分は生まれつき家族の縁が薄く、物心ついたころには、すでに両親は離婚していてそれぞれに行方知れず。高校までは父方の親戚の家で暮らしていたけれど、いろいろあってそこも飛びだして、それ以来、自分ひとりだけで生きてきたと……」
社会人になり、同じ会社の本社勤務をしている稔と出会った。真面目で実直な彼は、大人しく飾り気のない初枝を見初め、ふたりはすぐに恋人同士になる。天涯孤独だった初枝は、稔の求婚を受け入れ、結婚した。
「だけど、元来仕事人間だった父は、すぐに家庭を顧みなくなったようです。今思えば、本当に形ばかりの家族だった――。父は、もともとそういう男でした。すべてにおいて、仕事が優先なんです。俺が子供だったころ、一度も学校の行事に顔を見せたことはありません。誕生日はいつも母とふたりで祝ったし、クリスマスのケーキだって――」
そこまで言うと、達彦は不意に口を噤んだ。そして、眉間に深い皺を刻むと、自分を見る純に視線を合わせ、苦しそうに顔を歪める。
「すみません、こんな話をして……」
そう言った達彦の顔には、後悔の色がありありと浮かんでいる。
「恥ずかしいです。……俺なんかより、純さんはもっと――」
「ううん、そんなことない」
純は、慌てたように首を振った。
「人って、見た目だけじゃわからないことあるよね。幸せそうに見えても、心の中に苦しみを抱えている人はたくさんいる。僕は自分のことを幸せだと思ってるよ。両親が亡くなった後も、おばあさんがいてくれたし、フミさんや商店街の人たちだっていてくれた。今だって、こうして達彦さんがいてくれるし――」
はにかんだように下を向く純の髪が、さらりと頬をかすめる。
「純さん……。俺も、純さんとこうしていられることを、幸せに思っています」
達彦の言葉を聞き、純は嬉しそうに顔を上げた。
「ありがとう……。そう言ってもらえて嬉しいよ。僕、達彦さんのお母さんのこと、今でも憶えてるよ。とても優しい目をした人だったよね。色が白くて――」
純に促されて、達彦はまた話し始める。
「母は、父の中に自分と似たところを見つけたんだと言っていました。頑固なほど真面目で、融通が利かないところ――、それを承知の上で結婚したし、そんな父に惹かれもした、と。だけど、結婚イコール幸せではないことをすぐに悟った。似通っているだけでは、理想的な夫婦にはなれない。むしろ、真逆の性質を持った者同士の方が、うまくいったかもしれないと思うようになったそうです」
似た者同士のふたりは、大きな喧嘩こそしないものの、徐々に必要最低限の会話しかしなくなっていった。そして、ろくに会話もないまま、ともにすごす時間は減っていった。それでも、表向きは滞りなく夫婦関係は続いていく。
「母は、結婚することによって、長く求めていた家庭と安定した生活を得ることができた。父は、会社で出世していく上で、結婚が必要だと理解していた。ふたりの結婚は、互いの利害が一致していたからこそのものだった――。母は、父が自分たちの結婚を、そんなふうに考えていると思っていました」
夫が家に寄りつかず、息子も不在という生活の中、初枝はいったいどんな気持ちで毎日をすごしていたのだろうか。
「父は、母に働きに出ることを許さなかった。生活費は十分にあるんだから、そんな必要はないだろう、と。それでいて、自分はまともに家に帰らない。母は孤独だった……。俺はそれを知りながら、父と同じように、家に寄りつこうとしなかったんです。――そして母は、俺が大学二年生の夏に旅先で亡くなったんです。増水した川に、わざわざ出かけていって……溺死でした」
「えっ……」
立っている達彦の身体が、ゆらりと揺れた。その顔に浮かんでいる苦悶の表情が、彼の母の死が、どういう意味合いのものだったかを物語っている。
「母は、亡くなる二週間前に、俺に電話をかけてきたんです。特に急ぎの用事でもない様子だったし、俺は適当に相槌を打つだけで、自分から話を振ることもなく電話を切ってしまった。電話を受けた時、ちょうど部屋に人が来ていて――。俺は、ゆきずりの男と一緒にいたんです。そして、その男と、早くことを始めたくてしかたがなかった。俺は、最低の息子です――」
自分に向けた憎悪が、達彦の顔を歪ませている。達彦の視線が、純の瞳を捕えた。ふたりは、見つめ合ったまま、身じろぎもしないでいる。
「俺がもっと頻繁に家に帰っていれば、母は亡くならずに済んだかもしれない。同性愛者であることを言わなければ、父もあそこまで母をないがしろにすることはなかったでしょう。時期的に考えても、俺の性癖がばれてから、父は家を空けるようになった……なにもかも、俺のせいなんです。俺が家族を崩壊させ、母をあそこまで追いつめてしまった」
近づこうとする純を、達彦が制する。遠くで自転車のベルの音が聞こえた。店の中は、暖簾越しの外光が作る薄明りに包まれている。
「母が亡くなってから、俺はそれまでの自分をすっぱりと切り捨てることにしました。もう、誰とも深く係わらない。その場しのぎの快楽を求めることもしなくなった。当然です……俺のせいで母は――。俺は、死んでしまった母を弔う為、一生ひとりで生きて行こうと決めました」
「そんな……」
「俺が母を殺したんです。母はきっと悩み抜いて……。母が死んだのは俺がこんな人間だからだ。俺は一生幸せになる資格なんかない……。人に愛されることなんか、望んじゃいけない人間なんです――」
達彦が、今にもどこか遠くへ行ってしまいそうで、純はそれまでにないほどの大胆さで、達彦に駆け寄り、腕に縋り付いた。
「達彦さん、そんなことない! 達彦さんは、幸せになる資格がある――人に愛されていい人だよ! 僕もフミさんも、ここにいる人みんな、そう思ってるよ」
純の掌が達彦の背中に回った。細い腕に徐々に力が籠められ、ふたりの身体がぴったりと寄り添う。純の耳に、達彦の心臓の音が伝わる。その音に促されて、純は心の奥にしまっていた自分の過去のことを話し始めた。
「僕はもともと恋愛に疎い方で……。自分のことに気付いたのは、ずいぶん経ってからだった」
純は、自分が同性愛だと気付いた時のことを話し始める。それは、彼が高校を卒業した後のことだったという。
「周りにいる男女のカップルを見て、思ったんだ。女性を友達と思うことはできても、恋人だと思うことはできないって。同性とそうなることは想像できても、異性となると想像すらできない。そんな自分が、長いこと受け入れられなかった。どこかおかしいんじゃないかって、本気で悩んだこともあったよ」
純の腕にほんの少し力が入った。そうやって達彦にしがみついていなければ、足元が崩れそうに感じたから。
「だけど、雄也が光樹を見ても、なんの違和感もなかった。彼らみたいな生き方もあるんだって思えたし、仲がいいふたりを見て、微笑ましいとも思った。でも自分のこととなると……。どうしていいかわからなかった。誰かに人としての魅力を感じても、恋愛に発展することはなかった。好きだと言ってもらうことはあっても、それを受け入れることはできなかったんだ。そんな自分のこと、欠陥品だと思っていた……」
ふたりの心臓が、同じリズムを刻む。裏にある公園の方から、小さな子供たちの声が微かに聞こえてくる。
「だから、一生このまま誰とも恋愛せずに生きていこうと思っていた。愛することはできても、恋愛はできない――。自分をそんなふうに理解して、それでもいいと思っていた。だけど、達彦さんに再会して、初めて心から恋しくて、愛しいと思う人を見つけることができたんだよ」
達彦の胸に当たる純の耳たぶが、燃えるように熱い。
「ねぇ、達彦さん……。達彦さんが苦しいなら、僕がそれを全部もらうよ。僕が代わりになる……。だからそんな悲しい顔しないで……。僕は、達彦さんに幸せになってほしいんだ。だって、達彦さんは僕を幸せにしてくれているから――。達彦さんがこの町にいてくれるだけでそう思える。ね? それだけでも、達彦さんは幸せになっていい人間だってことになるでしょ?」
「純さん……」
抱きしめられる達彦の身体に、純の体温が伝わっていく。
「それに……僕はもうずっと前から達彦さんを愛してるよ。達彦さんが望まなくても、僕は――。
愛されることを望まなくても、僕が愛してるよ。……だからって、僕の気持ちに応えて欲しいとは言わない。だけど、ここにいて……。この町で、一緒に生きていこうよ。どこにも行かないで……お願い……」
達彦は、純の腕の中で安らいでいく自分を感じた。純の無償の愛は、達彦の乾いた心をしっとりと潤わせる。達彦の腕が、純の身体に回った。そして、心の奥から聞こえてくるような声で「すみません」と言った。
「どうして謝るの?」
純が消え入りそうに細い声で尋ねる。達彦は、純の潤んだ瞳を目にして、即座に首を横に振った。
「俺がすみませんと言ったのは、あなたに対して、俺がとってきた行動に対して、です。すみませんでした。――もっと早く、あなたとこうしていればよかったのに」
達彦の声から、純は静かな熱情を感じ取った。店の外から、行き交う人の声が微かに聞こえてくる。達彦は、純の目蓋にゆっくりと指先を滑らせていく。そして、純が素直に目を閉じた時、ふたりの唇は、静かに重なり合ったのだった。
店の入り口を入ると、左手に細い階段が二階へと続いている。階段を上り切った先には、時折町内の集まりや雄也らの密会場にもなる六畳間がある。その奥には、四畳半とやや広い八畳間があり、そこが普段純がすごす生活の場だ。午後十二時を少しすぎた今の時間は、窓を閉めても街路の賑わいが微かに聞こえてくる。達彦が二階に上がって行った時、純は真新しいシーツに包まれた敷布団の上に、俯いた姿勢で正座していた。
「布団を敷いてもらえますか? あなたをいい加減には抱きたくないんです」
達彦が、口づける唇をほんの少し離す合間に、純にそう囁いたからだ。外は、少し雲が広がって来たのか、灯りを消したままの室内には日蔭を思わせる光しか入ってこない。着替えたての純の白いシャツが、青白く浮いて見える。階段を上ってきた達彦の気配に、純は全身がカッと火照るのを感じた。俯く純の視界の端で、達彦の肌が徐々に露わになっていく。まともに見ることはできないけれど、気配だけで、硬く引き締まった身体を感じ取ることができる。
布団の上で消え入りそうになってはじらっている純を前に、達彦は小さな声でもう一度「すみません」と言った。
「俺はあなたを俺の方へ引っ張ろうとしている。あなたの優しさに、甘えようとしている。俺がいる闇の中にあなたを――。それだけは、しちゃいけないと思っていたのに……」
座っている純の肩に、達彦の指先が触れる。ゆっくりと振り返った純の瞳に、達彦の逞しい肢体が映った。抱き寄せられ、ふたりの視線が互いから数センチの距離で絡み、溶け合う。
「達彦さん、もう僕に謝らないで……。僕は、もう達彦さんと同じ場所にいる。ずっと一緒にいる。そうすることで僕は幸せでいられるんだ」
囁く純の唇を、達彦の口づけが柔らかに封じた。唇を合わせ見つめ合うふたりは、しばらくの間ただ黙ったままお互いの熱を感じ合った。
まだ口づけに慣れていない純にとっては、息を継ぐことすらままならない。達彦は、そんな純の唇を、途切れ途切れに解放してやる。そんなことを繰り返すうち、少しずつ呼吸が楽にできるようになっていく。そうは言っても、心臓は破裂しそうだし、今こうしている瞬間が、夢ではないかと疑いたくなるほどだ。
羞恥に目を伏せた純は、木の葉のように荒れた達彦の唇を見つめた。そして、戸惑いながら、その上に指先を触れさせた。
「冬の間、達彦さんの唇がひび割れてるの、ずっと気になってた。後でリップクリームを塗ってあげるよ」
「すみません。痛かったですか?」
達彦の言葉に、純は繰り返し首を横に振った。
「ううん、ちっとも。少しちくちくするけど、平気……。僕、いつも思ってたんだ……。達彦さんの唇に触れたい……。乾いている達彦さんの唇に……キス、したいって……」
達彦の視線に誘われるように、純は目を閉じて達彦の唇に自分の唇を添わせた。達彦の舌が、純の控えめな舌先を誘う。ふたりの舌が絡み合い、交じりあった唾液が、互いの唇を熱く濡らしていく。繰り返される口づけの合間に、純が甘やかな吐息を漏らし始める。達彦の手が、純の身体の上を、探るように滑っていく。
「は……ぁっ……、ぁ……んっ……、ん……」
唇を噛みしめ、零れそうになる声を必死に抑え込む。そうするために押し付けた唇が、一層欲望をかき立て、荒い息づかいへと繋がっていく。
「服を、脱いでもらえますか」
達彦の直接的な言葉。それを聞いて、純は操られたように指をシャツのボタンにかけた。達彦は、そんな純の姿を、みじろぎもせず見つめいている。火照る指先でシャツの前をはだけていくと、それを追うようにして達彦の唇が純の肌の上を滑った。
「ぁ……っ……」
とたんに純の身体は桜色に染まり、初めての愛撫に柔らかな肌はふつふつと粟立つ。倒れ込むふたりの身体が、ひとつになって真っ白なシーツの上で重なり合う。達彦は、胸元を隠す純の腕をそっと布団の上に押さえ込んだ。そして、桜色の胸の尖りを、唇の中にちゅっと含んだ。
とたんに浮き上がった純の背中が、布団の上で緩やかなアーチを描いた。声を出すことを恥じているのか、純は与えられる刺激に、じっと唇を噛んで耐え忍んでいる。途切れ途切れに吐息を漏らす唇と、きつくシーツを掴む細い指先。固く角ぐんだ胸の先を舌先で弾くと、純は息を途切れさせて声を漏らした。
「あ……、っ……ん、……は……ぁっ……」
じんわりと涙ぐむ瞳が、達彦の視線を捕えた。口づけをされた後、首筋を愛撫される。黒髪の先が肌の上を滑るだけで、叫びだしたいほどに感じる。達彦と裸で抱き合っているという事実だけで、もう呼吸が永遠に止まりそうだ。
「声、そんなに我慢しないで……。息が詰まって、気を失ってしまいますから」
「う、ん……っ……、ぅく、ぁ……っ……」
純の唇から、甘い吐息が零れる。うっとりと目を閉じていると、達彦の舌が鎖骨の上を巡り、そのまま下りていって、桜色の乳暈を捕えた。そこを硬い歯列でこそげられ、大きく身を捩り、シーツをきつく掴む。胸を吸われるということが、こんなにも官能的なことだなんて。ほんの小さな豆粒ほどの部位が、これほどの快楽を生み出すとは――。
純の細い腰に、達彦の口づけが降り注いだ。それとともに、身に着けていたものが全て布団の外に押しやられる。達彦を想うたび、抑えようもない衝動が純の身体を焦がしてきた。男同士が身体を交わらせることについては、日頃雄也からたっぷりと聞かされている。これから何が行われて、どんな風になるのか。それを思うだけで純の胸は極限まで高鳴り、全身が震える。達彦の割れた唇が、純の下腹を伝う。その先には、純の慎ましく勃起した屹立があった。
達彦の唇が、桜色をした亀頭を咥える。
「あっ……! あああ……、た……つひこさ……っ、あぁんっ……ぅんっ……!」
歯を噛みしめているのに、吐息は容易に唇の先から漏れ出てしまう。じゅっと先を吸われ、舌が茎幹に絡む。
「ひ、あっ……」
純は、必死になって身を起こそうとする。だけど、先に起き上がった達彦に組み敷かれて、あっけなく押し戻されてしまう。達彦の手が、純の太ももを左右に押し開いた。脚の間に、達彦の息づかいを感じる。あまりの羞恥に腰を上に逃がすと、達彦は、おもむろに純の太腿を押し上げ、後孔の窄まりに舌先を這わせた。
「あッ、達彦さ……、そんな……汚い……とこっ」
身を捩って逃げようとする純を、達彦の手が押し留める。
「あなたの中で、汚いところなんてひとつもないです」
達彦は、尖らせた舌先を窄まりの中へゆっくりと滑り込ませた。驚いたそこは、固く閉じて達彦の舌をきゅうきゅうと締めつけ始める。
「は……っ……、はあっ、ああぁっ……、は……ぅんっ……」
零れ出る純の吐息は、不規則に乱れ、身体は緊張のあまり小刻みに震えている。舌にほぐされ、唾液で濡れそぼった後孔に、達彦の指先が滑り込んだ。
「あぁっ! あ、あ……」
「息をゆっくりと吐いて……。力を抜いて下さい」
達彦の柔らかな声音。しなやかに蠢く指と熱い舌先。とてつもない違和感と、それを凌駕するほどの期待と悦び。達彦に抱かれるという事実が、純を糖蜜のようにとろかせている。痛みすら愛おしい。ゆっくりとほぐされたそこは、少しずつ緊張を解いていく。くちゅくちゅという水音と、太ももの内側にされる口づけの音が交錯する。
「純さん、こんなことをするのは──俺が最初ですか?」
おもむろに身を起こした達彦は、唇を純の耳朶に触れさせて囁く。
「うん……」
純がこっくりと頷く。唇から漏れる呼気は短く、脈拍は逃げ惑う小鳥のように乱れている。
「なるべく痛くないようにします。もし耐えられないようなら、すぐに言ってください」
「わかった……。ぁ……、あっ……は……、ぁっ……」
純は、声を上げながら達彦の愛撫に神経を集中させた。達彦は、指の腹で純の内壁をゆっくりと探る。それと同時に、指の数を増やし、純の後孔を徐々に押し広げ始めた。
純の息が止まりそうになるたび、達彦は純の胸の先を吸って呼気を取り戻してやる。
「は……ぁ、ああっ! あぁんっ!」
純の唇から、甘えたような嬌声が零れ落ちた。まるで、女性が上げる声のようだ。恥じ入って身を捩ると、達彦の指がそれに追随するように中を抉った。純の桜色の亀頭に、達彦の舌先が這う。
次の瞬間、屹立を暖かな口腔の中に取り込まれる。ゆるゆるとした抽送を感じて、純は大きく目を見開き、全身をびくりと硬直させた。
「達彦さ……、あ、僕……っ……もう……」
快楽の越流を迎えて、純の性器からとぷりと白い蜜がほとばしった。純の身体から、がっくりと力が抜ける。頬を紅潮させた純は、細い指で達彦の背中を掻く。慎ましく震えている純の性器を、達彦の掌がそっと捕らえた。唇が桜色の尖端を取り込み、しとどに濡れたそれを丁寧に舐めはじめる。
「ぁ、だめ……っ、ぁっ……あ……んっ……」
羞恥に潤む純の瞳が、瞬いて涙を零した。後孔の中に、達彦のごつごつとした指を感じている。
いつの間にそうなったのだろうか。最初こそ硬く緊張していたそこは、今や達彦の指を嚥下するように収縮を繰り返している。
「た……達彦さん……、ぁ……ぁあ……ん……っ、達彦さ……」
純が、達彦の名を繰り返し呼ぶ。達彦は、上体を起こして純の上にのしかかっていく。唇が重なり、膝立てた純の脚の間に、達彦の固く張りつめた茎幹が触れた。それは、純が息を飲むほど大きく、自身の腹筋を突き破らんばかりに勃起している。
「怖くありませんか?」
「ううん、ちっとも……。だって、達彦さんだから……。達彦さんとなら、こうなりたいって……。気がついたら、そんなふうに思ってたんだよ……」
返事をする声が、明らかに震えている。怖くないと言ったら、嘘になる。それでも、達彦と愛し合いたい。初めて身体を開くというのに、恐れよりも喜びの方がはるかに勝っている。抱き合ってひとつに融け合いたい。達彦の全部が欲しい。彼に自分のすべてを捧げたい――。
純は、くいと顎を上向けて達彦に口づけ、火照った掌を達彦の背中に絡めた。達彦の舌先が、純の唇の奥へと入り込んでくる。純は、夢中でそれに吸いつき、達彦の身体を両脚できつく挟み込んだ。口づけが熱を帯びて、呼吸もままならなくなる。達彦の荒い息づかいが、純の身体の芯を熱く焦がしていく。触れあった二つの猛りが、互いの滴りをまとってぬらぬらとぬめる。すすり泣きのような吐息が、達彦の胸の奥に染み入る。ひんやりとした布団の中が、お互いの身体が発する熱で質感を変えるまでになったその時──。
