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ノアキ光

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#179 まるで幽霊みたい

夜の町はいつだって静かだと思っていた。
でも実際は違った。遠くで犬が吠えている。換気扇が唸る。時折、誰かの笑い声がビルの谷間で跳ね返り、消えていく。けれど、誰の姿も見えない。誰も、私を見ない。

私は、まるで幽霊みたいだと思う。

人にぶつかっても謝られない。
レジでお釣りを渡されるとき、店員は一度も目を合わせない。
話しかけても、一拍置いてから「え、あっ……すみません、気づきませんでした」と言われるのが常だった。

それが日常になってから、私は夜に歩くようになった。
人気のない、深夜の町を。ただ歩くだけ。電柱の影を踏みしめ、信号の変わる音に耳をすませ、閉店したコンビニのガラスに映る自分を確認する。それだけが、まだここに存在しているという確かな証のように思えた。

「いっそ、本当に幽霊になれたらいいのに」

そう呟いた声も、自分の耳にしか届かない。歩道橋の上から、車のテールランプが遠ざかっていくのを見送る。
誰もいない交差点で、信号が青になるのを待ってから渡る。幽霊だとしても、規則は守るべきだと思った。

ある夜、珍しく雨が降った。
傘を持たずに歩いていた私は、濡れながらもそのままいつものルートをたどった。誰にも見られていないのなら、濡れることも、風邪を引くことも、大した意味はないように感じられた。

その時だった。駅前の自販機の前で、見知らぬ男がこちらを見ていた。

じっと、まっすぐに。まるで、私が確かに「そこにいる」と知っているかのように。

驚いた私は目をそらし、その場を離れようとした。だが背中から声が飛んできた。

「あなた、幽霊?」

振り向くと、男は少し笑っていた。青年とも中年ともつかない年齢。着古したコート、濡れた髪。だがその目だけは異様なほど澄んでいて、私の輪郭を正確になぞるように見つめてきた。

「幽霊みたいに見えるでしょ」
私は答えた。
「でも違う。ただの人間。たぶんね」

男はしばらく黙っていたが、やがてうなずいた。

「俺も、そう思ってた。でも最近、わからなくなってきたんだ。自分がちゃんと生きてるのか、存在してるのか」

夜の雨の音だけが、しばらく二人の間を埋めた。見知らぬ人間とこんな風に立ち話をするのは、何年ぶりだろう。

「名前、聞いていい?」

私は答えなかった。代わりに、自販機であたたかい缶コーヒーを二本買った。一本を彼に手渡し、もう一本を自分の頬に当てた。熱が、皮膚を通してじんわりと心に染みた。

男は缶の蓋を開けながら言った。

「もし、どこかでまた見かけたら、話しかけてもいい?」

私はうなずいた。たとえそれが、幻であっても。

彼と別れてからも、私は夜の町を歩くのをやめなかった。
今も誰からも見られず、名前を呼ばれることもない。でも、あの夜の自販機の前に立つと、いつかもう一人の幽霊が現れるかもしれない、そんな気がしてならない。

そしてふと、私は思う。

――もしかしたら、世界にはたくさんの「幽霊みたいな人」がいるのかもしれない。
見えないふりをされて、声が届かず、それでも必死にここにいると願いながら生きている人たちが……。
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