暁を追いかける月

ラサ

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22 満ちた月

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 馬を走らせて、男は別の街へと入った。
 蹄の音が石畳の感触に変わる。
 速度も徐々に落ち、馬が止まったのは、裕福な者が定宿として使うような上品な煉瓦造りの宿だった。
 男は抱きしめていた女の身体を離すと馬から降りる。
 女は男の黒の外套で身体を覆われ、頭の先から爪先まですっぽりと隠れていた。
 男は女を馬から下ろし、そのまま横抱きに宿へと入っていく。
「顔を出すな」
 短く言われて、小さく頷く。
 顔を出そうにも男の肩口に阻まれ、蓑虫よろしく包み込まれているので、じっとしているしかない。
 男は女を抱いたまま宿屋の主人と交渉した。
 具合の悪い連れがいるので、離れの一番にいい部屋をと言うのが聞こえた。
 交渉が成立したらしく、男が歩き出す。
 俯いた狭い視界から木々に囲まれた庭がちらちらと見えた。
 抱き上げられたまま部屋へ運ばれ、男の背後で扉が閉まった。
 そこでようやく女は顔を上げた。
 部屋には天蓋付きの寝台が脇に置かれた燭台の仄かな明かりに浮かび上がって見える。
 宿では確かに一番にいい部屋に違いない。
 寝台の奥には浴室への扉があり、男は先にそこへ向かった。
 湯がはられた浴室は温かく、湯煙でほんのりと白くかすんでいる。
 浴室で下ろされるなり、くちづけられた。
 舌を絡みとられ、くちづけに気をとられている間に外套が取り去られる。
 続いて、帯がほどかれ、引き裂かれた前身ごろが引き下ろされる。
 するりと、薄絹の夜着は浴室の床に落ちそうになり、女は慌てて手で押さえ、辛うじて腰回りで留めた。
 勢いで離れた身体は後ずさり、背中がしっとりと濡れた壁にぶつかる。
「逃げるな、待たんと言ったぞ」
 男の腕が腰に回り引き寄せる。
「違う、明るすぎて……」
「恥ずかしいのか。なら、目を閉じていろ」
 男の大きな手が女の目を覆った。
 そのまま、再びくちづけられる。
 欲望を隠さない触れ合いに、女の身体から徐々に力が抜ける。
 女の手から夜着が滑って落ちた。
 もはや何も身に纏わぬ裸身を男に預けると、目を覆っていた手が背中に回り、傷跡を優しく撫で上げる。
「……っ!!」
 指が傷跡を辿るたびに女の身体に甘く切ない震えが走る。
 くちづけの合間に押し殺せない喘ぎが漏れる。
「この傷には、触れられてないな」
 男の指使いに身を震わせながら、女は辛うじて頷く。
「……な、んでっ……」
 傷跡を執拗に辿る男は、女の問いに低く笑う。

「忘れるな。この傷がある限り、お前は俺のものだ。俺だけの、ものだ」

 くちづけながら囁かれて、いきなり身体の向きを変えさせられる。
 咄嗟に壁に手をつく。
 今度は指ではなく唇と舌が、消えない傷跡を優しく辿っていく。
 何度も、何度も。
 触れられた傷跡から熱く甘い疼きが体中に広がる。
 乱れる吐息と、漏れる声を、女は必死で堪える。
 だが、堪えれば堪えるほど、身体は震え、粟立ち、翻弄される。
 立っていられないほど愛撫され、女はずるずると床に崩れ落ちていく。
 だが、膝をつく前に男に腰を引き寄せられ、浴槽の縁に身体を預けさせられる。
「……?」
 何故かと問う間もなく、温かいお湯がかけられた。
 そうして、つけられた香油の匂いを落とすために身体を洗われ、寝台に運ばれる頃には全て男の為すがままだった。