達彦は、純の身体を自分の胸の下にしっかりと抱え込んだ。達彦がほんの少し身体を沈める。それと同時に、純の足先が達彦の腰の上で絡み合った。熱く濡れた尖端が、純の窄まりをゆっくりとほぐしていく。ほんの僅かそこを押し広げては、太腿を擦り上げる。強ばっていた純の身体は不思議なほどほぐれて、そこはもうひくひくと蠢いて達彦の侵入を待ち望んでいるみたいだ。
「……純さん、あなたを抱く前に、言わなくちゃいけない。俺はあなたを、心から愛しいと思っています」
「達彦さんっ……」
達彦が純の身体をすくい上げるほんの一瞬手前に、純は達彦の切っ先に向かって、自らの身体を沈み込ませた。
「あああっ! あっ、あぁあっ……!」
純の指が、達彦の背中に食い込む。達彦は、純の身体をぐいと押し上げ、そろそろと、だけど着実に純の身体の中に自らの屹立を咥え込ませていく。純の細い身体が、達彦の胸の下で小刻みに震える。きつく締め付けられ、達彦は吐息を漏らし、低く呻いた。
「達……彦さ……ん、ぁ……、あ……んっ」
ゆっくりと揺れる達彦の腰の動きが、純の全身を揺らめかせる。瞬きを忘れた純の瞳から、熱い涙が溢れた。緩く開いた口角からは、唾液が細く伝っている。
「痛くありませんか……?」
「ううん……。すごく、嬉し……い。痛く……っても、平気……。僕、もっと達彦さんを……感じたい……ぁ、ん……、ん、ぁ……」
達彦を根元まで取り込んだ純の身体は、悦びのあまりその内壁を不随意にひくつかせている。達彦の顔が恍惚に歪んで、抑えていた腰の動きが、徐々に激しくなる。
「達彦さん……、愛してる……。たつ……ひこさん、ぁっ……! も……っとっ……」
深く浅く突かれて、純は達彦の下で全身を揺らめかせた。
「純さん、愛してます……。あなたの、全部が欲しい。俺を全部受け入れてください――」
ずきりとした痛みが全身を貫き、息が止まりそうなほどの圧迫感が純の内奥を席巻する。身体の中で、達彦のものが質量を増す。それをすべて呑み込んだ純の身体は、悦びに震え、余すところなく濃い桜色に染まっている。
「ぁっ……! あ……、たつひこさん……嬉し……ああああっ!」
純が自らの腹の上に吐精すると同時に、達彦のものが純の中で力強く脈打つ。達彦の口づけを受けながら、純は何度も喉の奥で叫び、嗚咽を漏らした。そして、抑えきれない絶叫が喉元を通りすぎる前に、目の前の達彦の肩を悦楽の涙とともにきつく噛んだ。
※ ※ ※
純と達彦が睦み合った次の日の朝。午前中の配達を終えた達彦は、いつものように居間の入り口に座って物思いにふけっていた。
その肩を、いきなり強く引っ叩く大きな掌。顔を上げると、そこにいるのは予想した通りの背の高い美丈夫、雄也だ。
「あぁ、雄也さん、いらっしゃい」
いつもと違うラフな格好の雄也が、魅惑的な笑みを浮かべて達彦の目の前に立ちはだかる。それは、雄也の言うところの、たっぷりと充電を済ませた時の彼そのものの姿だ。
「よう! 昨日はどうだった? 俺ら、あれからどうにもこうにも忙しくて、「風花」に戻る時間がなくなったんだよ。で? おまえらはどうした? 店の鍵、ちゃんと閉めたんだろうな?」
雄也は、座っている達彦の横に無理矢理腰を押し込み、彼の顔を下から見上げるようにして覗き込んだ。
「内緒です」
横を向き、口元を引きつらせる達彦を見て、雄也はしたり顔で頷く。
「へえ……、内緒ねぇ。くくっ……、まぁいい。その顔を見りゃあわかるよ。どうだった? 純のやつ、大丈夫だったか? あいつ、初めてだったろ。おまえ、ちゃんと優しくしてやったか?」
雄也は、達彦の肩をぐいと抱き寄せて耳元で囁く。
「昨日見せてやった俺らの痴話喧嘩も、少しはおまえらを焚きつける役に立ったろ? もっとも、おまえらの純情恋愛劇も、俺らにとっていいスパイスになってくれたけどな」
雄也が、達彦の背中をポンと叩いた。見ると、達彦の手元には白地に桜模様のハンカチが握られている。
「ん? それ、純のか?」
雄也の手が、達彦の手からくしゃくしゃになったハンカチを奪い取った。
「なんだ、血が付いてるじゃないか。まさか、純のヴァージンの証か? それとも、純がおまえの背中でも派手に引っ掻いたか」
達彦は黙って雄也からハンカチを奪い返すと、着ていたシャツの肩を引き下げ、赤い歯型のついた左肩を晒した。
「へぇ! あいつ、噛み癖があったのか! そりゃ、ご馳走様。さぞかし濃厚な時間をすごしたんだろうな? おい! 昨日のこと、一から十まで教えろ。純、大丈夫だったか? なにしろおまえのここ、外からわかるほどでかいからなぁ!」
雄也は、そう言いながら達彦の股間をいきなりギュッと握りしめた。
「痛っ! 何するんです! 光樹さんに言いつけますよ。それに雄也さん、こんな所で油売っててもいいんですか? 店に出る前はいつもひと眠りするって言ってたじゃないですか」
「心配しなくても今日は休みだ。さっき光樹から電話があってな。そこの「エリザ」で純と話し込んでるらしいぞ。今頃根掘り葉掘り昨日のことを聞きだしてるだろうな。光樹のやつ、純の恋が実ったことが嬉しくてしかたないんだ」
「エリザ」とは、白石豆腐店から五軒ほど先にある老舗喫茶店だ。コーヒーとサンドイッチが美味しい店で、今は史郎(しろう)という純の同級生が店を守っている。
「俺、光樹にだけは弱いんだよなぁ。あいつの言うことなら、何でも聞いてやりたくなる。あのピンク色のケツ……。あれを思うと、頭ン中がエロいことでいっぱいになるんだ」
でれでれとにやける雄也を見ながら、達彦は、ふと自分の口元に微笑みが浮かんでいることに気付いた。
「おまえ、今夜は純の店に行くか? 店を早めに切り上げて、二階で一緒に飲もうぜ。そうだ、ついでに史郎も誘うか。見張り役がいないと、おまえと純、飲みながらいきなりいやらしいことをおっぱじめかねないしなぁ」
雄也は笑い、達彦の腕をひじで強く小突いた。
「なっ……おっぱじめるのは、雄也さん達の方でしょう!」
達彦は、思わず声を張り上げた自分にはっとして口を噤む。そして、雄也の口調がうつってしまったことに気づいて、赤面した。それを見た雄也は、可笑しそうに笑いながら達彦の肩を抱いてぐらぐらと揺すった。
「おまえも、やっとこの町に馴染んだって感じか? 純のおかげで、地に足がついたろ。さてと、俺はこれからエリザに行って光樹を拾いに行く。おまえも純を迎えに行ったらどうだ? あいつの腰、おまえのせいできっと鉛みたいに重い筈だぞ」
その通りだった。昨日達彦に抱かれてから、純は立ちあがるのもひどく辛そうにしていたのだ。
それでも何とか夕方から店を開いて、今朝はいつもどおり豆腐を買いに来てくれた。言葉に尽くせない想いが、達彦の胸に込み上げてきている。純を想うと、全身が喜びで震えるほどだ。
雄也は、おもむろに立ちあがって、達彦の肩の傷をちょんとつついた。
「行くだろ?」
「はい」
達彦は頷き、今朝口づけをした時の純の顔を思い浮かべる。
「なに、にやついてるんだ。このドスケベ」
「ドスケベはどっちですか!」
達彦は、雄也の肩に軽く拳を当てた。雄也が、嬉しそうに笑う。ふたりは、どちらともなく肩を組み、ともに入り口のシャッターをくぐり抜けた。
それからしばらく経った週末の午後。達彦と純は、ふたりそろってフミの見舞いに行った。フミのベッドは、三つ並ぶうちの一番奥。同室のふたりは散歩中で、今部屋にいるのは自分たちだけ。
窓の外には、四月の暖かな陽光が溢れている。
「聞いたよ。ふたりは恋人同士になったんだって?」
いきなりそんな言葉で迎えられて、達彦と純はひとしきり驚き慌てた。聞けば、午前中にやってきた雄也が、ふたりに関する今までのことをざっと説明して帰ったのだという。
「あんたたちのことだから、きっとなにをどう説明すればいいか思い悩んでるだろうからって。それにしても、よかった。あたしはね、そうなればいいなぁと思ってたんだよ。あんたたちみたいにぴったりなふたりは、そうはいないからねぇ」
あっけらかんとそう言ってのけるフミの顔には、嬉しそうな笑みが浮かんでいる。達彦は、純と顔を見合わせ、曖昧に微笑みを交わした。
「達彦。実はね、あたしはおまえがそうだってことは、ずいぶん前から知ってたんだよ」
「えっ……?」
純と並んで腰かけている達彦は、心底驚いた表情でフミの顔に見入った。
「初枝さんが、打ち明けてくれてね。あたしなら、きっとわかってくれるに違いないと思ったって。稔はあんなだから、到底達彦を理解しない。だけど、自分は達彦をわかってやりたい。少しでも味方になってやりたいってね」
「母さんが?」
「ああ、そうだよ。稔はまったく寄りつかなかったけど、初枝さんはたまに店にやって来て私と話し込んで帰っていったものだよ。いろんなことを話したねぇ。達彦のこと、稔の仕事のことや夫婦のこと。たわいない世間話もよくしたもんだよ……」
初枝は、達彦が思っていたよりも孤独ではなかった。そのことは、少しだけ達彦の心を軽くさせる。だけど、結果的に母親が死を選んだ事実は、変わることはないのだ。
達彦を見るフミの表情が、ふっと曇った。その気配を感じて、達彦もまた同じように膝に置いた指先を強ばらせる。
「初枝さんのことは、残念だった……。本当に――」
フミは、いったん視線を自分の皺だらけの手の上に落とした。そして、思い切ったように顔を上げ、話し始める。
「実は、昨日稔がここに来たんだよ」
「父さんがここに?」
達彦は、思わず声を上げた。父親とは、祖父の葬式以来会っていない。フミによれば、以前借りていた部屋はすでに解約して、今はもう自宅マンションに帰っているらしい。かつて初枝がひとりぼっちで暮らしていた場所に、今度は稔がたったひとりで住んでいるのだ。家族だった三人は、もう二度と同じ家に住むことはない。ひとり欠け、残された男ふたりも、今は完全に別々の道を歩んでいる。
「達彦、それに純ちゃん。これから話すことは、稔が私に話してくれたそのままのものだよ。もしかすると、聞いた後に聞かなきゃよかったと思うかもしれない。それに、これは稔側の話だ。それが本当か嘘か、判断するのは聞く側の自由だからね」
フミは、そう前置きを言ってから、訥々と語り始める。その内容は、およそ達彦が想像だにしなかった内容のものだ――。
稔は、社会的に成功するためにも、結婚して子を持つことを望んでいた。そして、その相手として、理想的な相手を探すことに注意を向ける。そして、ある日会社主催の研修で、支社に勤務する初枝と出会い、彼女を見初めたのだ。控えめで大人しい性格をした初枝は、理想的な花嫁に思えた。
実際にそうだったし、彼女が天涯孤独の身であることも結婚の追い風になったのだ。
稔は、初枝を身籠らせることはできたが、実質的にはほぼ不能だった。精子はあるし、勃起して挿入はできるが、それまでの過程に問題がある。準備万端の状態に持っていくには、自身のものを自らの手できつくしごかなければ勃起しない。
それを知られたくなかった稔は、初枝を抱くときはいつも彼女を後ろ向きにした。いわゆる背後位の姿勢で、毎月の排卵日を狙っての集中的な行為。そんな生活を送るうち、僅か二か月目にして初枝は妊娠する。もともと夫婦生活が嫌いだった稔は、肩の荷が下りたとばかりに、それきり初枝に触れなくなってしまう。そして、その訳を聞かれないようにするため、自然と初枝と顔を合わせるのを避けるようになった。理由も言わないまま中途半端に背を向けられ、家にひとりとり残された形になる。初枝は戸惑い、なにが原因でそうなったかを知ろうとする。しかしながら、夫はそれを避けるために家を空け、帰ってこない。事態はどんどん悪い方向に進んで、とうとう取り返しがつかないほど深い溝になってしまう。
自分を避け、触れようともしない稔に、初枝は不信感をいだくようになる。浮気を疑い、ひとり悶々とすごす中、少しずつ精神を病んでいったのだろう。
そんな生活の中、初枝はある場所で偶然高校の同級生と再会する。そこからは、なし崩しだった。
男は妻子ある単身赴任者であり、初枝は夫に打ち捨てられた女だ。ふたりは身体を合わせることで寂しさを埋め合い、そんなことを続けるうち、とうとう男側の妻に関係がばれてしまう。
「初枝さんは、先方の奥さんから慰謝料を請求されたそうだよ。その上、稔の会社にも事実関係をばらし、制裁を受けてもらうとも言われた。そうされたくなければ、それなりの誠意を見せろと迫られ、初枝さんは悩んだんだろうね……。悩みに悩み抜いた――」
旅に出る前、初枝は自分が起こした不始末の一部始終を、稔宛てに書き送っていた。そこには、家族に対する詫びの言葉も書き添えてあり、中でも達彦に向けたものが大半を占めていたという。
そして、稔は妻の不貞とその死を自分の中に抱え込んだまま、これまで生きてきたのだ。
「初枝さんが書いた手紙、稔から預かってるよ。あのバカ息子……。なんでそんなことになるまで……。馬鹿だよ、ほんと馬鹿だ。初枝さんも……どうしてそこまで思いつめてしまったのかねぇ」
「稔は、自分なりに初枝さんのことを愛していたと言っていた。いい夫婦になろうと、努力もしたとね」
だけど、そんな稔の気持ちは、初枝には伝わらずじまいだった。不能であるという負い目が、妻に背を向けることを選ばせ、結果的に初枝を孤独の中に溺れさせてしまったのだ。
「達彦さん……」
一部始終を聞き終えた純は、隣にいる達彦に寄り添った。達彦は、純と視線を合わせて、力強く頷いて見せる。そして、フミの方を顔を向けると、差し伸べられた彼女の手をとった。
「俺、一度父と話してみます。これまでのことやこれからのこと、家族のこと。そして、母のことを――」
フミはこっくりと頷き、初枝が書いた手紙を、達彦に託した。
「それがいいよ。人間、話さなきゃわからないことがたくさんある。話し合ってみるのが一番いい――そうすれば、なにかしら見つけることができるだろうから」
達彦の手が、純の肩に置かれた。純はこっくりと頷き、達彦の指にそっと指先を絡み合わせた。
※ ※ ※
それから一年の後。フミは無事リハビリを済ませて、店に復帰し達彦とともにまた豆腐作りに励んでいる。あれから一度実家を訪れた達彦は、稔とじっくりと話し合って、お互いの胸の内をすべてさらけ出した。
「おまえの選んだ道を尊重する」
最終的にそう言った稔は、今では定期的に実家を訪ねてくるようになり、そんな時は親子三代が顔を突き合わせ、昔話をしたりそれぞれの将来について語り合ったりするのだ。
達彦と純は、この春に「風花」の二階で一緒に暮らし始めた。それは、達彦と純のことを思ったフミの勧めでもある。フミをひとりにするのを躊躇したふたりだったが、フミは「商店街の中にいるんだから、一緒に住んでいるのと同じ」と、そんな心配を一笑に付してしまった。
四月になって最初の満月の夜、純がふと目を覚ますと、隣で眠っていたはずの達彦が見当たらない。枕元の時計を見ると、まだ午前一時をすぎたばかりだ。見ると、隣の六畳間から薄明かりが漏れている。起き上がった純は、明りの方へそろそろと足を進めた。
「達彦さん?」
襖を開けると、公園を臨む窓辺に、達彦が背中を向けて座っている。
「あぁ、起こしてしまいましたか?」
振り向いた達彦は、純を見て口元を綻ばせた。
「どうかしたの?」
「いえ、ちょっと水を飲みに下に降りたついでに、桜を見たくなって」
近づいてくる純の首筋に、いくつもの赤い口づけの痕が見える。達彦は、立ちあがって純の肩に腕を回した。奥の間に戻って、布団の上に向かい合って腰を下ろす。
「夢を見たんです」
純の身体をやんわりと抱き寄せ、達彦は低い声で話し始める。
「子供のころの夢でした。俺はひとりぼっちでそこの公園に座っていました。空は薄曇りで、聞こえるのはそよそよという風の音だけ。満開の桜の花がとても綺麗で……。しばらくすると、ブランコの向こうから小さい頃の純さんが走って来て」
「僕が?」
「ええ。あなたは舞い落ちる桜の花びらをまとって、嬉しそうに笑っていた。俺は、あなたと手を繋いで一緒に公園を走り回った。すごく楽しくて、笑いたくなった。俺が笑うと、純さんも笑いだして……」
達彦の掌が、純の頬を包む。純は自分の全部が達彦の手の中にあると感じている。
「純さん、俺に「幸せだね」って言ってくれたんです。俺に向かって、そう言って笑ってくれたんです」
純の顔が上向き、ふたりの唇が重なり合う。
長い口づけの後、抱き合ったまままた布団の上に横たわった。
「僕、幸せだよ。心からそう思うよ」
「俺もです」
純の睫毛が、寄り添った達彦の胸の上で嬉しそうに瞬く。
「あ、花びら……」
純が呟き、目の前にある薄い花びらをそっと指先で摘まんだ。
「さっき窓を開けた時に吹き込んできたんでしょう。公園の桜、週末には満開になりそうですね」
達彦は、差し出された花びらを受け取り、純の白い額に唇を寄せる。
「桜の花は、まるであなたみたいだ。優しくて、綺麗で……。俺の一番好きな花です」
見つめ合う純の目元が、ほんのりと桜色に色づく。一緒に住んでいるといっても、お互いに忙しくてなかなかゆっくりと抱き合うこともできないふたりだった。だけど、短い時間を大切に紡いでいくことに、ふたり共充分な幸福を感じている。お互いにはお互いがいるということ。それ以上欲しい物など何ひとつない。
「来年も再来年も、ずっと先の桜も、達彦さんと一緒に見たいな」
達彦は、頷くと同時に純の唇に口づけを落とした。達彦の瞳には、昔と同じ黒糖飴のようなきらめきが戻っている。季節が代わって、桜の花が散ってしまった後でも、その花の儚さとは違って、ふたりの愛は永遠に続くものに違いなかった。
おわり
商店街のはずれにある小さな公園で、達(たつ)彦(ひこ)は声を張り上げた。長かった夏休みも、もうじき終わりだ。明日、母が達彦を迎えにくる。明後日からは、また父母と三人きりの生活に戻らなければならない。
「うん、見てるよ。だけど、達ちゃん……気をつけてよ?」
純の心配をよそに、達彦は得意げに桜の木に登り始める。日頃、どちらかといえば大人しい達彦だが、純といると俄然やんちゃな性格になるから不思議だ。春には見事な花をつけるというが、達彦はまだ一度もその花姿を見たことがない。一番下にある大ぶりの枝に腰掛けると、達彦は天を仰ぎ眩しそうに目を細めた。
「いつかこの木に咲く花を見たいな。おばあちゃんが写真を見せてくれたけど、俺、本物が見てみたい」
達彦は、裸足の足をぶらぶらと揺すった。足の裏についた砂が、風に舞いながらぱらぱらと下に落ちる。
「いつか見においでよ。そうしたら、僕、達ちゃんのためにお花見のお弁当を作ってあげるよ」
「ほんと? 約束だよ!」
達彦の声に、純はこっくりと頷いて笑った。その顔は、桜の葉が作る日蔭にいてもなお、白く透きとおるような肌をしている。
※ ※ ※
まだ世も明けやらぬ下町の商店街。そこは、都会のビル群から電車で一時間ほどの郊外に位置している。駅前にある大通りには中型のオフィスビルが立ち並んで、そこから道ひとつ隔てただけで雰囲気がまるで違う。入り口には「昭和通商店街」という古びたアーチがかかっており、その名のとおり立ち並ぶ店の造りも実にシンプルでレトロチックだ。駅を挟んで反対側にある繁華街には、雑居ビルがひしめくネオン街が広がり、その中でもひときわ目を引く店のひとつに「ゼウス」というホストクラブがある。
