ファーストフラッシュ

紺色橙

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第二章 露呈

2-1

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 湿度90%と言われても疑わないジメジメした夜。
 家に帰ったら即クーラーをつけて風呂に入ろうと考える、歩きなれた帰り道。
 視界の端にまるで幽霊のような人間の姿を見た。
 くそ暑い7月の夜に白い長袖に長ズボンなんか着て俯く姿に体が強張る。
 一瞬の後ああ人間かと安心し、それでもこんな夜に廃れた公園入り口の車止めに項垂れ腰掛ける人間に怯え距離を保つ。
 不審者以外何者でもない。
 じろじろと見る気はなく、それでも抱えられたスケッチブックが気になった。
 
「雪?」
 見覚えのある坊主頭ではないが、その俯いた姿そのものに見覚えはあった。
 呼びかけに反応し上げられた顔は、確かにあいつだった。
「何してんの?」
「迷って」
「駅行くん?」
 ふるふると力なく横に首を振る。
 かさついた唇が音の漏れた言葉のなり損ないを発する。
「もしかして俺んち?」
「はい」
 返事と共に雪の体が崩れそうになる。
 手から鉛筆が落ちる。
 細い腕が凭れ腰かけていた車止めに掴まった。
「おい、大丈夫かよ」
 俺の家を目指していたというのならとりあえず連れていけばいい。
 夜で日差しはないとはいえこの湿度。熱中症だろうか。
 咳も鼻水も出ていないし風邪よりは確率が高いだろう。
 落ちた鉛筆を拾い、抱えるスケッチブックを貰い受ける。
「行くぞ」
 触れた体が熱い気がする。
 ふらつく雪を抱えるように家を目指した。


 予定通りクーラーをつけ、いつもは入れない浴槽にシャワーで水を入れた。
 相変わらずの細い体は苦も無く支えることができ、まだまだ浅い水風呂に浸からせた。
 水風呂とは言ったがシャワーの水は昼間の日光で温められ生温い。
 こんなので体温が下げられるだろうか。
 赤い顔に、離れるのもどうかと思ったがコップを取りにキッチンに行く。
 スポーツドリンクは家になく、それらしき分量を調べることにも頭が回らなかった。
 氷の入った水と、食卓塩をもって風呂に行く。
 シャワーを止めコップを差し出す。
 ぐったりとした力のない手。
 ゆっくりと一口飲ませると自分の手に塩を出した。
「嫌だと思うけどこれ舐めて。もし熱中症なら塩とったほうがいい」
 落ちそうなコップを受け取り浴槽のふちに置く。
 ぺろりと雪が俺の手を舐めた。
 塩をどのくらい与えればいいのかもわからない。
 ただ水だけではダメだという曖昧な知識だけがあった。
 肩から控えめにシャワーをかける。
 生温さが減った水は冷たすぎるだろうか。
 雪は何も言わない。
 こいつと別れたのは5月くらいだったか。
 それから約3か月ほど。
 短かった髪はそれなりに伸びているが、骨ばった体は相変わらず。
 痣や傷跡は見当たらないが、おっさんと仲良くやっているのだろうか。
 なんでこいつはうちに来たんだろう。
 ぐったりとした雪を前にして考えながら、しばらくそうしていた。

「ごめんなさい」
 と言われ慣れた言葉が聞こえるようになった頃風呂から上げた。
 ベッドに連れて行き氷を追加した水を与えると、雪はポロリと涙を零した。
「どうした? 気持ち悪いとか頭痛い? とりあえず寝とけ。な」
 言われたとおりに横たわった雪は、手の甲で涙をぬぐう。
「オレ、あんなにお世話になったのにあなたの顔を忘れてしまって、それで」
「たった2か月だぜ? 俺何もしてないし忘れるだろ。そんなの気にしてここまで来たのか?」
「でも、お世話になった人のこと忘れるなんてそんな」
「忘れてもいいよ。気にするな」
 涙は止まらず零れ落ちる。
 枕にシミを作る。
 体温を診るように頭を撫でた。
「俺風呂入ってくるから、水ゆっくり飲んで休んで。なるべく早く上がる」
 汗臭い自分をそれ以上隣において置く気はなく、小さな返事を背にした。

