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第三章 桃の話
3-5 捨てた名前
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次の日。たぶん、次の日。彼に起こされた。
自然と目が覚めるまでいつも起こされることは無かったのに、初めて。
食事をするように促され、その後はお風呂。
何かするのかなと思いながらもそれに従う。
初めて与えられた下着だけを身に着け部屋に戻れば、人がいた。
「え……」
初めてボクと彼だけの世界に入ってきた人たち。
女性も男性も、合わせて3人ほどいた。
彼はその人たちに何かを言って、ボクに軽くキスをして離れた。
一人の女性がボクに頭を下げ優しく微笑む。つられて頭を下げた。
裸のボクをまったく気にしないように、新しい服が与えられた。
今まで着ていた彼の大きなシャツではない、ボクの小さな体に合うものだった。
何をするのだろう。
彼と同じように女性らもボクの言葉がわからないのか、問いかけに返事はなかった。
ただ着替えさせられ、髪を整えられる。
少し離れたところでは彼も同じように着替えをしていた。
どこかに連れていかれるのだろうか。
着替えが終われば女性は微笑んで下がり、次にもう一人の女性がボクの前に立った。
お辞儀をされ、同じように返す。
手で促され椅子に座ると、先ほどの女性が持ってきた大きな鞄が開かれた。
「化粧するの?」
にっこりと微笑み返され、ボクは任せることにした。
指先が優しく瞼を下ろしたり、唇を薄く開かせたりする。
何かする前には教えてくれているけれど、分からないのでそのままこういうことかなって従うだけ。
頭を下げられて、もう終わりのようだった。
「かっこいい」
いつものシャツとは違う黒いスーツの彼。
「――――――」
同じように着替えされられたボクを、彼も褒めてくれた気がした。
きちんとした格好をしたのなんて初めてて、なんだか照れ臭い。
ボクのスーツは真っ黒ではなく茶色のもので、チェックが随分と可愛らしい。
「どこにいくの」
手を繋ぎ歩き出す。
頭を下げる三人の人たちを部屋に残し、初めて、部屋を出た。
怖い嫌だ。
思ったけれど、彼は何の問題もなくドアを開けた。
絨毯の敷かれた廊下を歩く間、ずっと彼の手を握りしめていた。
離れたくないと伝わるように、ずっと。
ついた先には大勢の人がいた。
男性も女性もおしゃれをして、部屋に入ってきたボクたちに注目した。
「――」
「―――――」
「―――、――」
口々に何かを言っている。多分彼と同じ言葉。
どこを見たらいいのかもわからず俯くと、優しく髪を撫でられ肩を抱かれた。
促され部屋の中へと進んでいく。
ボクたちを囲むようにして人が集まる。
目が泳ぎ、彼らの足元しか見れなかった。
「―――――」
彼が僕に話しかける。
ぱっと顔を上げて彼だけを見る。
するりと彼の指先が僕の喉を指す。
「――――――――」
彼は周りの人に何かを言った。
拍手が起こり、歓声が沸く。
何が何だか分からない。
自分だけが取り残され物事が進んでいく。
その後は彼の隣で一人一人に頭を下げて回った。
年老いた女性がボクの頬に優しく触れ、微笑んで頷く。
彼は笑ってその人を抱きしめ、その時ボクは、もしかして紹介されているのだろうかと思い至った。
これが彼の家族や親戚だとしたら?
さっき喉を示したのは番になったのだと言っていたのだとしたら?
もしそうならボクは、この人とずっと一緒に居られる?
明るく楽しそうな世界にしばらくそうして浸っていた。
部屋のカーテンは開かれ、遠くの夜景が見えていた。
少しの酒も飲み上機嫌の彼に抱きかかえられ部屋に戻った。
ここはどこかのホテルで間違いないのだろうと、さっき見た外の風景を思い出す。
「下ろして」
彼の腕から降り立ち、部屋のカーテンに駆け寄った。
勢いよく開いたカーテン。窓の向こうもやはり先ほど見た光景と同じだった。
どのくらいの高さにいるのかはわからないけれど、飛び降りたら即死できるだろうとは思った。
窓ガラスは冷たく、硬い。
ここを出て飛び降りれば、最高に幸せな今は続くんじゃないだろうか。
そうだ、今しかない。
だけど、窓は開けられないようだった。
今が良いのに。後ろから抱きしめられ、暖かな体温を感じる。
今が良いのに。
「開かないよ」
ずっと外を見ている僕の頭の上で彼が喋る。
その言葉を理解して、え、と顔を上げた。
「喋れるの」
「君と話すのに必要だからね」
だったらもっと早く普通にしゃべってくれたらいいのに。
さっきだって、彼は普通に話せたはずなのに。
「何で隠してたの」
窓にボクらの姿が映っている。その彼を見て、少し責めるように言った。
「帰りたいって言われても、帰せなかったから」
「ここはどこなの?」
「私の家がある国だよ」
国。
「海外?」
「君からしたらね」
いつの間にそんなところに?