明りが消えたその店の裏口から、背の高いひとりの男が出てきた。
男の名は九条雄也(くじょうゆうや)。五年前にこの町にふらりとあらわれ、以来駅向こうにある商店街裏の高級マンションに住みついている。その昔、都会で超一流のホストとして名を馳せた彼も、今や経営者側に回っている。年齢は二十八歳。艶めいた黒い瞳と、彫りが深い整った顔立ち。モデル並みのスタイルの良さと美貌を誇る彼は、それなりの恰好をさせればエリートビジネスマンに見えなくもない。それと同時に、今のように夜の街に映える真っ白なスーツに身を包めば、聖人を墜落させるレベルの漁色家にも思える。
「おはようございます! 雄也さん、今帰りですか?」
ひと月前に入店したばかりの新人ホストが、店の前に立つ雄也に駆け寄って嬉しそうに声を上げた。彼の後には数人の先輩ホストが続いている。彼らは皆明け方からの営業の為に出勤してきたところだ。
「おはよう。雑用を片付けるのにちょっと手間取ってな。ん? おまえ、まだ寝ぼけた顔してるな。朝メシはちゃんと食ったんだろうな?」
「えっと、今朝はちょっと……その、起きるのが遅くなってしまって……」
もごもごと口ごもる頬に、雄也の掌が伸びる。
「メシはちゃんと食えって言ってるだろう。寝不足も厳禁だぞ。ホストっていうのは、健康じゃなきゃやっていけない仕事だからな」
ふっと細めた目に見据えられて、新人は一気に頬を紅潮させる。
「は、はいっ! 今夜から早く寝ます! ご飯もちゃんと食います! 俺、雄也さんみたいにかっこいい男になれるよう、頑張りますから!」
新人は、背筋をピンと伸ばし、宣言する。
「いい子だ」
指先で新人の頬を撫でると、雄也は口元に満足そうな微笑みを浮かべた。
「俺は、これから朝メシの買い出しに行ってから家に帰る。じゃ、みんな後はよろしく」
「はい、お疲れ様でした!」
その場にいる全員が一斉に姿勢を正し、頭を下げる。くるりと背を向けて歩き出した雄也は、左手を軽く振って駅の方へと歩み去っていく。夜の道には、さっき降った雨のせいであちこちに水溜りができている。それを気にして歩くふうでもないのに、不思議と雄也の足元は、汚れた水の一滴も寄せ付けない。
暦の上ではもう春なのに、ここのところ真冬並みの寒さが続いている。商店街は未だ夜の暗闇が続いて、住民達はまだ深い眠りの中だ。その中で、唯一半分だけシャッターが開いている店があり、その入り口には「白石(しらいし)豆腐店」という古びた看板がかかっている。
店の従業員に進言するだけあって、雄也は日々の食事には人一倍気を使っていた。元来アルコールには強く、多少飲みすぎの感がある時でも、ひと眠りすると頭はすっきりと冴え、健康的に空腹も覚える。特別手の込んだものを作るわけではないけれど、朝と昼は基本的に自炊だ。普段どちらかといえば和食を好む雄也は、引っ越してきてすぐにこの豆腐店の常連になった。日によって訪れる時間は違うが、深夜に雑務を片付けることが多い雄也は、今日のように午前四時半ごろに足を運ぶのが常だ。
「おはよう。いつものくれる?」
半開きのシャッターを苦労してくぐり、雄也はセメントが打ちっぱなしの店内に入った。大豆を蒸す湯気が立ち込める中、漆黒の髪をした男がひとり、立ち働いているのが見える。
「おはようございます。毎度ありがとうございます」
雄也とほぼ同じ背丈をしたその男は、水の中から肉厚の木綿豆腐をすくい、透明の容器にするりと移動させた。男の無骨な手とは裏腹に、そのしぐさは極めて繊細で優しい。既に飽きるほど見慣れた光景だったが、雄也は毎回それに目を奪われてしまう。
男の名は、白石達彦。その落ち着いた立ち振る舞いからか、二十五歳という歳の割には少し老けて見える。くっきりとした目元とやや浅黒い肌。きりりと濃い眉は眉間からこめかみへと真っ直ぐに伸び、頑固そうな口元はいつも一文字に結ばれている。
店自体は達彦の父方の曽祖父の代から続いており、この界隈では豆腐屋といえばこの店のことを指す。それを受け継いだ祖父の守(まもる)も四年前に亡くなり、今店を切り盛りしているのは祖母である白石フミだ。夫を亡くした後、ひとりで店を守っていたフミだったが、やはり寄る年波には勝てない。
店はそれなりに繁盛していたものの、ひとり息子である稔(みのる)は、豆腐屋ではなくエリートサラリーマンになる道を選んだ。大型スーパーに客足が流れる昨今、それも無理からぬこと。そろそろ店をたたむことを考え始めていた矢先に、思いがけず孫の達彦が後継者になると言いだした。
それが今からちょうど二年半前、達彦が大学を卒業する春の出来事だ。それ以来、達彦とふたりして店をやっていたフミだったが、去年の暮れ、ちょっとした不注意で転倒し、大腿骨を複雑骨折してしまった。手術自体は上手くいったが、フミは半年の入院生活を余儀なくされてしまう。そのため、彼女がいない今、達彦はたったひとりで店を守っている。
「二百五十円になります」
百八十センチを優に超える男ふたりがいるだけで、そこはもう息苦しくなるほどの狭さだ。雄也はポケットに用意していた小銭を探って、達彦の方に代金を差し出す。
「フミさん元気? ここんとこバタついてて、ゆっくり見舞いにも行けてないんだ」
雄也は、豆腐の入った容器を受け取り、間近にきた達彦の顔をまじまじと見つめた。濃い睫毛の下にある彼の目は、白目が青く見えるほど澄みきっている。
「元気です。リハビリも順調に進んでいます」
視線を下に向けたままそう答えると、達彦は小銭を手にしたままくるりと背中を向ける。
「そりゃよかった。――じゃ、今日はこれで帰るとするか。また明日な」
雄也が声を掛けると、達彦は一瞬だけ振り返り、雄也と視線を合わせた。
「ありがとうございました」
ぺこりとお辞儀するつま先は、もう店の奥へと向かっている。その表情からは、なんの感情も読み取れない。
雄也は再びシャッターをくぐり、店の外に足を踏み出した。そして、ぐっと上体を反らすと、思いっきり大きな欠伸をする。
「……うーん……、相変わらず無愛想なやつだなぁ」
そう言う口元には、薄っすらと笑みが浮かんでいる。雄也は、一緒にいて心地いいと思う相手にはいたって寛容な男だ。一度気に入れば、多少の愛想の悪さなどまるで気にならない。達彦に関して言えば、むしろその方が似つかわしいとすら思う。
毎朝のようにこうして店を訪れ、気が向けば壁際に置いてある椅子に腰かけてひとしきり話し込んでから帰る。そうはいっても、ほぼ雄也が一方的に喋るばかりだ。達彦はそれを聞いているのかいないのか、たまに相槌を打っても、めったに口を開かない。
「さてと、帰って寝るか」
歩き出す足元を街燈の灯りが照らしている。
二月最初の満月は、厚い雲の向こうに閉ざされて顔を見せる気配すらない。店の中から、白い湯気がもうもうと立ち上っては消えていく。その風景を目にするたび、雄也は自分にとっての一日が終わりに近いことを感じるのだった。
雄也が去り、店にまたもとの静けさが戻ってきた。店の奥には豆腐を作る作業場があり、そのまた奥にあるガラス窓の向こうは、彼が日常をすごす六畳ほどの居間が続いている。
模様入りのガラス窓を開け放ち、壁際にある座布団を手にとる。達彦はそれを半分に折り曲げ、枕にして仰向けに寝転がった。フミが入院する前は、豆腐を作ることだけに専念していればよかった。
だけど、彼女が不在の今、接客は達彦がこなすべき仕事のひとつだ。
そんな生活が始まってから、もう二か月にもなるだろうか。客とのやりとりにもだいぶ慣れてきたとは思う。だが、いまだ素っ気ないと思われても仕方のない態度しかとれない。話しかけられれば答えるが、こちらから言葉を発することなど一度もなかったように思う。
自分には、接客業は向かない。愛想のひとつも言えないし、風貌からして町の豆腐屋に似つかわしくないこともわかっている。だけど、ありがたいことに、そんな浮いた存在である自分を、商店街の人々は暖かく見守ってくれているのだ。以前フミが店に来た客と話していた。
「達彦の口数の少なさも、今じゃ町の風景のひとつだ」と――。
そう皆に思わせた一番の立役者は、他でもない雄也だ。
彼は、引っ越してきた当初より町内会に入り、積極的にその活動に参加している。そして、またたく間に商店街の重鎮達と親しくなり、彼らとともに会の運営を取り仕切るようになった。雄也は、達彦がフミのところに来るなり、彼を半ば強引に町内会の青年部に入らせ、あっという間に彼を会の中枢部に引き込んでしまった。それから二年半経った今では、彼は「白石豆腐店の達ちゃん」であり、無愛想だが真面目で働き者の好青年という印象を持たれている。
本当は、そうじゃない。そんなふうに思われるほど、自分はいい人間なんかじゃないのに――。
達彦は、日頃からそんな違和感を感じている。いくらフミの孫とはいえ、自分はこの町の人間ではない。いついなくなっても不思議ではないし、所詮自分なんか根無し草だ。
もともと積極的に豆腐屋を継ごうと思ったわけではなかった。ただ、父親が息子のために用意した人生のレールに乗りたくなかったというだけ。実家から、少しでも遠く離れた場所に行きたい。
自分は父親が望むような人間にはなれない。長年抱き続けてきたそんな思いが、大学卒業を機に爆発してしまったというだけの話だ。
そうはいっても、今ではそれなりに生活は充実しているし、こんな生き方も悪くないと思っている。それに、思いがけず、豆腐屋としての一連の仕事にやりがいも感じ始めているのだ。
元来団体で行動するよりも、ひとりでなにかこつこつとやる方が好きだった達彦だ。交流があるといっても、ほとんどが父親よりも上の世代の人ばかり。おせっかいは焼くが、最低限の節度はきちんと守られている。ノリや雰囲気だけで左右されるような薄っぺらい付き合いなど、ここには存在しない。それを心地いいと感じる自分は、こういった一昔前の空間で生きていくに相応しい人間なのだろう。
達彦は、最近そう思うようになった。だけど、如何せん地に足がついているという気がしない。
ここが自分の〝居場所〟であるという確信が持てない。だからといって、他に行くべき場所があるわけでもなし、何をどうしたらいいのかわからないままこうして暮らしている。
五時を少しすぎると、達彦は店のシャッターを全開にする。外気が店の中に入り込んで、店内に立ち込めていた湯気は、一気にどこかへ消え去ってしまう。冷たい空気が、火照った頬をひんやりと冷ましていく。まだ誰もいない路地を少しの間眺めて、達彦はまた店の中へと戻った。その背中を追うようにして、商店街の左手から軽い足音が聞こえてくる。
それを聞いたとたん、達彦の胸の中に、小さなきらめきが生じた。店の中でしばらくの間待っていると、入り口に小鳥のように澄んだ声が控えめに響く。
「おはようございます。いつものください」
「おはようございます。毎度ありがとうございます」
達彦は差し出された桜色の容器を受け取り、前もって指定されている分量の豆腐を丁寧に移し入れる。その声の主は、名を風間(かざま)純(じゅん)といい、商店街の外れにある小料理屋の店主だ。他に従業員はおらず、純はたったひとりで店を切り盛りしている。純は小さいころからこの商店街に生まれ育ち、白石豆腐店の常連でもある。フミが入院してから、ようやくまともに顔を合わせるようになったふたりだったが、実のところ昔よく遊んだ幼馴染でもある。
遊んだといっても、幼稚園から中学に上がるまでの夏休み限定だったが、当時は毎日のように顔を合わせ、遊びに興じた仲だ。それなのに、今はお互い必要以上のことはなにひとつ話さず、当然世間話など一切したことがない。子供のころを知っているという気恥ずかしさもあってか、再会するまでの十年は、ふたりの仲をかえって他人行儀なものにしてしまっている。
純の瞳は大きく、唇はまるで桜の花びらのように柔らかく儚げな風情を含んでいる。絹のように白く滑らかな肌と、細い檜皮(ひわだ)色の髪の毛。身長こそあまり高くはないが、今は亡き祖母の静子から教えられたその立ち振る舞いには、下卑たところなどひとつも見当たらない。
「全部で二千円になります」
達彦は豆腐入りの容器を差出し、純は空になった達彦の掌に豆腐の代金を置く。ほんの少しだけ肌がふれあい、すぐに離れる。そんな近い距離にいるのに、ふたりは互いの視線を避けるかのように常に伏し目がちだ。
「毎度ありがとうございます」
達彦が顔を上げると、ふたりの視線は一瞬だけ交わる。目が合ったとたん、純は視線を桜色の容器に移した。
「じゃ、また明日」
そう言い残して、純は足早に店の外に出て行く。その後ろ姿を目で追う達彦は、去っていく足音をが聞こえなくなるまで、じっとその場に立ち尽くして動かずにいる。そして、おもむろに背伸びをして、いつの間にか強ばっていた肩の筋肉を揉みほぐすのだった。
店の壁にある掛け時計が、五時十五分を示している。純が帰ってしまえば、その後商店街のあちこちの店が開く時間帯までシャッターを下ろしておく。達彦は、いつものように店の奥に引っ込み、買い込んであった食パンをトースターの中に二枚ほど突っ込んで焼いた。
それをコップ一杯の牛乳とともに胃袋の中に流し込むと、膝に落ちたパンくずを払い、流しまでコップを洗いに行く。フミが入院してしまった今では、それが毎日の達彦の朝食であり、その後はテレビを見るでもなく、少し横になって仮眠をとるのが常だ。
毎日、午前三時には起き出し、豆腐の仕込みをして、朝の開店に備える。配達時にはやむなく店を閉めるが、人々が買い出しに来る時間帯には極力店を開いている。午後七時には店を閉め、片付けを終えて風呂に入るのはだいたい八時ごろだ。午後九時には布団に入れるとはいっても、ぐっすりと眠れる夜ばかりではない。達彦の眠りは、時に暗い夢を伴うことがあり、そんな夢を見た日の達彦は、普段よりも一層口数が少なくなる。
店の前は、まだ行き交う人の気配すらない。
達彦は居間に戻り、畳んだ布団から掛け布団だけを手繰り寄せた。いい加減、居間でのごろ寝はやめなければと思いながら、座布団を枕にしてついそのまま目を閉じてしまう。背中に当たる電気ストーブのぬくもりが心地よかった。
ふと、さっき触れた純の指先の感触が掌に戻ってくる。かじかんだ肌の上に感じた、純の暖かな体温。薄い桜色をした純の指先を、あのまま掌に握りしめたらどんな感じがするだろうか。たおやかな純の身体を、腕の中に取り込んだら純はどんな反応を示すのだろう。そんな考えが頭に思い浮かんだとたん、達彦は激しく頭を振って自分を諌めた。
達彦が最初にここを訪れたのは、彼が二歳の時──。
もともと父親である守とそりが合わなかった稔が、フミと自身の妻の初枝(はつえ)に促されて渋々帰省した夏のことだ。その時から小学校六年の年まで、達彦は夏の数週間をこの町ですごした。稔が同行したのは最初の一年だけ。次の年からは初枝だけが達彦と一緒にここで寝泊まりして、小学校に上がってからは、達彦だけが祖父母のもとで長い夏をすごすようになる。
「おじいちゃんとおばあちゃんのところにとまるのは、とてもたのしい。いっしょにあそぶともだちもいるし、おじいちゃんがつくるおとうふは、すごくおいしいです」
達彦が小学一年の夏に書いた作文は、校内で賞をもらい、今もフミが大切に保管している。しかし、そんな習慣も達彦が中学に進学するとともになくなってしまう。勉強とクラブ活動に追われて、遊ぶどころではなくなってしまったのだ。高校進学と同時に寮生活を始めて、祖父母の家どころか実家からも足が遠のく日々が続く。大学に進学した達彦は、そのまま実家には帰らず、そこの寮に入った。そして、達彦大学二年生の夏、初枝が旅先で亡くなってしまう。それを境に、それまで決してよくはなかった父子の関係は、より一層冷めたものになる。ほとんど交渉を持たなかったふたりだったが、稔はときおり連絡を入れてきては、達彦の将来について熱心に話を持ちかけてきたりしていた。それは、卒業後は大学院に進み、将来的に今自分がいる会社に、研究員として入社しろというもの。
そして、達彦が大学四年の冬。フミからの電話で、守が脳溢血で急死したとの知らせが入った。
久々に会った父とともに祖母のもとに駆けつけた達彦は、うなだれるフミの傍らで彼女の小さな背中をさすり続けた。電話ではたまに話すことはあっても、ずいぶんと顔を見せていなかった彼は、祖父の亡骸に無沙汰を詫びた。葬儀も終わり、手伝いの人達も数人を残すのみとなった夕方。休憩所となった町会館の一室で、一同はフミを囲んで故人を忍んでいた。夫の死に憔悴した様子のフミだったが、それでも達彦がそばにいると笑顔になり、弔問に来ていた近隣の店主らに久しぶりに来た孫の顔を見せて回る。
「達ちゃん、大きくなったわねぇ」
「しばらく見ないうちに随分男前になったもんだ」
それを微笑みながら眺めていたフミは、手にしていた湯呑茶碗を見つめながら、ふっと深いため息をついた。
「おじいさんとふたりで頑張ってやってきたお店だけど、私ひとりじゃあ今までどおり店をやっていくってわけにはいかない。寂しいけど、そろそろ店をたたむ潮時かもしれないねぇ」
その言葉を聞いて、商店街の人々も無言で小さく相槌を打つ。店主の高齢化に伴う後継者問題は、大概の店が抱えている共通の悩みなのだ。仲間の店が減ってしまうのは残念なことだが、かといってこれといった打開策など誰ひとり持ち合わせてはいない。
丁度その時、所用で外出していた稔が、入り口に顔を出した。
「達彦、そろそろ帰るぞ」
稔の声は、皆の話し声がする中、妙に冷ややかに響いた。顔を上げたフミが、名残惜しそうに達彦を見る。その表情を見た瞬間、達彦は思わずこう口にしていた。
「俺が、豆腐屋を継ぎます」
達彦の言葉に、フミを始め一同はあんぐりと口を開けてその顔に見入った。
「――おい、達彦! いったい何を言うんだ? おまえの進路はもう決まっているはずだろう!」
真っ先に我に帰った稔は、普段めったに出さないような大声を張り上げ、達彦の顔を正面から睨みつけた。
「大学院に行って、その後うちの会社に入る段取りになっているだろう? 豆腐屋を継ぐ? 何をバカなことを!」
激昂する稔を尻目に、達彦はフミの方に改めて向き直った。
「おじいさんが亡くなったと連絡が来た時から、考えてはいたんだ。おばあさん、僕がこの店を継ぎます。おばあさんのもとで修業をして、一緒にこの店を続けていこうと思う」
「そんなことは許さん! 今まで何の為に大学に行って勉強してきたんだ? ――とにかく今夜はうちに帰ろう。お母さん、明日また連絡します」
そう言ってそそくさと帰り支度を始める稔。達彦は、その背中に向かって、自分はこのままここに残ると言い放った。
「まだ片付けがあるし、ひとりになったおばあさんを、このまま残してはいけません」
そして、フミと今後の店のあり方について、話し合いたいと言ってのける。父子の間で押し問答が続く中、その場の雰囲気に耐えかねた人達がひとりふたりと帰っていく。
「いいだろう……。今日はとりあえずここに残れ。だが、豆腐屋うんぬんの話だけは受け入れるわけにはいかない!」
