前世は聖女だったらしいのですが、全く覚えていません

夏目

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ついてない

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 ぶかぶかのセーターは、孤児院でもらった唯一のものだった。下着も髪留めも、働いたお金で買ったり、働き先の親切なおばさんに貰う。

 ドロシーはいつも、忙しなく働いている。

 教会の孤児院は貴族からの援助がきているはずなのに、いつもお金がないと喘いでいる。
 それは院長先生が横領しているから。そんなの誰でも知っていることだけど、消えちゃったお金に執着するのは馬鹿のすること。

 時間は有限!

 それに自ら稼いだほうが人に文句を言うよりも生産的。

 だからドロシーはいつもせっせと働いて汗をながす。
 親なし児はいつも貧困に喘いでいる。救ってくれた教会も慈悲の心からじゃなくて、善人ぶりたい貴族からお金を毟り取りたいだけだ。
 そんなことは知っていた。

 だが、教会がなければドロシーは親なしの上に家なし児だ。

 家がなければ、働かせても貰えない。
 どこの家も自分達の生活だけで精一杯で、泥を啜り、骨だけの子供に愛じゃなくて、拳を与える。

 落し物を拾っただけでスリ扱い! 

 汚れた掃き溜めのなかで臭気を漂わせ、息をしている子供は泥棒扱いがお似合いだって!

 全く、馬鹿馬鹿しい話だ。

 ドロシーは今日も売り子としてパン屋で働いていた。パン屋のおばさんは親切だ。余ったパンは分けてくれるし、古着もくれる。

 でもこのおばさん、ドロシーが働いた当初はかなり邪険に扱っていた。それが改善されたのはおばさんが隣の肉屋のおじさんと浮気をしているのを偶然見てから。

 ドロシーはそれも知っていて、それでもパン屋のおばさんは親切だと思う。
 だって、他のところじゃ何かにつけて泥棒扱い。
 親がいないから、教会で育ったから。偏見の芽はいくらでも芽吹く。

 きっと、ドロシーが普通の家に生まれて、育っても、髪の色や目の色で、同じように差別される。人って結局、自分以外は嫌いなのだ。

 だから、しかたないと割り切るしかない。

 夕方、ドロシーは仕事を終えて、また別の仕事に向かった。
 夜遅くまで働いて、朝早くに起きる。そしてまた仕事をするのだ。毎日それの繰り返し。
 死ぬまで、せっせと働くしかない。

 今日はこのあと縫い物をする。縫い物は得意だ。
 ドロシーは、料理に洗濯、掃除と一通りのことは極めている。
 料理は特に好きだ。人が食べる姿を見るとほっとする。
 教会にいる孤児は誰もが腹ペコだ。雑草だって牛や豚のように食べる。食べるという行為は生きたいという証だ。
 親がいなくても、教会で育っても、生きたいと願っている。
 教会にいるみんなが食べる姿を見ると、ドロシーも生きていいと言われた気になる。

 今日は何を振舞ってあげようか。

 大きく背伸びをして、深呼吸した時だ。
 手の先に何かが触れた。
 驚いて、後ろを振り返ると、身なりのいい紳士ーーしかもかなり上等な! ーーがいた。紳士はよろめいていて、隣にいる老僧の腕を掴んでいる。

 紳士の帽子は道路に落ちていた。よろめいた時に落ちてしまったようだ。帽子は紳士の基本装備だ。
 馬糞や泥が散らばる、不清潔な道路。
 落としてしまったら折角の帽子が使えなくなる。
 貴族は服に臭いが染みがついただけでも新しいのを買い換えるからーー。

 そんなことを考えていたら、突然、体が汚い道路に叩きつけられた。

「なんと、小汚い女だ! 伯爵の帽子を落とすなんて!」

 憎悪がこもった声が、鞭と一緒に振り下ろされる。枯れ木のような手が鞭を振るう。
 ドロシーはしなる鞭に身を強張らせながら、何度も何度も謝った。背中が焼けるように熱い。

 運が悪かった。ドロシーが紳士の帽子を腕を伸ばし た時に落としてしまったのだ。
 伯爵だなんて。貴族の帽子を落とすなんて、ついてない。

 今日の運勢を呪いながら、ドロシーは謝り続けた。
 老僧はしばらく八つ当たりのように鞭を振るっていたが、やがて満足したのか、肩をいからせながら去っていった。

 ーーついてない。

 このあと縫い物をするはずだったのに。
 帰ったら傷を消毒しなければ。振るわれた鞭は放っておくと、熱を持ち、腫れ上がる。
 パン屋の仕事がろくにできなくなる。
 それでは困るのだ。ドロシーは毎日働いている。休みなんてない。休んだ日には次の日から来なくていいと言われる、
 のろのろと起き上がり、かの紳士と目が合って驚く。
 老僧は去ったのに、なぜこの紳士はいるのだろう。また、鞭を振るわれるのかと警戒したとき、紳士は懐から白いハンカチを取り出した。

「ドロシー、これをお使い」

 つい受け取ったものの、ドロシーは差し出した紳士とハンカチを何度も見比べた。

 本当に使ってもいいのだろうか。

 指先が感じる滑らかな感触は、上等なものだと主張している。汚してはいけないものが手の中にある。ドロシーは急に泣きたくなるような惨めさに襲われた。
 使い方を知らないのだ。どう使っていいか、わからない。
 こんなに綺麗なものに汚れをつけたら、また鞭を振るわれる。

