それは愛か本能か

紺色橙

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第三章 桃の話

3-2 手放す

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 はやてちゃんのクラスにアルファが来たと聞いた。心配になる。
 彼はボクとは違う普通の子だ。
 アルファなんかに傷つけてほしくなかった。

 アルファなんか、と思っている。
 だけれどアルファの客が来た時に呼ばれれば嬉しくなった。
 発情期ではない時に呼ばれたときなんか本当に、オメガではなくボクを欲してくれたのだと思った。
 ヒートでなくとも体は喜び、ヒートでなくともアルファに縋りたくなった。
 自分とは違うその人に、ボクを丸ごとあげたくなった。
 違う生き物だと実感し、だからこそ体が疼いた。


 運命を探しに行こうかな。
 はやてちゃんの言葉が時折思い出され、考える。
 無理だってすぐに否定するのに何度も頭に浮かんできた。


 客に可愛いと言われる度に、心の底に澱が溜まっていく。
 今を褒められる度に未来は無いのだと思った。
 歳をとった自分では客はとれないだろう。
 そうしたらどうして生きていこうか。
 そもそも何のために生きていくのだろうか。

 運命の人が現れてボクを今すぐ助けてくれればいいのにと願っていたものは、そのうち呪いのようになった。

 乾いた喘ぎを狭い室内で漏らす度、運命が遠のいていくのを感じた。
 もし運命がいたとして、沢山の人とセックスをしたボクを欲しがるだろうか。
 こんなオメガを番として認めるだろうか。
 ボクは万が一もなく子を成せない体なのに、それでも運命は働くのだろうか。

 はやてちゃんに運命の人が現れたと聞いた時、ただびっくりした。
 同時に、自分が処女の可愛いお姫様でないことに絶望した。
 彼は誰とも行為をしたことがない。それどころかアルファを一度も見たことが無い子だ。
 彼が選ばれるのは当然だって思った。


 生きている意味に囚われた。
 生きている意味のなさに囚われた。


 ボクがボクのように思っていたはやてちゃんには運命が来て、ボクには迎えに来なかった。
 当たり前。だってボクはあの子じゃない。

 ベータにアルファの真似事として噛まれた首筋。
 誰も本気では噛まないから、噛み跡が少し残るだけ。明日には消えてなくなってしまう。
 噛みたがる客が来る度に「噛んで」とねだった。「もっと強く」と。
 例え血が出ようとそんなものは何の意味も無くて、痒みと共に瘡蓋がはがれ落ちるだけ。

 運命がアルファでなくベータやオメガ同士にもあったなら、ボクにもチャンスがあったのだろうか。
 例えば施設にいたお兄さんや、もう店にはいないスタッフの人。
 いつも行くお弁当屋さんのおばさんだってそうだし、何よりも、はやてちゃんとボクだったら――。
 でも運命の番はアルファとオメガと決まっている。


 運命を探しに行こうかな。
 探してダメだと分かったら、いなくなってしまおうか。
 


***



 発情期までは後二週間以上あった。
 店にいる時に付けることもある保護具を首に付けるか迷い、手放した。

 お気に入りの服を着て、電車のオメガ専用車両に乗り込んだ。
 あまり客はおらず静かなものだった。

 出かけることを颯ちゃんには言わなかった。
 きっと彼は心配する。
 自分が余計なことを言ったからだと、自分を責めてしまう。
 だから言わなかった。

 電車に一時間以上も乗った。
 自然と住み分けが成されたため、アルファの多くいる街へ行くのには時間がかかった。

 いつまで経ってもどこまで行っても、車内は少ないままだった。
 オメガは出歩くことが無いんだなと実感する。
 専用車両が作られているのはオメガの為ではなくアルファの為だろう。
 
 特に降りる所は決めていなかった。
 どうしようかと考えているうちにドアが閉まり動き出す。
 次の駅にしようかな、どうしようかな。
 外を見れば高いビルと木々が整然と並んでいる。ボクの住んでいるところとは違う景色。
 一歩を踏み出す勇気が無かった。
 
 急停車で体が揺れる。
 次で降りよう。ふと思った。
 すぐ隣を走りぬけていった快速電車の音が過ぎ去る頃、席を立った。


 知らない駅の知らないホームに降り立つ。
 目的もなく適当な改札を抜け、どこか座れそうなところはないかと探した。
 忙しなく行きかう人々に自分は置いていかれている。
 太陽の下、場違いさが露わになっていた。
 いつもなら薄暗い個室にいる自分が、太陽のもとで風を浴びて過ごしている。
 直射日光は暑く、日陰になるだろうと大きな木の下まで歩く。
 木の下をぐるりと回る柵に腰かけた。
 風がそよぎ、遠くに目をやれば電車に太陽が反射した。
 生きている人々の街だ、と思った。

 行きかう人がアルファなのかベータなのかもわからない。
 ただ、ぼんやりとそこに座っていた。

 誰もが同じに見えた。
 オメガはまずいないだろうけど、アルファもベータも分からなかった。
 カッコイイからって何だろう。美人だからって何だろう。
 狭い個室にいたときは、カッコ良くて優しい人を望んでいた。
 だけど今こうして人々を見てみれば、どれも違いが無いように思えた。
 かっこよくても美人でも自分には関係が無い。
 誰もボクには関心が無い。
 家を出る前はドキドキと不安だったのに、ここにいても、何もなかった。



 日が傾き始める頃、ぶわっと体の中から熱の広がる感覚があった。
 発情期だ。
 後二週間以上あるはずなのに、なんてこと。
 道行く人はアルファもベータも分からないけれど、とりあえずここから離れなければ。
 駅に向かって走り出す。
 末端まで駆け抜けた特有の感覚は、じわじわと体温を上げていく。
 身体がアルファを欲しいと叫ぶ。
 ――薬を。
 さほど中身の入っていない鞄からすぐに目当てのものを探し出し握りしめる。
 まだ動く足で前だけを見て改札を通り抜けホームまで駆け上がり、止まっていた電車に滑り込むと同時にシャツを捲り腹に注射した。
 ふらつく足で座席に座り、呼吸を意識する。
 家に着くまで一時間以上。
 薬が効くまで大人しく座っていればいい。
 その後は、薬の副作用に耐えて這うように家に帰ればいい……。


 ――どうにか最寄り駅のホームに出て、自分に言い聞かせながら歩む。
 もう安全だ。もう帰ってきた。
 頭が痛いのも気持ちが悪いのも、家に帰るまで我慢しろ。
 駅のトイレで一度吐き、口をゆすぐ。
 一歩一歩を数えるように足を動かし、駅前から着実に離れていく自分を褒めた。

 人通りの少ない住宅街。
 人様の家の塀に凭れ休みながら家を目指す。
 あと少し、まだ意識を失ってはいけない。あと少し。

「――――?」
 突然声をかけられた。
 うまく聞こえなかった。
 顔を覗き込まれたのは分かるけれど、自分の涙でぼやけ視界が悪い。
 ただ声が優しくて心配してくれていることは分かる。
「―――」
 手を引かれるままに歩いた。
 そっちに行けば良いのだろうと体が動く。
 大きな手に肩を支えられ、安心した。
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