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第33話『無敵の人』

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「本当はね、ゆっくりと関係を深めていきたかった。だけどもうこうなってしまったらそれは無理」

 八重樫の目つきが変わる。

「だから今日、わたしはここであなたを永遠に手に入れる。あなたを殺してわたしの愛を真実のものだと証明する」

 そう言うと目の前の狂人は懐に手を入れ、そこから折り畳み式のナイフを取り出した。

 俺が目を疑い、そして思考が追いついた時にはすでに凶刃が棚橋の腹部に突き立てられた後だった。

「ぐっ……ふっ……」

 棚橋が崩れ落ち膝を着く。

 俺は急いで駆け寄って倒れる棚橋の体を支え、地面に寝かせる。

「どうしてお前避けようとしなかったんだよ! 馬鹿なのか?」

「いいんだよ……小鳥遊君。これでよかったんだ……」

「何がいいんだ。何もよくないだろ。まさかこの期に及んでまだクラスメートはみんないいやつだとか思ってるんじゃないだろうな」

「…………」

 俺の言葉に棚橋は弱々しく微笑む。
 もう喋るだけの体力もないのだろう。
 もはや比喩表現でもなんでもなく棚橋の顔色は青白い。

「小鳥遊さんには……最後に一言、謝っておきたかった……かな……」

 息も絶え絶えに棚橋は遺言のような言い草でそんなことを呟いて目を閉じる。
 どくどくと流れ出る血液が制服を赤く染めていく。
 このままでは確実に命に関わる。

 どうして俺はやつがこういう手段に出ることを予測できなかったのか。

 目の前にしているのは生き物を躊躇なく手にかけることのできる悪魔だというのに。

「八重樫、お前こんなことをして許されると思っているのか」

 ぎろりと睨みつけ、俺は八重樫に凄む。

「ふふっ、わたしは何をしても許されるの。何をやってもあのクソ親父がもみ消してくれるから。わたしは無敵。そう無敵の人。選ばれた人間なの」

 八重樫は恍惚とした表情で棚橋の血がついたナイフを頬ずりでもするように顔に近づける。
 親父? パトロン的な親父かそれとも父親的な親父か。
 つーか無敵の人ってそういう意味じゃねえだろ。
 どうでもいいことを連鎖的に脳内で逡巡していると。

「これでわたしの愛は永遠に紡がれる。この身体に、心に宿る愛が本物だと証明される時が来たのよ」

 どんどん衰弱していく棚橋には目もくれず、殺人犯になりつつある少女は己の愛に酔っていた。
 ……おいおい、何かおかしくないか。
 その愛している人間が死にかけているんだぞ。
 どうしてこいつはこんなに冷静なんだ?

「さっきから証明証明って。お前本当に棚橋のことが好きなのかよ」

「あなたの眼にはどう見える?」

 胡乱な目で訊ねられる。

「胡散臭いことこの上ないね」

「ハッ! 何を言ってるの? こんなに執着できるんだもの。好きに決まってるでしょ。小鳥遊さんを精神的に追い詰めてでも彼を手に入れようとしたのだから。それって覚悟がなきゃできないことだと思わない? 愛がなければ実行不可能なことだと思わない?」

「じゃあ具体的にどこが好きなんだよ」

「顔がよくて運動も勉強もできて、みんなの中心にいる人気者。性格も優しい。そんな棚橋君はわたしが好きになるのに相応しい条件を備えた素敵な人物よ」

 スラスラとまるで用意していたかのような紋切り型の賛辞を並び立てる。

「そうか……」

 彼女の言動には引っかかる箇所があった。

 なぜ証を立てることに固執するのか。

 愛という言葉を幾度もしつこいくらいに吠えるのか。

 それが今の返答で全て理解できたような気がする。

 俺は自分の考えに確信を持ち、口にした。

「やっぱりお前、本当は棚橋なんてどうでもいいんだろ。現に今、お前は棚橋のことなんか全然見ちゃいない」

 お前が欲しいのは自分が恋愛をしているという、その実感だけだ。

 棚橋陸という人間の内側には何一つとして注目していない。

 中身の伴わない棚橋の単純なスペックだけを述べ、それらを前面に押し出し、物件選びのように条件だけをさらって好意を抱く人間かどうかを判別している。

 愛しているからどんなこともできる。
 どんなこともできるから愛している。

 八重樫はその二つを繋げようと躍起になっている。

 繋げることで、自分が棚橋を愛していることを他者共に認められる事実にしようとしているのだ。

 そうしないと安心できないから。
 そうしないと自分自身を納得させられないから。
 単純な論法として二つはイコールに見える。
 だが実際、それらは同じ意味として成り立たない。

