紫雨の話

ヰ野瀬

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紫雨に会いに

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 ずっと考えていた。戻って欲しくなかった現実。夢から現実に引き戻された環境はなにかしらの力が働いているようにしか思えない。幸は紫雨に会うために山に登ることにした。目の前の距離が長いように感じる。
 それでも紫雨に会いに行かなければいけない。ボサボサとした髪の毛を指で軽くほどいてゆっくりと登っていく。
 ふいになにか風鈴のような音が聞こえた気がした。林の中から一斉にチリンチリンと鳴り響く音。どこから聞こえてくるのかはわからないが、とにかく急いだほうがいいと思い、幸は速足で紫雨のもとへと向かった。
 何かが変わっているわけではなかった。何かあったのだろうと思っていたが、紫雨は飲み干した酒の缶を放り投げて寝ていた。あの風鈴の音と関係があるかと思ったが思い過ごしのようだった。
「紫雨……起きて」
「ん……」
 なかなか起きない紫雨の肩を揺さぶった。それでもんっとしか言わない。爆睡をしているようで、起きるまで頂上で下の様子を眺めることにした。
 寒くて鼻がすぐに赤くなる。暖かい服を着てきたけれど、外に出るとあっという間に体が震える。
 白くなった田舎の田んぼ。家がポツポツとあるが、ほとんどが田んぼだらけ。足を田んぼに突っ込むと太ももまでになる日だってあった。本当に田舎だ。でも真っ白で綺麗だ。
 眠くなってきて目を閉じかけていたころ、肩に柔らかな感触が舞い降りてきたかのようにかかった。赤くなった鼻を擦りながら紫雨が幸に毛布をかけてくれたようだった。
「お前、死ぬぞ。こんな所で眠そうにするな」
「だって紫雨が起きなかったから」
「俺のせい?」
「うん」
「……で、何の用なんだよ。小屋に戻るぞ」
 暖かい布団を肩にかけて戻ろうしてふと思い出した。
「さっき」
「ん?」
「さっき、そういえば林ん中から風鈴の音みたいなチリンチリン言ってたけど、紫雨なにかあったの?」
 一瞬、悲しそうな顔をした紫雨。目を逸らせず声を発するのを待った。
「そうか……。特に何もないよ。ただ俺がここの主になったってだけ」
「どういうこと?」
「俺はここからは死ぬまで離れられないってこと」
「なんか、ごめん」
「は? なんでお前が謝んだよ。謝んのはあのクソジジイだけだ」
「……?」
 どういう意味なのかわからないが、その人に恨みがあるのはわかる。
 小屋の中は暖めて置いてくれたのかポカポカとしていて、寒さでかたまった血液を溶かしてくれるかのようだ。しばらく温まってから本題に入ろうと暖かいココアを手に持ち、声をかけた。
「あのさ、聞きたいことがある」
「うん、なんだよ」
「私の母さんが変わったのって……やっぱり……紫雨が何かしたの」
「だったらなんだ」
「もう、母さんを自由にしてあげて欲しいの」
「……」
「母さんから離れるから! いないものとしてでいいから、笑顔が見たいの。だから自由にしてあげてほしくて」
「お前のエゴを母さんに押し付けるな」
 正論で言葉に一瞬詰まる。だけど、諦めきれずに言葉に力を込めてもう一度、伝えた。
「私のためじゃない、母さんのため」
 すると、ため息をついて指をクルクル回す動作を紫雨は何回か繰り返した。
「俺はそこまで力があるわけじゃない、少しだけ夢を見させてやるだけだ……母親を何とかしたいならお前が変わるしかない」
「……そう」
 自分自身が変わるなら、家から出ていくということしか選択肢はない。母さんの昔のような笑顔が見たい。無関心でもいい。笑って欲しかった。それだけだ。
「わかった。私この土地から出ていく」
「……は? いきなりだな」
「いきなりじゃない。退学して一人暮らしして生活することにする」
「おまえじゃ無理だろ」
「やってみなきゃわからないじゃん」
「あっそ。まあいつでも帰ってこいよ」
「……うん」

 今まで引きこもっていた自分がいきなり一人暮らしなんてとうてい無理だ。だから最初はバイトから始めた。朝の新聞配達や近くのスーパーでの棚卸し。経験して経験して、長く務めたパン屋で住み込みで働けるようになった。
 最初は家から通っていたが、もともと住み込みも受け入れていた会社だったため途中からは住み込みになった。先輩も同僚も後輩もできた。あっという間だった。自分には出来ないと思っていたことが出来ることが嬉しかった。
 そして母さんも笑顔になった。出ていくと知った途端、笑顔を見せてくれたのだ。無関心だった自分に対して笑顔を向けてくれるようになった。それだけでやはり。やはり、悲しくなる。嬉しくもあり、悲しくもある。あの言葉は自分の事だったと受け止めることにした。だから涙は溢れて止まらなかった。狭い六畳間で一人、啜り泣く哀れな女。
 紫雨もいない。紫雨すらいない。仕事以外は辛いものばかりだ。
 接客で関わる人たちはいい人や優しい人ばかりで心があったまる。たまに変な客もいるが、なんとかやっていけている。友人もできた。きっと良い方向に向いていると信じている。

 長い休暇日。久しぶりに山に登ると紫雨は姿変わらずそこにいた。
 岩の縁に座って指にカエルをのせて話をしている。
「……なんだ、早かったな。もう来ないかと思ったのに」
「本当に成長しないんだね」
「俺は14の時に死んだからな」
「そうだったんだ」
「おまえはうまくやってけてんのか」
「まあまあね」
 紫雨のふわふわの頬をつついて笑う。
 驚いた表情をして自分より低いまんまの紫雨が、背いっぱいのつま先立ちをして幸を抱きしめる。
「紫雨?」
 止まった心臓は脈打つことはないのに、暖かい体温に落ち着く。
「幸せになれ」
 低く深い声が脳で響く。
「どういう……」
「幸せになれよ。じゃないと、終わるからな」
 どうして聞き返したくなるような言葉を向けてくるんだろう。それなのに返してはいけない雰囲気にさせる紫雨。紫雨の胸から離れて紫雨の顔を間近に持ってくる。
「な、なんだよ!」
「紫雨も……紫雨も幸せになって欲しい」
 お互いの鼻の先をくっつけて笑う。
 紫雨は背が高くなった自分を下から抱きしめるようにして明るい声色で言った。
「もう幸せだ、だから、もう大丈夫だ」

 山から下るとき、紫雨は上の方からずっと見ていた。また会いに来ると言ったのに信じていないのかずっと自分の背中を見続けられ、「またね、またくるから!」と大声で伝えた。そしてそのままパン屋に帰った。
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