 男が覆い被さってきたときは、一瞬だけ別な男の乱暴な行為を思い出したが、優しく触れる指が恐怖を拭い去る。

 大丈夫。
 この男は、自分を傷つけたりしない。
 壊れ物を扱うように優しくしてくれる。

 だからこそ、触れられるたびに身体が、心が、喜んでいる。
 恥ずかしくても目を閉じずに、女は自分に触れる男を見ていた。
 そして、男のもたらす快楽に身を委ね、長い長い濃密な夜が過ぎていく。
 窓の外は未だ暗く、夜明けはまだのようだ。
 すでに時間の感覚もなかった。
 快楽が波のように満ちては弾け、引いていく。
 何度高みに追いやられても、男は身体を繋げようとしない。
 女の方は指一本動かせないほど、男の与える快楽に翻弄されているというのに。
 すでに女の身体で、男の指と舌が触れていないところなどない。
 余すところ無く暴かれ、愛撫された。
 それこそ、女が泣いてもういいと懇願するほど。
 だが、男は急くことなく女の肌を堪能した。
 涙に潤む瞳を覗き込み、優しく告げる。

「これから何度でもお前を抱くだろうが、初めての夜は、今日だけだ。だから、できるだけ痛みがないようにしてやりたい」

 あくまでも自分よりも女を優先してくれる男の気遣いに、心が震える。

 男が与えてくれるなら、痛みでもいい。
 どんなものでも、自分には喜びとなるのに。
 何も残らぬように、全て奪い尽くしてくれればいいのに。
 決して、そうしない。

 いつだって男は、女の全てを護り、それ以上のものを与えてくれる。

 最後まで男は優しかった。
 ようやく熱く疼く奥深くに男を受け入れた時は、破瓜の痛みより、男と身も心も重ねられた喜びにうち震える。

 失ったものを取り戻したように。
 欠けた器を塞ぎ合わせたように。

 今、満たされる。

 力の入らぬ腕を上げて、女は男にしがみついた。
 男は女に重みを与えぬように、優しく抱きしめる。
 繋がったまま、何度も何度もくちづけを交わす。
 女が最小限の痛みですむよう、丁寧に、執拗に、男は女を愛した。

 こんなに優しく愛される女が、この世にどれほどいるだろう。

 愛しさが溢れて、胸が痛い。

 いつだって、女の我が儘を、逃げ道を、残してくれる。
 いつだって、女の気持ちを、最優先に気遣ってくれる。

 こんな男を、どうして愛さずにいられるだろう。

 男に出逢えた幸運を、女は感謝した。

 ああ。
 リュマ。
 この男に、出会ってくれてありがとう。
 この男に、出逢わせてくれてありがとう。
 出来ることなら、来世で、また家族になりたい。
 そうしたら、今度こそ間違ったりしない。
 決して、傍を離れたりもしない。
 だから――

 優しい男に、これ以上無いほどに優しく愛されて、女は優しい微睡みの中に落ちていった。




 女は、気がつくと温かな場所に立っていた。
 周りの景色はなく、温かな光に包まれている。
 夢を視ているように現実感がない。
 そうだ、これは夢なのだ。

 だって――目の前に、リュマがいる。

 あんなに会いたかった弟が、もう会えないはずの弟が、手を伸ばして駆け寄れば抱きしめられるほど近くにいた。
 だが。
 自分の記憶とは違う。
 髪が、伸びていた。
 背が高くなっていた。
 頬の丸みが少しなくなっていて、大人びていた。

 自分が知らない、二年分成長したリュマ。

 夢だけれど、夢じゃない。
 自分の願望が見せる気休めではない。

 本当の、リュマだ。

 言いたいことがたくさんあったはずなのに、何を言えばいいのかわからなかった。
 駆け寄って、抱きしめたかったのに。
 その頬に、触れたかったのに。
 その声が、聞きたかったのに。
 愛してると、伝えたかったのに。
 ごめんねと、謝りたかったのに。
 何も出来ずに、ただ立ちつくすだけ。