 根源を異にし、明確な事実の有無がそこにはある。

 八重樫は俺の言葉を受けて硬直し目を見開く。
 そして地面に横たわる棚橋を虚ろな瞳で見下ろした。
 その視線のあまりの無機質な冷たさに俺は思わずぞっと鳥肌を立ててしまう。

「あーダメか。この人でもダメなんだァ……」

 八重樫はポツリと呟き、諦観したような笑い顔を見せる。

「困ったもんね。やっぱりわたしにはわからない。何度生きている動物を殺しても。何度人を好きになろうとしても。心がちっとも動かない。愛おしいとも悲しいとも思えない。ただそこに肉塊があるとしか認識できない。だからわたしは悲しめない。棚橋君が死にかけているのにこんなにも落ち着いたままでいられてしまう」

 再び棚橋に目線を戻す。

「こんな誰もが好意を寄せそうな人にもわたしは興味を持てないの? この人ならわたしに愛を教えてくれると思ったのに。わたしは誰なら好きになれるの? それともわたしはもう駄目なの? ただの猟奇的な獣でしかないの?」

「…………」

「ねえ。そんなことないって言ってみてよ。クサいドラマみたいなテンプレートな説得で励ましてちょうだいよ」

 八重樫はわざとらしく腹を抱えて笑い出し、求めてもいない救いの言葉を俺に言わせようとする。
 どうしてだろう。

 俺はこいつが学級委員の眼鏡で三つ編みの八重樫でいた時よりも今の馬脚を現した姿の方を話しやすいと感じてしまっている。

 こいつの苦悩が。感性が。ところどころに既視感があって。

 こいつの抱えている劣等感が俺に似ているような気がして……。

「周りが生き物を愛でたり異性に恋したりすることを当たり前にこなしている中で、わたしだけが意味を理解できていない。そのことがすごく恥ずかしかった。みっともないと思った。……ねえ、あなたにも覚えがあるんじゃない?」

「……ねえよ」

 心の内を読まれたように唐突に共感を求められた俺は動揺する。

「でも、君はわたしと同じでしょ。一緒に行動した時、そうじゃないかって気が付いた。違うかもって思ってたけど、やっぱりそうだった。棚橋君が犯人を捜すために一生懸命になっているその隣で。君は小鳥遊由海のことも、棚橋君のことも。全部どうでもいいと思いながら、でも周りに倣うならこうするべきだろうって窺いながら付き合っていた。大抵の人には気付けないよう擬態していたけど、わたしにはすぐわかった。丸わかりだった。だって周囲を見回す雰囲気がわたしにそっくりなんだもの」

 ククッと口元に手を当て八重樫は嫌味な笑い声を上げた。

「違う。俺はお前とは違う」

「友達が死にそうな状況に焦ってる様子もないのに?」

 瀕死の棚橋を尻目に八重樫は俺に反駁する。

「……急いては事を仕損じるっていうだろうが」

 苦し紛れの戯言だ。

「今まで本当にそう思ってた? 何としてでも助けなきゃって思ったりした?」

 思っていない。思っていない。
 どう転んでもいいとさえ感じていた。
 心配する素振りを見せながら、心の底ではなるようになればいいと、そう思っていたのだ。

「…………」
 
 勝ち誇った表情でほくそ笑む八重樫の目には生気が取り戻されつつあった。
 むかつく顔をしてやがる。
 何をそんなに喜んでいる。

 俺は猛烈な怒りを覚え、憤りのあまり本心をぶつけてしまった。

「俺には理解できないね。恋愛なんて冷めてしまえば簡単に忘れてしまうある種の病のようなものにここまで入れ込むなんて」

 こんな本音、今まで誰かに語ったことなんてなかった。
 語ればおかしなやつだと避けられるに決まっているからだ。
 しかしなぜか八重樫を相手したこの時は軽やかに口が回ってしまった。
 滑ったとも言える。

「あなたはあきらめた。わたしは欲した。それだけの違いよ。根本は一緒。同じところにいて対極に位置する。それがわたしたちよ」

「……だからお前と一緒にするんじゃねえよ。俺は一線を越えていない」

「でも考え方については否定しないんだね」

「全部否定していくのが面倒だっただけだ」

「ふーん? ところでね、わたし今さっきいいことを思いついたの」

 いいこと、ね。俺には悪い予感しかしないんだがな。

「同じ意識を共有できるあなたをこの手で殺めたら、わたしは喪失感に浸れるかなって。失う悲しみを。感情を感じることができるかもしれないなって」

 何だか雲行きが怪しい。どこかで見た展開だ。

 そう、ほんの少し前にこの場所で……。

「確かめてみたいの。わたしに教えてよ。本当の愛が。人を好きになる人間らしい感情がどんなものなのかを。初めて会えた同類のあなたを失えば今度こそわかる気がする」

「待て、それってつまり……」

 八重樫は無邪気に笑い、血糊の着いたナイフを今度は俺に標準を合わせて放ってきたのだった。
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