上 下
31 / 54

第31話 豚の角煮

しおりを挟む
「ううっ。寒いなぁ」

 秋は終わり本格的な冬を迎えた王都の街中を、1人の男が歩く。「光食堂」において常連である貴族の少女、その付き添い人である。

 名家の使用人たるものプライベートの時もきちんとしろと貸し出されたコートを羽織って光食堂へと入っていく。

 ドアを開けるといつものように入店を知らせる鈴の音がチリンチリンと鳴った。



「いらっしゃいませ。あら? 今日はお1人ですか?」

「ええまぁ。店主、今日は豚の角煮とセイシュをもらいたい」

「はいかしこまりました。少々お待ちを」

 彼が注文するとそう言って彼女は店の奥へと引っ込む。



 彼はこの店にお嬢様と来るようになった経緯を思い出す。

 きっかけは彼が仕える家に出入りしている大店おおだなの商人からお嬢様がこの店の話を聞いた事。

 それ以来新しい物好きな彼女に連れられて、2人で初めて来たのは今年の夏の終わりごろ。

 そこで彼女が最初に頼んだカレーライスの甘口を大変気に入り、それ以来少なくとも週2回は自分を連れてこの店に来るようになった。

 ……カレーライスと、もう1つの理由で。



「お待たせいたしました。豚の角煮と清酒になりますね」

 それほど間を置かずに料理が届く。ことりと置かれたのは皿に盛られた豚肉の塊と、セイシュなる酒の入った酒瓶。

 冷めないうちに、と早速角煮を口に入れる。

 限界まで煮込まれた豚肉の身は豚肉だと信じられない位に柔らかく、噛まずに舌に触れるだけで溶けてしまいそうな錯覚すら引き起こす。

 すかさず彼は角煮と共にセイシュをグビリとあおる。

「っか~~! これがあるからこの店は辞められねえ!」

 その美味さに思わず声が出る。



 以前、自分らと同じように常連であろうドワーフがこの組み合わせをしているのを見て真似したらこれが大当たり。

 何か、とは特定できないが調味料由来のコクのある甘みと豚肉の持つうま味、それとセイシュのキリッとした辛さは抜群の相性を持つ。

 贅沢らしい贅沢を味わう前に没落して潰れたとはいえ、一応は貴族出身の身であった彼にとってもこの店に来るまでは未知の美味だった。

 これを知らないなんて人生の半分は損している。とまで言える味だ。

 そんな美味を目の前にしたら当然、角煮も清酒も10分も持たずになくなってしまう。

「店主、角煮とセイシュのお代わりを頼む」

「はいかしこまりました。少々お待ちを」

 彼はすかさずお代わりを注文した。



(……確か彼、どこぞのお貴族の従者だったよな? 今日は1人だな。休みか?)

 タヌキ型獣人のダルケンが、1人晩酌ばんしゃくする彼を見る。

 休みの日はたまにこの店に探りを入れているのだが、そこで貴族らしき少女に連れられた彼を何度か見ていた。

(あんなに美味そうに食っているというのなら食べてみるか。今日は研究は休みにするか)

「店主。今日は豚の角煮とセイシュを頼む」

 ダルケンは彼と同じメニューを頼んだ。たまには研究を忘れて純粋にこの店の味を楽しむのも悪くはないと思いながら。

 その後彼もこの味のとりこになるのだが、それは別のお話。



「ふう……」

 追加注文した酒と角煮を待つ間、普段は従者をしている彼は考える。

 あと2年もしたら娘は政略結婚で嫁に行くから、それまで悪い虫がつかないようにかりそめの恋人役をしてくれ。

 半年前に彼女の父親や執事長から依頼されたことで、あくまで仕事として割り切っている。

 上司からの命令は絶対だというのもあるが、その辺にいくらでもいる没落貴族が名家のお嬢様とつながりが持てるからと、悪い取引ではないと思って引き受けている。

 今はまだいいが別れの時に、彼女はどんな顔をするのだろうか。

 それを考えると少し寂しい気もするが、没落貴族と名家の令嬢との恋愛なんて恋愛小説の中だけで十分だ。

 俺は分別をわきまえた大人だから……と言い聞かせた。



【次回予告】
たぬきそばを研究するかたわら、ダルケンはそれよりも簡単に再現できそうな別のメニューの研究もしていた。今日来たのは「最後の答え合わせ」が目的だった。

第32話「おでん」
しおりを挟む

処理中です...