どうぞお引き取りください旦那様。私は私の人生を歩みます。

Ame

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第3話 芽生えた疑念

 東屋へ続く足跡を追って歩いたその先には、誰の姿もなかった。
 けれど、そこに誰かがいた痕跡だけが、確かに残っていた。

 小さな東屋は、屋敷の裏手にひっそりと佇んでいる。
 木製の柱は少し色褪せ、屋根の端には蔦が絡んでいた。
 かつては客人をもてなすために使われていたらしいが、今ではほとんど人が訪れない。

 だからこそ――そこに残された乱れが、余計に目についた。

 椅子がわずかに引かれたままになっている。
 砂の上には、誰かが歩いた跡が新しく刻まれている。
 そして、床板の上に落ちていたのは――

(……これは)

 ノエルはそっと拾い上げた。
 薄い布地のハンカチ。
 端には、小さな花の刺繍が施されている。

 その刺繍に、ノエルは見覚えがあった。

(カトリーナ……)

 従妹カトリーナ。
 甘え上手で、誰からも可愛がられる少女。
 けれど、その裏に隠れた計算高さをノエルは幼い頃から知っていた。

 子供の頃、カトリーナはよくノエルの後ろをついて回った。
 「ノエル姉様」と呼び、無邪気に笑っていた。
 だが、ノエルが褒められるとカトリーナは決まって不機嫌になった。

 その性格は、大人になっても変わらなかった。

(あの子……エドモンド様に興味を示していたことがあったわね)

 婚約前、カトリーナがエドモンドに向けていた視線。
 そのときノエルは、深く考えなかった。
 まさか自分が選ばれるとは思っていなかったし、カトリーナが本気だとも思わなかった。

 だが――今、このハンカチは何を意味するのか。

 ノエルは胸の奥がひどく冷たくなるのを感じた。



 屋敷へ戻る途中、ノエルは夫の最近の行動を思い返していた。

 外出が増えた。
 帰宅が遅くなった。
 香水の匂いが変わった。
 ノエルのものではない、甘い香り。

(……偶然、ではないわね)

 点が、線になり始めていた。

 しかし、まだ確信には至らない。
 至りたくない――その気持ちもあった。



「ノエル様……」

 廊下でミーナが声をかけてきた。
 心配そうな表情をしている。

「大丈夫よ、ミーナ」

 ノエルは微笑んだ。
 だが、その手がわずかに震えていることに、ミーナは気づいた。

「旦那様は……」

「言わなくていいわ」

 ノエルはそっと制した。
 聞きたくない――そう思ってしまった自分に、胸が痛む。

(私は……何を恐れているのかしら)

 答えは分かっている。
 裏切りという言葉を、まだ受け入れたくなかった。


 ノエルは再び東屋の方へ視線を向けた。
 風が吹き、木々がざわめく。
 その音が、胸のざわめきと重なる。

 手の中のハンカチをぎゅっと握りしめた。

 白い布地に施された花の刺繍。
 カトリーナが好んで使う糸の色。
 そのすべてが、ノエルの心に小さな痛みを刻む。

(まだ……信じたいのに)

 ノエルはそっと目を閉じた。
 胸の奥に芽生えた疑念は、もう消えない。

 それは、静かに根を張り始めていた。

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