間に立ったフミは、困惑した表情をうかべながらも、ただじっとふたりの様子を見守っていた。
達彦は、言うべきことを言った後はじっと父を見据えたまま口をつぐんでいる。稔にすれば、そんな戯言は、祖母の悲しみを目の当たりにした達彦の一時の気の迷いにすぎなかった。だが、守の死に関する一連の慌ただしさが去り、再度達彦の意向を確かめた稔は、息子が本気で豆腐屋を継ぐ気だと知り、改めて怒りを露わにする。
「おまえは今まで何の為に頑張ってきたんだ? 私は何の為に必死で……。達彦、私はおまえに豆腐屋を継がせる為に大学へ行かせたわけじゃないぞ!」
稔は、激しい憤りを感じながらも、達彦をなんとか説得しようとした。だが、どうしても達彦が首を縦に振らないと判断したとたん、頭ごなしに達彦をどなりつけた。
「豆腐屋に未来なんかないぞ! おまえは、自分の人生をどぶに捨てようとしているんだ!」
そして、自分が決して達彦の進もうとしている道を容認しないこと、さっさと目を覚まして、院に進むことを言い置き、それ以降達彦と話すことをすっぱりと止めてしまう。しかし、稔の説得や脅しは、なんの功もなさなかった。
大学を卒業して間もなく、達彦は宣言通りフミのもとにやってきて一緒に住み始める。フミは戸惑いながらも達彦を歓迎して、達彦は「よろしくお願いします」と言って、深々と頭を下げた。
それから半年がすぎ、どうせすぐに音を上げて帰ってくると思っていた稔の思惑は、完全に当てが外れてしまう。達彦は、フミのもとで豆腐作りの修行に励み、寝る間を惜しんで技術を学ぶことに没頭した。フミは、一時期ひどく思い悩んだ――。
このまま達彦を豆腐屋にしてしまっていいのだろうか? しかし、日々成長を遂げる達彦を見るうち、そんな心配は徐々に影をひそめていく。そして、達彦の決心が本物であると判断したある朝のことだ。フミは仏前に座り、守が亡くなって以来止めていた配達業務を再開すると報告した。
やがて二年と少しがすぎ、達彦もようやく一人前になったと認められて、さてこれからという時に起きたのがフミの骨折事件だ。
「あぁ、ドジ踏んじゃったもんだねぇ。でも、達彦が一人前になった後でよかった。あたしの骨も、そこらへんは考えて折れてくれたんだろうねぇ。だってほら、今じゃもう店はあたしがいなくても大丈夫になってるだろう?」
フミは、ベッドの上で明るく笑った。そして、見舞いに来た商店街の面々に、達彦のことをくれぐれもよろしく頼むと頭を下げたのだ。
「達彦、大変だろうけど、店は任せたよ。あたしは、文字通り少し骨休めをさせてもらうからね。そう心配そうな顔しなくていいよ。あたしの骨はいずれ治るし、あんたの作る豆腐は、もうおじいちゃんの作る豆腐とそっくりだもの」
フミは皺だらけの手で達彦の大きな手を包みこんだ。
「今回のことが、丁度いい機会だと考えてごらん。これから自分がどうやって生きて行くのか、自分が今人生のどんな道に差しかかっているのか。今までずっと忙しくしていたんだもの。ちょっと立ちどまって、自分の足元を覗きこんでみるといいよ」
「おばあさん……」
「この町は、今時にしちゃあちょっと古臭いけど、みんな優しくて住み心地がいい。ぼちぼちでいいから、達彦の方からもっと町に溶け込んでみたらどうだろう。あんたがその気になれば、この町はもっといい達彦の〝居場所〟になってくれるよ」
素知らぬ顔をしながら、フミは達彦の胸の内をちゃんと見抜いていた。どこか地に足がついておらず、常に自分のいるべき場所を探しているような達彦の様子を、いつも見守ってくれていたのだ。
「前向きに行こうよ、達彦。そう考えると、あたしの骨折は、きっと必要なものだったんだと思えてくる」
フミの強さは、達彦を前進させてくれる大いなる追い風になった。
「わかりました。おばあさん、店は俺が守りますから、安心して養生してください」
達彦がそう言うと、フミは繰り返し頷き、嬉しそうに相貌を崩した。
※ ※ ※
商店街の外れに、こぢんまりとした小料理屋がある。店の名を「風花(かざばな)」といい、桜の花びらが描かれた暖簾が、道行く人の目を引く。磨りガラスの引き戸を開けると、左手には六つ椅子が並ぶカウンターが、右手には四人掛けのテーブル席が三つほど並んでいる。毎日午後五時に開くその店は、いつ覗いても、何人かは客が座っている。初めて店を訪れたお客は、料理の質の良さもさることながら、店主である純の美貌にまず目を奪われてしまう。そして、なぜかほっとする店の雰囲気に心地よさを感じて、いつの間にか常連になる人も数多くいるのだ。
純の両親は、彼がまだ小学校に上がる前に病気がもとで相次いで亡くなっていた。その為、実質純を育て上げたのは母方の祖母である静子で、彼女もまた若いころに夫と死別している。静子はこの界隈でも有名な美人だった。夫の死後、何人もの男性が彼女に求婚する。だが、静子は決して首を縦に振ることはせず、死ぬまで夫ただひとりを想い続けると公言してはばからなかった。
夫に続き、娘にまで先に逝かれてしまった静子は、娘の忘れ形見であり唯一の近しい身内である純をことさらに可愛がった。だがその一方で躾には人一倍厳しく、純は彼女の古風な考え方や慎ましさを、そっくり受け継いだ形で大きくなる。
そんな静子も五年ほど前に亡くなり、純はその悲しみを静かに受け止めながら、彼女から託された店の暖簾を、告別式の八日後には入り口に掲げたのだった。
「あぁ、腹減った。純、卵焼き焼いて」
純の友人であり、その店の常連でもある雄也は、いつもこんな調子で店に入ってくる。
頼み方はその日によってまちまちで、「野菜食いたい」とか「あっさりしたもの」などと大雑把なことを言う時もあり、具体的に料理の名前を出す時もある。純はその都度雄也の体調をさりげなくうかがい、彼の前に心のこもった料理を並べるのだ。
「いらっしゃい。今日は少し早いね」
「あぁ、店にまた新人が入るんだよ。なかなかの逸材なんだけど、なんせ行儀がなってなくてね。当分の間早出して、一から躾直さなきゃならないんだ」
長い足をカウンターの下で組んで、雄也は思案顔で出されたお茶を一口飲む。
「相変わらず繁盛してるんだね。雄也が経営している限り、あの店も安泰だよ。ううん、店だけじゃなくって、あの界隈全体かな」
彼が駅向こうにホストクラブ「ゼウス」を開店する前、その辺りはまるで活気のないさびれた地域だった。あるのは男性客相手のスナックや怪しげな個室マッサージ店だけ。立ち並ぶ雑居ビルには空室も多く見られて、女性客をターゲットにした店など、一店舗もない有様。
そんな状態の町に目を付けたのが雄也は、まず市役所の地域振興課に足を運んだ。そして、近隣のビルオーナーをも巻き込み、街燈や植え込みを設置し、昼夜問わず女性客が訪れやすいようイメージアップを図った。その上、知り合いの実業家を引き込んで、いくつかの空き店舗にシックなバーやこぢんまりとした洋風レストランまでオープンさせてしまう。
この町に店を出す前、既に東京の繁華街で二件のホストクラブを経営していた雄也は、業界では名の知れた敏腕経営者だ。純とはある日本料理店のオーナーを通して知り合い、妙に馬が合って以来、ずっと付き合いが続いている。
「だけど、よくあの辺り一帯をあそこまで賑やかにできたね。さすが雄也だ」
「まあね。だけど、もともとあの場所はすごく立地がいい。ただ、いいテナントが入っていなかったってだけの話だ。要は使い方だよ。年末には都内にあるヘアサロンの支店も進出してくるしな」
「ほんと? なんだかずいぶん洒落た町になるんだね。雄也って、ほんとたいしたもんだよ」
純は話しながら器用に卵焼きを作り、皿の上にふんわりと盛り込む。その皿は静子がとある地方の町で買い求めたもので、薄緑色の皿に乗る卵料理は、春に咲く菜の花のようだ。卵焼きの横に大根おろしをちょこんとのせ、雄也の目の前に差し出す。
「ご飯は?」
「あぁ、少なめでいい。あと、糠漬けもらえる?」
「了解」
それだけの会話で、後は味噌汁ともう一品何らかの料理が雄也の前に並ぶ。「風花」が営業時間を迎える前、雄也はたまにこうしてやって来ては必要な栄養を補給していく。
「そういえばさ、純。おまえっていくつになる?」
桜模様の箸を片手に、雄也はカウンターの中にいる純を見上げる。
「二十八。何度目だよ、そうやって僕に歳を聞くの。雄也と同じ歳だってば。前も今と同じように突然そう聞いてきたよね」
純は、雄也の顔を見て小さく笑った。その様は、まるで桜の花が綻ぶみたいで、外に吹きすさぶ冬の風を一瞬忘れさせる。
「そうだっけ? 俺、日頃自分の歳なんか考えもしないから、つい忘れちゃうんだよな。ふぅん、二十八か。あぁ、どれもこれもうまそうだな。いただきます」
雄也は胸の前で軽く手を合わせて、湯気の立つ味噌汁に口をつけた。自分の素性を詳しく人に語ることはない雄也だったが、普段の所作から判断するに、ずいぶんと躾の行き届いた家庭で育ったに違いない。
「で、さっきから気になってるんだけど、あれは、何だ? その表装からして、もしかして見合い写真かなんかか?」
雄也はカウンターの上に置いてある二つ折りの写真入れの方に顔を向けた。
「あぁ、これ? 昨夜自治会長の奥さんが持ってきたんだ。あんたもいい歳なんだから、お嫁さんでももらって身を固めたらどうかって……。その気はないって断ったんだけど、とにかく見てくれって無理矢理置いていっちゃってね」
肩を少しすくめながら、純が困ったように笑う。
「見合い? そりゃあ傑作だな。おまえが適齢期だってのは間違いないけど、見合いねぇ……。どう考えても見合いなんかおまえの柄じゃないし、そもそも無理がある設定だな」
「うん、まぁそうだけどね」
純と雄也は、ふたりとも異性に恋愛感情を持てない。それは、ふたりが出会った時に雄也から持ち出した話で、彼は純もそうであることを即座に見抜いてしまっていた。
「どうすんだよ。ほっといたら自治会長の奥さんにも見合い相手にも失礼だぞ。それにしても、おまえが見合いって……」
雄也は、一瞬なにか意味ありげな視線を純に投げかけた後、いきなり首をのけぞらせて大袈裟に笑いだした。
「笑いごとじゃないよ! 奥さん、僕が結婚するまで面倒見てやるって息巻いちゃってね。その子がだめなら、次もあるからって。参ったよ。いくら持ってこられても期待には添えないのに……」
「だろうな」
卵焼きを一切れ口の中に放り込むと、雄也はまじまじと純の顔を見つめた。
「なに? 僕の顔になにかついてる?」
雄也は、卵焼きを悠然と噛んで飲み込んだ後、ゆったりとした声で話し始める。
「おまえってさ、仮に相手が男であっても、見合いして結婚するような奴じゃないだろ。俺と一緒で、心底惚れ抜いた相手じゃなきゃ絶対にダメなタイプだよな? そんなの、ずいぶん前からお見通しだけど、もうそろそろお節介を焼いてやってもいいころだと思ってな」
雄也の謎めいた言葉に、純は目を細めて小首をかしげる。
「お節介? 僕に誰かを紹介してくれるってこと?」
「いや、紹介するまでもないだろ」
箸の先で糠漬けを摘まんで、雄也がちらりと純の方を見上げる。
「それって……、どういう意味?」
雄也の視線を受け、純は急にそわそわと皿を洗い始めた。
「あのな、純。おまえとはもう随分長い付き合いになるよな。だから、様子を見てるだけで程度なにを考えているかわかるつもりだ。おまえにはもう心に想う人がいるだろ? しかも、ここからそう遠くない、ごく近い距離に」
雄也はそう言い終えると、卵焼きをもう一切れ口に入れた。美味しそうに咀嚼し、ごくりと飲み込む。純はその間も、目を伏せたまま忙しく手を動かしている。
「で、俺の出番だ。どうやらおまえは自分から積極的に攻め込む気はないみたいだし、相手側もぐずぐずとその場に留まって動く気配がない。毎朝のように顔を合わせているくせに、一向に距離が縮まらない。傍から見てる俺にしてみれば、じれったくて仕方ないね」
みるみる頬を染め上げる純の顔を見て、雄也はやっぱりな、という顔をしてひとり頷く。
「僕は別に、そんな……」
純は、そうは言ったものの、それ以上言う言葉も見つからず相変わらず皿を洗い続ける。
「ふたりともわかりやすいよ。特におまえな。俺と話してても、時々呆けたような顔をする時があるだろ? それも、俺が達彦について話す時に限ってな。最初は、ただ上の空で人の話を聞いてやがると思ってたけど、そうじゃないとすぐにわかった」
達彦の名を聞いたとたん、純は手にした皿をあやうく落としそうになる。出された料理を綺麗に平らげ、雄也はまた手を合わせて「ごちそうさま」と言った。
「自分では気づかないか? そんな時のおまえって、頬がほんのり桜色に染まるんだぜ? 口元は緩むし、瞳だって潤んでくる。最初それを見た時、こいつとうとう俺に惚れやがった、と思ったけど」
「はあああぁ?」
純が驚いて大声を上げたその時、店の入り口に酒屋のバイクが止まった。
「おっと、もうこんな時間か。何にしろ、おまえは今恋煩いの真っただ中にいるんだ。自治会長の奥さんにはできるだけ早く、はっきり言ったほうがいいぜ? そうでなきゃ、お互いに時間を無駄にするばかりだぞ」
「あ、うん……」
なにもかも見透かされている。雄也には自分の気持ちが全部ばれてしまっている。だけど、それはあくまでも自分だけの想いだと思っていた。一方通行の、完全なる片想いだと。
でも、もし雄也の言葉を信じるなら――。
もし、それを信じていいなら、達彦もまた自分のことを想ってくれているということだろうか?
いや、まさかそんなはずは――。
「ちゃんと理由も言って断っとけよ。僕には、心底惚れた人がいるんで見合いなんか出来ませんって。そしたらさすがに諦めるだろ。じゃ、話の続きはまた今度な」
「心底って……あっ? あぁ、いってらっしゃい!」
弾かれたように顔を上げる純の様子を見て、雄也は片方の口角を上げてにやりと微笑む。そして、悠然と立ちあがると、左手を軽くひらつかせながら駅の方向へと歩み去って行った。
「はぁ……」
その日の営業を終え、純はカウンターの中でその日何度目かの深いため息をつく。
「おまえは今、恋煩いの真っただ中にいるんだ」
雄也に言われた言葉が、一日中頭の中を駆け巡っている。
「恋煩い……か」
純は誰もいない店内でひとり言を言い、物思いに耽りながらも手だけは器用に動かして料理の下ごしらえをしている。
二年半前の春のこと、「風花」の裏手にある公園の桜が丁度見ごろになった暖かなその日。
純は店のカウンターの椅子に座って、先日夫を亡くしたばかりのフミといつものように話し込んでいた。
「ねぇ純ちゃん、この前話したこと、憶えてるかい? 孫の達彦がうちの店を継ぎたいって言いだしたっていうやつ」
「うん、憶えてるよ」
「実はね、その話が本決まりになったんだよ。二日前、達彦が身ひとつでうちにやって来てね。本当にやれるのか、もう一度気持ちを確かめてみたんだけど、それでもやるって言ってくれてね」
守の葬式の時は、それぞれが忙しくしており、まともに顔を合わせないままでいた彼らだった。
達彦が町会館で父親とひと悶着起こした時も、純はちょうど仕込みの為に店に帰っていて、その場にいなかったのだ。
「確か、僕よりも三つ年下だったっけね。黒糖飴みたいに大きくてきらきらした瞳をした子だったよね。あのころは楽しかったなぁ。まるで弟ができたみたいで、一緒にいるだけで嬉しかったよ」
「ふたりとも本当に仲が良かったもんねぇ。えっと、そろそろここに来るころだね。今日はここらの店に達彦を連れて挨拶に回ってるんだよ。……あぁ、来た来た」
純が入り口の方を振り返ると、桜模様の暖簾を持ち上げる大きな掌が見えた。艶やかな黒髪をした頭が、かがむようにして店の中に入ってくる。黒糖色の瞳が、まっすぐに純を捕らえた。とたんに、純の瞳はそれに吸い寄せられる。
「純ちゃん、わかる? 孫の達彦だよ。達彦、覚えてるかい? ほら、小さいころよく一緒にあちこち遊びに行った純ちゃん」
ふたりの視線が、一瞬絡み合った。その瞬間、純の瞳の奥で眩いばかりの火花が散った。達彦が、軽く頭を下げる。純は慌てて会釈を返して、口元をややぎこちない微笑みを浮かべた。
「おやおや、やけに他人行儀だこと。まぁ、ふたりともすっかり大人になっちゃったからねぇ。純ちゃん、また達彦を宜しく頼むね。達彦、純ちゃんは家族みたいなもんだし、また昔みたいに仲よくやっておくれよ」
お互い無言で頷き、またちらりと視線を交わした。少し戸惑ったような達彦の瞳が、純の胸の奥をきりきりと締め付けてくる。
「さて、っと。じゃあ、また今度ゆっくり話しに来るから」
フミは純にお茶の礼を言い、達彦とともに店の入り口を出て行く。
──それからすぐのことだ。
純の瞳の奥で散った桜色の火花は、炎となってみるみる彼の全身に広がり、その真ん中にある心まで到達していた。誰もいなくなった店のカウンターの中で、純はひとり胸を押さえ、うずくまった。
(僕……どうしちゃったんだろう……)
今まで感じたどんなものとも違う痛みが、純の胸をきつく締め付けている。さっき見た達彦の顔が、頭の中に思い浮かぶ。昔遊んだころの「達ちゃん」が、ひとりの男として純の前に現れ、そのとたん純の心の中でとてつもない大きな存在になってしまった。
(もしかして、恋、しちゃったのかな……)
自分は恋ができない。ずっとそう思っていた。今まで誰に誘われても、心が動くことなんか一度だってなかったのに。なのに、達彦と再会を果たすなり純の穏やかだった日常は一変してしまった。自分がずっとひとりでいたのは、達彦との再会を待っていたからなのだろうか。そう思ってしまうほどに、さっき見た達彦の瞳は、純の胸の奥深くに刻み込まれてしまったのだ。
純が店に豆腐を買いに来るのは、以前はもっと遅い時間だった。それが今のように早朝に変わったのは、守が亡くなってフミがひとりで暮らすようになってからのことだ。
「どうせ朝は早めに起きるし、その方がフミさんともゆっくり話せるでしょ?」
そう言った次の日から、純は朝もまだ早い時間に店に通い始めた。たいていは、木綿豆腐と絹ごし豆腐を五丁ずつ買い、フミと店先で話し込んで帰っていく。その日の朝もいつもどおり純と話し、彼を送り出したフミは店の奥で寝転んでいる達彦を振り返った。
「純ちゃんはね、そりゃあもういい子なんだよ。小さい時に両親を続けざまに病気で亡くしちゃてね。それから静子ちゃんに女手ひとつで育てられて。だけどねぇ、彼女もお店をやってたし、なかなか思うように相手も出来なくって……」
フミの声に、達彦はゆっくりと身体を起こした。もとより本当には眠ってなんかいなかったし、フミもそれを承知している。
「もともと大人しい子だったからね。いつも店の二階でひとり本を読んだり、絵を描いたり。静子ちゃんは、私の大親友だったよ。いつも周りの人を気遣う、本当に優しい人だった。純ちゃんも同じ。あの子もほんと、心根が優しい子だ」
達彦は店に下り立ち、シャッターを閉める為に入り口の方へと歩いて行く。外に出て、遠ざかっていく純の背中を目で追う。それが緩く曲がる道の向こうへと消えてしまうと、達彦はおもむろにシャッターを下ろして、居間の方に戻ってくる。
