179 / 203
#179 まるで幽霊みたい
夜の町はいつだって静かだと思っていた。
でも実際は違った。遠くで犬が吠えている。換気扇が唸る。時折、誰かの笑い声がビルの谷間で跳ね返り、消えていく。けれど、誰の姿も見えない。誰も、私を見ない。
私は、まるで幽霊みたいだと思う。
人にぶつかっても謝られない。
レジでお釣りを渡されるとき、店員は一度も目を合わせない。
話しかけても、一拍置いてから「え、あっ……すみません、気づきませんでした」と言われるのが常だった。
それが日常になってから、私は夜に歩くようになった。
人気のない、深夜の町を。ただ歩くだけ。電柱の影を踏みしめ、信号の変わる音に耳をすませ、閉店したコンビニのガラスに映る自分を確認する。それだけが、まだここに存在しているという確かな証のように思えた。
「いっそ、本当に幽霊になれたらいいのに」
そう呟いた声も、自分の耳にしか届かない。歩道橋の上から、車のテールランプが遠ざかっていくのを見送る。
誰もいない交差点で、信号が青になるのを待ってから渡る。幽霊だとしても、規則は守るべきだと思った。
ある夜、珍しく雨が降った。
傘を持たずに歩いていた私は、濡れながらもそのままいつものルートをたどった。誰にも見られていないのなら、濡れることも、風邪を引くことも、大した意味はないように感じられた。
その時だった。駅前の自販機の前で、見知らぬ男がこちらを見ていた。
じっと、まっすぐに。まるで、私が確かに「そこにいる」と知っているかのように。
驚いた私は目をそらし、その場を離れようとした。だが背中から声が飛んできた。
「あなた、幽霊?」
振り向くと、男は少し笑っていた。青年とも中年ともつかない年齢。着古したコート、濡れた髪。だがその目だけは異様なほど澄んでいて、私の輪郭を正確になぞるように見つめてきた。
「幽霊みたいに見えるでしょ」
私は答えた。
「でも違う。ただの人間。たぶんね」
男はしばらく黙っていたが、やがてうなずいた。
「俺も、そう思ってた。でも最近、わからなくなってきたんだ。自分がちゃんと生きてるのか、存在してるのか」
夜の雨の音だけが、しばらく二人の間を埋めた。見知らぬ人間とこんな風に立ち話をするのは、何年ぶりだろう。
「名前、聞いていい?」
私は答えなかった。代わりに、自販機であたたかい缶コーヒーを二本買った。一本を彼に手渡し、もう一本を自分の頬に当てた。熱が、皮膚を通してじんわりと心に染みた。
男は缶の蓋を開けながら言った。
「もし、どこかでまた見かけたら、話しかけてもいい?」
私はうなずいた。たとえそれが、幻であっても。
彼と別れてからも、私は夜の町を歩くのをやめなかった。
今も誰からも見られず、名前を呼ばれることもない。でも、あの夜の自販機の前に立つと、いつかもう一人の幽霊が現れるかもしれない、そんな気がしてならない。
そしてふと、私は思う。
――もしかしたら、世界にはたくさんの「幽霊みたいな人」がいるのかもしれない。
見えないふりをされて、声が届かず、それでも必死にここにいると願いながら生きている人たちが……。
でも実際は違った。遠くで犬が吠えている。換気扇が唸る。時折、誰かの笑い声がビルの谷間で跳ね返り、消えていく。けれど、誰の姿も見えない。誰も、私を見ない。
私は、まるで幽霊みたいだと思う。
人にぶつかっても謝られない。
レジでお釣りを渡されるとき、店員は一度も目を合わせない。
話しかけても、一拍置いてから「え、あっ……すみません、気づきませんでした」と言われるのが常だった。
それが日常になってから、私は夜に歩くようになった。
人気のない、深夜の町を。ただ歩くだけ。電柱の影を踏みしめ、信号の変わる音に耳をすませ、閉店したコンビニのガラスに映る自分を確認する。それだけが、まだここに存在しているという確かな証のように思えた。
「いっそ、本当に幽霊になれたらいいのに」
そう呟いた声も、自分の耳にしか届かない。歩道橋の上から、車のテールランプが遠ざかっていくのを見送る。
誰もいない交差点で、信号が青になるのを待ってから渡る。幽霊だとしても、規則は守るべきだと思った。
ある夜、珍しく雨が降った。
傘を持たずに歩いていた私は、濡れながらもそのままいつものルートをたどった。誰にも見られていないのなら、濡れることも、風邪を引くことも、大した意味はないように感じられた。
その時だった。駅前の自販機の前で、見知らぬ男がこちらを見ていた。
じっと、まっすぐに。まるで、私が確かに「そこにいる」と知っているかのように。
驚いた私は目をそらし、その場を離れようとした。だが背中から声が飛んできた。
「あなた、幽霊?」
振り向くと、男は少し笑っていた。青年とも中年ともつかない年齢。着古したコート、濡れた髪。だがその目だけは異様なほど澄んでいて、私の輪郭を正確になぞるように見つめてきた。
「幽霊みたいに見えるでしょ」
私は答えた。
「でも違う。ただの人間。たぶんね」
男はしばらく黙っていたが、やがてうなずいた。
「俺も、そう思ってた。でも最近、わからなくなってきたんだ。自分がちゃんと生きてるのか、存在してるのか」
夜の雨の音だけが、しばらく二人の間を埋めた。見知らぬ人間とこんな風に立ち話をするのは、何年ぶりだろう。
「名前、聞いていい?」
私は答えなかった。代わりに、自販機であたたかい缶コーヒーを二本買った。一本を彼に手渡し、もう一本を自分の頬に当てた。熱が、皮膚を通してじんわりと心に染みた。
男は缶の蓋を開けながら言った。
「もし、どこかでまた見かけたら、話しかけてもいい?」
私はうなずいた。たとえそれが、幻であっても。
彼と別れてからも、私は夜の町を歩くのをやめなかった。
今も誰からも見られず、名前を呼ばれることもない。でも、あの夜の自販機の前に立つと、いつかもう一人の幽霊が現れるかもしれない、そんな気がしてならない。
そしてふと、私は思う。
――もしかしたら、世界にはたくさんの「幽霊みたいな人」がいるのかもしれない。
見えないふりをされて、声が届かず、それでも必死にここにいると願いながら生きている人たちが……。
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗@オートスキル第1巻発売中
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。