どうぞお引き取りください旦那様。私は私の人生を歩みます。

Ame

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第1話 冷たい結婚生活

 薄いレース越しに朝の光が差し込み、寝室の空気を淡く照らしていた。
 ラングフォード侯爵家の寝室は、どこを見ても完璧に整えられている。
 磨き上げられた床、繊細な刺繍が施された天蓋、壁に掛けられた絵画の額縁に至るまで、すべてが高価ですべてが美しい。

 けれど、その美しさはどこか冷たかった。

 ノエルはゆっくりと目を開け、天蓋の布を見つめた。
 朝の光が揺らめき、布の影が床に淡く落ちている。
 その光景は昨日と変わらない。
 そして、今日もまた――変わらないものがあった。

 隣の寝台は、昨夜のまま乱れていない。

 夫エドモンドは、帰ってこなかった。

(……今日も、なのね)

 胸の奥に広がるのは、怒りでも悲しみでもない。
 ただ、静かに沈んでいくような空洞だけだった。

 ノエルは上体を起こし、隣の枕に視線を落とす。
 そこには、夫の気配は何ひとつ残っていない。
 香りも、体温も、重みも。

 結婚して一年。
 夫婦として同じ寝台に横たわった夜は、片手で数えられるほどしかない。

 初夜のことを思い出す。
 緊張と不安と、ほんの少しの期待を抱いて臨んだあの夜。
 エドモンドは最低限の言葉を交わしただけで、淡々と義務を果たし、そのまま背を向けて眠ってしまった。

 翌朝、彼は何事もなかったかのように起き上がり、「出かけてくる」とだけ言って部屋を出ていった。

 その瞬間、ノエルの中で何かが静かに折れた。

(私は……妻ではなく、ただの『条件』だったのでしょうね)

 ノエルは自嘲のように微笑んだ。
 その笑みは、ひどく冷たかった。



 身支度を整え、寝室を出る。
 廊下には朝の空気が満ちていた。
 使用人たちが静かに行き交い、ノエルを見ると一斉に頭を下げる。

「おはようございます、ノエル様」

「おはよう。今日もよろしくね」

 彼らはノエルに敬意を払っている。
 それは、ノエルがこの一年で屋敷を整え、家政を立て直し、使用人たちの信頼を得たからだ。

 だが、その立場を与えたはずの夫だけが、ノエルの努力を一度も見ようとしなかった。

 朝食の席に着くと、銀の蓋が静かに開けられた。
 焼きたてのパン、香り高いスープ、新鮮な野菜。
 侯爵家にふさわしい朝食が並ぶ。

 しかし、向かいの席は空のまま。

「旦那様は……?」

 ノエルが問うと、侍女が小さく首を振った。

「本日も、まだお戻りではございません」

「そう……ありがとう」

 ノエルは短く答え、ナイフとフォークを手に取る。
 料理の味は申し分ない。
 けれど、ひとりで食べる食卓はどうしても味気なかった。

(結婚したら、朝食の席で他愛もない会話をするものだと思っていたのだけれど)

 今日の天気のこと。
 領地の様子。
 最近読んだ本の話。

 そんなささやかな会話を、ノエルは夢見ていた。

 だが現実には、エドモンドと食卓を共にした回数は数えるほどしかない。
 彼はいつも「忙しい」と言って席を立ち、ノエルの向かいの椅子はほとんど空席のままだった。

(忙しいのは本当なのでしょう。でも……)

 ノエルはパンを口に運びながら、心の中で続ける。

(忙しいからといって、妻を『存在しないもの』のように扱う理由にはならないわ)

 そう思っても、口に出すことはない。
 ノエルは、感情をぶつけることを選ばなかった。
 それは諦めではなく――自分の尊厳を守るための、静かな距離だった。

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