「純ちゃんはね、夏に達彦が来てまた帰っていく時、いつも笑顔だったんだよ。だけど、見送った後の顔が本当に寂しそうでね。あぁ、この子はまだこんなにも小さいのに、耐えるとか忍ぶとかいうことを知ってるんだなぁと思ってね、……切なかったよ」
フミの独白にじっと耳を傾けながら、達彦は幼いころの純の顔を思い出していた。純は昔から色が白く、美しい子供だった。細くやや色の薄い髪はさらさらと風になびいて、長い睫毛は今も西洋の人形のように目元を縁どっている。
ほぼ毎朝のようにやってくる純と雄也は、それぞれが店で話し込んではフミを笑顔にして帰っていく。達彦にとって、それが一日の始まりの風景であり、聞こえてくる話し声を聞きながら横になることは、達彦にとっての日常の一部だ。ただ、雄也がいる時はすぐに眠れるのに、純が店にいる時の達彦の耳は、彼の声を意図的に聴こうとする。まどろんでいても、頭は常に純の存在を意識している。かつて親しく手を繋いで公園を駆けた子供のころの純が、どこか憂いを帯びた美しい人に成長していた。達彦はただそのことに戸惑い、抑えがたいほど込み上げてくる純への想いを持て余しているのだった。
まだ幼いころ両親を亡くした純には、ほとんど父母に関する記憶がない。先に亡くなったのは父透(とおる)の方で、体調が悪いと病院を訪れた時にはもう余命半年だと告げられてしまった。それを看病していた母の百合(ゆり)絵(え)だったが、夫が亡くなってすぐに今度は自分も彼と同じ病に侵されていることが判明する。最後まで気丈に病魔と闘っていた百合絵だったが、それから二年後には純を残して息を引き取ってしまう。
父母の入院のたびに祖母のもとに預けられていた純は、母の死後正式に静子のもとに引き取られる。
地元の高校を卒業した純は、本人の希望もあって店から一番近い調理学校に進学した。静子は、もっと外の世界を見てきたらどうかと勧めたりもしたが、純は今自分がいる小さな世界が好きだといい、静子もそれ以上はなにも言わなかった。
元来穏やかな性格である純は、身近な人の死を除いては、激しい感情とは無縁の人生を送ってきている。その美しい容姿の為、言いよってくる者は男女問わず多くいたが、純の心を揺さぶるような人には出会ったことがなかった。なのに、大人になった達彦と再会したあの時から、純の心は千々に乱れ、それまでの平穏な生活は完全に失われてしまった。かつて子犬のように一緒に転げまわって遊んだ男の子が、今はもう逞しく成長して純の心を席巻している。
再会してから、ひと月の間はまだ半信半疑だった。もしかして、ただの懐かしさを恋だと勘違いしているのではないのか。自分では意識しない人恋しさを感じて、タイミングよく達彦が現れただけかもしれない。
(いったいどうしたんだろう……)
純は悩み、自分の中に生まれた感情をすっかり持て余してしまう。自分の性癖については、もう十分理解していた。だけど、これまで一度も恋をしたことがなかった自分だ。まさか今になって、幼馴染でもある達彦に心奪われるなんて――。
しかしながら、胸の苦しさは現実に存在する。その原因を求めて、あてどなく医学書のページをぱらぱらと繰ったりもしてみた。だけど、そんなものに答えが見つかるわけもない。何日何カ月経っても、純の瞳は達彦の姿を追う。その声を聞くたびに、これまで味わったことのない胸の高鳴りを覚える。そんな想いを誰に言うでもなくひとりで抱え込んでいた純は、ある晩布団に身を横たえながら、思いきって小さな声で呟いてみた。
「僕、……達彦さんが、好きだ」
そう口にした瞬間、純の瞳から関を切ったように熱い涙が溢れだした。もう一度その言葉を口にした純は、嗚咽とともに何度も頷いている自分自身に気づいた。
「僕は、達彦さんが好きだ」
もう一度言って、また頷く。
「達彦さんが好きだ。僕は、達彦さんが好きだ――」
その時以来、純は自分の中にある想いを疑わなくなった。だけど、それを外に出すことはせず、それまでどおり胸の奥底にそっとしまい込んだまま暮らし続ける。普通では理解されないこんな想いは、相手にとって迷惑でしかないと思ったから。そうして純の想いは、ただ雪のようにしんしんと降り積もって、気がつけば三度目の冬を迎えていたのだ。
前日に降った雪が、まだ陽の当たらない路地裏に残っている。そんな冬曇りの朝、達彦は冷たく凍る両手を手ぬぐいで擦りながら、いつものように居間の入り口に腰を掛けた。床に視線を落として、じっと自分の心の中に探ってみる。店には、さっきまで雄也がいた。冷たい缶コーヒーを差し入れしてくれ、椅子に座ってひとしきり話し込んで帰っていったところだ。途中語られた言葉が、達彦の心に妙に引っ掛かっている。
「おまえ、純のことどう思ってんるんだ? 幼馴染の割には妙によそよそしいし、いつまでたってもお互いの胸の内を隠したままだ。俺にしてみればじれったくて仕方がない。どうだ? 純は奥手だから、おまえの方から心を開いてやれよ」
いきなりそんな風に言われて、達彦はただただ面食らい、混乱した。口を開いたとたん達彦のことを同性愛者だと決めつけ、しまいには「純も同じ気持ちなんだから、さっさとくっついちまえ」などと暴言を吐く。始めこそ、自分には同性愛など無縁だと突っぱね、彼の進言を的外れなお節介だと受け流した。しかし、そんな抵抗も雄也にはまるで効果がない。
ホストクラブの敏腕経営者である雄也は、人を見る目と人物観察には絶対の自信があると豪語している。自分には性的嗜好を嗅ぎ分ける天性の嗅覚がある、そしてそれは、今まで一度だって外れたことはないのだ、と。
「おまえたちふたりは、明らかに相思相愛だぞ。どちらかかが一歩踏み出せば、愛の底なし沼に真っ逆さまだ」
雄也が芝居っ気たっぷりにそう断言した時、達彦はあからさまに眉をひそめ、横を向いた。
確かに自分は同性愛者だ。それに気が付いたのは、中学に入ってすぐのことだ。当然のように戸惑い、自分なりに悩み抜いたが、結局は自分の性癖を受け入れる他はなかった。捨て鉢になっていた一時期、まるで誰でもいいという風に盛り場を徘徊して、たまたま会った男とその場限りの交わりを持ったりした。
そして、そんな自分が汚らしくて仕方がないと思うようになったのが、母親が死んだ大学二年生の夏のことだ。それを機に、もう一生誰とも心も身体も交わさずに生きていこうと決心する。それが、達彦が彼なりに考え抜いて選んだ生き方であり、生き続けていく手段だった。
誰にも迷惑をかけない。誰とも身体を交わらせない。
(心なんて、なおさらだ──)
そうやって今までなんとか自分の中で折り合いをつけ、生きてこられた。だから、これからもそうやって生きていくのだ。今、確かにある純への想いも、口に出してしまえばきっと穢れた肉欲だけに変わってしまう。そして、自身を穢し、ひいては心に想う純までも穢すことになるに違いないのだ。それならば、なおさら純に近づいてはいけない。汚れきった自分が、清らかな純に関わるなんて恐ろしいことはできるはずもなかった。
そもそも、純が自分を想っているなんて証拠がどこにあるのか。
雄也の言うように、仮に純が同性愛者だとしても、自分たちが相思相愛だなんて雄也の頭の中の戯言に決まっている。百歩譲って雄也が善意からそんなことを言っているなら、それこそとんでもないお節介だ。迂闊に信じてしっぺ返しをくらえば、ギリギリで抑え込んでいる気持ちの持っていき場が、完全になくなってしまう──。
居間に置いてある時計の針が、午前五時を示している。
もうじき、あの人がやって来るだろう。
すべらかな額を、さらさらとした前髪で隠して。桜の花びらのような唇に、白い息をまとわせながら。そう思った時、店の入り口から純の細い声が聞こえてきた。
「おはようございます。いつものください」
「おはようございます。毎度ありがとうございます」
はっとしたように顔を上げた達彦の目に、いつもより少し俯き加減の純の顔が映り込んだ。
「二千円になります。」
決まりきった受け答えをして、豆腐を掌の上で泳がせる。それをすくい上げた時、純が達彦の背後で声を上げた。
「あ、この油揚げ、ふっくらしててすごく美味しそうだな」
振り向くと、純が壁際にある商品棚の中を覗いている。そこには、さっき揚げたばかりの分厚い油揚げが置いてあった。
「あぁ、それはこれまでのものより、じっくりと時間を掛けて揚げたものです。まだ試作品なんですけど……、よかったら試しに持っていってください」
「ほんと? 嬉しいな」
純の顔に、はにかんだような微笑みが浮かぶ。
「えっと、じゃあ……」
純の指がバッグの中にある財布を探った。
「代金はいりません。まだ売り物にできるほどのもんじゃありませんし。食べてみて、よかったら感想を聞かせてください」
いつになく饒舌になっている自分に気がつき、達彦はふいに口を噤む。図らずも見つめ合ってしまっていた視線を、容器の中の豆腐に移す。
「ありがとう。じゃあ、さっそく食べてみるね」
純は、いつものように達彦の掌に豆腐の代金をのせた。お札を握ろうとする達彦の指が、純の指先をかすめる。ぴくりと跳ねた純の手元を見て、達彦の手にも同じような緊張が走った。
「あの……、うちのお店、ちゃんと開店するのは夕方の五時なんだけど、雄也とか一部の常連さんの為に朝一度お店を開けているんだ。それで……もしよかったら、達彦さんも朝ご飯を食べに来ないかなって……。フミさんがいないから、ご飯とか用意するのも大変だろうし――」
純はとっさに口にした自分の言葉に驚き、首筋まで桜色に染め上げて俯く。
「……ありがたいですが、俺は……」
達彦の答えを恐れるように、純は急いでその後の言葉を継ぐ。
「ご飯っていっても、材料は前日残ったものを使っているんだ。常連さんが来るっていっても、毎日じゃないし……。だから、遠慮なく来てくれたらいいよ。僕もその方が嬉しい。だってほら、食べ物を残すって、よくないから――」
純はそこまで一気に言って、ちらりと達彦の方を見た。達彦は手に受け取った代金を握り締めたまま、その場に立ちつくしている。
「あ、でも達彦さんもいろいろと忙しいよね。む……無理に誘ってるわけじゃないんだ。たまたま時間が空いちゃったとか、なにか普段と違うものが食べたくなった時に来てくれたらいいかなって感じで……」
差し出された容器に目を落として、純は達彦がなにか言う前に入り口の方へとあとずさった。そして、そっと顔を上げて、もう一度達彦の方をうかがってみる。達彦はさっき見た時と同じ位置に立ったまま、微動だにしない。
「……じゃあ、また」
返事を待たずに、純はくるりと踵を返す。それだけで、精一杯だった。純は、さっき自分が言ったことから逃げるように、店の外へと駆け出していく。しばらくしてはっと我に返った達彦は、純の後を追うようにして店の外に飛び出た。だが、そこにはもう純の姿はなく、ただ朝の静けさが広がっているばかりだった。
その日の営業を終えた夕方。達彦は途中買ってきた缶コーヒーを開けて、居間の入り口に座り込んだ。プルトップを引き上げ、見るとはなしに店の中の風景に視線をめぐらせていく。達彦は、缶コーヒーを一気に飲み干し、部屋の奥にあるゴミ箱に向って、空き缶を放り投げた。畳の上に寝転び、吸い込んだ息をゆっくりと吐きながら目をつむってみる。眠ろう。いつものように、なにも考えず寝てしまおう。
しかし、いくら考えまいとしても、目蓋の裏に純の白い顔がほんのりと浮かんでくる。今までは、ただ純を目の端で見ているだけでよかった。だけど、今朝店に来るように誘われてからというもの、胸がざわついて仕方がない。ややもすれば、純にもっと近づきたい、あの細い肩に触れてみたいと思ってしまう自分がいる。
(馬鹿な……)
達彦は、そんな考えを無理矢理頭から追い払った。
(俺はもう必要以上に人と係わらない。誰とも交わらない。身体も、心も……そう決めたはずだ)
多分、今は気持ちが高ぶりすぎているのだろう。あまりにも自分とかけ離れた純の清らかさに、驚いて惑わされているだけ。純にこれ以上近づくなんて、もってのほかだ。
(大丈夫――。きっとすぐに忘れられる。聞かなかったことにすればいい。それが、一番いいんだ)
今、純に対して抱いている気持ちは、きっと一時的に昔の肉欲が復活しただけのことだ。どうしてもというなら、自己処理で済ましてしまえばいい。そうすれば、一瞬ざわめいた心も、やがて凪いでいくだろう。
一日目は、なんとかそう思いこむことで済ませられた。だが、次の朝を迎えて、達彦はそれまでよりももっと強く純を意識している自分に気づいてしまう。その日店に現れた純は、なぜか瞳を赤く潤ませ、今にも泣き出しそうな面持ちをしていた。自分からそうなるよう仕向けているとはいえ、いつにも増して視線が合わない。いつもなら、ふと顔を上げた瞬間に、目が合うのに――。
今日に限って、純はまったくこちらを見ようともせず、頑なに顔を下に向け続けている。そんな純の瞳を、達彦は覗き込んでみたいと思った。いつもより上気して見えるその頬に手を当て、なぜそんな顔をしているのか聞いてみたい。そして、できるものならその桜色の唇を上向かせて、思うまま貪ってみたい――。そんなことまで願ってしまった。
「駄目だ。……絶対に、駄目だ」
純が帰った後、達彦は声に出して自分に言い聞かせた。なのに、想いはどんどん加速していく。
心はさっきまで店にいた純の面影に憑りつかれ、身体はこみ上げるような欲望に疼いている。自分は恋愛に向かない。過去何人かと男と付き合ったが、いずれもただ同じ人種であり、浅ましい肉欲のはけ口を求めあっただけの関係だった。結局は、その場限りの情交となんら変わるものではなかったし、思い返してみても胸が痛くなるような想いなど今までに一度も抱いたことがない。そんな自分が、純を欲しいと思い、心の底からその白い肌に舌を這わせてみたいと願っている。
そんなことはできない。そんな所業が、許されるはずもなかった。
汚れきった自分が、純と対等に付き合うなどと、あってはならないことだ。仮に、純が自分と同じ性癖の持ち主だとしても、彼に自分の穢れをなすりつけるようなまねができるわけがない。
純だけは、傷つけてはいけない。雄也が言うように、たとえふたりが相思相愛だとしても、だ。
(俺は、幸せになる資格なんかない。あの人を、俺がいる場所に貶めるわけにはいかない――)
そんな考えとともに二日目の夜をまんじりともせずにすごして、三日目の朝は、店に来た純の手元だけを見て接客した。だけど、店を出ようとする純の踵に自分の視線が追いすがっていることに気づいている。もっとそばにいたい。その声をもっと間近で聞きたい。そんな自分に、達彦は今までにないほどの戸惑いを感じた。何度否定しても浮かび上がってくる想いが、達彦をじりじりと追いつめていく。
なぜこんなにも、純のことばかり考えてしまうのか――。それは、決して肉欲だけで片付けられるような単純なものではない。では、なんだ?
達彦は、自分をさんざん訝ったあげく、四日目の朝には、ついに自分の中にあるものが〝恋〟であるらしいことを渋々と認めた。本当は、自分でもわかっている。わかっていて、ずっと気づかないふりをしていた。そして、そんな自分にも背を向け続けていたのだ──。
毎朝店に来て、フミと楽しそうに話しこんでいく。そんな純のことを、自分はどれだけ店の奥から盗み見ていただろうか。
帰っていく純の後ろ姿を、毎回見逃すことなく見送っていたのは、誰だったか。これまでのことを思い返して、達彦は諦めたように長いため息を吐いた。
(会いに行きたい――)
達彦は、ただそう思った。会いに行って、なにをどうするつもりなのか。いくら誘われたからといって、もうそれから四日も経ってしまっている。だけど、今の達彦には、会いに行かないという選択肢など存在しなかった。時計を見ると、午前十時を少し回っている。
達彦は、いきなり焦りだした自分を嗤いながら、着ていたTシャツを洗濯機の中に放りこんだ。
濃紺のセーターに洗いざらしのジーンズに着替えて、しばらくの間店の入り口に佇む。そして、大きく深呼吸をした後、達彦は、純が待つ「風花」のある方向へと歩き出した。
「はぁ……」
達彦を店に誘ってから四日目の朝。純は、厨房の中でその日何度目かのため息をついた。三月も終わるというのに、公園の桜は連日の寒さのせいかまだ芽吹く気配すらない。
「やっぱり、あんなこと言うんじゃなかった……」
がっくりと肩を落としたまま、買ってきたばかりの豆腐を掌にのせる。
「あれから達彦さん、いつにも増して無口になっちゃったし……。今朝は特によそよそしかった気がする……」
我にも無く目に涙が滲んできて、あやうく手に持った豆腐の上に落ちそうになる。
「達彦さんが作った豆腐、しょっぱくしたら余計嫌われちゃうよ……」
ぐいと顎を上向かせると、純は溢れ出る涙をこめかみへと逃がした。ここ三日間というもの、達彦のことを思うと必ず涙が込み上げてくる。毎朝店に行くたびに痛いほど胸がどきどきして、それを抑えようとしてかえって息が苦しくなってしまう。彼の気持が知りたいのに、はっきりと拒絶されるのが怖くてしかたがない。いったいどうしたらいいのか――。
あれ以来、達彦をまともに見ることができない。余計なことを言ったと後悔したと思えば、どうせなら気持ちをぶつけてしまえばよかったと思ったりして。
「どうしようもないな、僕……」
白い豆腐の向こうに、達彦の俯いた顔が重なって見える。唇を噛みしめ、泣き出したい気持ちを抑えながら豆腐を刻む。そっと掌を傾け、鍋の中にそっと滑らせたその時――。
入り口の引き戸が開き、黒髪で長身の男が遠慮がちに店の中に入って来た。
「……達彦さん……」
戸の内側に掛かる暖簾を手の甲で押し上げながら、達彦がゆっくりと顔を上げた。彼の瞳が、純を視界の中に捕らえる。その瞬間、純の両方の目から大粒の涙が零れ落ちた。
「――どうかしたんですか?」
達彦は、驚いたように一歩足を進めて、戸惑った顔で純の顔を見つめる。まっすぐに自分に向けられたその視線に、純は一気に頬が紅潮していくのを感じた。
「な、なんでもないよ! ちょっと玉ねぎが目に沁みちゃってて――」
純は、急いで涙を拭い口元に笑みを浮かべる。
「いらっしゃい、達彦さん。朝ご飯を食べに来てくれたんでしょう?」
「はい」
達彦が、僅かに頷きながら返事をした。だけど、入り口に立つ足が、それ以上店に入ることを躊躇している。明らかに、純の涙が玉ねぎのせいじゃないことに気付いている。純は慌ててかぶりを振り、厨房の前にあるカウンター席を掌で示した。
「ほら、ここに座って? すぐ用意するから――。達彦さん、何が食べたい? 魚がいい? あ、卵焼きとか好きかな? なにか嫌いなものってある? フミさんが入院してから、ちゃんとご飯とか食べれてるの? ……あ、ごめん。僕ったら、質問ばかりしてるね」
純は、おしゃべりな唇を指先できつくつねった。それを見た達彦は、ふっと表情を緩めて、ゆっくりと店の中に足を進める。
「来てくれてありがとう。……もっと早く誘えばよかった。ずっとそうしたいと思ってたんだよ。ね、座って? 今ちょうど豆腐入りのお味噌汁が出来上がったところなんだ」
「ありがとうございます」
達彦は軽く頭を下げ、純が示したカウンター席の椅子に座った。
「達彦さんがこの町に来てからもう二年半にもなるのに、こんなふうに面と向かって話したことって、子供の時以来だよね」
