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第三章

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 翌日からアレムのネイバリー語レッスンが始まった。ウィルエルは公務があるようで朝から出掛けて行った。残されたアレムはロイが見守る中、書斎のような部屋でネイバリー語講師の授業を受けていた。このネイバリー講師は眼鏡をかけた四十代くらいの男性で、顎が大きく顔が怖い。講師はカガニア語を話せないので、アレムは講師が何を言っているのか全く分からない。講師が教科書を指差して発言した後にアレムの方を見たら恐る恐る繰り返す、というのを続けていた。教科書は幼児が使うような大きな文字と大きな挿絵のある本だった。
 ネイバリー語は早口で抑揚が大きく、とにかく発音が難しい。最初に基本の音節の一覧から練習を始めたのだが、全くOKが出ない。カガニア語には存在しない発音がいくつもあり、どうやってその音を出すのか全然分からないのだ。ロイが隣で大きく口を開けて発音してみせてくれるが、アレムはさっぱり再現できない。講師はアレムが発音する度に眉を顰めて首を振るばかりだった。あまりに進まないので音節練習は一旦終了となった。単語の練習をすることになり、教科書に描いてあるイラストを見ながら単語を練習した。数字や動物からスタートしたが、アレムが発音するとやはり講師は顔を顰める。ロイはくすりと笑っている気がする。そんなに発音がひどいのだろうか。
「◼︎◼︎◼︎!」
 講師がパンッと手を打って何かを言うと、ロイがにこっと笑ってすかさず部屋から出て行った。そしてすぐにワゴンを押して戻ってきた。ワゴンにはお茶のセットと焼き菓子が乗っている。休憩か、とアレムはほっとした。講師とロイとアレムの三人でお茶を囲んだ。温かいお茶を飲むとほっと一息つく。アレムは基本的に勉強は好きだが外国語の勉強は初めてで、全く上達できる気がしない。初日からこれだけ躓いてしまって、この先ネイバリー語を話すようになる未来が想像できなかった。
 休憩が終わると再びレッスンが始まった。相変わらず講師の厳しい発音指導が続く。すると部屋の扉が開き、ウィルエルが顔を覗かせた。講師はウィルエルの顔を見ると少しだけ言葉の勢いが弱くなった。講師はウィルエルへ会釈し、ウィルエルは部屋の中に入ってきた。アレムの近くの椅子に腰掛けると、講師に「続けて」というようなジェスチャーをした。アレムが教科書に書いてある単語を講師の後に続いて読んでいく。アレムが視線を感じながらもごもごと発音すると、ウィルエルが両手で顔を覆って震え出した。驚いてウィルエルの顔を見ようとすると、ウィルエルは笑いを堪えていた。
「◼︎◼︎◼︎◼︎……!」
「◼︎◼︎◼︎」
 震えながらロイと会話している。そんなに自分の発音が変なのかと、アレムは顔が真っ赤になった。するとウィルエルがアレムの手の甲を指でトントンとつついた。アレムがウィルエルを見ると、
「◼︎、◼︎、◼︎、◼︎」
 と大きく口を開け、はっきり発音してきた。
 アレムがきょとんとしていると、また同じ言葉を繰り返し、アレムをじっと見ている。
「◼︎、◼︎、◼︎、◼︎?」
 アレムは言われた言葉を繰り返してみた。するとウィルエルがパッと顔を輝かせた。ロイは後ろで苦笑している。講師は呆れ顔だ。一体何を言わされたのだろうか。おろおろしていると、ウィルエルはアレムの一瞬の隙を突いて頬にキスをした。アレムは毎回無反応だが、反応する暇がないくらい手早く自然なのだ。そして嫌な感じがしない。もしウィルエルがスリだったら毎回財布を取られているだろう。
 その後ウィルエルはしばらくにこにことアレムの授業を観察して去って行った。
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