 前と同じように洗濯しようとした雪の服は、俺といたときに買ったものに似ていた。
 シンプルなものだし実際はどうなのかわからない。
 とにかく自分の汗を流そうと風呂に入った。


 風呂から上がると、雪は絵を描いていた。
 ベッドに大人しく入ったままだが、スケッチブックはテーブルに置いたはずだから一度起きたのだろう。
「これ、俺?」
 うちにいたときは見たことのなかった人物画。
 雪は下手でごめんなさいと眉を下げた。
「実物より男前に描かれてるけど、お前には俺がこんな風に見えてんの?」
 頷かれ、何ともくすぐったくて笑った。
 誤魔化すように頭を撫でる。
 飲み干されていた水を新たに注ぎ、自分のコップにも多量の氷を入れる。
 クーラーは働き部屋は冷えていた。

「で、どうして来たんだよ」
「夢でここにいたときのことを見るのに、顔がわからないんです。それが怖くて」
「怖い?」
「忘れちゃうなんて」
 世話になった人のことを忘れるなんてと雪は言った。
 そんな御大層なことはしなかったが、確かに俺はこいつに対して優越感を持ち良い人ぶった。
 古い団地は同じ光景が並ぶ。
 記憶を頼りにして歩いてきた雪は、止まっている工事車両を迂回したことで迷子になったという。
「今はまだあのおっさんのとこ住んでるのか?」
「はい」
「あの人はお前がここにいること知ってる?」
「……言ってません」
 のっぺらぼうの俺の夢を見て何も考えずに飛び出してきたのだろうか。
 以前のような少ない荷物すらない。
 目的地をおっさんに言いもせずに出てきたのなら、会えてよかった。
 俺がバイトの日でなくずっと家にいて出かけることもなかったら、あのまま雪は倒れてしまっただろう。
「まずはおっさんに連絡しないとな」
「ごめんなさい」
「怒ってねーよ」
 合わない父親の元を離れ、こいつを傷つけないおっさんと無事に暮らせているのならそれでいい。
 しかしそれなら冴木さんは心配しているだろう。
「とりあえず飯食え」
「要らないです。……お礼をできないから」
「馬鹿かお前は。立てる? テーブルで食えるか」
 ゆっくり起き上がる雪はふらついた様子もない。
 自分のカップ麺を選び、大丈夫そうだと安心した。
 いったい何時から俺を待っていたのか分からないが、もう冷えた部屋で休んでいれば酷いことにはならないだろう。



 雪用に買った布団はずっと押し入れにしまわれたままで当然干してはいない。
 3月と同じように狭いベッドに二人で入った。

 寝ようと目を閉じたとき、細い手が伸びてきた。
 眠り始める意識の隣でその手の意思を辿る。
 窓を向く俺の背後から伸びる手は、腰から密やかに俺の下半身に向かった。
「雪」
 前もこんなことがあったなと、欠伸も出ない覚めた頭で思い出す。
「触るな」
「お礼を……」
 細い手首を掴み押し返す。
 振り返れば申し訳なさそうな顔が見えた。
「お前はさぁ、何でこんなことすんの?」
 性に奔放だとはとても思えない。
 どこぞの女子高生のように自分の体に価値を置いているとも思えなかった。
「お父さんが、体を売れればって言ってて。でもずっと『お前が女だったら』って言われてて」
 静かな部屋に声が一つ一つ浮かんでは沈んでいく。
「でも冴木さんが、『君は魅力的だ』って言うんです」
 女ではない雪。
 今までは女ではないということがストッパーになっていた。
 しかし冴木に言われて、自分が男でも売れるんだと思ったのだろう。
「冴木ってあのおっさんだろ。じゃあやっぱり体売ってんの?」
 以前は冗談のように聞いたが。
「してないです」
 変な話だった。
「冴木さんは俺に触らないので。でも冴木さんがいる時は、服を脱いでて」
 さすがに頭を抱えたくなった。
 触られずともそれはちょっとどうだろうか。
 しかし物理的に傷つけられてはいないし、安全も衣食住もおそらく与えられているんだろう。
 同居する際に服を身に着けないこと、それを雪も受け入れている。
 さすがにおかしいと思うが、だからといって俺が口を出せるものか?
 たかが数か月前に少し関わっただけの人間が。
 あのおっさん――冴木は金も出しているし今までの雪の世話もしているだろうに。
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