どうぞお引き取りください旦那様。私は私の人生を歩みます。

Ame

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第2話 疑惑

 朝食を終えると、ノエルは屋敷の管理に取りかかった。
 侯爵家の妻であるはずなのに、実際は家政の中心を担っている。

 執務室の机には帳簿が積み上げられていた。
 領地からの収支報告、屋敷の維持費、使用人たちの給与。
 数字の列がびっしりと並んでいる。

「ノエル様、こちらの帳簿ですが……」

 侍女ミーナが一冊の帳簿を差し出す。
 ノエルはそれを受け取り、手慣れた様子でページをめくった。

「ここ、先月より支出が増えているわね。理由は?」

「旦那様のご外出時の経費が……」

「そう。詳細は?」

 ミーナは言いにくそうに視線を落とした。

「……ご交際費が、かなり増えております」

 ノエルは帳簿から視線を上げ、窓の外に目を向けた。
 庭には朝の光が降り注ぎ、花々が揺れている。

(あの人は……どこで、誰と、何をしているのかしら)

 問いは浮かぶが、答えを求めることはしない。
 求めたところで、返ってくるのはきっと冷たい言葉だけだ。

「分かったわ。ここは一度、上限を決めましょう。これ以上増えるようなら、理由を明細で出してもらうよう伝えて」

「かしこまりました、ノエル様」

 ノエルは淡々と指示を出す。
 その姿は、侯爵家の奥方として申し分ないものだった。

 だが、その有能さを最も知らなければならない人物――夫・エドモンドだけが、それを見ようとしない。

(私は……何のためにここにいるのかしら)

 ノエルは帳簿を閉じ、深く息を吐いた。



 午前の仕事を終え、廊下を歩いていると、ミーナがどこか言いにくそうに近づいてきた。

「ノエル様……少し、お耳に入れておきたいことが……」

「どうしたの?」

 ミーナは周囲を見回し、声を潜めた。

「今朝、庭で……旦那様が、どなたかと話しておられました」

 ノエルの足が止まる。

「どなたか?」

「女性のようでした。お顔までは……」

 胸の奥が、ひどく冷たくなる。

(女性……?)

 ノエルはすぐには言葉を返せなかった。
 喉の奥がきゅっと締め付けられるような感覚。

 だが、表情は崩さない。
 それは、この一年で身につけた仮面だった。

「教えてくれてありがとう、ミーナ」

「……ノエル様……」

「大丈夫よ」

 ノエルは微笑んだ。
 その笑みは穏やかだったが、目の奥には静かな光が宿っていた。

(まさか……そんなはずは)

 自分に言い聞かせる。
 だが、胸のざわめきは消えない。



 ノエルは庭へ向かった。
 気持ちを落ち着けるため――そう自分に言い訳をしながら。

 庭には季節の花々が咲き誇っていた。
 庭師たちが丹精込めて育てた花壇は、色とりどりの花で埋め尽くされている。

 本来なら心が和む光景のはずだった。
 だが、今日のノエルの視線は花ではなく地面に向けられていた。

 ふと、土の上に残る足跡が目に入る。
 革靴の跡。
 この屋敷で、その靴を履いているのは限られている。

(……エドモンド)

 ノエルは足跡を目で追った。
 それは庭の奥へと続いている。

 誰も使わないはずの、小さな東屋へ。

(どうして、こんな場所に?)

 東屋は屋敷の裏手にひっそりと建っている。
 かつては客人をもてなすために使われていたが、今ではほとんど人が訪れない。

 その場所へ続く足跡が、今朝、新たに刻まれている。

 ノエルは胸に手を当て、深く息を吸った。

 確かめるべきか。
 見なかったことにするべきか。

 夫の冷たさ。
 増え続ける交際費。
 侍女の言葉。
 そして、この足跡。

 すべてが、ひとつの答えへと繋がっていく。

(私は……何を見つけてしまうのかしら)

 ノエルは静かに東屋へと歩き出した。

 その先に待つものが、
 彼女の人生を大きく変えることになるとも知らずに。

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