「ボクが、家の近くで倒れてた時に見つけてくれたの?」
「そうだね。仕事が終わった後、街で君を見つけた。すぐにわかったよ。私のお姫様だって」
「お姫様って、ボクは男だよ」
小さく笑う。
「君は走って行ってしまうから、追いかけさせたんだ」
オメガ専用車両に他の人は乗れない。
彼が追いかけるように伝えた人はベータで、隣の車両でずっと僕を見張っていたらしい。どこの駅で降りるのか見届け、後をつけた。
一時間以上もずっと見られていたのかと思うとなんだかぞくぞくする。
「車に君を迎え入れて、連れて帰った」
「誘拐だ」
彼の腕をぎゅっと抱え込む。
「うちに来るか聞いたよ? 君が頷いてくれたから連れてきたんだ」
全く記憶にない。
でも彼からしたら合意の上だろう。
「セックスしていいかも、噛んでいいかも聞いたよ」
記憶にない。連れていかれたのも記憶にないのだから当たり前か。
「君は可愛く求めてくれたから、その日のうちに番になれた」
窓ガラスに映る彼の顔は機嫌よく笑っている。
「え? あの、そこのソファの上でした時じゃないの?」
「違うよ。昼も夜もなく何度も君を求めた。君は応えてくれて、そのうち意識を失ってしまった」
そこまでの行為を、したことが無い。
意識もなく彼を求めていただなんてそんな。確かにあの時は発情期だったけど、お店では一回されればそれで済んでいたのに。
「番になったってことは、貴方はアルファなの?」
「そうだよ。私のお姫様」
ボクはお姫様ではないけれど大事なものを扱うように言われるのはくすぐったくて悪くない。
「貴方は、ボクの運命の人なの?」
「そうだね。運命でなかったら、きっとこんなに惹かれはしないだろう」
運命の人。
ボクが夢見ていた、でも現実にはあり得ない、運命。
「おいで」
カーテンは開けられたまま、またあのソファに連れていかれる。
指を絡め、彼の膝の上に乗り向き合った。
「あの、ボク、どうしたらいい?」
離れなければいけないのだろうか。
運命だから、近くにいることを許してもらえるんだろうか。
「君はどうしたい?」
一緒にいたい。口を開くと、「待って」と止められた。
「希望は聞くけど、出来ないこともある」
言われ、口を閉じる。一緒にいたいというのは出来ないことだと思った。
「私は独占欲が強いし、とってもいっぱい君を愛しているから、もう触らないでとか顔も見たくないっていうのは……」
彼の眉毛が下がる。多分しっぽが生えていたらそれも垂れ下がってしまっているだろう。
そんなこと言うはずないのにね。
「ボクに触って」
言えばちゅっとキスをされた。繋いでいない手が背中を撫でる。
「ボクに好きだって言って」
「好きだよ。愛している。私のお姫様」
「ボクが欲しいって言って」
「君が欲しい。今すぐにでも……いいの?」
合わせられた目が輝いている。
「貴方と一緒にいたい。ずっと、一緒にいさせて」
ボクのお願い。
「勿論。ずっと一緒だよ」
その言葉が嬉しくて、嬉しすぎて、体の中が熱くなった。
溢れようとする涙で視界がぼやけ、彼を感じるために抱き付いた。
「名前、教えて」
「アラン・エイプリル。君は、」
「ボクはね――」
桃として生きていこうと思っていた。
正気を置き去りにして、夢だけを見てこの身体を捨ててしまおうと思っていた。
長いこと本名で呼ばれていない。
ボクはもう桃という生き物なのだと諦めていた。
普通の生活を送るはやてちゃんにも言えなかった。
ボクの本名を呼ばれたら、ボクは店にいる桃としての自分と乖離してしまうと思っていた。ずっと桃として生きていくのに、はやてちゃんに名前で呼ばれてボクを生かしてもらったら、身体はきっと半分になってしまう。
だからボクは、お父さんとお母さんがつけてくれた名前を捨てた。
だけどアランには、ちゃんと本当の名前で呼んで欲しいと思った。
自分からもう一度噛んでとねだった。すでに番であったとしても、もう一度。
アランは「お望みのままに」と言って、してくれた。
血が出るほど強く、肉を抉り、ボクを傷つけて欲しかった。
名前を呼んで求めた。
名前を呼ばれて求められた。
幸せで、脳みそがとろけていくようだった。
幸せ過ぎて死にたくなって、でもこの人ともっと一緒にいたいと、生きたいと思った。
自然と目が覚めるまでいつも起こされることは無かったのに、初めて。
食事をするように促され、その後はお風呂。
何かするのかなと思いながらもそれに従う。