緊張で震えだす指先を感じながら、熱いお茶とお絞りを達彦の前に置いた。
「達彦さん、小さいころのこともう憶えてない? 一緒に行った虫取りとか、商店街の縁日の夜のこととか。一泊で海水浴に行った時は楽しかったなぁ。空がすごく青くて……そう言えば、今でも思い出す夏の思い出って、ほとんどが達彦さんと一緒だ」
動揺を隠すように一方的に喋り続けて、純はふと顔を上げる。お茶を飲む達彦の姿に、胸が熱くなった。慌てて視線を手元に戻して「落ち着いて」と、自分に言い聞かせる。
「祖母が亡くなってから、僕は本当に天涯孤独の身になっちゃったんだよ。フミさんは、そんな僕を本当の孫のように気遣ってくれて、葬儀の時もずっと僕のそばで大丈夫だからねって、背中をさすってくれてたんだ」
菜箸で卵をかき混ぜ、中にだし汁を加えていく。それを専用のフライパンで焼き上げ、まな板の上にのせて包丁を入れる。出来上がった卵焼きを桜色の皿の上に盛って、達彦の前に差し出す。
「フミさん、僕に言ってくれた。ひとりぼっちになったなんて思うんじゃないよって。あんたにはあたしがいるんだから、決してひとりぼっちなんかじゃないって。僕、本当に嬉しかった。フミさんだけじゃない。お葬式に来てくれた商店街の人も、同じように言ってくれて。みんな本当に優しくって」
「……そうですね。みなさん、優しくていい人ばかりです」
その声に顔を上げた純の視線が、達彦のものとぶつかる。純の息が、一瞬止まった。それほどまでに達彦の瞳はまっすぐに純を見つめており、厨房に立つ純は菜箸を持つ指をきつく握りしめた。
「うん。みんな、本当にいい人だよ」
かわす視線の中、純の口元に微笑みが浮かぶ。それを見る達彦の口元もまた、同じように緩やかな曲線を描いた。純が達彦の瞳から目を離せないでいると、達彦はひとつ瞬きをして、ふっと先に視線を外した。
「ここに来てよかったです。そうでなければ、今頃俺はどうなっていたことか……。おそらく完全に自分を見失って、日々の生活も父との関係も、なにもかも最悪なものになっていたと思います」
葬式の後にあった出来事の話は、人づてに純も耳にしていた。達彦と彼の父親との間に、どんな確執があるのだろうか。そして、そのことが今の達彦にどんな影を落としているのだろう。
見ると、達彦の眉間には、いつの間にか薄い皺が刻まれている。なにか自分にできることがあるなら、なんだってやりたい。達彦の為なら、どんなことでもしてあげたいと思う。
「僕、嬉しいんだ。達彦さんがこの町に来て、住みついてくれたことが。本当だよ。これからは、もっと遠慮なくここに来て、ご飯を食べていってよ」
「はい、ありがとうございます」
顔を上げた達彦の目元に、うっすらとした笑みが戻ってくる。
「あ、そうだ。この間もらった油揚げね、すごくふわふわで、それでいてしっかりとした食べごたえがあったよ。そのまま食べても美味しかったし、お客さんにも試食してもらったんだけど、とても評判がよくって──」
しばらくの間、油揚げについての話が弾んだ。気が付けば、十分近くカウンターを挟んで喋っていた。そうはいっても、話すのはもっぱら純の方だったけれど。
「――そうですか。ありがとうございます。すごく参考になりました。もう少し改良して、ちゃんとした商品として売り出せるよう頑張ってみます」
「うん。楽しみにしてる」
達彦の前に並んでいた皿は、いつの間にかすっかり空になっている。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「よかった」
ふたりは顔を見合わせ、穏やかに微笑み合う。
「ほんと、いつでも食べに来てね。僕、いつだって待ってるから……」
言い終えると同時に、純ははっとしたように頬を染めて下を向いた。
「はい」
低い声でそう答えた達彦と純の間には、入れたてお茶の湯気がゆらゆらと立ち上っていた。
それから、達彦は週に何度か純の店に朝ご飯を食べに来るようになった。時間は、達彦が朝の仕ことを終えた十時半ごろ。その時間帯なら、常連客も店に来ることはない。どうせ残り物だからと代金を受け取ろうとしない純に、達彦はいくばくかのお金を、豆腐の代金から差し引くという形で純を納得させた。
「代金をもらうからには、僕がきちんと達彦さんの栄養管理をする」
純は、フミの見舞いに行ったおり、そう宣言した。それ以来、フミの進言もあって、達彦はほぼ毎日純の店に通うようになっている。
「悪いわねぇ。それでなくても忙しいだろうに、達彦の面倒までみてもらって」
フミは、また別の日に見舞いに来た純を前に、すまなさそうに笑う。
「ぜんぜん平気だよ。僕のことなら心配しないで。だって達彦さん、本当に美味しそうに食べてくれるんだよ。だから僕、すごく嬉しいんだ。ほんと、気にしなくていいからね。もとはと言えば、僕が好きで始めたことなんだし」
持参したカステラを切り分けながら、純はにこやかなに笑った。それを見たフミは、眉尻を下げて嬉しそうに頷く。
「最近の純ちゃん、なんだか嬉しそうだね? 前よりもよく笑うようになったし、ずっと幸せそうだよ。そう言えば、うちの達彦も近頃表情がグンと柔らかくなったねぇ。きっと純ちゃんのおかげだと思うけど、違うかい?」
それを聞いた純の頬は、フミの目の前であからさまに桜色に染まった。
「達彦は、放っておくとパンと牛乳だけで一日すごしちゃうからねぇ。豆腐作りは一人前だけど、料理となるとからっきしだからね、あの子は」
「大丈夫、達彦さんのことは僕に任せて。フミさんもリハビリ頑張ってね。退院したら、美味しいものいっぱいご馳走するから」
以前に比べだいぶ細くなったフミの脚を、純の掌がいたわるようにさすり始める。
「ありがとうね、純ちゃん。あんたはあたしにとって孫同様の大事な子だもの。ふたりの孫が仲良くしてくれてるってことが、あたしは本当にね――、本当に嬉しいんだよ」
フミは、純の白い手に自身の皺だらけの手を重ねた。そして、しみじみと頷きながらまた話し始める。
「達彦は、昔はもっと元気で明るい子だった。純ちゃんも、憶えているだろう? それが、いつの間にか人が違ったみたいになってしまって。両親のことやこれからのこと……、いろいろと考えることがあるのかもしれない。だけど、あたしにはこれ以上どうしてやることもできない」
小さくため息をついたフミだったが、純の顔を見てまたにこりと笑った。
「純ちゃん。あたしはね、あんたなら達彦を昔みたいによく笑う子にできるような気がするんだよ」
「僕、が……?」
フミはこっくりと頷き、純の手を両の掌でぎゅっと包み込んだ。
「なにかあったら、あの子のそばにいてやってくれるかい? 達彦は、芯が強そうに見えて、実は脆いところがあるように思う。あたしは、あの子がまた本当に笑うところが見たいんだよ。昔みたいに、心から笑うところを……」
フミの言葉を聞きながら、純は何度も首を縦に振った。
「僕も達彦さんの笑顔が見たい。昔みたいに、瞳をきらきらさせて笑う顔が見たい。……大丈夫、きっとまた笑ってくれるよ。その為にも、僕がそばにいるから。約束する」
純の力強い言葉を聞いたフミは、安心したように笑顔を零れさせる。そして、差し出された純の小指に、自分の小指を嬉しそうに絡めた。
※ ※ ※
達彦が純の店に通うようになってからひと月経ったある日のこと。いつものように「風花」にやって来た達彦は、店に入り、暖簾越しに入り口の引き戸を閉めようとしていた。するとそこへ、明るい髪色をしたひとりの男が、達彦にぶつかるようにして店の中に走り込んできた。
「あ! 達彦さん、ごめんね! 純、ちょっと二階にかくまってくれる?」
後ろ手で戸を閉め、そわそわと足をばたつかせる。
「あ、うん。いいけど――」
「サンキュ! ふたりとも、僕がいることはくれぐれも内緒だからね!」
達彦ににこりと笑いかけた男は、バタバタと急ぎ足で二階へと駆けあがっていく。
「ごめんね、達彦さん。光樹(みつき)ったら、いつもあんな感じで飛び込んでくるんだ」
純の幼馴染にして親友でもある橘(たちばな)光樹は、スタジオミュージシャンをする傍ら、母親とともに近所のピアノ教室で講師を務めている。ふわふわとした胡桃色の髪に赤い唇。純よりも少しピンクがかった白い肌を持ち、二十三歳という年齢にしては幼く愛らしい顔立ちをしている。
「知ってると思うけど……、光樹って、その……」
「はい、知ってます。雄也さんの恋人なんですよね? 光樹さんについては、雄也さんからいろいろと聞かされてますから」
引き戸を閉め、めくれあがっていた暖簾をもとの位置に戻す。光樹とのノロケ話は、朝達彦のところで話し込んでいく時の雄也の十八番なのだ。
「そっか」
純が、ほっとしたように肩の力を抜く。毎日会って話をするといっても、いまだ色恋の話など持ち出したことがないふたりだった。
「今朝は湯豆腐にしたんだ。後は、鯛茶漬けと菜の花のお浸し。それと、茶碗蒸しもつけるね」
美味しそうな料理名が並ぶと、達彦はいつも口元に薄っすらとした笑みを浮かべる。それを見る純もまた幸せそうに微笑む。毎日積み重ねられていく達彦とのこんなひと時。それが、純にとって一番大切で幸せな時間だ。
達彦がカウンターの方へ歩き出そうとした時、入り口の引き戸が勢いよく開けられる音が鳴り響いた。純が驚いて顔を向けると、鬼のような形相をした雄也が、暖簾を突き通して店の中に走り込んできたところだ。
「純! 今、ここに光樹が来たろ? あいつの匂いがするからわかる……、二階だな? ったく、あの分からず屋が!」
「ちょ、ちょっと待って、雄也!」
カウンター越しに純が身を乗り出す。その声を振り切って二階へ駆けあがろうとする雄也を、咄嗟に伸びて来た達彦の手が阻んだ。
「なんだよ! ――あぁ、達彦か。おまえ、なんでこんな時間にここにいるんだ?」
達彦と純の顔を見比べると、雄也はくいと左眉を吊り上げてにんまりと笑った。
「なるほど……、おまえらやっとくっついたんだな? 純、達彦をずっと想い続けていた甲斐があったな。まったく、これ以上進展しないようなら、いよいよ俺がでしゃばるしかないと思ってたところだ」
雄也の言葉に、純は絶句してカウンターの上で固まってしまう。その顔色は、貧血でも起こしたかのように青白い。
「おっと、悪いけど今取り込み中なんだ。純、しばらく二階借りるぞ」
達彦の肩をポンと叩いて、雄也は大股で二階へと駆けあがっていった。
「も……、雄也っ!」
身を乗り出したままの純の瞳に、達彦の驚いたような顔が写る。血の気を失っていた頬が、じんじんとした熱を帯び始めた。
「あ……っと、ご、ごめんね。朝から騒がしくて。ほら、座って? 今お茶を入れるよ」
ゆっくりとカウンターの方に歩いてくる達彦の動作が、心なしか躊躇しているように思える。
(雄也ったら、なんてこと言うんだ!)
お茶を入れる純の手元が、小刻みに震える。カチャカチャと響く茶器の音が、純の動揺をばらしている。純は、それを誤魔化すように唐突に喋り始めた。
「あのふたり、始めて顔を合わせたのはこの店のカウンターだったんだよ。光樹と僕は、幼馴染。雄也と僕は、もう知り合って七年になるかな。彼、和食好きだろ? たまにお店の子を連れてきたりもするんだ。雄也って、昔からすごく優しいし、いい奴なんだよ」
湯呑みを持つ指先の揺れが、湯気を立てるお茶にさざ波を立てる。
「だけど、時々突拍子もないことを言いだすんだ。だから……」
カウンター越しに湯呑みとおしぼりを置き終え、純はその後に言う言葉を懸命に探していた。いったいなんと言って説明すればいいのか。あんな言葉を残して二階に行ってしまった雄也を、純は思いきり蹴飛ばしてやりたいと思った。
「さっき雄也が言ったことは気にしないで。あれは……、その……」
頬にあった火照りが、今やもう胸元にまで達している。指の震えが、全身に伝わりだす。
席についた達彦は、おしぼりを手に取り、それをぎゅっと握りしめる。そして、下を向いていた顔をおもむろに上げると、純の目をまっすぐに見つめた。
「わかってます。さっき雄也さんが言ったことは、全部彼の勘違いでしょう?」
そう言った達彦は、見つめ合った視線をカウンターの上に戻した。
「雄也さんは、なにかとんでもない思い違いをしているみたいです。あなたが俺のことをどうとか、そんなありもしないことを……。とにかく、大丈夫です。あんなの、誰も本当にしたりしませんから」
達彦の節くれだった指が、ごつごつとした湯呑みの上を滑った。冷たさに慣れた達彦の手に、熱いお茶の熱が伝わっていく。純の目に映る達彦の眉間が、みるみる険しくなる。せっかく近づいた達彦との距離が、一気に広がっていくような気がした。こんなに近くにいて、手を伸ばせば届く距離にいるのに、達彦はもう純の方を見ようともしない。
「達彦さん……、違うよ。そうじゃないんだ……、達彦さん、僕は――」
達彦の瞳が、ゆっくりと純の方を見上げる。純が言葉を継ごうとしたその時、二階から雄也の怒声が聞こえてきた。そして、どさりと人が倒れ込むような音がした後、光樹の甲高い悲鳴が、上の階に響き渡る。
それを聞いた達彦は、一瞬椅子から腰を浮かせた。だけど、純の困ったような表情を目にして、上でなにが行われているのかを悟り、また椅子に腰を下ろした。続いてやって来た静寂は、いかにも気まずくて、純はいたたまれない気持ちになる。
「ほ……ほんと、もうなにやってんだろうね、あのふたりは……。ものすごく仲がいいくせに、いつもああやって鬼ごっこみたいなまねして」
純は、わざとのように音を立てて野菜を洗う。
「雄也さんが言ってました。俺の最愛の恋人は、しょっちゅう俺から逃げ惑うウサギみたいなやつだ、って」
「雄也ったらそんなこと言ってた? うん、確かに……。光樹がウサギなら、雄也はさしずめ腹ペコの雄ライオンってとこかな」
「あぁ、そんな感じですね」
ふたりして顔を見合わせ、口元を綻ばせる。
「雄也さんは、俺にいろんな話をしてくれます。光樹さんのことや、お店のこと……。彼は、不思議な人です。いきなりやって来た俺を、すぐに受け入れてくれて。当たり前のようにいろいろと世話を焼いてくれて、いつの間にか俺をこの町に溶け込ませてくれました」
「うん」
純は頷き、手にしていた菜の花を傍らに置いた。
ふたりの話は、雄也と光樹が出会った時のことに及び、また少し場が和んだように思えた。純は、話しながら達彦の方をちらちらとうかがう。一方、達彦は純の話に軽く相槌を打つものの、視線はじっと目の前の一輪挿しに固定したままだ。
今更話を蒸し返すわけにもいかずに、純はその場を取り繕うように忙しく立ち振る舞う。
「言いそびれちゃったな……」
後ろを向いた時、唇の先で呟く。茹でた菜の花をお浸しにして、その上にちょこんとかつお節をのせる。
(ううん、その方がよかったかも……)
気持ちを伝えたところで、かえって距離ができてしまうなら言わない方がいいに決まっている。それにしても、二階がやけに静かだ。いつもなら、あてつけがましいほどにいちゃつく物音が聞こえてくるのに。
「やけに静かですね」
図らずも、達彦が純の思っていたことを口に出した。ふと、カウンター越しに目が合う。はにかんだ純は、視線を階段の方に向けた。
「うん、いつもはもっと騒がしいんだけど……。気を、使っているのかも」
それとなく睦言のことを仄めかしてしまった自分に気づいて、純は唇を噛んで俯く。達彦は、なにも言わない。店の中には、純が立てる調理の音だけが聞こえている。
「おまちどおさま。熱いから、気をつけて」
カウンター越しに、できあがった料理を達彦に手渡していく。微かに指先が触れ合うたび、純は爪先立った指をきゅっと丸める。
豆腐入りの味噌汁を受け取る達彦の顔に、ふと柔らかな微笑みが浮かんだ。
「純さんの作る味噌汁、本当に美味しいです。俺が作った豆腐をこんなに美味しく料理してくれて……。俺、すごく嬉しいです。いつも感謝してます」
達彦の、これまでに見たことのないような優しい微笑み。ついさっき触れた温かな指先。純の心の中で絡んでいた糸が、緩やかにほどけていく。
「――好き……なんだ……」
純の唇から、今まで隠していた想いがふいに零れ落ちる。
「えっ……?」
お椀を受け取った達彦の手が、ぴたりと止まった。達彦は、味噌汁の碗を慎重にテーブルに置いた後、ゆっくりと顔を上げて純の顔を見つめる。その瞳は、純の胸の内を推し量っているみたいで、純はその視線を受け止めたままもう一度小さな声で言った。
「僕、達彦さんのことが好きだ……」
見つめ合う瞳の中に、それぞれの想いが宿っている。
「本当だよ。僕、達彦さんがフミさんと一緒にここに挨拶に来た時から、達彦さんのことが、好きで好きでたまらなくなっちゃってて――」
そう口にした純の顔が、みるみる赤く染まった。
「あ……僕ったら、なにを……」
緊張の糸が、これ以上ないというほどに張りつめ、瞬きの音すらも聞こえてきそうな静寂がふたりをつつみこんだ。
その次の瞬間、騒々しい足音が二階の階段から聞こえてきた。それまでの静けさが、嘘のように破られ、どすどすという鈍い音とともに、光樹の甘ったるい声が聞こえてくる。
「もぉ~、降ろしてよぉ」
見ると、雄也がちょうど階段の下に下り立ったところだ。その右肩には、捕らえられた獲物と化した光樹が、だらりとぶら下がっている。くいと顔を上げた光樹は、やや恥ずかしげに達彦を見たかと思うと、純の方を向いてペロリと舌を出していたずらっぽく笑った。
「邪魔したな、純。実はちょっとした行き違いがあってな──」
「雄也ったら、僕が生徒のお父さんと話してるのを、勝手に浮気だと勘違いしちゃったんだ。ひどいんだよ。いきなり追いかけてきて、怖い顔で質問攻め。怒った時の雄也って、まるで仁王像みたいだ。そりゃ逃げ出すよね」
光樹が横から口を挟む。雄也は、空いている方の手で、悠然と髪の毛を整えている。
「誤解だって言ってるのに、ぜんぜん聞いてくれないんだもの。いっつもこう。僕が男の人とすれ違うだけで、やきもち焼くんだから参っちゃうよ」
不平を言う光樹の尻を、雄也の掌が撫でる。
「おかげでとことん拗ねられてな。いつもより降りてくるの早かったろ? だってこいつ、キスだけで寸止めしやがるんだぜ。ひどすぎるよなぁ? だから、場所を変えてじっくり可愛がってやろうと思って」
さっきとはうって変って上機嫌の雄也は、光樹をひょいと肩の上で弾ませ、もう一度しっかりとその身体を抱え直した。
「降ろしてってば! このままマンションまで行くつもり? もう……恥ずかしいから降ろしてよぅ。そこら中で評判になっちゃうぅ……」
光樹は軽く抵抗して見せながらも、雄也の腰のあたりで指先を遊ばせている。
「別にいいだろ。どうせもう評判になってるじゃないか。達彦、騒がしくして悪かったな。この店は今みたいに常連が遠慮なしに入ってくるから、今から純をどうにかするつもりなら、入り口の鍵は閉めといた方がいいぜ?」
「雄也っ!」
純が雄也を睨みつけたと同時に、光樹がはしゃいだように雄也の腿をパシンと叩いた。
「じゃあな、おふたりさん。また夜にでも顔を出すよ」
そう言って軽く手を振った雄也は、光樹を肩にのせたまま颯爽と店の外へと出て行ってしまった。
(もうっ!)
どうしていいかわからないまま、純は厨房をせわしなく動き回る。さっきの告白を聞いて、達彦はどう思っただろうか?