 弟も、ただそこに立っていた。

 微笑みかける、穏やかな顔。
 微笑みだけが、変わらない。

 その顔を、女はただじっと強く見据える。
 だが、悟るように気づいた。

 何も語る必要などないことに。

 だから、女も微笑み返した。
 それで、十分だったのだ。



 頬に触れる温かな手に気づいて、女は目を開けた。
 涙で自分を覗き込む男の顔がはっきり見えなかった。
 二、三度瞬きすると、こめかみを伝って涙が零れ、ようやく視界がはっきりする。
 寝台に手をついて、男は上半身を起こしていた。

「リュマが、いたわ……」

 小さな呟きを、男は聞き逃さなかった。
「何か言っていたか?」
「何も。ただ、笑ってた」
 泣きながら、女も笑っていた。
 男が初めて見る微笑みだった。

「あたし、あの子の顔を、もう一度見たかったの……」

 女も、上掛けで裸身を隠しながら、身体を起こした。
 下腹部に残る鈍い痛みが、明け方近くまで続いた艶事の名残を知らしめる。
 だが、それは幸福な余韻だった。
「ありがとう」
 女の言葉に、男は戸惑うように眉根を寄せた。
「俺は何もしてない」
「あたしを待っていてくれてありがとう。放り出さないでいてくれてありがとう。大切に想ってくれてありがとう。
 あたしは自分の傷にとらわれて、あんたの苦しみを見ようとしなかった。それなのに、あんたはあたしをずっと見守っていてくれた。見捨ててくれてもよかったのに、いつだって、大切に扱ってくれた。
 こんなあたしを、愛してくれてありがとう」
 頑なな雪が解けて、あたたかいひだまりが春をつれてきたように、やわらかく笑う女は本当に美しかった。
「――」
 男は、自分に向けられたほころぶような笑みに、暫し息を呑む。
 この顔を、ずっと見たかったのだ。

 リュマ、お前の言った言葉が、今やっとわかった。
 お前の姉は、本当に美しい女だ。

 その笑顔ごと包み込むように、男は女を抱き寄せた。



「キリ、飯を食え」
「いらねえ」
「じゃあ、茶でも飲め」
「いらねえ」
「せめて、寝ろ。統領が戻ってきたら起こしてやるから」
「眠くねえ」

 すでに太陽が昇り、南の空に近づいても、屋敷の扉の前に座り込んだままキリは膝を抱えて門をみすえている。
 ジルとロスが宥めて何とか休ませようとしているが、全く動こうとしない。
 昨日、女がキリを隠し棚に押し込めて連れ去られた後、キリは隠しておいた馬に飛び乗り全速力で村への道のりを駆けた。
 村を出る前に、ジルとロスには男への伝言を頼んでいた。
 上手く伝わっていれば、男は必ず村に戻っているはずだった。
 だが、男はキリが屋敷を飛び出す前にすでに商談をレノに任せ、ジルとロスとともにこちらへ向かっていた。
 闇が濃くなりつつある山を越える道すがら、キリは男と合流し、事情を説明しながら再び屋敷へと駆け戻った。
 男はすれ違わぬようにと迂回路から向かわせたジルとロスをここで待つようにと言い置いて女を救けに向かった。
 一時間後、ジルとロスが屋敷へ着き、さらに夜更けに男衆達が屋敷へとやってきた。
 ジルとロスから話を聞いた男衆のさらに半分が男を追ったが、見つけられずに戻ってきていた。
 連れていかれたと思われる街の外れの屋敷は、早朝だというのに人っ子一人いなかったと戻ってきた連中が言っていた。
 かなり慌てて出て行ったようで、金目のものだけが荒らされたように無くなっていたらしい。
 一番奥の豪奢な部屋は寝台からすぐの床に血だまりを拭った跡があり、それが誰のものかまではわからなかった。
 街も別段騒がしい様子もなく、警邏が動いている様子もなかったという。
 では、連れ去られた女と救けにいった男は何処に消えたのか。
 男衆達は、男の強さを知っている。
 キリも知っている。
 だが、夜明けを過ぎても戻らない二人のことを考えると、どうしてもキリの想像は悪い方へと向かう。

 床にあった血が、リュシアのものだったら。
 もしも統領が着く前に、殺されていたら。
 生きていても、男達に慰み者にされていたら。
 どう償えばいい――?