初めて与えられた下着だけを身に着け部屋に戻れば、人がいた。
「え……」
初めてボクと彼だけの世界に入ってきた人たち。
女性も男性も、合わせて3人ほどいた。
彼はその人たちに何かを言って、ボクに軽くキスをして離れた。
一人の女性がボクに頭を下げ優しく微笑む。つられて頭を下げた。
裸のボクをまったく気にしないように、新しい服が与えられた。
今まで着ていた彼の大きなシャツではない、ボクの小さな体に合うものだった。
何をするのだろう。
彼と同じように女性らもボクの言葉がわからないのか、問いかけに返事はなかった。
ただ着替えさせられ、髪を整えられる。
少し離れたところでは彼も同じように着替えをしていた。
どこかに連れていかれるのだろうか。
着替えが終われば女性は微笑んで下がり、次にもう一人の女性がボクの前に立った。
お辞儀をされ、同じように返す。
手で促され椅子に座ると、先ほどの女性が持ってきた大きな鞄が開かれた。
「化粧するの?」
にっこりと微笑み返され、ボクは任せることにした。
指先が優しく瞼を下ろしたり、唇を薄く開かせたりする。
何かする前には教えてくれているけれど、分からないのでそのままこういうことかなって従うだけ。
頭を下げられて、もう終わりのようだった。
「かっこいい」
いつものシャツとは違う黒いスーツの彼。
「――――――」
同じように着替えされられたボクを、彼も褒めてくれた気がした。
きちんとした格好をしたのなんて初めてて、なんだか照れ臭い。
ボクのスーツは真っ黒ではなく茶色のもので、チェックが随分と可愛らしい。
「どこにいくの」
手を繋ぎ歩き出す。
頭を下げる三人の人たちを部屋に残し、初めて、部屋を出た。
怖い嫌だ。
思ったけれど、彼は何の問題もなくドアを開けた。
絨毯の敷かれた廊下を歩く間、ずっと彼の手を握りしめていた。
離れたくないと伝わるように、ずっと。
ついた先には大勢の人がいた。
男性も女性もおしゃれをして、部屋に入ってきたボクたちに注目した。
「――」
「―――――」
「―――、――」
口々に何かを言っている。多分彼と同じ言葉。
どこを見たらいいのかもわからず俯くと、優しく髪を撫でられ肩を抱かれた。
促され部屋の中へと進んでいく。
ボクたちを囲むようにして人が集まる。
目が泳ぎ、彼らの足元しか見れなかった。
「―――――」
彼が僕に話しかける。
ぱっと顔を上げて彼だけを見る。
するりと彼の指先が僕の喉を指す。
「――――――――」
彼は周りの人に何かを言った。
拍手が起こり、歓声が沸く。
何が何だか分からない。
自分だけが取り残され物事が進んでいく。
その後は彼の隣で一人一人に頭を下げて回った。
年老いた女性がボクの頬に優しく触れ、微笑んで頷く。
彼は笑ってその人を抱きしめ、その時ボクは、もしかして紹介されているのだろうかと思い至った。
これが彼の家族や親戚だとしたら?
さっき喉を示したのは番になったのだと言っていたのだとしたら?
もしそうならボクは、この人とずっと一緒に居られる?
明るく楽しそうな世界にしばらくそうして浸っていた。
部屋のカーテンは開かれ、遠くの夜景が見えていた。
少しの酒も飲み上機嫌の彼に抱きかかえられ部屋に戻った。
ここはどこかのホテルで間違いないのだろうと、さっき見た外の風景を思い出す。
「下ろして」
彼の腕から降り立ち、部屋のカーテンに駆け寄った。
勢いよく開いたカーテン。窓の向こうもやはり先ほど見た光景と同じだった。
どのくらいの高さにいるのかはわからないけれど、飛び降りたら即死できるだろうとは思った。
窓ガラスは冷たく、硬い。
ここを出て飛び降りれば、最高に幸せな今は続くんじゃないだろうか。
そうだ、今しかない。
だけど、窓は開けられないようだった。
今が良いのに。後ろから抱きしめられ、暖かな体温を感じる。
今が良いのに。
「開かないよ」
ずっと外を見ている僕の頭の上で彼が喋る。
その言葉を理解して、え、と顔を上げた。
「喋れるの」
「君と話すのに必要だからね」
だったらもっと早く普通にしゃべってくれたらいいのに。
さっきだって、彼は普通に話せたはずなのに。
「何で隠してたの」
窓にボクらの姿が映っている。その彼を見て、少し責めるように言った。
「帰りたいって言われても、帰せなかったから」
「ここはどこなの?」
「私の家がある国だよ」
国。
「海外?」
「君からしたらね」
いつの間にそんなところに?
