どうぞお引き取りください旦那様。私は私の人生を歩みます。

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第11話 崩壊の始まり

 ノエルが社交界で静かな光を纏い始めた頃――エドモンドの屋敷は、目に見えて荒れ始めていた。

 かつては整えられていた庭園。
 四季折々の花が咲き誇り、噴水の水音が心地よい調べを奏でていた場所。

 今は、見る影もない。

 伸び放題の草が風に揺れ、花壇は枯れた茎ばかりが残り、
 噴水は水が濁り、苔が広がっていた。
 庭師の姿はなく、手入れの行き届かない庭は、まるで屋敷の主の心を映すようだった。

 屋敷の中も同じだった。

 廊下には埃が積もり、階段の手すりには手入れの跡がない。
 食堂には片付けられない皿が残り、使用人たちは次々と辞めていった。

「ノエル様がいらした頃は……」

 残った使用人が漏らしたその言葉は、
 エドモンドの胸に深く刺さった。

「黙れ……!」

 怒鳴り返したものの、その声には力がなかった。
 ノエルがいた頃は、屋敷は整い、彼女の静かな気遣いが隅々に行き届いていた。

 それを思い出すたび、胸が締めつけられる。

(ノエル……)

 彼女の存在が、頭から離れない。

 領地の帳簿には赤字が増え続けていた。
 不正が発覚し、監査が入る。

「これはどういうことだ、侯爵」

「……知らん。部下が勝手にやったことだ」

 責任を押し付けようとするエドモンドに、監査官は冷たい視線を向けた。

「ノエル様が管理していた頃は、こんなことはありませんでしたが」

 その一言で、エドモンドの顔が歪む。

(ノエル……)

 彼女がいた頃は、帳簿は整い、領地の収支は安定していた。
 ノエルは細やかで、誠実で、決して自分を裏切らなかった。

 その事実が、今になって重くのしかかる。

 そんな折、久しぶりにカトリーナが屋敷を訪れた。
 だが、以前のような甘い笑顔はどこにもない。

「あなた、もう終わりね」

 その言葉は、刃のように鋭かった。

「な……何を言っている」

「アーネスト様と婚約することになったの。あなたと違って、彼は将来性があるわ」

 カトリーナは冷たく笑った。

「それじゃあね。もう、会うことはないでしょうけど!」

 そのまま踵を返し、振り向きもせずに去っていった。

 エドモンドはその場に立ち尽くした。
 胸の奥が空洞になったように、何も感じられない。

 ◇

 その夜、エドモンドは酒に溺れた。

 グラスを何杯も空にし、机に突っ伏す。

(ノエル……ノエル……)

 脳裏に浮かぶのは、いつも静かに寄り添っていた妻の姿。
 自分が冷たく扱い、傷つけ、追い詰めた相手。

 彼女は、いつも自分を見ていた。
 自分のために動き、支え、尽くしてくれた。

(あいつは……俺を捨てた)

 その呟きは、誰にも届かない。
 ただ、虚しく空気に溶けていくだけだった。

 ◇

 一方その頃、ノエルは社交界での新しい人脈を築いていた。
 趣味や教養が評価され、自然と人が集まってくる。

「ノエル様、またお会いできて光栄ですわ」
「ぜひ今度、茶会にいらして」

 ノエルは丁寧に応じ、落ち着いた態度で会話を続けた。

(私は……前に進むだけ)

 噂でエドモンドの現状を聞いても、ノエルは静かにそう言った。

 その横で、レオンがそっとノエルを見つめていた。

「……辛くはないか?」

 その声は低く、優しく、
 ノエルの心に寄り添うようだった。

「大丈夫よ。もう、過去に引き戻されることはないわ」

 ノエルは微笑んだ。
 その微笑みは強く、しかしどこか儚い。

 ◇

 夜、ノエルは自室で刺繍をしていた。
 ふと窓の外を見ると、庭を巡回するレオンの姿が見える。

 月明かりに照らされた横顔は、どこか優しく、頼もしい。
 その姿を見ているだけで、胸の奥が温かくなる。

(レオン……)

 その名を心の中で呼ぶと、
 胸が静かに高鳴った。

 その感情が何なのか、まだはっきりとは分からない。
 けれど彼の存在が、自分の未来を照らしてくれていることだけは確かだった。

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