 キリの不安ほどではないが、男衆達もまた動揺していた。
 自分達の仕事は承知していた。
 今回の取引が少々危ない相手と対立することになるのも。
 だが、そのとばっちりが女に来るとは思ってもいなかった。
 男衆達も皆女を大切に思っていただけに、キリの不安がよくわかる。
 無事ならとっくに戻っても言い頃だった。
「キリ、中で休め。統領は必ず戻ってくる」
 見かねたハラスがキリを抱え上げようと腕を掴む。
 キリはそれを思い切り振り払って、ハラスを睨みつける。
「ここで待ってろって、統領が言ったんだ!!」
 叫んで、キリは膝に顔を押しつけた。
 統領は必ず救けると言ってくれた。
 だから、大丈夫だ。
 何度も自分に言い聞かせる。
 それでも、不安は隠せない。
 切れるほどに噛みしめた唇の痛みさえ、不安を消してはくれなかった。
 その時、門の外で様子を窺っていたセオが叫んだ。

「キリ、馬が来た!! 姐さんと統領だ!!」

 その言葉に、がばっとキリが顔を上げる。
「――」
 じっと耳を澄ます。
 徐々に近づいてくる蹄の音。
 キリの耳は馬の蹄の音さえ見分けられる。
 それは、確かに男が乗っていった馬の蹄の音だった。
 大きく開かれた門の前に止まった馬には、待ち望んでいた二人の姿が。

「リュシア!」

 まろぶようにかけてきて、キリは女にしがみついた。
 そして、声を上げて泣き出した。
「ごめん、ごめんな、リュシア……」
 女にしがみついて泣きわめくキリは、年相応の子供に見えて、女は優しく抱きしめ返した。
「どうして謝るの?」
「俺のせいで、俺が、ここに連れてきたから――」
 キリが顔を上げると、女はその頬に流れる涙を指で優しく拭ってやる。

「いいえ。あんたはよくやってくれたわ。あたしは無事よ。ちゃんと伝えてくれてありがとう」

 そう言う女は、今までキリが見た中で、一番美しかった。
 なぜなら、笑っていたのだから。
「――」
 微笑む女を見て、キリの涙はすっかりひっこんでしまったようだ。
 ぽかんと口を開けて女を見ている。
 そして、それを見ていた男衆達も唖然として女を見つめていた。
 自分達が見たものが信じられず、呆然としながらも横にいる仲間同士、互いに腕をつねり合ったり、髭を引っ張ったりと、痛みで確かめる。

 それから。

 ものすごい雄叫びが辺りを震わせた。

「――姐さんが、笑ってるぜ!」
「真っ昼間っから俺達、幻覚見たんじゃねえよな?」
「いや、確かに見た。絶対に見た!」
「何したんだ、統領!?」
「どうやったんだ? 本物の姐さんか?」
「偽物じゃねえのか?」
「酔ってんじゃねえのか!? それとも俺達の酒が抜けてねえのか?」

 男衆の慌てふためく様を面白がるように、男と女は視線を交わした。
 男が徐に告げる。
「さあ、帰るぞ」
 その言葉に、暫し呆気にとられた男衆だったが、俄に活気づいた。

「そうだ、帰ろう!」
「帰ったら祝言の準備だ、そういうことなんだろ、統領」
「統領ばんざい! 姐さん、ばんざい!」
「いよいよか」

 騒ぐ男衆をよそに、男は女を馬に乗せ、自らもひらりと跨った。
 キリを含めた男衆達が次々と馬に乗る。

「行くぞ!」
「おう!」

 たくさんの蹄の音が、雲一つ無い青空の下、颯爽と駆けていく。

 帰るべき場所へ。



 そして、病んだ月は、もう何処にもなかった。



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