 立ち尽くしているドロシーに焦れたのか、紳士が手の中にあるハンカチを奪った。
 名残惜しさで凝視してしまう。奪われるとちょっぴり切ない。

 強欲なのだろうか。与えられれば、自分のものだと勝手に思ってしまうのだ。

 頭を下げて走り去ろうとしたときだ。
 ぐっと顎を掴まれ、強引に頬をハンカチで拭われた。
 ふわりといい香りがする。花のような、蜜のような、甘い匂い。
 伏せた目をそっと上げる。紳士の顔が極端に近かった。
 奇声を上げたくなるような美しい人だった。町で美人と噂になる者とは次元が違う。空も海も惚れるような、輝きを放つ別世界の人間だった。
 貴族とはこんなにも煌びやかなものなのか。

 ドロシーは泣くつもりなんかないのに、瞳が潤んできた。
 なぜ、同じ人のはずなのに、こんなに違うのだろう。

 大きく深呼吸をして、意識を落ち着ける。新鮮な空気は無料だ。お腹いっぱいに詰め込んでもお金はとられない。

「どこか痛いところはないかい」

「は、はい、旦那様、ご慈悲に感謝します」

「そう? 可愛い子が痛い目にあうのはしのびない。痛いところがあればお言い。医者に連れて行ってあげる」

「いえ、大丈夫です。私、頑丈だけが取り柄ですから」

 とんと胸を張る。
 死ぬまでは頑丈だ。体の節が痛くても、ふくらはぎがつりそうでも、死ななければ元気だ。
 ドロシーはそう信じている。

「駄目だよ、ドロシー。君は可愛い顔をしているんだ。可愛い子が遠慮してはいけない」

「あの、ミスター? 私たち、どこかでお会いしましたか?」

 なぜ、ドロシーの名前を知っているのだろう。
 記憶の紐を引っ張りまわしても、どうしても目の前の紳士に繋がらない。こんな立派な紳士、忘れたりしないはずなのに。

 太陽の光を受けて黄金に輝く髪、湖畔の底のような青色の瞳。
 宝石のような雰囲気を湛えた、美しい人だ。

 帽子こそないものの、全身から上流階級の高貴な臭いが漂う。
 紳士は持っていた杖を小脇に抱えた。
 そして、不敵な笑顔をつくった。

「どうだったかな」

 真意の読み取れない表情に戸惑う。
 ドロシーが覚えていないだけなのだろうか。
 そうだったとしたら、かなり失礼だ。

「旦那様、申し訳ありません。私は覚えていないのです」

 正直に頭を垂れると、なぜか紳士はくすりと笑った。

「ドロシー、君は変わらない。本当に高潔で、魅力的だ。甘い蜜をいつも滴らせている。俺を誘惑する悪い子のままだ」

「あ、あのっ、旦那様!」

 ドロシーは彼の言葉を遮らなくてはならない気がした。彼の吐き出す言葉にそれこそ、蜜を垂らしたような甘さがあったからかもしれない。

「うん、どうしたの、ドロシー」

「私、本当に旦那様のことを知らないのです。もしかして、人違いをされていらっしゃるのでは……」

 おどおどと伝えるドロシーに、紳士は急に意地悪な笑みを見せた。
 拗ねた顔だ。よく、教会の幼子も浮かべるものだ。

「どうだろうね?」

「ど、どうだろうねというのは……」

「きっと人違いではないということだよ」

 でもドロシーは全く知らない。身に覚えがないのに、あったことがあると言われる。だんだん目の前の紳士のことが不気味に思えてきた。

 ふと遠くから、誰かを呼ぶ声がする。あの老僧の声だった。
 目の前の紳士は煩わしそうに振り返った。
 紳士の名前は、青公爵というらしかった。

「ちっ、あのくそ男は邪魔だね。さっきもドロシーを鞭で打ったし、制裁が必要かな」

「せいさい?」

 ドロシーの聞き覚えのない単語だ。
 だが、言葉の響きから、暴力的な色を嗅ぎ取り体が震える。彼が何に腹を立てているのか分からないが、落ち着かせなくてはと思った。

「私は痛くありませんでした。大丈夫です」

「ふうん。あの男のことを庇うのかい?」

「帽子を落としたのは私です。罰を受けて当然でした。それ、あんなに声を上げているのだから、緊急の用事なのかもしれません」

 老僧は徐々に近付いて来ている。
 ドロシーが歩みを止めていると知ればまた鞭で叩かれかねない。
 それだけは勘弁して欲しかった。
 ただでさえ、叩かれた皮膚がじくじくと膿んでいるように痛いのに。

「そうだね。……じゃあ、また。迎えに行くよ」

 そういうや否や、紳士はすっと立ち上がり、優雅な足取りで老僧の元に向かった。

 しばらくドロシーはぼんやりとしていたが、今までのことは夢だったのだと思い込むことにした。けれど、泥と糞尿の臭いが身体中からする。老僧に地面に突き飛ばされたのは確かだった。それに身体中が痛い。

 時間は有限!
 遊んでいる暇はない。
 熱を帯び始めた傷口の痛みを無視しながらドロシーは走り出した。そうしなければ、自分が立っている場所が分からなくなりそうだ。

 その夜、熱が出た。縫い物も、洗い場も、パン屋も休むことになってしまった。
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