おぞましく愛おしい

紺色橙

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 正月も明け、久しぶりに冷たい風を浴びる。風が強ければ駅までの道ですでに耳が痛くなっていた。耳当てが欲しいと毎年思い、毎年何もしない。自分だけではない鬱々とした気配を感じながら、何とか一週間をこなす。
 明日は土曜日だから病院に行こう。二時間の待機で体力と気力が枯れてしまうだろうが、帰る頃には少し今よりもまともになっているはず。そんな望みを胸に過ごした金曜の退勤間際。電話が鳴った。

「もしもし」

 画面に表示されている美容院の文字。すぐに席を立った。
 向こうから聞こえてきたのはいつもの女性の声ではない。

「あ、はい、そうです」

 水瀬さんですか。確認を取られ、どもる。
 電話の主は美容師である坂本その人で、この後空きができたが来るかという願ってもない誘い。

「行きます」

 一も二もなく食いついた。




 水瀬は走った。走って、いい大人が恥ずかしいだろうかと早歩きになる。コートを着込んでいるのだし、店内に入って汗をかくのもよくない。はぁ、はぁ、と吐く息は白く、吸い込んだ空気は肺を刺す。鼻が赤いのは走ったせいか寒さゆえか。

 まだ明かりのついた店内を一度覗き込む。腕時計は20時過ぎ。受付の女性もいない。そっとドアを開けた。

「すみません、予約の水瀬です」

 店内は後片付け真っ最中で、スタッフの一人がこちらを見た。それから「坂本さーん」と呼ぶ声。客はとっくに帰ってしまったのだろう、床だって毛の一本もなく綺麗なもので、ワゴンも隅にまとまっている。鏡の前に積まれる雑誌もさっぱりとなくなっていて、なんだか広く見えた。

「こんばんは」

 奥から出てきた坂本に促され席につけば、「お疲れ様です」と若いスタッフが帰っていった。水瀬は再び腕時計を見て、さらにはどこかの壁にあるだろう掛け時計も探した。

「閉店時間ですよね」
「水瀬さんで最後」
「え、ごめんなさい。そうだ、20時ですよね。俺帰ります。次の予約だけ取れますか」

 坂本は慌てる水瀬に軽く笑って、「大丈夫だから」と言った。
 いつものようにお茶を貰い、いつものように動く椅子で後ろに回った坂本が、いつものように声をかけてくれる。

「カットします? 最近来てなかったから」
「今からそんな」
「いつも通りな感じでいいですかね」

 坂本は大丈夫という言葉を繰り返さず、ただ同意を求めた。水瀬ははい、と頷く。そうなってしまえば、他のスタッフや客がいないだけでいつものような扱いになった。坂本の手が伸びた毛の長さを確認するのも、指に通して厚みを測るのも、隣に他の人がいないというのにカーテンで区切られたシャワーも、変わらなかった。
 馴染みのある柑橘の匂いに、少し熱さを感じるようなシャワー。ゆっくりと揉まれる頭。
 ――やっぱりこれじゃないと。
 水瀬の体から力が抜ける。血が新しく巡るような感覚。

「水瀬さん」

 は、と声掛けに気付いたのだから、眠っていたのだろうか。睡魔に襲われた記憶はないが、確かに目覚めた感じがある。
 顔の布は取り払われ、白い髪が視界の中で揺れていた。

「席に戻りますよ」
「ああ、はい」

 動く椅子に体を起こされ、地に足を付ける。
 頭が乾かされ最後の仕上げがされるまで、水瀬はぼんやりと坂本の手元を見ていた。

 受付の女性がいないから、初めて坂本が会計まで通して行った。差し出したメンバーカード。手が触れる。

「あの、予約したいんです。あと、突然だし失礼を承知ですが、坂本さんの連絡先教えてもらえませんか」

 言葉が口をついて出る。出てしまえば勢いを増す。

「個人の?」
「次いつになるかわからないし、お金は払うので、あの、いや、ダメだとはわかってるんですけど」

 久々の美容院の空間はとても気持ちのいいものだった。全身マッサージと違うのはシャワーの熱なのだろか。はたまたあの匂い? とても心地が良かったから、その予定が立たなくなるのが怖くなった。もしまた予約が取れなくなったらどうしよう。そもそもあんなに取れていたのがおかしな話だ。それでも個人連絡先を聞くなんて変態では? そんなことをしたら迷惑な客だと今後断られてしまう。
 一度に頭の中を巡る考え。

「いいですよ」

 出てしまった言葉を取り戻す前に返ってきたメンバーカード。坂本のポケットから出てきたスマホ。
 どうぞ、と見せられた画面に、水瀬は頭の中のもやもやが消えるのを感じた。
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