いきなり好きだなんて言ってしまった。思い返すと、恥ずかしくてこの場から逃げ出したくなる。
それに加えて、雄也のあの言い草。
(達彦さん、呆れたんじゃないかな? 明日からどんな顔して達彦さんのお店に行けばいいんだ? もしかして、もう来ないでくれって言われたらどうしよう。っていうか、今――)
純は、店で出す料理の下ごしらえをしながら、あれこれと言うべき言葉を探していた。だけど、結局なにも言えないまま、時間ばかりがすぎていく。
皿を洗う水音が、店の中に響き渡る。こんな時に限って、妙に店の外が静かだ。いろいろと考えているうち、ますます胸が苦しくなって達彦がいるカウンターの方を、二度と見られないような気がする。俯いたままの純が何度目かのため息をついた時、達彦のいつもより柔らかな声が聞こえてきた。
「ごちそうさまでした」
見ると、出した料理はすべて綺麗になくなっている。
「今日もとても美味しかったです」
達彦の視線が、まだ伏し目がちな純のそれと出合って、ふんわりと混じり合った。その顔を見る限り、決して気を悪くしているふうには見えない。
「よかった……」
いつもどおりの返事を返して、差し出された空の皿を受け取る。心の動揺を悟られないように気をつけながら、思いついた言葉をそのまま口に出した。
「達彦さんがそう言ってくれるのが、一番嬉しい。朝、僕がお豆腐を買いに行って、昼前には達彦さんがここに来て僕の料理を食べてくれて……それがすごく嬉しいんだ。毎日が楽しくって、こんな時間がいつまでも続けばいいって思っ──」
皿を受け渡す指先がはっきりと重なり合う。
はっとして顔を上げた純の瞳を、達彦の瞳が待ち受けている。カウンター越しに、ふたりの視線が交錯した。見つめ合ううち、純の目から、つうっと一筋の涙が零れ落ちた。
「あ……」
純は慌てたように皿を流しの中に置いて、濡れた頬を掌で拭った。
「やだな……。どうしちゃったんだろ……」
懸命に誤魔化すけれど、零れ出た涙をなかったものにはできない。
「……僕、あまりたくさんのことを望まないようにしているんだ……。もしそれが叶わなければ、その分がっかりしちゃうだろ? だから、今ある幸せで充分だって思うようにしてる。……そう思わなきゃやっていけない時があるから。そういうのがあるってことを知ってるから……」
話せば話すほど、喉の奥に熱い塊が込み上げてくる。
「ふふっ、なに言ってるんだろうな。自分でも、よくわからない……。ごめんね、今日の僕、どうかしてる――」
「俺を、好いてくれているんですか?」
達彦の言葉に、純の心臓がどくりと跳ねる。
思い切って顔を上げると、達彦の視線が、ずっと自分に注がれたことに気づく。
「純さん」
達彦は、一瞬視線を入り口の方に流して、またすぐに純の方に顔を戻した。そして、そのまましばらくの間純を見つめてから、ごく低い、だけどはっきりとした声で言葉を継いだ。
「すみませんが、入り口の鍵を閉めてもらえませんか」
その言葉を聞いたとたん、純の全身は炎に包まれたように熱く震え始める。頷いたことは憶えている。だけど、厨房から出て入り口まで歩いたという記憶がない。気が付けば、引き戸の鍵を閉め、その場に立ち尽くしていた。その背中に、達彦の声が寄り添う。
「俺は二年半前にここへ来て、本当の意味では誰とも心を通わすことなく今までやってきました。祖母や雄也さんにすら、距離を置いて――。だけど、それでいいんだと思っていました。なのに、あなたは……。純さん、あなただけは――」
暖簾の縁を握る純の指が、微かに震えている。ふいに肩に手を置かれて、純の身体がそのまま達彦の方へと反転した。
「俺は、そうと気付かないうちに毎朝来るあなたのことを心待ちにするようになっていました」
振り向いた純の視線を、達彦の黒い瞳が捕らえる。
「祖母と話すあなたの声に耳を澄ませて、あなたの笑い声を聞きながら店の奥で横になって――」
純の肩を持つ達彦の掌に力がこもった。
「祖母が入院して、あなたとふたりきりでやり取りするようになって……、毎日少しだけ触れる指先が、すごく柔らかで温かくて」
純を見る達彦の視線が、ついと横に逸れた。
「俺は小さいころから異性に興味がもてなかった。自分が普通とは違うと自覚したのは、中学一年のころです」
達彦の告白に、純の心臓が跳ねた。まさか、彼が自分と同じ性癖を持っていたとは――。だからといって、達彦が自分と同じ気持ちでいるということにはならないけれど。
「どうしていいかわからなかった俺は、母に相談して……。母は戸惑いながらも、俺を理解しようと努力してくれました」
純は、昔会った達彦の母のことを思い出した。
「いつも達彦と遊んでくれてありがとう」
そう言って、純の頬をやさしく撫でてくれたことが思い出されて、胸が詰まる。
「それは、俺と母だけの秘密だった。だけど、ある時俺が同性愛者であることが父にばれてしまったんです」
純の背後にある店の暖簾に、桜の花びらが描いてある。その儚げな色合いと純の唇の色を見比べ、達彦はまた言葉を繋ぐ。
「厳格な父は、激怒しました。俺を責め、ひどい言葉を浴びせかけてきました。そして、そうと知りながら黙っていた母のことも責めてなじって――」
その後、稔は仕事が忙しいと言って家を空けることが多くなった。そんな中、達彦は当初の予定どおり、他県にある進学校を目指し勉強に没頭する。そして、見事希望の高校に合格すると同時に、家を出て高校の寮に入ったのだ。
「高校の三年間、俺は一度も家に帰りませんでした。表向きは勉強が忙しいという理由で。本当は、ただ単に家に帰るのが嫌だったんです。父は相変わらず家を空けてばかりいたようでしたけど、その家にひとりぼっちでいる母を見るのも辛くて……。今思えば、とんでもなく卑怯なまねをしていました」
達彦は純の肩から手を離すと、一歩後ろに後ずさった。
一家の住まいは、東京近郊にあるファミリー向けのマンションだ。しかし、周りに新しくマンションが乱立したせいか、全戸埋まっているわけではなく、ところどころ空いている部屋もある。自治会はあるが、活動はあまりしておらず、隣近所の交流もあいさつ程度だ。
「希望していた大学に合格して、俺は一度家に帰りました。まさに、三年ぶりでした。……そして、その間に、母はすっかり壊れてしまっていたんです」
家に帰り着いた達彦は、リビングの椅子に座っている初枝を見て、愕然としたという。その顔にはまるで生気がなく、三年前に比べて明らかに痩せ細っていた。達彦の顔を見ても「おかえり」とひとこと言ったきり、薄い反応しか示さない。冷蔵庫の中は、生鮮品はひとつもなく、あるのは冷凍食品と賞味期限がすぎた惣菜だけ。部屋の中は片付いていたが、リビングとキッチンの一部を除けば、驚くほど生活臭がない。
焦った達彦は、母親に対して、いったいどんな生活をしているのかと質問をぶつけた。その結果、
達彦が家を出てから、稔はより一層家に寄りつかなくなっていることが判明する。どうやらよそに部屋を借りている様子で、家に帰ってくるのは必要だと思われる郵便物を取りに来る時のみ。その際も、ほとんど会話することもなければ、目を合わせることもないという。
達彦が帰宅してしばらく経つと、初枝はいくぶん元気を取り戻した。そして、それまで語ったことがなかった自分の生い立ちについて話し始めたのだ。
「母は言いました。自分は生まれつき家族の縁が薄く、物心ついたころには、すでに両親は離婚していてそれぞれに行方知れず。高校までは父方の親戚の家で暮らしていたけれど、いろいろあってそこも飛びだして、それ以来、自分ひとりだけで生きてきたと……」
社会人になり、同じ会社の本社勤務をしている稔と出会った。真面目で実直な彼は、大人しく飾り気のない初枝を見初め、ふたりはすぐに恋人同士になる。天涯孤独だった初枝は、稔の求婚を受け入れ、結婚した。
「だけど、元来仕事人間だった父は、すぐに家庭を顧みなくなったようです。今思えば、本当に形ばかりの家族だった――。父は、もともとそういう男でした。すべてにおいて、仕事が優先なんです。俺が子供だったころ、一度も学校の行事に顔を見せたことはありません。誕生日はいつも母とふたりで祝ったし、クリスマスのケーキだって――」
そこまで言うと、達彦は不意に口を噤んだ。そして、眉間に深い皺を刻むと、自分を見る純に視線を合わせ、苦しそうに顔を歪める。
「すみません、こんな話をして……」
そう言った達彦の顔には、後悔の色がありありと浮かんでいる。
「恥ずかしいです。……俺なんかより、純さんはもっと――」
「ううん、そんなことない」
純は、慌てたように首を振った。
「人って、見た目だけじゃわからないことあるよね。幸せそうに見えても、心の中に苦しみを抱えている人はたくさんいる。僕は自分のことを幸せだと思ってるよ。両親が亡くなった後も、おばあさんがいてくれたし、フミさんや商店街の人たちだっていてくれた。今だって、こうして達彦さんがいてくれるし――」
はにかんだように下を向く純の髪が、さらりと頬をかすめる。
「純さん……。俺も、純さんとこうしていられることを、幸せに思っています」
達彦の言葉を聞き、純は嬉しそうに顔を上げた。
「ありがとう……。そう言ってもらえて嬉しいよ。僕、達彦さんのお母さんのこと、今でも憶えてるよ。とても優しい目をした人だったよね。色が白くて――」
純に促されて、達彦はまた話し始める。
「母は、父の中に自分と似たところを見つけたんだと言っていました。頑固なほど真面目で、融通が利かないところ――、それを承知の上で結婚したし、そんな父に惹かれもした、と。だけど、結婚イコール幸せではないことをすぐに悟った。似通っているだけでは、理想的な夫婦にはなれない。むしろ、真逆の性質を持った者同士の方が、うまくいったかもしれないと思うようになったそうです」
似た者同士のふたりは、大きな喧嘩こそしないものの、徐々に必要最低限の会話しかしなくなっていった。そして、ろくに会話もないまま、ともにすごす時間は減っていった。それでも、表向きは滞りなく夫婦関係は続いていく。
「母は、結婚することによって、長く求めていた家庭と安定した生活を得ることができた。父は、会社で出世していく上で、結婚が必要だと理解していた。ふたりの結婚は、互いの利害が一致していたからこそのものだった――。母は、父が自分たちの結婚を、そんなふうに考えていると思っていました」
夫が家に寄りつかず、息子も不在という生活の中、初枝はいったいどんな気持ちで毎日をすごしていたのだろうか。
「父は、母に働きに出ることを許さなかった。生活費は十分にあるんだから、そんな必要はないだろう、と。それでいて、自分はまともに家に帰らない。母は孤独だった……。俺はそれを知りながら、父と同じように、家に寄りつこうとしなかったんです。――そして母は、俺が大学二年生の夏に旅先で亡くなったんです。増水した川に、わざわざ出かけていって……溺死でした」
「えっ……」
立っている達彦の身体が、ゆらりと揺れた。その顔に浮かんでいる苦悶の表情が、彼の母の死が、どういう意味合いのものだったかを物語っている。
「母は、亡くなる二週間前に、俺に電話をかけてきたんです。特に急ぎの用事でもない様子だったし、俺は適当に相槌を打つだけで、自分から話を振ることもなく電話を切ってしまった。電話を受けた時、ちょうど部屋に人が来ていて――。俺は、ゆきずりの男と一緒にいたんです。そして、その男と、早くことを始めたくてしかたがなかった。俺は、最低の息子です――」
自分に向けた憎悪が、達彦の顔を歪ませている。達彦の視線が、純の瞳を捕えた。ふたりは、見つめ合ったまま、身じろぎもしないでいる。
「俺がもっと頻繁に家に帰っていれば、母は亡くならずに済んだかもしれない。同性愛者であることを言わなければ、父もあそこまで母をないがしろにすることはなかったでしょう。時期的に考えても、俺の性癖がばれてから、父は家を空けるようになった……なにもかも、俺のせいなんです。俺が家族を崩壊させ、母をあそこまで追いつめてしまった」
近づこうとする純を、達彦が制する。遠くで自転車のベルの音が聞こえた。店の中は、暖簾越しの外光が作る薄明りに包まれている。
「母が亡くなってから、俺はそれまでの自分をすっぱりと切り捨てることにしました。もう、誰とも深く係わらない。その場しのぎの快楽を求めることもしなくなった。当然です……俺のせいで母は――。俺は、死んでしまった母を弔う為、一生ひとりで生きて行こうと決めました」
「そんな……」
「俺が母を殺したんです。母はきっと悩み抜いて……。母が死んだのは俺がこんな人間だからだ。俺は一生幸せになる資格なんかない……。人に愛されることなんか、望んじゃいけない人間なんです――」
達彦が、今にもどこか遠くへ行ってしまいそうで、純はそれまでにないほどの大胆さで、達彦に駆け寄り、腕に縋り付いた。
「達彦さん、そんなことない! 達彦さんは、幸せになる資格がある――人に愛されていい人だよ! 僕もフミさんも、ここにいる人みんな、そう思ってるよ」
純の掌が達彦の背中に回った。細い腕に徐々に力が籠められ、ふたりの身体がぴったりと寄り添う。純の耳に、達彦の心臓の音が伝わる。その音に促されて、純は心の奥にしまっていた自分の過去のことを話し始めた。
「僕はもともと恋愛に疎い方で……。自分のことに気付いたのは、ずいぶん経ってからだった」
純は、自分が同性愛だと気付いた時のことを話し始める。それは、彼が高校を卒業した後のことだったという。
「周りにいる男女のカップルを見て、思ったんだ。女性を友達と思うことはできても、恋人だと思うことはできないって。同性とそうなることは想像できても、異性となると想像すらできない。そんな自分が、長いこと受け入れられなかった。どこかおかしいんじゃないかって、本気で悩んだこともあったよ」
純の腕にほんの少し力が入った。そうやって達彦にしがみついていなければ、足元が崩れそうに感じたから。
「だけど、雄也が光樹を見ても、なんの違和感もなかった。彼らみたいな生き方もあるんだって思えたし、仲がいいふたりを見て、微笑ましいとも思った。でも自分のこととなると……。どうしていいかわからなかった。誰かに人としての魅力を感じても、恋愛に発展することはなかった。好きだと言ってもらうことはあっても、それを受け入れることはできなかったんだ。そんな自分のこと、欠陥品だと思っていた……」
ふたりの心臓が、同じリズムを刻む。裏にある公園の方から、小さな子供たちの声が微かに聞こえてくる。
「だから、一生このまま誰とも恋愛せずに生きていこうと思っていた。愛することはできても、恋愛はできない――。自分をそんなふうに理解して、それでもいいと思っていた。だけど、達彦さんに再会して、初めて心から恋しくて、愛しいと思う人を見つけることができたんだよ」
達彦の胸に当たる純の耳たぶが、燃えるように熱い。
「ねぇ、達彦さん……。達彦さんが苦しいなら、僕がそれを全部もらうよ。僕が代わりになる……。だからそんな悲しい顔しないで……。僕は、達彦さんに幸せになってほしいんだ。だって、達彦さんは僕を幸せにしてくれているから――。達彦さんがこの町にいてくれるだけでそう思える。ね? それだけでも、達彦さんは幸せになっていい人間だってことになるでしょ?」
「純さん……」
抱きしめられる達彦の身体に、純の体温が伝わっていく。
「それに……僕はもうずっと前から達彦さんを愛してるよ。達彦さんが望まなくても、僕は――。
愛されることを望まなくても、僕が愛してるよ。……だからって、僕の気持ちに応えて欲しいとは言わない。だけど、ここにいて……。この町で、一緒に生きていこうよ。どこにも行かないで……お願い……」
達彦は、純の腕の中で安らいでいく自分を感じた。純の無償の愛は、達彦の乾いた心をしっとりと潤わせる。達彦の腕が、純の身体に回った。そして、心の奥から聞こえてくるような声で「すみません」と言った。
「どうして謝るの?」
純が消え入りそうに細い声で尋ねる。達彦は、純の潤んだ瞳を目にして、即座に首を横に振った。
「俺がすみませんと言ったのは、あなたに対して、俺がとってきた行動に対して、です。すみませんでした。――もっと早く、あなたとこうしていればよかったのに」
達彦の声から、純は静かな熱情を感じ取った。店の外から、行き交う人の声が微かに聞こえてくる。達彦は、純の目蓋にゆっくりと指先を滑らせていく。そして、純が素直に目を閉じた時、ふたりの唇は、静かに重なり合ったのだった。
店の入り口を入ると、左手に細い階段が二階へと続いている。階段を上り切った先には、時折町内の集まりや雄也らの密会場にもなる六畳間がある。その奥には、四畳半とやや広い八畳間があり、そこが普段純がすごす生活の場だ。午後十二時を少しすぎた今の時間は、窓を閉めても街路の賑わいが微かに聞こえてくる。達彦が二階に上がって行った時、純は真新しいシーツに包まれた敷布団の上に、俯いた姿勢で正座していた。
「布団を敷いてもらえますか? あなたをいい加減には抱きたくないんです」
達彦が、口づける唇をほんの少し離す合間に、純にそう囁いたからだ。外は、少し雲が広がって来たのか、灯りを消したままの室内には日蔭を思わせる光しか入ってこない。着替えたての純の白いシャツが、青白く浮いて見える。階段を上ってきた達彦の気配に、純は全身がカッと火照るのを感じた。俯く純の視界の端で、達彦の肌が徐々に露わになっていく。まともに見ることはできないけれど、気配だけで、硬く引き締まった身体を感じ取ることができる。
布団の上で消え入りそうになってはじらっている純を前に、達彦は小さな声でもう一度「すみません」と言った。
「俺はあなたを俺の方へ引っ張ろうとしている。あなたの優しさに、甘えようとしている。俺がいる闇の中にあなたを――。それだけは、しちゃいけないと思っていたのに……」
座っている純の肩に、達彦の指先が触れる。ゆっくりと振り返った純の瞳に、達彦の逞しい肢体が映った。抱き寄せられ、ふたりの視線が互いから数センチの距離で絡み、溶け合う。
「達彦さん、もう僕に謝らないで……。僕は、もう達彦さんと同じ場所にいる。ずっと一緒にいる。そうすることで僕は幸せでいられるんだ」
囁く純の唇を、達彦の口づけが柔らかに封じた。唇を合わせ見つめ合うふたりは、しばらくの間ただ黙ったままお互いの熱を感じ合った。
まだ口づけに慣れていない純にとっては、息を継ぐことすらままならない。達彦は、そんな純の唇を、途切れ途切れに解放してやる。そんなことを繰り返すうち、少しずつ呼吸が楽にできるようになっていく。そうは言っても、心臓は破裂しそうだし、今こうしている瞬間が、夢ではないかと疑いたくなるほどだ。
羞恥に目を伏せた純は、木の葉のように荒れた達彦の唇を見つめた。そして、戸惑いながら、その上に指先を触れさせた。
「冬の間、達彦さんの唇がひび割れてるの、ずっと気になってた。後でリップクリームを塗ってあげるよ」
「すみません。痛かったですか?」
達彦の言葉に、純は繰り返し首を横に振った。
「ううん、ちっとも。少しちくちくするけど、平気……。僕、いつも思ってたんだ……。達彦さんの唇に触れたい……。乾いている達彦さんの唇に……キス、したいって……」
達彦の視線に誘われるように、純は目を閉じて達彦の唇に自分の唇を添わせた。達彦の舌が、純の控えめな舌先を誘う。ふたりの舌が絡み合い、交じりあった唾液が、互いの唇を熱く濡らしていく。繰り返される口づけの合間に、純が甘やかな吐息を漏らし始める。達彦の手が、純の身体の上を、探るように滑っていく。
「は……ぁっ……、ぁ……んっ……、ん……」
唇を噛みしめ、零れそうになる声を必死に抑え込む。そうするために押し付けた唇が、一層欲望をかき立て、荒い息づかいへと繋がっていく。
「服を、脱いでもらえますか」
達彦の直接的な言葉。それを聞いて、純は操られたように指をシャツのボタンにかけた。達彦は、そんな純の姿を、みじろぎもせず見つめいている。火照る指先でシャツの前をはだけていくと、それを追うようにして達彦の唇が純の肌の上を滑った。
「ぁ……っ……」
とたんに純の身体は桜色に染まり、初めての愛撫に柔らかな肌はふつふつと粟立つ。倒れ込むふたりの身体が、ひとつになって真っ白なシーツの上で重なり合う。達彦は、胸元を隠す純の腕をそっと布団の上に押さえ込んだ。そして、桜色の胸の尖りを、唇の中にちゅっと含んだ。
とたんに浮き上がった純の背中が、布団の上で緩やかなアーチを描いた。声を出すことを恥じているのか、純は与えられる刺激に、じっと唇を噛んで耐え忍んでいる。途切れ途切れに吐息を漏らす唇と、きつくシーツを掴む細い指先。固く角ぐんだ胸の先を舌先で弾くと、純は息を途切れさせて声を漏らした。
「あ……、っ……ん、……は……ぁっ……」
じんわりと涙ぐむ瞳が、達彦の視線を捕えた。口づけをされた後、首筋を愛撫される。黒髪の先が肌の上を滑るだけで、叫びだしたいほどに感じる。達彦と裸で抱き合っているという事実だけで、もう呼吸が永遠に止まりそうだ。
「声、そんなに我慢しないで……。息が詰まって、気を失ってしまいますから」
「う、ん……っ……、ぅく、ぁ……っ……」
純の唇から、甘い吐息が零れる。うっとりと目を閉じていると、達彦の舌が鎖骨の上を巡り、そのまま下りていって、桜色の乳暈を捕えた。そこを硬い歯列でこそげられ、大きく身を捩り、シーツをきつく掴む。胸を吸われるということが、こんなにも官能的なことだなんて。ほんの小さな豆粒ほどの部位が、これほどの快楽を生み出すとは――。
純の細い腰に、達彦の口づけが降り注いだ。それとともに、身に着けていたものが全て布団の外に押しやられる。達彦を想うたび、抑えようもない衝動が純の身体を焦がしてきた。男同士が身体を交わらせることについては、日頃雄也からたっぷりと聞かされている。これから何が行われて、どんな風になるのか。それを思うだけで純の胸は極限まで高鳴り、全身が震える。達彦の割れた唇が、純の下腹を伝う。その先には、純の慎ましく勃起した屹立があった。
達彦の唇が、桜色をした亀頭を咥える。
「あっ……! あああ……、た……つひこさ……っ、あぁんっ……ぅんっ……!」
歯を噛みしめているのに、吐息は容易に唇の先から漏れ出てしまう。じゅっと先を吸われ、舌が茎幹に絡む。
「ひ、あっ……」
純は、必死になって身を起こそうとする。だけど、先に起き上がった達彦に組み敷かれて、あっけなく押し戻されてしまう。達彦の手が、純の太ももを左右に押し開いた。脚の間に、達彦の息づかいを感じる。あまりの羞恥に腰を上に逃がすと、達彦は、おもむろに純の太腿を押し上げ、後孔の窄まりに舌先を這わせた。
「あッ、達彦さ……、そんな……汚い……とこっ」