「ボクが、家の近くで倒れてた時に見つけてくれたの?」
「そうだね。仕事が終わった後、街で君を見つけた。すぐにわかったよ。私のお姫様だって」
「お姫様って、ボクは男だよ」
小さく笑う。
「君は走って行ってしまうから、追いかけさせたんだ」
オメガ専用車両に他の人は乗れない。
彼が追いかけるように伝えた人はベータで、隣の車両でずっと僕を見張っていたらしい。どこの駅で降りるのか見届け、後をつけた。
一時間以上もずっと見られていたのかと思うとなんだかぞくぞくする。
「車に君を迎え入れて、連れて帰った」
「誘拐だ」
彼の腕をぎゅっと抱え込む。
「うちに来るか聞いたよ? 君が頷いてくれたから連れてきたんだ」
全く記憶にない。
でも彼からしたら合意の上だろう。
「セックスしていいかも、噛んでいいかも聞いたよ」
記憶にない。連れていかれたのも記憶にないのだから当たり前か。
「君は可愛く求めてくれたから、その日のうちに番になれた」
窓ガラスに映る彼の顔は機嫌よく笑っている。
「え? あの、そこのソファの上でした時じゃないの?」
「違うよ。昼も夜もなく何度も君を求めた。君は応えてくれて、そのうち意識を失ってしまった」
そこまでの行為を、したことが無い。
意識もなく彼を求めていただなんてそんな。確かにあの時は発情期だったけど、お店では一回されればそれで済んでいたのに。
「番になったってことは、貴方はアルファなの?」
「そうだよ。私のお姫様」
ボクはお姫様ではないけれど大事なものを扱うように言われるのはくすぐったくて悪くない。
「貴方は、ボクの運命の人なの?」
「そうだね。運命でなかったら、きっとこんなに惹かれはしないだろう」
運命の人。
ボクが夢見ていた、でも現実にはあり得ない、運命。
「おいで」
カーテンは開けられたまま、またあのソファに連れていかれる。
指を絡め、彼の膝の上に乗り向き合った。
「あの、ボク、どうしたらいい?」
離れなければいけないのだろうか。
運命だから、近くにいることを許してもらえるんだろうか。
「君はどうしたい?」
一緒にいたい。口を開くと、「待って」と止められた。
「希望は聞くけど、出来ないこともある」
言われ、口を閉じる。一緒にいたいというのは出来ないことだと思った。
「私は独占欲が強いし、とってもいっぱい君を愛しているから、もう触らないでとか顔も見たくないっていうのは……」
彼の眉毛が下がる。多分しっぽが生えていたらそれも垂れ下がってしまっているだろう。
そんなこと言うはずないのにね。
「ボクに触って」
言えばちゅっとキスをされた。繋いでいない手が背中を撫でる。
「ボクに好きだって言って」
「好きだよ。愛している。私のお姫様」
「ボクが欲しいって言って」
「君が欲しい。今すぐにでも……いいの?」
合わせられた目が輝いている。
「貴方と一緒にいたい。ずっと、一緒にいさせて」
ボクのお願い。
「勿論。ずっと一緒だよ」
その言葉が嬉しくて、嬉しすぎて、体の中が熱くなった。
溢れようとする涙で視界がぼやけ、彼を感じるために抱き付いた。
「名前、教えて」
「アラン・エイプリル。君は、」
「ボクはね――」
桃として生きていこうと思っていた。
正気を置き去りにして、夢だけを見てこの身体を捨ててしまおうと思っていた。
長いこと本名で呼ばれていない。
ボクはもう桃という生き物なのだと諦めていた。
普通の生活を送るはやてちゃんにも言えなかった。
ボクの本名を呼ばれたら、ボクは店にいる桃としての自分と乖離してしまうと思っていた。ずっと桃として生きていくのに、はやてちゃんに名前で呼ばれてボクを生かしてもらったら、身体はきっと半分になってしまう。
だからボクは、お父さんとお母さんがつけてくれた名前を捨てた。
だけどアランには、ちゃんと本当の名前で呼んで欲しいと思った。
自分からもう一度噛んでとねだった。すでに番であったとしても、もう一度。
アランは「お望みのままに」と言って、してくれた。
血が出るほど強く、肉を抉り、ボクを傷つけて欲しかった。
名前を呼んで求めた。
名前を呼ばれて求められた。
幸せで、脳みそがとろけていくようだった。
幸せ過ぎて死にたくなって、でもこの人ともっと一緒にいたいと、生きたいと思った。
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