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第2話 疑惑
朝食を終えると、ノエルは屋敷の管理に取りかかった。
侯爵家の妻であるはずなのに、実際は家政の中心を担っている。
執務室の机には帳簿が積み上げられていた。
領地からの収支報告、屋敷の維持費、使用人たちの給与。
数字の列がびっしりと並んでいる。
「ノエル様、こちらの帳簿ですが……」
侍女ミーナが一冊の帳簿を差し出す。
ノエルはそれを受け取り、手慣れた様子でページをめくった。
「ここ、先月より支出が増えているわね。理由は?」
「旦那様のご外出時の経費が……」
「そう。詳細は?」
ミーナは言いにくそうに視線を落とした。
「……ご交際費が、かなり増えております」
ノエルは帳簿から視線を上げ、窓の外に目を向けた。
庭には朝の光が降り注ぎ、花々が揺れている。
(あの人は……どこで、誰と、何をしているのかしら)
問いは浮かぶが、答えを求めることはしない。
求めたところで、返ってくるのはきっと冷たい言葉だけだ。
「分かったわ。ここは一度、上限を決めましょう。これ以上増えるようなら、理由を明細で出してもらうよう伝えて」
「かしこまりました、ノエル様」
ノエルは淡々と指示を出す。
その姿は、侯爵家の奥方として申し分ないものだった。
だが、その有能さを最も知らなければならない人物――夫・エドモンドだけが、それを見ようとしない。
(私は……何のためにここにいるのかしら)
ノエルは帳簿を閉じ、深く息を吐いた。
◇
午前の仕事を終え、廊下を歩いていると、ミーナがどこか言いにくそうに近づいてきた。
「ノエル様……少し、お耳に入れておきたいことが……」
「どうしたの?」
ミーナは周囲を見回し、声を潜めた。
「今朝、庭で……旦那様が、どなたかと話しておられました」
ノエルの足が止まる。
「どなたか?」
「女性のようでした。お顔までは……」
胸の奥が、ひどく冷たくなる。
(女性……?)
ノエルはすぐには言葉を返せなかった。
喉の奥がきゅっと締め付けられるような感覚。
だが、表情は崩さない。
それは、この一年で身につけた仮面だった。
「教えてくれてありがとう、ミーナ」
「……ノエル様……」
「大丈夫よ」
ノエルは微笑んだ。
その笑みは穏やかだったが、目の奥には静かな光が宿っていた。
(まさか……そんなはずは)
自分に言い聞かせる。
だが、胸のざわめきは消えない。
◇
ノエルは庭へ向かった。
気持ちを落ち着けるため――そう自分に言い訳をしながら。
庭には季節の花々が咲き誇っていた。
庭師たちが丹精込めて育てた花壇は、色とりどりの花で埋め尽くされている。
本来なら心が和む光景のはずだった。
だが、今日のノエルの視線は花ではなく地面に向けられていた。
ふと、土の上に残る足跡が目に入る。
革靴の跡。
この屋敷で、その靴を履いているのは限られている。
(……エドモンド)
ノエルは足跡を目で追った。
それは庭の奥へと続いている。
誰も使わないはずの、小さな東屋へ。
(どうして、こんな場所に?)
東屋は屋敷の裏手にひっそりと建っている。
かつては客人をもてなすために使われていたが、今ではほとんど人が訪れない。
その場所へ続く足跡が、今朝、新たに刻まれている。
ノエルは胸に手を当て、深く息を吸った。
確かめるべきか。
見なかったことにするべきか。
夫の冷たさ。
増え続ける交際費。
侍女の言葉。
そして、この足跡。
すべてが、ひとつの答えへと繋がっていく。
(私は……何を見つけてしまうのかしら)
ノエルは静かに東屋へと歩き出した。
その先に待つものが、
彼女の人生を大きく変えることになるとも知らずに。
侯爵家の妻であるはずなのに、実際は家政の中心を担っている。
執務室の机には帳簿が積み上げられていた。
領地からの収支報告、屋敷の維持費、使用人たちの給与。
数字の列がびっしりと並んでいる。
「ノエル様、こちらの帳簿ですが……」
侍女ミーナが一冊の帳簿を差し出す。
ノエルはそれを受け取り、手慣れた様子でページをめくった。
「ここ、先月より支出が増えているわね。理由は?」
「旦那様のご外出時の経費が……」
「そう。詳細は?」
ミーナは言いにくそうに視線を落とした。
「……ご交際費が、かなり増えております」
ノエルは帳簿から視線を上げ、窓の外に目を向けた。
庭には朝の光が降り注ぎ、花々が揺れている。
(あの人は……どこで、誰と、何をしているのかしら)
問いは浮かぶが、答えを求めることはしない。
求めたところで、返ってくるのはきっと冷たい言葉だけだ。
「分かったわ。ここは一度、上限を決めましょう。これ以上増えるようなら、理由を明細で出してもらうよう伝えて」
「かしこまりました、ノエル様」
ノエルは淡々と指示を出す。
その姿は、侯爵家の奥方として申し分ないものだった。
だが、その有能さを最も知らなければならない人物――夫・エドモンドだけが、それを見ようとしない。
(私は……何のためにここにいるのかしら)
ノエルは帳簿を閉じ、深く息を吐いた。
◇
午前の仕事を終え、廊下を歩いていると、ミーナがどこか言いにくそうに近づいてきた。
「ノエル様……少し、お耳に入れておきたいことが……」
「どうしたの?」
ミーナは周囲を見回し、声を潜めた。
「今朝、庭で……旦那様が、どなたかと話しておられました」
ノエルの足が止まる。
「どなたか?」
「女性のようでした。お顔までは……」
胸の奥が、ひどく冷たくなる。
(女性……?)
ノエルはすぐには言葉を返せなかった。
喉の奥がきゅっと締め付けられるような感覚。
だが、表情は崩さない。
それは、この一年で身につけた仮面だった。
「教えてくれてありがとう、ミーナ」
「……ノエル様……」
「大丈夫よ」
ノエルは微笑んだ。
その笑みは穏やかだったが、目の奥には静かな光が宿っていた。
(まさか……そんなはずは)
自分に言い聞かせる。
だが、胸のざわめきは消えない。
◇
ノエルは庭へ向かった。
気持ちを落ち着けるため――そう自分に言い訳をしながら。
庭には季節の花々が咲き誇っていた。
庭師たちが丹精込めて育てた花壇は、色とりどりの花で埋め尽くされている。
本来なら心が和む光景のはずだった。
だが、今日のノエルの視線は花ではなく地面に向けられていた。
ふと、土の上に残る足跡が目に入る。
革靴の跡。
この屋敷で、その靴を履いているのは限られている。
(……エドモンド)
ノエルは足跡を目で追った。
それは庭の奥へと続いている。
誰も使わないはずの、小さな東屋へ。
(どうして、こんな場所に?)
東屋は屋敷の裏手にひっそりと建っている。
かつては客人をもてなすために使われていたが、今ではほとんど人が訪れない。
その場所へ続く足跡が、今朝、新たに刻まれている。
ノエルは胸に手を当て、深く息を吸った。
確かめるべきか。
見なかったことにするべきか。
夫の冷たさ。
増え続ける交際費。
侍女の言葉。
そして、この足跡。
すべてが、ひとつの答えへと繋がっていく。
(私は……何を見つけてしまうのかしら)
ノエルは静かに東屋へと歩き出した。
その先に待つものが、
彼女の人生を大きく変えることになるとも知らずに。
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