ファーストフラッシュ

紺色橙

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第一章 3か月

1-6

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 慣れてきたしそこまでの遠慮はしていないだろうと、思っていた。
 
 急遽休みになった人の代わりにバイトに入る。
 自分の休みは潰れたが特に予定があるわけでもなく問題はない。
 欠伸をしながら出勤し、あいつにはいつもと同じくらいに帰ると告げて出た。
 が、いつもよりは早くなった帰宅時間。
 桜が咲き、散り、すっかり春らしくなっているが冷えた夜だった。
 最近夜でも温かくなってきたのにずいぶん冷えていると、手をポケットに突っ込んで帰る。
 地上から見上げた自宅の電気はついている。
 一息ついて階段を上る。
 電気も死にかけてる暗い階段を2階まで上がり、古びたドアの冷たいドアノブを回す。
 最近ずっと、寒い日でもあいつが家にいるから帰宅すれば暖かかった。
 だからこの時も同じように無意識の期待をしていたのに。

 入った部屋は冷えていた。

 ドアが閉じる音に重なる様におかえりなさいと声がする。
「お前寒くねーの?」
 スマホに表示されていた現在気温は5度。
 断熱されている家ならまだしも、うちは違う。
 あいつは慌てて暖房をつけた。
 そしてまた、ごめんなさいと謝る。
「別にお前が寒くないなら、謝る必要はねーよ」
 それでもまたあいつは、ごめんなさいと言った。

「あのな」
 怒られる、と思ったのだろう。
 小さな体が縮こまる。
「俺はお前を預かるために金をおっさんから貰ってる。だから光熱費とか食費とか、金の心配はしなくていい」
 封筒はずっと置かれているのに、それでもこいつは心配なのだろうか。
 ひと月で約30万。
 十分な額だ。
「お前が、それでも遠慮しちゃうとか他人となんて暮らしにくいっていうなら、俺はお前が3か月住めるとこ探すよ? 自分ではやり方がわかんなくて出ていけないって思ってるかもしれないから言うけど、ちゃんと協力する」
 3週間前は放り出そうとも思っていた。
 やることは同じだが、気持ちは違う。
「でも一応俺は3か月任せられたって思ってる。だから、お前がちゃんと決めろ。ここに居たいのか一人がいいのか。他人と暮らすのがストレスになる人間なんかいくらでもいるから、俺に申し訳なく思う必要もない」
 ずっと一人暮らしをしていたものだから、一人暮らしの気楽さは知っている。
 今更家族と同居する気もない。
 それがましてや全く面識のない他人となんて、ストレス以外の何物でもないだろう。
 更には突然のことで満足に自分の持ち物も持ってこれず、自分の心地の良い環境でもなく。
「オレは――」
「どっちでもいいは無しな。お前が決めろ」
 あいつは口を開いたまま言葉を紡がない。
 何かを言おうとして、でも音が出てこない。
「今すぐに決めなくていいから考えろ」



***



 3日経った。
 その間あいつは言われたとおりに生活した。
 1週間経った。
 相変わらずあっちからは言ってこない。
 どっちでもいいではない、決定をあいつは下さない。

「決めた?」
 軽い問いに、びくりと足元の体が震えた。
 あの、と小さな前置きが出る。
「決めて欲しいです」
 目線を上げないその様にため息が漏れる。
 この1か月は何だったのだろうか。
 良くない共同生活だったとしても、こんなにすべてを放り出されるなんて。
「『出てけ』――、つったら出てくのか? 今すぐ」
「はい」
 俯いた視線がふらりと部屋を巡る。
 自分の持ち物を確認しているんだろうか。
「俺はさぁ冴木さんに任されたんだけど」
 契約書の一つもないが、俺は任されそれを受けた。
 足元の小さな体の前に座り込むと、小さな声がごめんなさいと俯いた。

 世話になっている冴木の名前を出されると弱いのだろう。
 他人に迷惑をかけたくないと思っているようなこいつには特に。
 だけども俺に対して「ここにいさせてくれ」と言うこともできない。
 それは俺に迷惑をかけることになると思っているからだ。

「お前さ、家は?」
 びくりと頭が揺れる。
 親切な冴木さん、ではない家だ。
「家は出ました」
「出たってなんだよ。冴木さんと暮らしてんの?」
 同居しているのならそこはもうこいつの家でもあるのだし、うちに来る必要はないだろうに。
「今は――」


 ――こいつの名前は堂前治雪。
 3月に高校を卒業したばかりの18歳。
 母親は雪を生んだ時に死んだという。
 そしてずっとこいつは父親に家から出て行けと言われていたらしい。
 こいつは、その言葉を素直に受け取り実行した。
 そしてあの冴木のおっさんに拾われたわけだ。
 おっさんには卒業前からちょくちょく世話になっていたらしい。

 ぽつりぽつりと深夜の部屋に落とされる言葉は少なかった。

「あのおっさんに体でも売ってたのかよ」
 血縁関係もない赤の他人に100万出せる関係。
 茶化すように言った。
 雪は否定しなかった。
 そして肯定もしなかった。

 ぎゅうっと握っていた鉛筆を床に置くと、雪はゆっくりとした動作で俺に手を伸ばした。
 何をしようとしているのか。
 ただ見つめる先で、細い指先が俺のズボンに手をかける。
 おぼつかない手つき。
 下ろされたファスナー。
 逡巡する手が下着に手をかけたところでやめさせた。
「ごめんなさい」
 静かに怒っているのかと思った。俺の悪い冗談に。
 怒っているからわざとらしく俺が言ったことを実行してみせようとしているのかと。
 ――でもこいつが謝ることで、それも否定された。
「いや」
 俺が悪かったとは口から出てこなかった。


 暗に確認した冴木との不健全な関係。
 雪は行為に慣れているようには思えなかった。
 そもそも、性的な経験すら薄いのではないかと何となく思った。
 もしかして俺が体でも売っているのかと言ったから、こいつはそれが"使えるものなのだ"と思ったんだろうか。
 それが望まれるものだと。

 俺の言い方では軽い冗談には聞こえなかったかもしれない。
 しかしどちらかというと、こいつはそもそもこういうことを冗談ともとらない奴で、なんならそれが望まれているのならと実行にも移せてしまうのではないか。
 そうだとするならば。
 正しい行いだとか悪い行いだとかを言うつもりはないが、雪を今放り出すのはあまり良いことになるとは思えなかった。
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