身を捩って逃げようとする純を、達彦の手が押し留める。
「あなたの中で、汚いところなんてひとつもないです」
達彦は、尖らせた舌先を窄まりの中へゆっくりと滑り込ませた。驚いたそこは、固く閉じて達彦の舌をきゅうきゅうと締めつけ始める。
「は……っ……、はあっ、ああぁっ……、は……ぅんっ……」
零れ出る純の吐息は、不規則に乱れ、身体は緊張のあまり小刻みに震えている。舌にほぐされ、唾液で濡れそぼった後孔に、達彦の指先が滑り込んだ。
「あぁっ! あ、あ……」
「息をゆっくりと吐いて……。力を抜いて下さい」
達彦の柔らかな声音。しなやかに蠢く指と熱い舌先。とてつもない違和感と、それを凌駕するほどの期待と悦び。達彦に抱かれるという事実が、純を糖蜜のようにとろかせている。痛みすら愛おしい。ゆっくりとほぐされたそこは、少しずつ緊張を解いていく。くちゅくちゅという水音と、太ももの内側にされる口づけの音が交錯する。
「純さん、こんなことをするのは──俺が最初ですか?」
おもむろに身を起こした達彦は、唇を純の耳朶に触れさせて囁く。
「うん……」
純がこっくりと頷く。唇から漏れる呼気は短く、脈拍は逃げ惑う小鳥のように乱れている。
「なるべく痛くないようにします。もし耐えられないようなら、すぐに言ってください」
「わかった……。ぁ……、あっ……は……、ぁっ……」
純は、声を上げながら達彦の愛撫に神経を集中させた。達彦は、指の腹で純の内壁をゆっくりと探る。それと同時に、指の数を増やし、純の後孔を徐々に押し広げ始めた。
純の息が止まりそうになるたび、達彦は純の胸の先を吸って呼気を取り戻してやる。
「は……ぁ、ああっ! あぁんっ!」
純の唇から、甘えたような嬌声が零れ落ちた。まるで、女性が上げる声のようだ。恥じ入って身を捩ると、達彦の指がそれに追随するように中を抉った。純の桜色の亀頭に、達彦の舌先が這う。
次の瞬間、屹立を暖かな口腔の中に取り込まれる。ゆるゆるとした抽送を感じて、純は大きく目を見開き、全身をびくりと硬直させた。
「達彦さ……、あ、僕……っ……もう……」
快楽の越流を迎えて、純の性器からとぷりと白い蜜がほとばしった。純の身体から、がっくりと力が抜ける。頬を紅潮させた純は、細い指で達彦の背中を掻く。慎ましく震えている純の性器を、達彦の掌がそっと捕らえた。唇が桜色の尖端を取り込み、しとどに濡れたそれを丁寧に舐めはじめる。
「ぁ、だめ……っ、ぁっ……あ……んっ……」
羞恥に潤む純の瞳が、瞬いて涙を零した。後孔の中に、達彦のごつごつとした指を感じている。
いつの間にそうなったのだろうか。最初こそ硬く緊張していたそこは、今や達彦の指を嚥下するように収縮を繰り返している。
「た……達彦さん……、ぁ……ぁあ……ん……っ、達彦さ……」
純が、達彦の名を繰り返し呼ぶ。達彦は、上体を起こして純の上にのしかかっていく。唇が重なり、膝立てた純の脚の間に、達彦の固く張りつめた茎幹が触れた。それは、純が息を飲むほど大きく、自身の腹筋を突き破らんばかりに勃起している。
「怖くありませんか?」
「ううん、ちっとも……。だって、達彦さんだから……。達彦さんとなら、こうなりたいって……。気がついたら、そんなふうに思ってたんだよ……」
返事をする声が、明らかに震えている。怖くないと言ったら、嘘になる。それでも、達彦と愛し合いたい。初めて身体を開くというのに、恐れよりも喜びの方がはるかに勝っている。抱き合ってひとつに融け合いたい。達彦の全部が欲しい。彼に自分のすべてを捧げたい――。
純は、くいと顎を上向けて達彦に口づけ、火照った掌を達彦の背中に絡めた。達彦の舌先が、純の唇の奥へと入り込んでくる。純は、夢中でそれに吸いつき、達彦の身体を両脚できつく挟み込んだ。口づけが熱を帯びて、呼吸もままならなくなる。達彦の荒い息づかいが、純の身体の芯を熱く焦がしていく。触れあった二つの猛りが、互いの滴りをまとってぬらぬらとぬめる。すすり泣きのような吐息が、達彦の胸の奥に染み入る。ひんやりとした布団の中が、お互いの身体が発する熱で質感を変えるまでになったその時──。
達彦は、純の身体を自分の胸の下にしっかりと抱え込んだ。達彦がほんの少し身体を沈める。それと同時に、純の足先が達彦の腰の上で絡み合った。熱く濡れた尖端が、純の窄まりをゆっくりとほぐしていく。ほんの僅かそこを押し広げては、太腿を擦り上げる。強ばっていた純の身体は不思議なほどほぐれて、そこはもうひくひくと蠢いて達彦の侵入を待ち望んでいるみたいだ。
「……純さん、あなたを抱く前に、言わなくちゃいけない。俺はあなたを、心から愛しいと思っています」
「達彦さんっ……」
達彦が純の身体をすくい上げるほんの一瞬手前に、純は達彦の切っ先に向かって、自らの身体を沈み込ませた。
「あああっ! あっ、あぁあっ……!」
純の指が、達彦の背中に食い込む。達彦は、純の身体をぐいと押し上げ、そろそろと、だけど着実に純の身体の中に自らの屹立を咥え込ませていく。純の細い身体が、達彦の胸の下で小刻みに震える。きつく締め付けられ、達彦は吐息を漏らし、低く呻いた。
「達……彦さ……ん、ぁ……、あ……んっ」
ゆっくりと揺れる達彦の腰の動きが、純の全身を揺らめかせる。瞬きを忘れた純の瞳から、熱い涙が溢れた。緩く開いた口角からは、唾液が細く伝っている。
「痛くありませんか……?」
「ううん……。すごく、嬉し……い。痛く……っても、平気……。僕、もっと達彦さんを……感じたい……ぁ、ん……、ん、ぁ……」
達彦を根元まで取り込んだ純の身体は、悦びのあまりその内壁を不随意にひくつかせている。達彦の顔が恍惚に歪んで、抑えていた腰の動きが、徐々に激しくなる。
「達彦さん……、愛してる……。たつ……ひこさん、ぁっ……! も……っとっ……」
深く浅く突かれて、純は達彦の下で全身を揺らめかせた。
「純さん、愛してます……。あなたの、全部が欲しい。俺を全部受け入れてください――」
ずきりとした痛みが全身を貫き、息が止まりそうなほどの圧迫感が純の内奥を席巻する。身体の中で、達彦のものが質量を増す。それをすべて呑み込んだ純の身体は、悦びに震え、余すところなく濃い桜色に染まっている。
「ぁっ……! あ……、たつひこさん……嬉し……ああああっ!」
純が自らの腹の上に吐精すると同時に、達彦のものが純の中で力強く脈打つ。達彦の口づけを受けながら、純は何度も喉の奥で叫び、嗚咽を漏らした。そして、抑えきれない絶叫が喉元を通りすぎる前に、目の前の達彦の肩を悦楽の涙とともにきつく噛んだ。
※ ※ ※
純と達彦が睦み合った次の日の朝。午前中の配達を終えた達彦は、いつものように居間の入り口に座って物思いにふけっていた。
その肩を、いきなり強く引っ叩く大きな掌。顔を上げると、そこにいるのは予想した通りの背の高い美丈夫、雄也だ。
「あぁ、雄也さん、いらっしゃい」
いつもと違うラフな格好の雄也が、魅惑的な笑みを浮かべて達彦の目の前に立ちはだかる。それは、雄也の言うところの、たっぷりと充電を済ませた時の彼そのものの姿だ。
「よう! 昨日はどうだった? 俺ら、あれからどうにもこうにも忙しくて、「風花」に戻る時間がなくなったんだよ。で? おまえらはどうした? 店の鍵、ちゃんと閉めたんだろうな?」
雄也は、座っている達彦の横に無理矢理腰を押し込み、彼の顔を下から見上げるようにして覗き込んだ。
「内緒です」
横を向き、口元を引きつらせる達彦を見て、雄也はしたり顔で頷く。
「へえ……、内緒ねぇ。くくっ……、まぁいい。その顔を見りゃあわかるよ。どうだった? 純のやつ、大丈夫だったか? あいつ、初めてだったろ。おまえ、ちゃんと優しくしてやったか?」
雄也は、達彦の肩をぐいと抱き寄せて耳元で囁く。
「昨日見せてやった俺らの痴話喧嘩も、少しはおまえらを焚きつける役に立ったろ? もっとも、おまえらの純情恋愛劇も、俺らにとっていいスパイスになってくれたけどな」
雄也が、達彦の背中をポンと叩いた。見ると、達彦の手元には白地に桜模様のハンカチが握られている。
「ん? それ、純のか?」
雄也の手が、達彦の手からくしゃくしゃになったハンカチを奪い取った。
「なんだ、血が付いてるじゃないか。まさか、純のヴァージンの証か? それとも、純がおまえの背中でも派手に引っ掻いたか」
達彦は黙って雄也からハンカチを奪い返すと、着ていたシャツの肩を引き下げ、赤い歯型のついた左肩を晒した。
「へぇ! あいつ、噛み癖があったのか! そりゃ、ご馳走様。さぞかし濃厚な時間をすごしたんだろうな? おい! 昨日のこと、一から十まで教えろ。純、大丈夫だったか? なにしろおまえのここ、外からわかるほどでかいからなぁ!」
雄也は、そう言いながら達彦の股間をいきなりギュッと握りしめた。
「痛っ! 何するんです! 光樹さんに言いつけますよ。それに雄也さん、こんな所で油売っててもいいんですか? 店に出る前はいつもひと眠りするって言ってたじゃないですか」
「心配しなくても今日は休みだ。さっき光樹から電話があってな。そこの「エリザ」で純と話し込んでるらしいぞ。今頃根掘り葉掘り昨日のことを聞きだしてるだろうな。光樹のやつ、純の恋が実ったことが嬉しくてしかたないんだ」
「エリザ」とは、白石豆腐店から五軒ほど先にある老舗喫茶店だ。コーヒーとサンドイッチが美味しい店で、今は史郎(しろう)という純の同級生が店を守っている。
「俺、光樹にだけは弱いんだよなぁ。あいつの言うことなら、何でも聞いてやりたくなる。あのピンク色のケツ……。あれを思うと、頭ン中がエロいことでいっぱいになるんだ」
でれでれとにやける雄也を見ながら、達彦は、ふと自分の口元に微笑みが浮かんでいることに気付いた。
「おまえ、今夜は純の店に行くか? 店を早めに切り上げて、二階で一緒に飲もうぜ。そうだ、ついでに史郎も誘うか。見張り役がいないと、おまえと純、飲みながらいきなりいやらしいことをおっぱじめかねないしなぁ」
雄也は笑い、達彦の腕をひじで強く小突いた。
「なっ……おっぱじめるのは、雄也さん達の方でしょう!」
達彦は、思わず声を張り上げた自分にはっとして口を噤む。そして、雄也の口調がうつってしまったことに気づいて、赤面した。それを見た雄也は、可笑しそうに笑いながら達彦の肩を抱いてぐらぐらと揺すった。
「おまえも、やっとこの町に馴染んだって感じか? 純のおかげで、地に足がついたろ。さてと、俺はこれからエリザに行って光樹を拾いに行く。おまえも純を迎えに行ったらどうだ? あいつの腰、おまえのせいできっと鉛みたいに重い筈だぞ」
その通りだった。昨日達彦に抱かれてから、純は立ちあがるのもひどく辛そうにしていたのだ。
それでも何とか夕方から店を開いて、今朝はいつもどおり豆腐を買いに来てくれた。言葉に尽くせない想いが、達彦の胸に込み上げてきている。純を想うと、全身が喜びで震えるほどだ。
雄也は、おもむろに立ちあがって、達彦の肩の傷をちょんとつついた。
「行くだろ?」
「はい」
達彦は頷き、今朝口づけをした時の純の顔を思い浮かべる。
「なに、にやついてるんだ。このドスケベ」
「ドスケベはどっちですか!」
達彦は、雄也の肩に軽く拳を当てた。雄也が、嬉しそうに笑う。ふたりは、どちらともなく肩を組み、ともに入り口のシャッターをくぐり抜けた。
それからしばらく経った週末の午後。達彦と純は、ふたりそろってフミの見舞いに行った。フミのベッドは、三つ並ぶうちの一番奥。同室のふたりは散歩中で、今部屋にいるのは自分たちだけ。
窓の外には、四月の暖かな陽光が溢れている。
「聞いたよ。ふたりは恋人同士になったんだって?」
いきなりそんな言葉で迎えられて、達彦と純はひとしきり驚き慌てた。聞けば、午前中にやってきた雄也が、ふたりに関する今までのことをざっと説明して帰ったのだという。
「あんたたちのことだから、きっとなにをどう説明すればいいか思い悩んでるだろうからって。それにしても、よかった。あたしはね、そうなればいいなぁと思ってたんだよ。あんたたちみたいにぴったりなふたりは、そうはいないからねぇ」
あっけらかんとそう言ってのけるフミの顔には、嬉しそうな笑みが浮かんでいる。達彦は、純と顔を見合わせ、曖昧に微笑みを交わした。
「達彦。実はね、あたしはおまえがそうだってことは、ずいぶん前から知ってたんだよ」
「えっ……?」
純と並んで腰かけている達彦は、心底驚いた表情でフミの顔に見入った。
「初枝さんが、打ち明けてくれてね。あたしなら、きっとわかってくれるに違いないと思ったって。稔はあんなだから、到底達彦を理解しない。だけど、自分は達彦をわかってやりたい。少しでも味方になってやりたいってね」
「母さんが?」
「ああ、そうだよ。稔はまったく寄りつかなかったけど、初枝さんはたまに店にやって来て私と話し込んで帰っていったものだよ。いろんなことを話したねぇ。達彦のこと、稔の仕事のことや夫婦のこと。たわいない世間話もよくしたもんだよ……」
初枝は、達彦が思っていたよりも孤独ではなかった。そのことは、少しだけ達彦の心を軽くさせる。だけど、結果的に母親が死を選んだ事実は、変わることはないのだ。
達彦を見るフミの表情が、ふっと曇った。その気配を感じて、達彦もまた同じように膝に置いた指先を強ばらせる。
「初枝さんのことは、残念だった……。本当に――」
フミは、いったん視線を自分の皺だらけの手の上に落とした。そして、思い切ったように顔を上げ、話し始める。
「実は、昨日稔がここに来たんだよ」
「父さんがここに?」
達彦は、思わず声を上げた。父親とは、祖父の葬式以来会っていない。フミによれば、以前借りていた部屋はすでに解約して、今はもう自宅マンションに帰っているらしい。かつて初枝がひとりぼっちで暮らしていた場所に、今度は稔がたったひとりで住んでいるのだ。家族だった三人は、もう二度と同じ家に住むことはない。ひとり欠け、残された男ふたりも、今は完全に別々の道を歩んでいる。
「達彦、それに純ちゃん。これから話すことは、稔が私に話してくれたそのままのものだよ。もしかすると、聞いた後に聞かなきゃよかったと思うかもしれない。それに、これは稔側の話だ。それが本当か嘘か、判断するのは聞く側の自由だからね」
フミは、そう前置きを言ってから、訥々と語り始める。その内容は、およそ達彦が想像だにしなかった内容のものだ――。
稔は、社会的に成功するためにも、結婚して子を持つことを望んでいた。そして、その相手として、理想的な相手を探すことに注意を向ける。そして、ある日会社主催の研修で、支社に勤務する初枝と出会い、彼女を見初めたのだ。控えめで大人しい性格をした初枝は、理想的な花嫁に思えた。
実際にそうだったし、彼女が天涯孤独の身であることも結婚の追い風になったのだ。
稔は、初枝を身籠らせることはできたが、実質的にはほぼ不能だった。精子はあるし、勃起して挿入はできるが、それまでの過程に問題がある。準備万端の状態に持っていくには、自身のものを自らの手できつくしごかなければ勃起しない。
それを知られたくなかった稔は、初枝を抱くときはいつも彼女を後ろ向きにした。いわゆる背後位の姿勢で、毎月の排卵日を狙っての集中的な行為。そんな生活を送るうち、僅か二か月目にして初枝は妊娠する。もともと夫婦生活が嫌いだった稔は、肩の荷が下りたとばかりに、それきり初枝に触れなくなってしまう。そして、その訳を聞かれないようにするため、自然と初枝と顔を合わせるのを避けるようになった。理由も言わないまま中途半端に背を向けられ、家にひとりとり残された形になる。初枝は戸惑い、なにが原因でそうなったかを知ろうとする。しかしながら、夫はそれを避けるために家を空け、帰ってこない。事態はどんどん悪い方向に進んで、とうとう取り返しがつかないほど深い溝になってしまう。
自分を避け、触れようともしない稔に、初枝は不信感をいだくようになる。浮気を疑い、ひとり悶々とすごす中、少しずつ精神を病んでいったのだろう。
そんな生活の中、初枝はある場所で偶然高校の同級生と再会する。そこからは、なし崩しだった。
男は妻子ある単身赴任者であり、初枝は夫に打ち捨てられた女だ。ふたりは身体を合わせることで寂しさを埋め合い、そんなことを続けるうち、とうとう男側の妻に関係がばれてしまう。
「初枝さんは、先方の奥さんから慰謝料を請求されたそうだよ。その上、稔の会社にも事実関係をばらし、制裁を受けてもらうとも言われた。そうされたくなければ、それなりの誠意を見せろと迫られ、初枝さんは悩んだんだろうね……。悩みに悩み抜いた――」
旅に出る前、初枝は自分が起こした不始末の一部始終を、稔宛てに書き送っていた。そこには、家族に対する詫びの言葉も書き添えてあり、中でも達彦に向けたものが大半を占めていたという。
そして、稔は妻の不貞とその死を自分の中に抱え込んだまま、これまで生きてきたのだ。
「初枝さんが書いた手紙、稔から預かってるよ。あのバカ息子……。なんでそんなことになるまで……。馬鹿だよ、ほんと馬鹿だ。初枝さんも……どうしてそこまで思いつめてしまったのかねぇ」
「稔は、自分なりに初枝さんのことを愛していたと言っていた。いい夫婦になろうと、努力もしたとね」
だけど、そんな稔の気持ちは、初枝には伝わらずじまいだった。不能であるという負い目が、妻に背を向けることを選ばせ、結果的に初枝を孤独の中に溺れさせてしまったのだ。
「達彦さん……」
一部始終を聞き終えた純は、隣にいる達彦に寄り添った。達彦は、純と視線を合わせて、力強く頷いて見せる。そして、フミの方を顔を向けると、差し伸べられた彼女の手をとった。
「俺、一度父と話してみます。これまでのことやこれからのこと、家族のこと。そして、母のことを――」
フミはこっくりと頷き、初枝が書いた手紙を、達彦に託した。
「それがいいよ。人間、話さなきゃわからないことがたくさんある。話し合ってみるのが一番いい――そうすれば、なにかしら見つけることができるだろうから」
達彦の手が、純の肩に置かれた。純はこっくりと頷き、達彦の指にそっと指先を絡み合わせた。
※ ※ ※
それから一年の後。フミは無事リハビリを済ませて、店に復帰し達彦とともにまた豆腐作りに励んでいる。あれから一度実家を訪れた達彦は、稔とじっくりと話し合って、お互いの胸の内をすべてさらけ出した。
「おまえの選んだ道を尊重する」
最終的にそう言った稔は、今では定期的に実家を訪ねてくるようになり、そんな時は親子三代が顔を突き合わせ、昔話をしたりそれぞれの将来について語り合ったりするのだ。
達彦と純は、この春に「風花」の二階で一緒に暮らし始めた。それは、達彦と純のことを思ったフミの勧めでもある。フミをひとりにするのを躊躇したふたりだったが、フミは「商店街の中にいるんだから、一緒に住んでいるのと同じ」と、そんな心配を一笑に付してしまった。
四月になって最初の満月の夜、純がふと目を覚ますと、隣で眠っていたはずの達彦が見当たらない。枕元の時計を見ると、まだ午前一時をすぎたばかりだ。見ると、隣の六畳間から薄明かりが漏れている。起き上がった純は、明りの方へそろそろと足を進めた。
「達彦さん?」
襖を開けると、公園を臨む窓辺に、達彦が背中を向けて座っている。
「あぁ、起こしてしまいましたか?」
振り向いた達彦は、純を見て口元を綻ばせた。
「どうかしたの?」
「いえ、ちょっと水を飲みに下に降りたついでに、桜を見たくなって」
近づいてくる純の首筋に、いくつもの赤い口づけの痕が見える。達彦は、立ちあがって純の肩に腕を回した。奥の間に戻って、布団の上に向かい合って腰を下ろす。
「夢を見たんです」
純の身体をやんわりと抱き寄せ、達彦は低い声で話し始める。
「子供のころの夢でした。俺はひとりぼっちでそこの公園に座っていました。空は薄曇りで、聞こえるのはそよそよという風の音だけ。満開の桜の花がとても綺麗で……。しばらくすると、ブランコの向こうから小さい頃の純さんが走って来て」
「僕が?」
「ええ。あなたは舞い落ちる桜の花びらをまとって、嬉しそうに笑っていた。俺は、あなたと手を繋いで一緒に公園を走り回った。すごく楽しくて、笑いたくなった。俺が笑うと、純さんも笑いだして……」
達彦の掌が、純の頬を包む。純は自分の全部が達彦の手の中にあると感じている。
「純さん、俺に「幸せだね」って言ってくれたんです。俺に向かって、そう言って笑ってくれたんです」
純の顔が上向き、ふたりの唇が重なり合う。
長い口づけの後、抱き合ったまままた布団の上に横たわった。
「僕、幸せだよ。心からそう思うよ」
「俺もです」
純の睫毛が、寄り添った達彦の胸の上で嬉しそうに瞬く。
「あ、花びら……」
純が呟き、目の前にある薄い花びらをそっと指先で摘まんだ。
「さっき窓を開けた時に吹き込んできたんでしょう。公園の桜、週末には満開になりそうですね」
達彦は、差し出された花びらを受け取り、純の白い額に唇を寄せる。
「桜の花は、まるであなたみたいだ。優しくて、綺麗で……。俺の一番好きな花です」
見つめ合う純の目元が、ほんのりと桜色に色づく。一緒に住んでいるといっても、お互いに忙しくてなかなかゆっくりと抱き合うこともできないふたりだった。だけど、短い時間を大切に紡いでいくことに、ふたり共充分な幸福を感じている。お互いにはお互いがいるということ。それ以上欲しい物など何ひとつない。
「来年も再来年も、ずっと先の桜も、達彦さんと一緒に見たいな」
達彦は、頷くと同時に純の唇に口づけを落とした。達彦の瞳には、昔と同じ黒糖飴のようなきらめきが戻っている。季節が代わって、桜の花が散ってしまった後でも、その花の儚さとは違って、ふたりの愛は永遠に続くものに違いなかった。
おわり
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■主人公(受け)
名前:湊(みなと)
属性:Ω(オメガ)
年齢:17歳
性格:引っ込み思案でおとなしいが、内面は芯が強い。幼少期から体が弱く、他人に頼ることが多かったため、律に守られるのが当たり前になっている。
特徴:小柄で華奢。淡い茶髪で色白。表情はおだやかだが、感情が表に出やすい。
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属性:α(アルファ)
年齢:18歳
性格:独占欲が非常に強く、湊に対してのみ甘く、他人には冷たい。基本的に無表情だが、湊のこととなると感情的になる。
特徴:長身で整った顔立ち。黒髪でクールな雰囲気。幼少期に湊を助けたことをきっかけに執着心が芽生え、彼を「俺の番」と心に決めている。
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